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店主戯言040501  2004/5/16〜2004/5/31 "There goes talkin' MOMO"


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2004/05/31 (月)  
【にぎやか】

桃知@浅草%ちょっと遅めに目覚め、遅めの朝食を近所の喫茶店で食べている。
そして、遅めの更新をしようと、今日の店主戯言を書き始めている。

東京は今日も暑そうであるが、今日のわたしは内勤なので(笑)、身体の負担は軽いはずである。

夕方は(自称)一番弟子様と一献の予定だが、家人曰く、天候は崩れる予定だそうだ。


さて、昨日は帰宅後、植木市に出かけた。
“にぎやか”は好きである。

わたしは薔薇を黄色五鉢とピンク一鉢購入、家人は紫陽花を三鉢程調達してきた。

これで、殺風景だった我が家も、少しはにぎやかになるだろう。

にぎやかといえば、空知からは、太田クワガタさま(そのうち空知建協発で大々的にデビュー予定である?)から、「パプキン」(パプア・キンイロクワガタ)の♂と♀をいただいてきたので、トイレの住人もにぎやかになった。


さて、わたしの脳味噌も相変わらずの“にぎやか”である。
わたしは如何にして他人と繋がるのか、を考えている(つまり、ネットワークである)。

最近、学生の頃読んだ、デ・グレーシアの『疎外と連帯』(絶版)が読みたくなって、ネット上の古書を検索して、山形の古書店から購入した。

こんな本の需要があるのか?とは思うのだが、当然に定価よりは高い。

その『疎外と連帯』から。

『神学者の説くところは正しい。これは認めてもよかろう。今日、世界がなににもまして必要とするもの、それは愛である。』

わたしが学生の頃、なぜか感銘したフレーズなのである。
くさいはなしだが、やっぱり「愛」だよな、と、いまさらながらに思うわけだ。

あの頃はそれがなにものか、さっぱりわからなかった。
なんとなく、そういう気分に浸っているのがなにかうれしかっただけで、なにがなんだかは全然わからなかった。

今でもわからないのはかわらないけれど、四十五年生きてきて、人並みに人の親となり、偶然にも田邉元の「無即愛、愛即無」に触れ、西田幾多郎の「絶対無」に触れ、なんとなくだが、人と人とを繋ぐものの根底にあるものが理解でき始めてきたような「気になっている」。

それもかなり“にぎやか”にである。

今のわたしの脳味噌にあるものは、ただ、とてもにぎやかな集合であり、理解のつながり(体系化とでもいうのか)はまだできていない。

サイコロの一振りも、今日の珈琲の味も、今使っているパソコンも、そしてインターネットも、やっぱり「愛がなくちゃね」(矢野顕子)と思う。(これが「ハイブリッド」である)

そういうことを“にぎやか”に考えていたい。

2004/05/30 (日)  
【@札幌】

札幌にて6時に目覚める。
昨日とうって変わって、温かな日差しを感じる朝である。

目覚めてから二時間程度、ただうだうだとネットで調べ物をしながら過ごした。
このホテルはさほど早くもないが、ADSLが使えるので、インターネットアクセスには不自由はしない。

調べていたのは、ステファヌ・マラルメの『骰子一擲』の詩についてで、やはりというか松岡正剛の千夜千冊には、ちゃんとあって、すんごいなぁ、としかいえない。

マラルメの『骰子一擲』は、中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』に、「双賽一擲」として紹介されているもので、サイコロの一擲の深遠さを田邉元の目で語っているのだが、その深遠さ(それは偶然のことなのだけれども)については、わたしはまだ書くことばをもってはいない。

朝からこんなことを考えていても、たぶんお金にもなんにもならないのだけれども、最近、頭の中で、サイコロが空中振られ、賽の目が出てくるありようを考えていると、偶然というものがとても面白く思えてきてしょうがないのだ。

つまり複雑系なのだが、偶然という無の中に落ち込み、田邉元のことばでは「無即愛」の底に触れて、有の世界に賽の目を送り出してくる、そのありようというか、接点を考えていると、なにかわたしの心象に自分の生き様のようなものが浮かんでくるわけだ。(ああ、サイコロ人生)

ということで、サイコロが欲しくなり、ネットで検索をしたら、「世界最速のサイコロ」というものがあって、久々に物欲が刺激されてしまった。

安いものでも注文しようか、と思う。
それで、暇なときにでもころころとサイコロ転がしてみたい。意味も無く。(笑)


ということで、これから大村さんと朝飯を食べて、熊谷さんに新千歳までお送りいただいて、一緒に羽田までは帰る予定。

大村さんは、羽田トランジットで熊本行き。
わたしは、浅草へ帰るだけである。

ちょっとのんびりの旅程に切り替えたので、朝は比較的のんびりしている。
浅草は、お富士さんの縁日で、植木市のはずだから、なにか花でも買おうかと思う。

2004/05/29 (土)  
【@滝川】

今は滝川にいて、葉月桃塾の開始前である。
今日の葉月桃塾は、ゲストスピーカーとして、熊本の大村さんと、飛び入りで宇都宮の轟さんから、お話しをいただき、その後のわたしの講演は「ミーム論」を中心としたものとし、それから松尾ジンギスカンでの懇親会を予定している。

2004/05/28 (金)  
【近所寿司屋】

5時起床。
本日は、ANA 053 東京(羽田)(08:00) - 札幌(千歳)(09:35)で、北海道へ入る。

午前中、神部さんと打合せ。
午後からは、空知建協広報IT委員会。
夜はススキノで大村さんにお会いする。

東京と比べると少し寒いかなぁ程度の気温差ようなのだけれども、ちょっと暖か目の支度をしていこうと思う。夕方は雨も降りそうだし。


昨晩は熊本からのお客様があり、一緒に清司で寿司をつまんだ。
(といっても、わたしはひたすらつまみを作ってもらっては飲んでいただけであるが・・・)

寿司屋に限ってのことなのだが、最近思うのは、遠くの名店よりも近くの寿司屋なのである。

それは、月並みな言い方だが、まるで自分の家にいるようにこころは休まる。

風呂上りに作務衣を着て、雪駄履きで気軽にいける。
清司はそういう店であり、そういう客でいつも一杯なのだ。

浅草の店ではあるが、決して観光客や接待用の店ではなく、フツーに近所にある。
寿司屋としてなにげに存在している。

ただし、フツーは浅草的にフツーなのであり、凡百とか月並みという意味ではない。
あり方がフツーなのだ。

その肩肘張らない存在の仕方が、なにか江戸的でステキなのである。

こんな近所の寿司屋のメタファーとして、地場の中小建設業はありえるのだろか?

フツーに近所にある土建屋としてなにげに存在している(なくなったらなにか寂しい)。

こんな風に考えてしまうのは職業病であろうな。(笑)

ということで、今朝はこれで目一杯。
これからばたばたと出かける準備である。

2004/05/27 (木)  
【@熊本】

昨日は、熊本空港到着後、大村さま四季即贅喰にて瓦そばを食べる。

わたしは瓦そばというのは、単純にざるの代わりに、瓦が使用されている。
つまり瓦の上にそばがのってでてくるものだろう、と思っていたらさにあらず。

でてきたのは、焼かれた瓦の上にのった茶そばなのである。
それに牛肉、錦糸卵、海苔、もみじおろし、レモンがトッピングされていて、ツユはなんと暖かい。

それらが瓦の上でジューとか音を出しているわけで、思い切り、文字通りの焼きそばである。

久しぶりに見た爆笑ものの食い物である。
これが中華そばだったら、完璧に焼きそばじゃないかい・・・と。

まずくはない。
でも、わたしの中ではじゃじゃ麺のような存在ではある。(笑)


