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店主戯言040701  2004/7/1 〜2004/7/15 "There goes talkin' MOMO"


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2004/07/15 (木)  
【人生、てきと〜】

6時30分起床。
浅草は、はれ〜。今日も当然のように暑いようだ。

昨晩は、自宅でそうめん(揖保乃糸)だったのだが、水戸納豆消化週間の一環として、納豆を包丁で細かくたたき(ひきわり納豆状態)にし、それをつゆにたくさん入れ、薬味を少々入れて食べてみた。

以前、稲庭うどんをこうして出されたことがあって、それがとてもおいしかった記憶があった。

たぶん揖保乃糸でも同じだろと試してみたのだが、案の定、上出来であった。
納豆をたくさんお持ちの皆様は、是非におためしあれ、なのだ。

それから、豚の三枚肉とたまねぎで、暖かいつゆをつくり、それに冥加を薬味としてたっぷり入れてたべてみたが、これもかなりいけた。

冷たいそうめんと甘めの熱いつゆ(まるでマグリットの青空遊び)、それを引き締める冥加の香り、ハイブリッドである。

さて、今週末は北海道ツアーである。
今日は岩見沢市にて、明日、明後日は、それぞれ北見市にてIT化の活動なのだ。

バカみたいな東京の蒸し暑さから、湿気のない北海道へいくのはうれしいわけで、誰もが、可能であればそれにこしたことはない、と思うだろう。

今年の北海道も、冷夏が心配されるような按配なれども、やはりわたしは、この時期の北海道は大好きなのだ(冬の北海道もだいぶへっちゃらになった)。

しかし、いくら東京が暑い、といっても、昨日うちにおいでになっていた、栃木のまさたろうさんは、涼しい、というわけだし、たぶん、空知の皆さんが、今の東京にいれば、この暑さに、ほぼ機能停止状態なのだろう。

マクロ的に見れば、無視してもいいような、この適応(適性)の違いは、正のフィードバックが働けば、さらに大きなものになっていくのだろうな、と思う。

ただそれは、獲得形質が遺伝される、というよりも、その環境において、より生存に適した個体の持つ遺伝子が、より生き残りやすい、ということなわけで(ドーキンスいわくである)、わたしはそれを「環境が遺伝する」と考えているのだが、それは、そのままテリトリー性(生態域)、地域性となっていくのだろう。

と同様に、ミームにもテリトリーは覆いかぶさっていたのだが、デジタル化するミームは、それ(テリトリー性)を、簡単に乗り越えてしまう。

とまあ、朝からこんなことを意識して書いているのは、最近のわたしは、脳味噌の隙間ができる時期に遭遇しているからで、それを例えれば、脳味噌が海綿のような、穴(隙間)だらけ(按配になっているような感じである。

この時期は、時々意識的に思考回路を使わないと、隙間が結合拡大しドーナツ化しそうなのだ。

だから、こうして、たいしたことがないようなことでも書くことによって、朝に、脳味噌に火を入れてみるのだ。

ただこの隙間の時間を過ごす、最も安直な方法は、漫画を読んでいることだったり、映画を見たりしていることなのだが、それは反省の次元を持たない、感性の時間とでも呼べるものである。

この感性の時間も大切な時間であることには違いが無く、隙間がなければ、反省の時間もないのだ。

つまり、あくまでも反省と反省の間、つまり隙間であることで、反省が生き、また隙間も生きるものだと感じている。

こうして一個の生物としてのわたしは、時間軸において波動を繰り返すようにして変化している。

だが、その波動さえ、極端に反省に偏ることもなく、極端に感性に偏ることもなく、その中間のハイブリッドとしての波動であることを理解することは重要だろう。

たぶんそれは、本人が思っている以上に小さな揺れの値の中に納まっているようにさえ思える(じゃなかったら精神分裂まっしぐらだ)。

両極端、つまりは極相で語ることを、モデル化という。
たしかに、モデル化という手法は、単純化と視覚に訴える方法を併用するので、わかりやすいことはこのうえない。

理解の手法としては、密画的あり、数値化もしやすいので、わたしも良く使う(つまり否定はしない)。

しかし、それしかない、と思った途端に、それは極端と呼ばれるものとなる。
わたしの言葉だと、「正解の思い込み」なのだけれども、それに陥った方々の視野は、確実に狭く、極相に偏る(つまり、現実味が希薄化する)。