ということで、昨日は熊本県建設業協会青年部さまでの講演。

先日購入したスピーカーを持ち込んで、音をガンガン鳴らしながらの講演をしてみた。

といっても平和建設さんの竣工時PPTを自動実行するときだけであるが。

視覚は切り離す−音は統合する。

案の定反応は上々なのである。

その反応とは、「ハイブリッド」が生み出した「E・はいぶりっど」による「U・はいぶりっど」な反応なのか、それとも「ハイブリッド」な認識なのか(笑・・・意味深)。

その反応をみきるのが、わたしの仕事である。

1時間の講演時間では、わたしのIT化論の全貌を紹介することはどだい無理なのである。

であれば、今のわたしを表現する最良の小さなお題を選ぶのは当然である。

今回はのそれは、発注者を越え市民社会へ貫く、への導入部分、と考え、それを実行したわけだ(にしても時間不足は否めないが・・・)。

会場におられた皆様へは、なにものかが貫かれたか。

懇親会での反応をお聞きすると、ハイブリッドに認識されているな、と感じる方々がたくさんおられた(流石に経営者である)。

そして同席されていた某発注者の方にもしっかりと届いたようで、懇親会でいただいた意見はとても参考になった。

そのような交流の中で、わたしはまた考えることができるのである。
深く感謝である。

そして、熊本建協青年部の皆様には、懇親会→二次会(いつものミニミニトラヤ)とたいへんおせわになってしまった。

これも深く感謝なのだった。m(__)m

・・・にしても、今朝は頭がいたい。
二日酔じゃないようなのだが、昨晩は喘息もでたし、ちょっと不調気味なのである。

梅雨が近いせいか・・・?

2004/05/26 (水)  
【ホームページを更新するということ】

まず最初に、5月27日に予定されていた桃熊会は、主催者さまから準備不足の為、中止との連絡があり、あっさりと中止が決定してしまった。

確かに準備不足は否めず、という按配のようで、お申込いただいた方々にはご迷惑をお掛けしてしまった。

ごめんなさい。m(__)m & 一緒に飲めなくてほんとに残念なのだ。(ToT)/~~~

次回はきちんと準備できるような日程で参りたく思うので、また楽しくやりましょう。だいたい7月中旬頃かな?

ということで、わたしも急遽明日以降の予定を変更。
でも、今日は熊本にお邪魔するのは変わりはなくて、28日の帰りが一日早くなっただけのことである。

それから、ついでに書いてしまうと、暑気払いは8月7日で予定を練っていて、これは新年会同様、セミナー付きで計画をしている。

このセミナーの本当の趣旨は、法大ECの補習なのだが、これは一般の方々にも開放できれば、と考えている。

なので、ゲスト・スピーカーは法大の受講生全員にしようかと考えていたり、法大の補習は別に設定しようか、とか構想は錯乱しているのだが、それもまた楽しい悩みなのであり、また前向きに考えてみたく思う。

まあ、こちらも詳細が決定次第、早急に案内を掲示したく思うので、少々お待ちいただきたい。


さて本日の本題である。
関与先の岩見沢の会社さんのHPのご紹介。

松浦建設さま
http://www.matsuura-kensetsu.co.jp/

そして、馬渕建設さま
http://www.mabuchikensetsu.co.jp/

こうしてせっかくできたホームページだもの、意図して動的に進化させていって欲しいと思う。

→つまり、更新しなきゃだめよ、ということだ。

会社のHPというのは、まあ、会社案内パンフレット的な役割も大きい。
これはかなりの部分で静的な情報である。

しかし、会社案内パンフレットが、本来毎年更新しないと直ぐ古くなってしまい、会社の最新情報でなくなってしまうように、そのようなHPが今の会社の表現型として存在するのはなかなか難しい。

会社という存在は動的なのである。

そのような動的な組織の表現型のひとつとしてHPは存在するのだが、この表現型は、その主体が意図して変化させないことには、静的なままなであることで特徴的なのだ。

つまり、人間の営みである会社という組織は、継続する限り変化し続ける。

しかしHPという表現型は、人が手を加えないことには絶対に変化しないのだ(まあ、サイトが乗っ取られる、というような外部要因もないことはないが・・・)。

まさに、人は変化する。情報は変化しない(養老猛司)のである。

HPという表現型は、そもそもこの矛盾を内包した存在なのである。

そしてこのHPというか、WWWというか、インターネットが動的であることの源泉的なエネルギーとして、人による更新という作業の必要性が存在する。

これは面倒なことなのだが、HPが動的な情報として(それも動的な主体の表現型として)存在するためには、更新という作業は絶対に必要なものとなる。

そして、更新することが大切なのは、インターネットが、書庫というよりも、やっぱり表現型のプールだからである。(つまり、ミーム・プール)

普通の人びとが、インターネットというコミュニケーションツールを手に入れることで始まったこの社会変革(インターネット社会)は、わたしと他人(人と人)とがクリックひとつで直結する「新しい関係」が成立しやすい。

それは自らが所属する既存の枠外から自分がアクセス可能であり、そしてその逆もまた可能である、という社会である。

このような社会では、これまでには成立できなかったような、さまざまな「新しい関係」が発生する可能性が大きくなる。

薄くてひろい紐帯の可能性とか、不特定多数に対する一般的な信頼の構築とかいうものは、このインターネット社会の特性を基底にしている。だからこそIT化と呼んでいるのだ。

そしてこれが、C軸(コミュニティへの方向性)の意味するところであり、コミュニティソリューションの可能性の基盤でもある。

しかしだ、いくら枠を超えて、世界中が双方向でアクセス可能だとしても、普通の人びと(わたしも含むフツーの人と組織・・・会社とかそういうもの)の情報が、静的なままで、人と人とを結びつける原動力になりえるのだろうか、と考えると、そうではあるまい。

そこにはやはり、ダイナミズムというか、動いている鼓動というか、生きている人間の息吹というか、そういうものが必要なのだろう、と、6年間HPを更新し続けた実感として、わたしは感じている。

HPの更新とは、インターネット社会における「表現」の行為に他ならない。

そして更新が、インターネットという社会での「表現」であることで、『現場で自ら問題を発掘し、それを学習の場に持ち込んで、方法を工夫し、理論を学んで、問題を解決していく。その過程で、レジュメを作り、議論をし、プレゼンテーションをくり返し、しばしば徹底的批判を受ける』という西山賢一の指摘の文脈にあることがわかるだろう。(詳しくは昨日の戯言を読んでいただきたい)

この『しばしば徹底的批判を受ける』とはまさにバルネラブルのことである。

バルネラブル−わたしは、これを「さらし」と呼ぶことを嫌うが、なぜならば、それは一度限りの断片ではなく、わたしがフィードバックループと呼んでいるシステムを内包した「ハイブリッド」であることで意味をもつからである。

いうなれば、反省という行為の、継続を覚悟した「さらし」なのである。
つまり、開き直りではない。経過、過程としての己の表出である。

ということで、まあ、HPの評価基準は当然にたくさんあってよいのである(それは個人の世界イメージの数だけある。間違いなく)が、ただ、わたし的には、その「覚悟」のあるなしを裏読みしながら、好き嫌いを判断している場合が多いのも確かなのである。

2004/05/25 (火)  
【タフネス遺伝子?―若しくは「言葉の戦場」について】

昨晩は、やっぱし罰が罰が当たってしまった、としかいいようがなかった。

わたしはねずみの王国にいたのだ。
とてもよい天候に恵まれ、のんびりと過ごしていたのだが、不幸は一瞬にして訪れてくるものである。

大好きな満艦電飾行進は始まる直前だった。
既に夕食も終わり、心身ともに準備万端で待っていたのだ。

そのとき、ぽつりぽつりと、冷たいものが、天空より落ちてきた。

わたしはそれが何ものなのかは直ぐに察知したし、次に起こる事態も理解していた。

そして予想通りの結果となってしまった。

失望というようり、よそさまが仕事しているときにはやっぱり遊んじゃいけないのよね、とそんなしおらしいことばが脳裏をよぎった。

でもめげたりはしない。
またいけばよいのだだから。(笑)

鱸さまより。

> 持続するエネルギーはなにか・・・
>
 上記と関連はありませんが、小生の個人的興味をひいた
 記事です。 ももさんを思い浮かべながら読んでました。

  #5/22日経夕刊の記事なので読了済みですね?

              以上

その日経の記事内容(抜粋)。
宇宙物理学者 内池了氏のコラムである。

世の中には、新しい物好きで、いつでも元気があり、好奇心が強くて冒険したがる人がいる。むろん、それと反対の、人見知りをし、シャイで口が重く、行動は保守的で冒険などには縁のない人もいる。このよ子うな人の性格は遺伝的に決められているらしい。人には「タフネス遺伝子」というものがあるというのだ(以下、『ヒトという生きもの』柳澤嘉一郎著、草恩社による)。

(ざっくり)

つまり、タフネス遺伝子の持ち主で、常に新し刺激や緊張感を求め続けるというわけだ。逆に私のようなシャイな人間は、繰り返し回数が少なく、ドーパミンとD4受容体の結びつきが多いため、神経細胞の興奮がが常に抑えられていることになる。

アメリカ人にはタフネス遺伝子を持っている人が多いらしい。逞しい精神でアメリカへ渡った移民の子孫たちが多いことを考えれば納樽できる。世界を引き回すアメリカのごり押し精神もタフネス遺伝子に由来するのだろうが、いいかげんにして欲しいと願うのは私だけではないだろう。

世界を引き回すアメリカのごり押しは、いいかげんにして欲しいと願うのは、わたしも同じではある。

ただ上の記事というかコラムは還元論すぎやしないだろうか、と感じたのも事実なのである。

今朝は、わたしの持続するエネルギーがタフネス遺伝子のせいなのかどうか、ということはおいておいて(そんなことは、わたし自身その遺伝子の持ち主だとしても見ることも自覚することもできない)、先のコラムを読んで、「還元論すぎやしないだろうか」とわたしが感じたことについて書いてみたい。


還元論だと感じたところとは、因果を遺伝子だけにに求めているように読めるところである。

タフネス遺伝子の存在は事実だとしても、「世界を引き回すアメリカのごり押し精神もタフネス遺伝子に由来するのだろうが」という部分は、確証のない推論でしかない。

その確証のない推論へ、還元論を飛躍させ、「いいかげんにして欲しいと願うのは私だけではないだろう」と結論を書かれている。(話題はなんであれ、最終的にはこれを書きたかったのだろう)

その展開の、根拠の曖昧さと強引さは、典型的な思考(T)の「はいぶりっど」→表現(E)の「はいぶりど」だと思う(これを「T-E・はいぶりっど」とでも呼ぼう)。

確かに、我われ人間の表現型の何割かは、そう(遺伝子のせい−部品による決定)かもしれなが、何割かは違うかもしれない(システム的なもの)、とたぶん池内先生も考えているはずである。

なぜなら、かれは宇宙物理学者だもの。
生命は非線形で非並行なこと―複雑系―ぐらいは先刻ご存知のはずなのだ(人間は遺伝子型と表現型とのハイブリッドなのである)

しかし悲しいかな、今回の新聞での表現は、こういう「T-E・はいぶりっど」なものとなってしまった。こうなる事情(文字数の問題、そもそも扱った話題の問題等)があったのだろう。

こういう「E・はいぶりっど」で、また「U・はいぶりっど」的に納得してしまう方々も多いのが第二次声の文化としての今の時代なだろうし、たぶんこのはなしも、結構な賛同者数を得て、勝手に一人歩きするのだろう(これこそミームだもの)。

しかし、繰り返しになるが、「タフネス遺伝子」の存在はたしかにあるのかもしれないけれど、それだけががある特定の表現型を限定している、つまり、「新しい物好きで、いつでも元気があり、好奇心が強くて冒険したがる人」という特性を決めているなんていうのは、一見科学的な記述であるように思えるが、じつは楽しい幻想(御伽噺)なのであり、都市伝説のようなものであり、誰も根拠を求めないことで(根拠など多くの方々にとってはどうでもよいのである)強引な「きめつけ」を形成してしまう議論なのである。

わたしはこのような、思考(T)の「はいぶりっど」→表現(E)の「はいぶりっど」→理解(U)の「はいぶりっど」(「T-E-U・はいぶりっど」とでも呼ぼうか?)がつくりだす「ミーム」こそが問題であり、どうも気持ち悪い、といいたいのだ。

今という時代は、程度の差こそあれ、このような言説の循環=「T-E-U・はいぶりっど」循環=ミームの拡散が、我われを埋め尽くしてしまっいるように感じている。それも、多くの方々にとっては、あんまし違和感もなくである。

翻って考えてみれば、「公共工事ダメダメミーム」も、その生い立ちはこれと似たり寄ったりであることがわかるだろう。

つまり、同じ構造をもつ「T-E-U・はいぶりっど」循環である。

だからこそ、我われは如何に理解し表現すべきなのかを考えみる必要があるのではないだろうか、というのが、わたしの、まことにやかましい(笑)主張なのである。


西山賢一は社会人の学習について以下のようなことをいっている。
(西山賢一,『文化生態学の世界』,p79-81)

『学習をしようとする社会人にとって、何がもっとも大事なことなのだろうか。社会人はもともと、仕事や技術や組織について、教師にはないような詳しい知識を持っている。何しろその道の熟練者なのだから。ところがそうした知識を言葉にしようとすると、とたんに困ってしまう。よくわかっていることが表現できないのである。』

『仕事の場をおおっている暗黙知をなんとか表現しようと格闘するなかから、確かに実感していて、でもうまく表現できない世界を記述できるようになるだろう。こうして精密コードの世界を経験することで、「厚みのある記述」にたどりついて、社会人としての新たな飛躍が可能になっていく。それがそもまま自己実現を経験していく過程でもある。

『現場で自ら問題を発掘し、それを学習の場に持ち込んで、方法を工夫し、理論を学んで、問題を解決していく。その過程で、レジュメを作り、議論をし、プレゼンテーションをくり返し、しばしば徹底的批判を受ける。』

『現場と学習の場を行き来するなかから、自己実現に向けた歩みが確かに前に進んでいく。学習の場として言葉の戦場から、現場で仕事をしながら、言葉使いの熟練者として、たくましい社会人たちが育っていくのだろう。』

学習=言葉の戦場=反省なのである。

と、鱸さんからいただいたお題のおかげで、今日の戯言は書けてしまった。(笑)
Thanks!なのである。

2004/05/24 (月)  
【今日は「はいぶりっど」に過ごすのである】

次郎さまから。

じろう@札幌です。

昨日、すでに廃刊になっている本を探しに札幌中央図書館へ行ってきました。
コンピュータの検索システムで、お目当ての本はあっさり探し出すことができましたので、
「そうだ!桃論あるかなあ」ということで検索してみました。
検索の際、「桃論」という言葉を「含む」を選択して
さあ、検索。
「該当の書籍が一冊あります。」
「おお!ついに桃論もここまで来たか・・・」
感激で涙がこぼれそうになりながら表示ボタンを
クリックしたら出てきた書籍が

「大桃論:大桃美代子」でございました・・・・・。
(ToT)/~~~

ということで、本日私の所蔵する3冊の桃論の内の一冊を「札幌中央図書館」に寄贈して
まいりました。
「蔵書とするかどうかはこちらに一任させていただきます。」だそうです。
「とてもいいことをしたなあ。」
とてもいい気持ちの日曜日でございます。

(笑)&Thanks!なのである。
しかし、「大桃論」ねぇ、先を越されてしまった。(笑)