つまり「実践」は、そして我われの象徴界は、極相に偏って存在しているものではない。

それは、常に極相間の揺らぎとして、つまりハイブリッドとして、己の中に内在しているのであろう。

さて、そういう隙間の時間を過ごすときの、わたしのお気に入りの漫画といえば、最近は「浦安鉄筋家族」なのだ。

これを読むときは、ただひたすら漠然と、ぼーっとして読んでいるようで、ほんとうに、ぼーっとして読んでいるわけで、余計なことは何も考えていない。

この余計なことは何も考えない時間、というのは、それは集中する時間とでもいえるものなのだが、それは、こうして、何か書くことを、意識的におこなうようになってから実感できるようになったものなのだ(といっても、それが反省なのだ、と理解したのは最近だけれども・・・)。

それまでの「はいぶりっど」な生活では、ほとんど感じることの無かったものなのである。

それはたぶん、その余計なことは何も考えない時間と対比するもの(時間)を持たなかったせいなのだろう、と思う。

つまり、「はいぶりっど」だけじゃ、その反省を伴わない行為もまた無意味(リアリティが無い)なのだろう。

さて、この「浦安鉄筋家族」には、主人公の父、大鉄@ヘビースモーカーのいう「人生、てきと〜」という言葉があって、隙間の時間では、この言葉は、妙にリアリティを感じさせる存在なのだ。

しかし、これを、隙間の時間以外の、つまりわたしの脳味噌が、思考回路全開の時間に見ても、そのリアリティの感じ方は微妙に違う、というか、あまり共感を感じることがない。

この感じ方は、とても面白いもので、わたしという一個の個体が、その時々の思考のあり方というか、精神状態のありかたで、同じ言葉でも、違うように感じていることが実感できてしまうわけだ。

要は、これを、気の持ちよう、とかいうのだろうが、むしろ、養老猛司がいうように、考える生物としてのわたしは、朝目覚めれば、毎日が違う存在なのだから、そうなのだろう、と思うのだ。

ということで、今朝は、ANA 059 東京(羽田)(10:00) - 札幌(千歳)(11:35)ででかける。
羽田で、ちょっと所用があるので、余裕をもってでかけよう。

2004/07/14 (水)  
【昨日のこと】

午前7時起床。
体調は胃袋の調子が今一なのを除けばよし。
天候は曇り。今日も猛暑の予定。
朝食は、水戸から届いた大麦入り舟納豆。

昨日は、梅雨明け。
うっとうしいほどの暑さの中、東京では、今年初めてのセミの声を聴く。

新潟、福島両県を中心とした豪雨の被害にあわれた皆様には、心からお見舞いを申し上げたい。


さて、昨日は、六本木ヒルズへ出向く。
東京に住んでいても、六本木には滅多に足は向かないわけで、当然に六本木ヒルズは一度も訪れたこともなく、今回こういう機会をつくっていただいたCMnetさまには、感謝申し上げたい。

その上、今、森美術館で開催されている「モダンってなに?」展の招待券をいただいてしまったものだから、ガラにも無く、美術館にまで入ることができた。

わたしの今の興味の対象が「私たちは、かつて、一度も、モダンだったことのない」なのだとすれば、ここにあるのは、まさしく「モダン」以降の作品であり、西洋であった。

ど素人であるわたしでさえ、知っている作品が並ぶ。
中でも、考えて描く画家、ルネ・マグリットの絵(「光の帝国U」1950)は大好きなのである。

シュルレアリストである彼の、青空遊び(青空の下に、夜景がある、その逆バージョンもあるらしい)とでも呼ぶような、「反転」の世界を実際に見ることができて、脳味噌は大喜びしていた。

まあ、その他にも、ピカソやムンクやキリコといった有名どころの作品が並ぶわけで、ある意味思想を背景にした芸術とよべる作品を見ていると、マラルメが絵画に嫉妬したとすれば、このような流れに対してなのだろうなぁ、とちょとばかし、文化人のふりをしてみた。

昼食は折角なので同ビル内でとることにした。
「新宿中村屋」があったので、久しぶりにインドカリーを食べたのだが、ここのインドカリーは、わたしの知っている「新宿中村屋」のインドカリーではなかった。

たぶん、3,4年ぶりで食したので、今はそうなのだ、といわれればそれまでなのだが、わたしの知っているそれとは、チキンの煮込み方が全く違うのだ。

わたしの知っているのは、スプーンが触れたら、簡単にばらばらになってしまうような、しっかりと煮込んだチキンが入っているのが「新宿中村屋」のインドカリーなのであって、昨日のそれは、煮込みが全くといっていいほど、不足していた。

ただ、このカレーの腹持ちはたいしたもので、わたしは夕食時全く食欲がわかなかったのだが、それって、良いことなのか、と疑問にも思う。
つまり、単に消化が悪いだけじゃないのか。

その後、あんまり暑いので、タクシーで浅草へ戻ることにしたのだが、何の因果か、タクシーに乗るなり、「新人なので道がわかりません」、とタクシードライバーにいわれてしまったら、乗客(わたしは)はお手上げじゃないか。

でも、最近のタクシーもよくしたもので、ナビが付いている。
なので、浅草公会堂まで、と行き先を告げたら、後はナビ任せなのである。

ただ、ナビは馬鹿正直に渋滞の高速道路へまっしぐらなわけで、わたしは「ナビのバカ」と心の中でほくそ笑む。

だいぶ時間を浪費しての浅草着後、ふてくされた高校生のように、まっすぐ家には帰らず、喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら、タバコをたて続けに吸う。

なぜなら、六本木ヒルズは、タバコを吸えるところが極端に少なく、わたしのニコチン欲しい度は、極限に達していたからだ(タクシーの中でも二本ほど吸ったのだが物足りなかったらしい)。

その後一旦自宅へ戻り、雑用を処理し、夕方、上野へでかけた。
「絵のある風景」という、行きつけの焼肉屋で、全く食欲のわかない晩餐をしていると、制服を着用した女子高校生の一団が入店してきた。

わたしの感性だと、女子高校生の集団と、脂ぎるオヤジばかりの焼肉屋というのは、まったくのミスマッチなのだが、これも、ルネ・マグリットの青空遊びね、と思えば、食欲不振のわたしを、楽しませてはくれるのだ。

ただ、これは、夢の世界でも、無意識の次元が生み出した幻想でもなく、しっかりと現実なわけで、わたしはひそかに、彼女たちがビールで乾杯することを期待していたのだが、やはりジュースで乾杯なわけで、それはそれで、逆にまったくリアリティのない集団を作り出すには充分な威力があったわけで、その後は、完全にわたしの興味の対象外となってしまったオヤジ娘たちなのだった。

食欲のわかないわたしは、塩冷麺なるものを食してみたけれども、やはり、どう考えても、そもそも塩冷麺であろう盛楼閣のそれには、及びもつかなく、半分ほど残した。チキンベースとテールベースでは、スープの濃厚さがまったく違う。

日が落ちたら、ことのほか気温は下がり、帰ろうとした午後8時、丸井の電光掲示は26℃を示していた(あっという間に10℃ほど気温が下がった)。

自宅へ戻り、サッカーをTV観戦。
スタジアムで応援するサポーターといわれる方々には、全くリアリティを感じることはできず、ポカリスエット1リットル一気飲みの後、最近お気に入りのKIRIN903を飲む。

益々胃袋は膨れ上がるり、今朝は新三共胃腸薬を服用する。

今日は、お客様がお見えになり、IT化の打合せ。

2004/07/13 (火)  
【今日は六本木にいってくる】

6時起床。
東京は、今日は猛暑の予定。

昨晩は、久しぶりに電気ブランを飲んだせいか、あっさりと撃沈してしまったので、目覚めも早かったわけだ。(二日酔はない)

今日は、朝から六本木行きなので、朝からばたばたなのである。

最近、
「私はこれまで何語を話してきたんだろう?」と、
日本語の勉強を始めました。

懇親会の席でもお知らせしましたが、
気まぐれまみ日誌↓をはじめました。
http://www.uemurakk.co.jp/calen/2004/july/diary.html
ちょっと続けてみます。