さて、今日は極めてぐーたら的にわたくしのために費やされる日であり、一日中行方不明の予定である。

そのため、なにをどうしようという時間もないので、珍しく、法大EC関係MLへのわたし自身が投稿したメールでも引用してお茶を濁してしまおうかと思う。

今回のお二人のプレゼンを拝見して感じたのは、フラクタル(入れ子構造)というものです。

それは、長谷川さんがどちらかと言えば「社員が」と言っていたところに、感じたものです。(永田さんはどちらかと言えば、「私は」的でしたでしょうか)

(わたしが平和建設の社員を知っていることもありますが)平和建設さんは、社長―社員―会社という入れ子構造がよく見えるわけです。

それがプレゼンにでてきているように感じました。

つまり、社長のミームが社員に入れ子のように存在し平和建設のミームをつくっている。

またそれは、平和建設のミームが社員に入れ子のように存在し、それはまた社長のミームである。

そしてそのミームは社長をはじめとする個(社員)の変化を許容するものであることで種(会社)が普遍性をもつ。

この普遍性をITを使って追求していることでIT化を実践している。

(全ては懇親会での話しの中にありましたね)

これがよく表現されていることで会社としてのプレゼンになっている、と感じたのでした。

また、HELPという「場」を考えてのプレゼンとしても成功していました。
そのような意味で、わたしは感心させられてしまったのでしょうね。

ということで、以上は補足兼私の反省の行為でした。
今回プレゼンいただきましたお二人には深く感謝申し上げます。m(__)m

それから「秘すれば花」ですが、これは「慎ましく」というような意味ではさらさらなく、とても戦略的で攻撃的な考え方です。

故に芸(勝負)なのであり、難しいのです。

と引用したら、やっぱり「秘すれば花」についてちょっとだけ書きたくなった。

わたしは自分の表現(それは職業的な、ではあるが、そもそもわたしは公私の区別はほとんどないので日常といってもよいかもしれない)を芸能のメタファーとして理解することにしている。

それは自分を甘やかさないように、という意味が大きい。

つまり、わたしにとっての表現は常に勝負であり勝ち負けがちゃんとある。

それは、当然に表現を受けていただく方々との勝負であるが、それは同時にわたし自身との勝負でもあるのだ。

そしてそれをジャッジするのが、なんとわたし自身でしかないことで、このジャッジの基準は限りなくあまい(笑)。

ましてや己が何がしかでも成長していないことには、そのあまさに歯止めがきかなくなってしまうのは当然である。

46年近く生きていると、ただでさえ怠け者である自分を、わたし自身はよく知っているのである。

時々投げやりになる自分に、どこかで制御を与えないと、わたしはかんたんに諦めたりのぼせ上がったりしてしまう。

それに怒りを感じながらも、どうしよもない自分自身をごまかしごまかし、失われた20年を生きてきたのだ。

だから今は、できるだけ今日表現できなかったもの(わたし自身の理解の足らなかったもの)を明日は表現したい、と意図的に思うようにしている。(失われた20年の反省の上に今の生き方がある)

それは別に専門的なものばかりでなく、日常を、である。

今では、このサイトがその実践の場のひとつとなっている。
つまり反省の場であり、己に負荷をかけつづける場がこのサイトなのである。

しかし、ただ自分に負荷をかけつづけるだけでは、この行為は持続できないだろう。

それはまるでひとりSMのようなものである。
自滅は確実なのだ。

では、持続するエネルギーはなにかといえば、それは、表現の難しさの自覚である、と思う。

そこに持続することの楽しさがある。

つまり、こう思うわたしがいて、それを読んだ(聞いた)他人がどう思うか、を考える自分がいる。そのスパイラル的な入れ子。

パースペクティブ―思考の入れ子関係である。

ここに「秘すれば花」の探求がある(というかゲーム性とでもいおうか)。
そのことで、持続するエネルギーはまた持続できているのだろう。

それを向上心と呼ぶなら、そう呼んでもかまわないが、わたしはもっと違う表現の方がぴったりとくるように感じてはいる。

しかし、それがなんなのかは、今朝は思い浮かばない(わからない)。

ただ、そうすることで、ジャッジとしてのわたしの目はさらに己に厳しくなってくるのも確かであって、それはますますひとりSM性を帯びやすい。

だが、自分をいじめて喜んでいるのが快感になってしまっては、それはただの変態なのである。

なので今日は「はいぶりっど」に過ごすのである。

これを我われ業界用語では、「一服」という。(笑)

2004/05/23 (日)  
【法大EC-3 】

まずは平和建設の長谷川さまの表現から。

ご本人曰く、初めてのプレゼン、なのであるが、よく考え抜かれ、しかし表現は淡々としていてシンプルであり、いいたいことがしっかりとみえるよいプレゼンだったと思う。

それは、一本ぶっとい筋が通った、ハイブリッドの表現型としてのはいぶりっどなのである。

とても考え抜かれているが、それを表に見せないにくさがある(秘すれば花)。

わたしは、他人さまのプレゼンを聞いているとき、時々妙な違和感を感じてしまうことがある。

それは「鼻につく」というようなもので、「秘すれば花」とは対極のものである。

それはわたしのパースペクティブの特性なのだが、つまり、思考の入れ子(フラクタル)の繰り返しの中で、主観的な裏読みが過ぎるからなのだ、と自己分析はしている(わたしの職業病ではある)。

しかし、消費のミームに技術のミームを重ね書きするとか、編集するということ(種外へのベクトルをもった経営である)は、じつは、このパースペクティブ―世界イメージ―の共有のことなのだ、と理解すれば、わたしに違和感を持たれることは、たぶん、表現としては成功はしていないのだろう、と思う。

わたしと長谷川さま(平和建設という種もだね)のパースペクティブの多くは既に共有されていたので、そして今回の表現がよりそれを確かにするものであったので、長谷川さまのプレゼンには、全く違和感を感じることはなかったし、とてもよく共感することできたのだ、ということもできるだろう、ということだ。

特に、平和建設のコアを、公共工事の社会的価値を地域にアピールする、としたことには、実に良く考え抜かれているなぁ、と感心してしまった。

つまり、あくまでもコアは現場なのである。
その現場の表現者としての平和建設という種と個。

そして地域社会との種の重なり合い。
その練習の場としてのイントラネットとIT化。

そういうものをふまえての今回のプレゼンなのである。
だからしっかりと平和建設の仕事(現場)が主張してくる。

平和建設がみえる。
唸ってしまったぜ。(笑)

表現とは、パースペクティブの共有のための行為でしかない。

そんなことはまだ長谷川さんにはななしたこともないのだが、今までの我われの理解の中から、公共工事の社会的価値を地域にアピールする、というフレーズを準備してきた平和建設は、やはり面白いのである。

ついでにいっとくが、公共工事の社会的価値を地域にアピールするのは、本来発注者の仕事なのだ。

しかし、あえてそれを自社のコアだとする平和建設は、わたしの表現では「貫く」を理解してしまっているのだと思う。

たいしたもんだよ本当に、なのである。

次は永田さまの表現。
永田さんは北見から参加のゲストスピーカーである。

わたしの直接的な関与先ではないので(エルデシュ・ナンバー的には「1」ではないので)、プレゼンを拝聴した印象だけを書こう。

それは、良くも悪くも北海道的ウェットさをもった表現ではある、ということだ。

このウェットさと(とその押し売りとでも書くか)は、第1回の吉川さん、第2回の熊谷さんのプレゼンにも共通して存在しているもので、それをわたしは「松山千春的表現」と呼んだ。

それは業界内(狭い紐帯)では共感を得る可能性は高い(つまりパースペクティブの共有を得やすい)だろうとは思う。

しかし、我われがやろうとしている、不特定多数に対する一般的な信頼の構築という文脈では、わたしは常に違和感を感じているものなのだ。

つまり鼻につく。
これは、建設業にあまり深く関わらない受講者からの共通の意見でもあった。

たぶん、北海道的ウェットさは、むしろ前面に押し出すものではなく、表現から垣間見られる程度の方が、より共感を得られやすいのではないだろうか、と思う。

このあたりは要「反省」なのだろう、と思う。
まあ、余計なお世話かも知れないが。(笑)