では

★・:__________________

植村建設株式会社
http://www.uemurakk.co.jp/

葉月会の紅一点である、植村真美さまからのメールである。
ずっと続けてみていただきたい。

ということで、今日こそは、髪の毛をカットしたいのだが・・・。

2004/07/12 (月)  
【情報化(デコード)】

7時起床。浅草は薄曇。
今日も30度を越える暑い一日になる予定。

今回の参院選は、自民党の敗北であろう。
安倍幹事長の引責辞任は避けられないだろう(読売新聞によれば、9月辞任だそうだ)。

だが、それは、今回の選挙で躍進した民主党を、手放しで支持する方々が増えている、というわけでもあるまい。

つまりは、反(現在の)自民党勢力台頭なのであろう。

本来、自民党という保守的な政党は、地方の声を代弁する、という意味でも、軍事よりも経済という意味でも、ある意味リベラルさを兼ね備えていたわけで(吉田茂を見よ・・・といっても彼は政党はどうでもよかったみたいだが)、現首相のタカ派振り(というか、パックス・アメリカーナ一辺倒の視野の狭さに)嫌気がさしているに過ぎないのじゃないだろうか。

まあ、現首相の(国民を軽くあしらうような)驕りも、盛者必衰のパターンに、きっちろとまり込んでいるのであろう。

たぶん、国民の多くは、彼(現首相)の言動を、そうデコードしている。


さて、昨日帰宅すると、息子は熱を出して寝ていた。
夏風邪らしい。

皆様も気をつけられたし、なのだが、それでわたしの予定も変更となり(ほんとうは出かける予定でいた)、自宅待機となったので、思いっきって隙間をつくろうかと、10日に行われたNOAHの東京ドーム大会のPPVを、ただぼんやりと見ていた。

隙間とは、脳味噌のクールダウンのようなもので、これは、最近、意識的につくるようにしている。

例えば、反省の次元になにも送り出さないような行為、ただ、ひたすら一方的にメッセージを受けそれを情報化する(情報化というのは、デコードのことで、他者からのメッセージを心理的な表象として「私」が取得することだよ)ような行為のことだ。

だから、試合内容については書かない。
ただ、高山が解説席でいったひとこと、「小橋は丈夫です」が、妙に合点がいってしまったし、確かに小橋VS秋山はそういう試合であった。

それから、この試合を実況していたアナウンサーが、秋山のことを、盛んに「表現する」ということばを使って「表現」していたが、確かに小橋VS秋山はそういう試合であった。

ということで、今日は源泉所得税の納付日、事務処理日。
夕方、来客。

ちょっと髪の毛をカットしたい気分。

2004/07/11 (日)  
【葉月桃塾最終回レポート】

By まにあ・1号さま

葉月桃塾最終回・参加塾生選抜による各社の表現

●砂子組(金子さん、近藤さん)

<発表概要>

かわいい子には旅をさせろ!から始まる、解説、説明なしのすべてを、音と映像と文字だけのPPTで表す「表現」。

桃知さんとの出会いから「旅」は始まった・・・・。自分たちのIT化のあゆみ・取り組みを「旅」にたとえて、その「旅」ごとに、気づいた事、学んだ事、感動した事をイメージにして表現。

旅を通じて各職員という「個」が変化することで会社と言う「種」が変化すると言うことを学んだ。と結ぶ。

<発表所感>

砂子組さんのすごいところは、「旅」を通じて学んだ事を何かしらの「形にする」つまり、学びっぱなしではなく、実践に結び付けてしまうと言うところにある。実践することで各職員が変化(成長)してゆく様が感じられて「熱さ」というか「エネルギー」を感じさせてもらえる、すばらしい発表であった。


●松浦建設(森さん)

<発表概要>

IT化の歩みを時系列にそって概観「個の変化、向上」による「種」としての企業の存続を目指したIT化への取り組み。

社内イントラと社外HPがその大きな柱である。

HPは社内イントラで各社員がそれぞれのページを持ち自分の言葉で自分を語る練習をする。その中でよい書き込みがあった場合、それを社外HPにアップし3日以内の更新を目指す(更新しないとすぐ飽きられる)

顧客のニーズをつかみ対応することをIT化のひとつの目的とする。顧客ニーズはミームなので変化する。変化に具体的に対応し追従する事は可能。

顧客に信頼される建設業者とは・・・(顧客の住宅建築に対する)能力と意図両方の信頼を備えている業者であると位置づける。

個々の資質を向上させる事で会社の発展があるのである。金やモノでつると(長続きしないし、習慣化すると返ってってやる気をなくす)

訴えかけるのは心であり、「モチベーション」をどうやって持たせるか?である。たくさんの引き出し(マリアビリティ)をもてる人間になろう!と結ぶ。

<所感>桃論の重要なところをきちんと押さえて、それを忠実に実践しようとする松浦建設さんの取り組みには真摯な姿勢が伝わってきた。

発表の最後にギターでの弾き語りを入れて、会場に手拍子を求め、一緒に歌わせてしまう森さん独演会状態。

今まで、ITの事例発表などを数多く聞いてきたがこんな型破りで楽しいものは初めてである。

「感動を与える発信者」最高だった!!!!

●神部組(後藤さん)

<発表概要>

自己紹介を兼ね、自分は「痔主」であるという簡単な自己紹介から、自分とIT化のかかわりについて語る。

HP紹介・イントラ紹介特に初めて1ヶ月もたっていないイントラの紹介は、各社員が和気合い合いと、「自分を語る」事をしている姿がにじんで来る。

総務部長の夕焼けをとった「練習発信」や、スープカレーVS納豆チャーハンVS焼肉という「食べ物論争」といった、楽しい話題満載のコミュニケーションが行きかっている。特にスープカレーには桃知さんが乱入し、また納豆チャーハンは神部社長自らが作成・撮影・イントラにアップをしている。

自分たちは自分自身の表現形としてのIT化を目指したい!と結ばれる。

<発表所感>

緊張で足が震え、汗をいっぱいかき、のどがカラカラに乾き頻繁にお茶を飲みながらの真摯な熱弁は聞くものの心をぐっと捉えるものがあった。

はじめて一ヶ月という短期間でありながら、実に楽しそうにIT化に取り組んでいる姿がとても印象的であった。何かうらやましさすら感じさせられた。

仕事の中身・現場状況報告を一切出さない事例発表は新鮮でよかった!

●植村建設(矢埜さん、木次谷さん)

<発表概要>

桃塾で発表を指名されて「どうしよう?」というところから始まった。

「お仕事連絡ネット」

ウチのサイボウズはつまらない。・自由に書けない・情報が流れていたとしても、読まない、理解できない人が多い・仕事の情報ばかりで息が詰まる。

他社のサイボウズは○仕事だけの情報でなく2ちゃんねる化している。○コンテスト。統計などをとり工夫している。○社員相互が助け合いをしている。

熟練工の伝承の仕方をデジタル化してゆきたい、そして地域限定型HPなどへ取り組みを発展させたい。

(木次谷さん)

人前で話をするのが苦手、小心者でテレ屋な自分の発表。

地先住民との付き合い方→とにかく話をする。あいさつではじまり→おはようございます→失礼します→あいさつで終わる

地域住民との雑談劇、とにかく地先とお話をする。叱られた先、怒られた先にこそ積極的に足を運ぼうとしようとしている。

<発表所感>

他社の事例を見、桃塾で学習した事と自分達の取り組みの現状を非常に冷静に比較し、何が足りないか、どうしたら良いかを真剣に考えている姿が伝わってくる発表。これこそ、「反省の次元」を体現している姿であり、今後の植村建設さんの「変化」がとても楽しみになる予感。

●カツイ(小林さん)

<発表概要>

創業以来の概要からIT化に取り組む流れ簡単に紹介

H13に桃知さんとの出会いがありサイボウズ導入した。

当初はカタく事務的な現場状況報告だったが最近勉強会などを重ねてゆくことで、アイデアや見るものを楽しくさせるような発信が出て来つつある現状。

発注者(施主)をイントラに招き、施主にも積極的に書き込んでもらい、イントラ上で打ち合わせをしたり、現場の様子を伝えたりという活動を行っている。こういう取り組みを通じ顧客に「安心」を買っていただく、と言うことを進めてゆきたい。