ということで、わたしの講義なのだが、配布し忘れた(笑)レジュメを掲示して詳細をここに書くことは省略。

また、講義最後の部分で触れたバースペクティブ(これがミームの伝達の秘密かもしれない)については、上記の文中での理解を試みたが、不十分なのは承知しており、次回はさらに詳しく・・・。

ということで、講義は、なぜか予定していたものの半分も消化できず・・・。
すいません、なのであった。m(__)m

HELP0403.pdf

長谷川様からの早速のメールが・・・。

桃知先生、おはようございます。

長谷川です。
昨日はお世話になりました。

今日の水戸は外は肌寒く曇りですが
私は清々しい気持ちでとても心地よい朝を迎えました。
なにより、昨日の発表が無事?に終わり、安堵した気持ちです。

この1ヶ月、昨日の準備の為に毎日2〜3時間ほどPPTと格闘。(笑
私にとっては生まれて初めて操作するパワーポイントでしたから大変?でした。
伝えたいことを伝えられるようなチャートを作ること自体に時間がかかりました。
私は部品作りや背景を決めたり色目を作ったりは好きなことなので楽しかったのです。
アニメーションも楽しくって最初は全部使って練習をしてしまいました。
作っているときはああもしたい、こうもしたい希望がたくさん出てきて
思ったことをやってみて出来るようにすること、練習に時間をかけました。

PPTを自分で作成すること、またそれを使って発表をすることが初体験でした。
チャートの作りはわかり易く?作りは言葉を邪魔しないように抑えて考えました。
でも、受け手にとってはどうだったのでしょうか?(わからない・・。)

未知のことを体験する期待感と初めてのことに対する不安感と共に
この1ヶ月間、私の反省の行動は大変に密度の濃いものがありました。

最初は、もちろん話すことのテーマを決め、ストリーを作りましたが
発表時間を考えて内容の絞込作業で捨てた情報がたくさんありました。

というか、100の中なら10を選択した、というのが事実です。
この選択するということが私にとっては大変な反省の行動となりました。
また、自分の頭の中にぼやーと霧のようにあった考えを寄せ集めて形にする
作業の途中で突然ハッとなにかが切り開かれたような感覚が?
それはなんというのでしょうか?自己超越?のようなものを体験しました。(笑

桃知先生と出会って、大袈裟ですけれども自分の可能性を発見いたしました。
ちょっと古い言葉かもしれませんが、それは自分探しや自分造りだと思います。

会社はビジョンを実現するために、私も会社の成長と一緒に自己実現するために
これからの経営を考え行動していきたい思っております。

昨日の桃塾で私に発表の機会を与えて下さった桃知先生に心から感謝いたします。
いろいろとありがとうございました。ごきげんよう。

取り急ぎお礼の一報まで。

2004/05/22 (土)  
【岐阜から帰る】

6時42分に岐阜駅を経ち、7時24分に名古屋駅をでる「のぞみ」で帰ってきた。
少々寝不足&二日酔気味。

今日は法大エクスrテンション・カレッジの第3回なのである。
それも子守付き。(謎)


報道によれば、小泉首相は無事平壌につかれたようだが、実りある会談になることを期待したい。

首相自らがでかけた、ということは、それは切り札をだしてしまったようなもので、まあ、国内の政局(7・11)を睨んでの行動なのだろうが、外交戦略的にはどうなのだろう。

まさか、話せばわかる、とでも思っているわけではあるまい。

わたしが危惧しているのは、小泉首相が、金正日総書記と会談するというとき、独裁者としての金正日を己に映しているのではないか、ということである。

これは今日の新幹線の中でふと思い浮かんだとこだ。
意識のパースペクティブ性ともいえるものなのだが、どうもこの方は、ブッシュJr.といい、金正日といい、あんまり良い方とはパースペクティブを共有していないように思える。

ということで、今日はここまで。
授業にでかける準備をしなくてはならない。

2004/05/21 (金)  
【訴求力】

午前5時30分起床。
昨日は、面談だけで一日が終わってしまった。

夕方、清司にいって、生ビールを2杯と抹茶ハイを2杯飲んだら、とても眠くなってしまって、帰宅後そのまま眠ってしまったのだ。

やりたいことは危機的に進まず・・・。

鱸様より。

 鱸です。

> 市場を形成しているミームには、売り手が持っている「技術の
> ミーム」と買い手が持っている「消費のミーム」のふたつがあり、
> 市場とは技術のミームと消費のミームの相互作用の場だと考える
> ことができよう。
>

 一般の企業活動では、企業は「自らが対象市場」を想定し、そこに
 提供するプロダクツやサービス内容を定め、市場に訴えたい価値を
 理解していただくための努力を行います。

 そうした企業側が主体的に行う価値アピールの努力と比べ、(輸送
 車両開発に関係した問題のように)「ネガティブな話題」ほど拡散
 速度が速いし、浸透程度にも深いものがあります。

 ・・で、「公共事業という産業」の場合、如何なる組織の動きが
 「市民社会」に対して訴求力をもつのでしょうか。
 この産業では、誰もが利害関係者になりえますし、個々のケースで
 プレーヤーの立場が変わり、結果として反応が変わってきます。

 以前、ジオさんは、「最も影響力がありそうな方々」が変わるのを
 待っていられないし、他者を変えるのは容易ではないので、「自ら」が
 変わり、他者は「可能な範囲内で変える」・・ といわれています。
 まさに、そのとおりだと思います。
 では、小生、何ができるのか? 何も答えられない自分がいます。

 関連しそうな話題として戯言でも紹介いただいたCSR。
 FXさん事例を紹介されました。お暇な時に眺めてください。
  http://www.fujixerox.co.jp/xdirect/magazine/rp0405/04051a.html

                      以上

>・・で、「公共事業という産業」の場合、如何なる組織の動きが
> 「市民社会」に対して訴求力をもつのでしょうか。

訴求力は、たぶん意図的に形成されるものではなく、恣意的に形成されてくるものだと思う。

ましてやなんの力もない(もしくはマイナスのイメージしかない)我われが、それを確かな形として現有しているとも思えない。

ただただ、『ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である』(金子郁容 )ということだけなのであろう。

とすれば、ある意味追い込まれた状況で、我われにできることとは、ただ「バルネラブル的に表現するという方法」を身につけるしかない、というのが、わたしの今の考えである(詳しくは19日の戯言を読んでいただきたい)。

訴求力とは、わたしのタームを使えば、それは「ミーム力」である。

つまり、訴求力とはミーム力だ、ととらえることができるとき、我われの視点は種としての組織であると同時に、その種を構成する個に向くことになる。

ミーム・ヴィークルの最終単位は個に他ならない。

わたしは、「個は種のミームの中で育ち、また種は個の変化によるミームの変化を内在化している」という。

つまり、我われが、何かを変えたい、何かに訴えたい、という欲求をもつとき(その何かとは多くの場合「種」であり「環境」であろう)、まず最初に変わるは、そして訴えるのは自分自身でなくてはならないはずだ、と考えている。

それは、種に属する個が、何らかのメタモルフォーゼの可能性を追求しようとしているとき(それは個が種を否定しようとする胎動でもありえる)、種はその変化を許容している(もしくは許容せざるをえない)、ということだ。

これは同じ種に存在する他の個が意識しようとしまいと、それには関係なく、種が個を孕む存在であるがために、必ず種が内包してるものなのである。

このような種の特徴を、村上泰亮は思想の自由と呼んでいるのだろうし、中沢新一流にいえば、否定即肯定、肯定即否定、ということになるだろう。(わたしはそう理解している)

つまり、種は変化を内包している。
変化しない種は存在しえない。
種は個という変化のエネルギーを内包することで普遍なのである。

ただ、その変化のエネルギーが燃え尽きたとき、種はその普遍性を失うだけだろう(つまり、進化論的にいえば淘汰である)。

なので、わたしは、その変化のエネルギーを問題にし、そこにこだわっているのである。

それを、マズロー的最下層にもとめるだけでは、我われは動物と同じではないか。

ではなく、「広義の反省」(村上泰亮)にそれをもとめるとき、我われの自己超越は可能なのであり、個と種の世界イメージは書き換えられる。

これを人間的な変化といわずに、何を変化とするのだろう。

そして、この人間的な変化こそが、訴求力に繋がると考えている。

変化しない種は存在しえないのであり、変化しない種はないのである。

そして、極めて人間的である種、つまり会社や自治体といった組織、それこそ「公共工事という産業」や地域社会という種でも、それは同じことだと考えている。

では、自分自身が変わるとは何を意味するのだろうか。
それを、ただ「バルネラブル的に表現するという方法」を身につける、というのだが、それは「ハイブリッド」である。

・・・という部分は、19日の戯言に書いているので、そちらから咀嚼していただければと思う。

ということで、今日の私は岐阜主張。
芦別建設業協会さんの岐阜研修である。

2004/05/20 (木)  
【手抜き更新】

寄稿原稿は、昨日中に、なんとか8500文字+挿絵9枚を書き上げて脱稿。
しかし、脳味噌を回しすぎたため、なかなか寝付かれず、だからといって、『フィロソフィア・ヤポニカ』なんぞを読み出したら、不眠の加速度はリミッターを振り切ってしまった。

しかし、気がつけば今朝はちゃんと目覚めているわけで、それは眠りから覚めた、ということであり、つまり、ちゃんと寝たのである。(まあ、当然に寝不足ではあるが)

今日も一日自宅にいる日で、お客様との面談を2件予定している。
こうして二日続けて自宅にいるのは、最近では珍しいのだが、出かけなくともビジネスになるのであれば、それはそれでよいわけで、特に台風の影響による雨の日である今日なんざは、なにか得した気にさえなってくる。

ということで、今日は昨日書いた寄稿原稿から一部転用しておしまい(手抜きともいう)。

市場を形成しているミームには、売り手が持っている「技術のミーム」と買い手が持っている「消費のミーム」のふたつがあり、市場とは技術のミームと消費のミームの相互作用の場だと考えることができよう。

つまり売ること(公共工事でいえば、指名され受注できるということ、さらには市民社会から支持されること)とは、自社の技術のミームを買っていただいている、ということである。つまり、我われが売っているもの(商品)とは、技術のミームにほかならないのだが、商品としての技術のミームとは、量と価格の情報としての第一種の情報と、経験と解釈と信頼の情報としての第二種の情報を内包しているのである。

買い手が、そのどちらを選択の際に重視するかは、消費のミームのもつ(というか個々人のもつ)世界イメージに左右され、かなり恣意的である。たとえば、主婦が日用品とか今晩のおかずをスーパーで買うという場合には、第一種の情報の占めるウェイトが大きいだろうが(昨今の食品の安全に対する消費のミームの意識はこのウェイト配分に変化をもたらしている)、銀座でブランド品を購入する場合には、ブランドや商品の持つ物語性とか衒示とかいう第二種の情報にウェイトをおくだろう。

「ビトンとユニクロ」、「カルチェと100円ショップ」といわれるような、現在の社会に特徴的な二極が混在するような消費行動は、第一種の情報的相互作用である、量と価格の情報だけを、いくら詳しく分析しても説明がつかないのである。

これは公共工事を取り巻く問題についても同じようなことがいえる。安ければよい、というような公共工事の発注方法 ―第一種の情報を偏重した発注― が昨今もてはやされているようだが、これはナイーブなインターネット社会観ゆえのものであろう。つまり、グローバル指向に内包するマーケット・メカニズム(市場原理)を、インターネット社会観唯一の問題解決方法だと誤解しているのである。しかしコミュニティでの大きな役割を担う自治体によるそのような行動は、第二象限の存在としての地域社会を自己否定しているに過ぎないのではないだろうか。

第二象限、コミュニティ、地域社会、市民社会のあり方、問題解決方法は別にある(その可能性を金子郁容は「コミュニティ・ソリューション」と呼んでいる)。そのことを、「公共工事という産業」は、もっと真剣に考える必要があるのだが(それはなによりも自治体がである)、それには、第二種の情報、つまり経験と解釈と信頼の情報の理解が必要なのである(わたしのいうIT化とは、この第二種の情報を積極的に扱おうとするものである)。

つまり公共工事に依存した中小建設業のIT化を考えるとき、技術のミームと消費のミームの把握は、発注者が誰であるかの理解で大きく変化してしまうことになる(従来どおりの官=自治体なのか、それとも地域社会、市民社会なのか)。

我われはすでに、インターネット社会(つまり現在である)に、発注者とは「官」(自治体)だけを意味するものではなく、官(自治体)と市民社会も含めた第二象限という存在そのものである、という視座を示した。

IT化の真の目的が「発注者との信頼の構築である」というとき、つまりは発注者(公共工事における「消費のミーム」の主)を官(自治体)と市民社会も含めた第二象限と見据えるとき、我われのIT化による情報発信の方向性は既に明らかなのである。それは、官を貫き、市民社会に届くものでなくてはならない、ということである。そしてここでクローズアップされるのが(つまり、市民社会に届かなくてはならないものは)第二種の情報としての「信頼」なのである。

信頼の重要性とその理解は、次回に詳しくおこなうが、今や、唯一の公共工事のIT化の象徴であるはずのCALS/ECに、このような視座があるのかといえば、わたしははなはだ疑わしく思う。CALS/ECが、電子入札や電子納品のような官の業務の効率化(本当に効率化されるのかも疑わしく思うが)に終始するならば、それは、今という時代(インターネット社会)を理解しないIT化でしかない。つまり、消費のミームとしての市民社会の存在を忘れたIT化であるが、それはIT化ではない。

インターネット社会においては、官(自治体)は市民社会の代理人としての立場をますます強くすることになろう=プリンシパル・エージェント問題。しかし、官は市民社会に対するアカンタビリティの方法を知らない。それは、「公共工事という産業」が信頼という第二種の情報をもちえないことに由来するのだが、これについては次回に詳しく考察することとする。
  

2004/05/19 (水)  
【暖機運転】

昨日のお昼も、やっぱり盛楼閣の冷麺であた。
笑われそうなのだが、すきなのだからしょうがない。(笑)

みるきいさまより。

私、今日NHKローカル番組の盛岡三大麺特集の取材を受けていました。

讃岐うどんが大ブームになったため、次にブレークする地元麺の筆頭に盛岡じゃじゃ麺があげられておりまして、昨年からおかげさまで、盛岡じゃじゃ麺ファンクラフサイトにたくさんのお問い合わせをいただいております。

冷麺やわんこそばと違って他に専門サイトがないことや、元祖の白龍の現社長(創業者のお嬢さんだそうです)が一切取材をうけない事もあって、特集や番組があるとサイトをたどって私の所に取材依頼がくるようになりました(^^:

自分ではたいした事はいってないのですが、なぜか取材の方には「おもしろい」と大受けでうれしいやら、「なんでだろう??」状態でおります。

桃知さんはまだじゃじゃ麺はお食べになれないようですが、白龍以外も一度食べてみてはいかがでしょうか??今回私がご紹介した「夜8時にしまってしまう白龍以外で飲んだ後でもたべられるじゃじゃ麺屋」さんで「香醤」という所があり、そちらの方が初心者には食べやすいとされています。(でも今日久しぶ
りに食べたら最近できた店に比べたら、しっかりと癖がありました)じゃじゃ麺はぞくに「3回食べないとはまらない」といわれておりますのでよろしかったら、ぜひ後もう一度くらいは食べてみてくださいませm(_ _)m

(^o^)/ハーイ、なのであるが、じゃじゃ麺については、まだ脳味噌が理解できていない。

お前は脳味噌で飯を食うのか、と突っ込まれそうなのだが、そうなのである。

身体のレベル、つまり、わたしの過去の食習慣から導き出されるじゃじゃ麺への評価、もしくは舌と胃袋との主観的感想は、うまいか、まずいか、の二分法でいうならば、「まずくはない」なのである。(答えになっていない)

じつは、わたしは、じゃじゃ麺には、個人的には何度か挑戦しているのである。それは、皆さん、みるきいさんと同様に、『じゃじゃ麺はぞくに「3回食べないとはまらない」』といわれるように、身体がなんらかのアレルギー反応を起こす以外の好きと嫌いは、たぶん「慣れ」だからだ、と思うからだ。

多くの味覚的な好き嫌いは、この方法で克服できるだろう。

つまり、今のわたしは、じゃじゃ麺は食べることはできる、のである。
食べることの出来ない味ではない。

しかし問題は、視覚からくるものにあるように感じている。

それは、味がどうした、というよりも、じゃじゃ麺というものの存在に、たぶんまだ視覚的に「慣れていない」から、としかいいようがないのである。

その「慣れ」とは、多くは、わたしが生きていることによる過去の蓄積、つまり、無意識の次元にある、あの「姿」への違和感、というような拒否反応なのだと考えている。

つまり、わたしの「うどん観」では、じゃじゃ麺のあの姿かたち、そしてあの食べ方による視覚的なものは、完全に反則なのであり、ルール違反なのである。

これを克服する方法はひとつだけである。再度「食う」。
そしてあの姿かたちがうまい、と脳味噌と身体に記憶させる、これだけであろうが、なかなか足が進まないのは、歳のせいであろう。★\(^^;

ここまで書いて、次回は脳味噌で食べてみようかと思った。
それは、物語をつくる、という食べ方なのだが、これも本当は反則ではある。

ということで、盛岡では、じゃじゃ麺のお店もだいぶ増えてきている。
食べる機会はいくらでもあるのである。

次回盛岡にいった際には、必ずや、じゃじゃ麺を脳味噌で食べるので、レポートを待たれよ。(笑)


さて、今日は寄稿原稿を書く日と決めていた日であり、とにかく今日一日で7000文字程度をやっつけてしまう予定でいる。

しかし、昨日の戯言を再読してみれば、それは最低の出来なのであり、思わず消してしまおうか、とも思うほどの体たらく。

しかし、まあ、これもわたしの出力でしかないわけで、こんな文章しか書けない状態で、寄稿原稿を書く、などとのたまっているわたしは、表現者としては最低だろうなぁ、と思う。

いつでも、コンスタントに、自分が納得できて、そして読む人がちゃんと読める文章が書けるようになるには、まだまだ修行が足りない。

ということで、今日は、昨日の某ミーティングをネタに、わたしの反省の行為をしようと考えていた。

書くために、脳味噌のストレッチから一日を始めたいと思っていたからなのだが、みるきいさんのメールからのインスピレーションでだいぶ脳味噌も温まってきたのも確かである。


地場型中小建設業というのは、典型的な「第二次声の文化」(以下単純に「声の文化」と書くが、これは「第二次声の文化」のことである)の方々、といってもよいだろう。

つまり、わたしは、「第二次声の文化」に、山岸先生のいう、地図作成型知性を重ね合わせて考えているのだが、地図作成型知性を特徴とする文化とは、低信頼者の文化であり、安心の文化である。

それは以下のような特徴を持つ(以下は、2月25日の戯言からの引用である)。

 ・低信頼者は人間関係の認知に優れている。
 ・人を見たら泥棒と思え
 ・孤独な人
 ・共感性の低い人
 ・親和欲求の高い人
 ・他人の表情から他人の気持ちを読む
 ・社会的びくびく人間

これらが、そのまま地場型中小建設業に特徴的な文化として採用されていいのかどうかは、疑問もあるだろうが、これらの特徴は「声の文化」としての地場型中小建設業のもつ特徴なのだ、と考えている。(そして、これらは、わたし自身のことでもある、とも)

そして、これらの特性には、自分が納得できる人生を送ろう、と思うとき、大切なものもあるが、出来れば直した方が良いものもあるだろう、ということだ。

つまり、全てが悪いわけではない。

特に、人間関係の認知に優れ、他人の表情から他人の気持ちを読み、親和欲求の高いことは、一方的に悪いものだ、と決め付けられるものでもないだろう。

昨日も書いたけれども、人が人にサービスをするとき、そこには、信頼関係や人間的な魅力など、経済的な関係を超えたさまざまな要素がかかわってくるのだから、これらの特性は、むしろこれからの人生には必要不可欠な特性となってくるに違いない。

一方、人を見たら泥棒と思え、孤独な人、共感性の低い人、社会的びくびく人間というような、信頼というキーワードからみれば、ネガティブな特性もあることも確かである。

我われは、まず、それが確認できればよいのである。

確認できたら、次なる行動は、自分自身が、自らの人生を、納得できるものとしようと考えるときに、そのネガティブ(だとわたしは考えている)特性をどう克服しようかと考えることだ。

そう考えることができれば、自分がやらなくてはならないことも、またみえやすくなるだろう。

ここで、わたしが提唱しているIT化とは、この「声の文化」に、(再び)「文字の文化」をハイブリッドさせようとするものである。

IT、インターネットの特徴は、そのコミュニケーションの基底はテクスト主義である、ということだ。

例えば、このサイト、そしてわたしがIT化の道具としているイントラネットを見よ。
そこので展開されているのは、文字の羅列である。

しかし、文字の羅列だけではテクストにはなりえない。
そこには表現者としての自らの葛藤がなくてはならない。

現実の重み(養老猛司)がにじみでるようなものでなくてはならない。

つまり、「文字の文化」としてのテクストに必要なものは、「広義の反省」としての行為からの出力としての文章なのである。

「広義の反省」とは、自分をみつめなおすことである。

つまり、わたしのいうIT化、ハイブリッドとは、「声の文化」への「反省の次元」の復活をいっているのであるが、それを、イントラネットからから始めることは、「反省の次元」への入り口として、さらには、共感とコミットメントとその共進の場として、それが見事に機能するものだからである。

イントラネットは、「声の文化」の住人が、最初に使うには、これ以上ない最適な反省の場なのである。

そして、そこで、表現者としての自分をみつけることができればよいのである。

その表現者としての自分は、やがて、イントラネットという閉ざされた種の枠を超えて、外へ表現することを可能となることを自覚するだろう。

そのとき、己の中には、しっかりと「信頼の重み」がみえてくるはずである。

2004/05/18 (火)  
【@盛岡】

桃知@盛岡%午前6時起床。

当然に、昨晩も盛楼閣の冷麺を食べ、銀河高原ビールを飲んだのである。
北の都に花開いた素晴らしき食文化である(まだ、じゃじゃ麺はだめだが・・・)。


『経済の営みの本質は生命の再生産にあるのだった。そして生命の再生産には、衣食住にまつわるモノが必要であるとともに、主体的に暮らしを切り開き、前向き生きていくための意欲、価値観、世界観といった、形のないものが必要である。モノであふれていても、生きていく意欲がなくれば、生命の再生産の過程も衰えてしまうから。』

『それではこの「形のないもの」は、何によって支えられているのだろうか。ここには伝統や慣習、価値やアイデンティティといった、広い意味での文化がが関わっている。人びとに生きていく意欲をわかせ、生活と労働をつづけさせる原動力として、文化というものが大きな役割を果たしている。そうすると、文化は資本として重要な働きをしていることになる。』(西山賢一,p205)


cover 『文化生態学の世界』―文化を持った生物としての私たち

西山賢一(著)
2002年10月10日
批評社
2100円(税込)

(次回、法大エクステンションカレッジ、『反古典の政治経済学要綱』第五章を読むための参考文献なのだな、これが)


わたしたちは、それがどんなものであれ、文化を背負って生きている。
背負って、という表現はしっくりしないかもしれないが、まあ、そのような感覚である。

人が人にサービスをするとき、そこには、信頼関係や人間的な魅力など、経済的な関係を超えたさまざまな要素がかかわってくる。

対人サービスが豊かに発展していくためには、文化資本(西山賢一)が大きな役割を果たしていくのだろう。

福祉、保健、医療といった対人サービスの需要は、新しいビジネス分野として喧伝されているし、その需要は確かに存在するだろう。

だが、それらの対人サービスにおいて必要とされるものとは、文化資本なのであろう、ということだ。

建設業からの職業的移転先として、これらのサービス産業がいわれるとき、そこには、サービス産業における、この文化資本への視点が欠けているのではないだろうか。

「一生懸命に働くということが、われわれ一人ひとりの人間としての成長につながり、人間力を磨いていく最高の機会になる。」(田坂広志)ためには、私たちはなにかしら文化的な納得がなければ、そうはなれまい。

それは世間がそう思う以上にである。

文化資本は、知識資本や人的資本と呼ばれるものと同様(これらの多くは多くの部分で重なり合っている)、人びとの内面に蓄積されるのである。(それも収穫逓増に)

つまり、ここでの主役は、一人ひとりの人間であり、人びとのなかに蓄積されている技能や知識の収穫過程から生まれてくるものである。

それこそが文化を変化させかたちづくる原動力ではないのだろうか。

わたしのいう「ハイブリッド」とは、その変化に、「多様性」の存在を認め、自らも多様なるものとして変化しようとする「こころ」である、と考えている。


ということで、本日は、午前中盛岡にて打合せを行い、その後帰京の予定。

2004/05/17 (月)  
【考える】

午前5時起床。

わたしたちは生きているわけだけれども、これを進化というのであれば、確かに進化なのである。

ただ、ここでいう進化とは、ただ生きている、ということだけであって、なにか到達点のようなところに向かって前進(進歩)している、といえるわけではないだろう(ここで進歩ということばをうかつに使ったが、これもじつはかなりの曖昧瀬を孕むが今回は無視)。

例えば、企業組織において、何代かの社長の代替わりがあったとして、今の社長が先代の社長より進化している、といえるような感覚はもちえるのだろうか?

つまり、進化が生物学的な適応、というような概念で使われるのであれば、それはただこの環境の中で生存している状況をいうだけの事であろう。

例えば、人間が生物界において最も進化した存在である、などと考えることは(そう思うのは自由ではあるが)、それは今の環境に適応しているだけだ、ということをいうのであり、我われが最も優れた生物であると考えるのは、単なる思い過ごしに過ぎないのだろう。

それは、たまたま今の環境下でそうなっただけのはなしであり、環境が異なれば、また違う結果をみることとなる。

つまり、生きているのは環境のおかげなのであり、生きているとは、それは「たまたま」生きているのであり、多くは偶然の賜物でしかないのかもしれない、と考えることもできる。

以上は、よくあるたとえばなしのようなものである。

しかし、ここで思考が停止するのは、つまらない、のである。

それは、上記の考え方が、あまりに生物的な遺伝子(gene)における進化をメタファーにしたものであるからだ。

このような考え方をもたれる方々は、人間を生物界の頂点と考える方々と同様、進化を、生き残っていることの理由として用いることに陥りやすい。

つまり、生き残っていることこそが、進化している、適応している証しだ、と考えるのである。

それは、生き残りとか、勝ち組とか、勝者というような競争的なことばを、人間の営みに対して使うような(多くはビジネスの世界で)空気を生み出している(反対に「負け組」のようないいかたを含めて)が、所詮はトートロジーでしかない。

これもまた、我われの存在を考えるにはたいして意味が無いことだろう。
還元主義的でさえある。

このような言説(生き残りとか、勝ち組とか、勝者というような競争的なことば)が生まれるのは、我われが我われ自身を考えることが、あまりにも足りないからである。

人間(とその営み)に対する、なにかの視点が足りないのである。
それは人間は「反省」をしてしまう生き物である、という視点だろう。

我われは反省をするのではなく、してしまうのである。
(その「程度」の問題は大いにあるが)

それは、つまりは、わたしの意志は、(進化と呼ばれるものの過程の中で)どこに、その居場所を持つのか、という問題なのではあるが、人はいつでも「考える」ことで、今を生きているのであろう。

つまり、考えることの自由、思考の自由こそが、人間が他の生物と区別される大きな理由(村上泰亮)なのだが、つまり、人間の進化を考える、とは、生物の遺伝子的な進化のアナロジーから考えるだけでは、そこに限界があるは明らかだろう。

たかだか、ではあるが、わたしの考えるということの変化をみても、それが、遺伝子的複製のシステムだけでは説明しきれない。

そこで、文化子(meme)という概念が必要なのだ。

我われがこの視点をもつことは、一個人の、一生を通しての(考えることの)進化を考える視点を得ることができるようになる、ということを意味する。

つまり、今の社長が先代の社長より進化しているといえるのか、という問題に対して、その比較(先代と現の比較)自体はたいして意味はなくなってしまう。

つまり、今の社長(それは別に社長である必要はなく、今の「私」でもよい)の(考えることの)進化を考えることができる、ということでもある。

それもその進化は理論的には限界はない。その意味で、個々人の可能性は開かれるわけである。(しかし、現実的には限界だらけなのだが・・・それを越えようとする、つまり、自己超越こそ思考の本来の仕事ではあろう)(笑)

つまり、ミーム的に進化する自分を、自分ではどうすることもできない現実としての自分の身体に重ね合わせることで、我われは、毎朝目覚めれば、変わることのできる自分を自覚できるのである。

いわば、進化(変化)の自覚なのである。
そしてそれが「反省」に他ならない。

ということで、盛岡へ出かけるのでここまで。
8時のはやてに乗らなくてはならない。

#朝のばたばたの中で書いたため、誤字脱字意味不明確が多く読むに支障を感じたため、一部新幹線内で訂正した。

2004/05/16 (日)  
【@新千歳空港】

桃知@新千歳空港である。

さすがにまだ昨晩の酒宴の影響残っているようで、今一頭がはっきりとはしないのだが、今朝は、「アグリ工房まあぶ」で温泉につかり、秋野さまに空港までお送りいただいた。

昨晩の南大門は、流石、という表現しか見当たらず、今朝の次郎さんからのMLへの投稿の通りなのであった。

momoHOZUKIの皆様、昨日の初回の勉強会お疲れさまでした。
「南大門」だけを楽しみにしていた方もかなり(?)いたようでもう勉強会に来なくなってしまうのではないかと心配です。
それにしても、やはり、南大門の焼肉はうまい!

ヒレステーキの後にでた、ロースは、とんでもないもの(わたしのテクストでの表現領域を超えている)であったし、コテージお持ち帰りで食べた、生ヒレも「うまい」としか表現しようがないのであった。

しかし、次郎さんのいうように、「南大門」だけを楽しみにしていた方は、もう最終日のような感覚に陥ったに違いない。

が、葉月桃塾は始まったばかりなのである。
次回、滝川は松尾ジンギスカン。

また、食って飲むのである。(笑)


さて、今回の深川での葉月桃塾は何事も無く順調に終えることができたが、それも、会場の手配、宿の手配、そして南大門の手配をしていただいた、佐藤さまをはじめとする深川の皆様のご尽力のおかげである。

皆さまには、深く感謝申し上げる次第なのである。

momo
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