桃塾に参加して講師の各社に「個性的なミーム」を感じた。これからは新しい一歩を踏み出し始めてみたい。

1:協力業者の会との連携  PCスキルアップを目指した研修会、サイボウズ上で情報の共有、  営業情報の提供、見積依頼など。

2:施工検討会など・・・

社員個々のITを使った反省の行為「情報の発信共有化」→個の成長とカツイのミーム強化→ 市民の信頼→顧客満足度の向上。こういったところを目指してゆきたいと結ぶ。

<発表所感>

初めての発表、初めてのPPT操作とは思えないほど落ち着いた小林さんの発表態度であった。それゆえに非常に聞きやすかった。

桃塾に参加してのフィードバックを発表の中に盛り込み次のステップを具体的に組み立てているあたりは「動き出せ、えぶりばでぃ!」の実践そのもので非常にアクティブな姿勢と感じた。

●日成建設(今村さん、千葉さん)

<発表概要>

今村さん

個が変わらないと種が変わらない・・・これは、ITは関係なし。自分が変わらないと世の中が変わらないと言うことである。

自分が変わることで仕事が楽しくなる・・・世の中が広がってゆく。

千葉さん

地域交流地域住民との交流を深める取り組みを目指す。

本社として

・人の波街頭啓発運動・毎月15日踏み切りで街頭啓発運動を継続して展開・赤い羽根共同募金、会社を上げて募金活動 ・消化訓練、近隣の住民にも一緒に参加をもとめて・緑の街頭募金

現場として・現場見学会・地域に溶け込んだ交流

と言った取り組みを過去行ってきた。 

今年は少し傾向が変わってきた。・通学時間小学生の安全をサポート(基点側からの交通をストップ)・ゴミ箱塗装(地域の腐食し始めているゴミ箱を再塗装)

※地域の人たちにどうしたら喜んでもらえるかを考えることで、また、 地域コミュニケーションが出来てきてはじめてこういう所に目が行 くようになるのではないか・・・と、私、千葉は考える。

自分たちの取り組みを知らせる(表現する)事の重要性を学んだ。

現場や会社で取り組んでいることをどのように伝えるか!?デジタルとアナログ両方を使って。

大切なことは、現場の担当者がどう地域と関わっていくか?であろう。

現場の担当者が考え、気づき、実行する。そして、実行したことを広く知ってもらう。こんな点を目指してゆきたいと結ぶ。

<発表所感>

非常に堅実な取り組みと言う印象。決して目立たないが地道で着実な取り組みの様子がじんわりと伝わって来て好印象。

今村さんも、千葉さんも「とにかく自分が変わっていこう」と一致して述べられた点がとても印象に残った。

これからの日成建設さんがどう「変わってゆく」か、注目!


●岸本組 山下さん

<発表概要>

H13年より岸本組イントラスタート、岸本のIT化はここからスタート

HPを開設し・現場作業内容をHP上で公開。

特に現場HPを今回発表の目玉として紹介。現場の状況を紹介するだけでなく、発注者を交え「地域の為に」仕事をしている様を伝える姿を発表。

着工前の現場状況にカーソルを合わせると完成予想図がでたり、発注者を交えた、現場ミニイントラネットで「情報共有実験」をしたりと一歩先を行くIT化を目指している姿を発表。

自分と他人を大事にする・・・そんな事を感じ考えた塾への参加であった。と、結ばれた。

<発表所感>

決して派手さは感じさせないものの、非常に意欲的で工夫された取り組みという印象を受ける。特に発注者と真剣に議論しながら進めている実験的現場の取り組みは受講者にある種の勇気を与えてくれるのではないか・・と感じた。

●笹木産業 (佐藤さん)

<発表概要>

初めての発表、PPTに写真や絵などはまだ入れられない。これをひとつのきっかけとしてこれから「表現」に取り組んで行きたい。

サイボウズの紹介

・ある代理人の三食状況報告 朝、昼インスタント麺、夜、酒・酒のつまみ

・社内中古PCオークション デジタル阿弥陀くじ

などという、従来の笹木産業には無かったような雰囲気ができてき始めている。

今後の課題

全体的に書き込みが少ないので、今後の利用方法を、教育、啓蒙、してゆきたい。社外HPを8月をめどにアップしてゆきたい。

・情報の共有・社内交流は浸透・仕事の合理性には工夫が必要・掲示板に書くことで各自の意外性・書き込みを増やしたい

<発表所感>

初めてのPPT作成、操作、初めての発表という何もかもが初めてづくし・・という記録的(?)な発表との事。佐藤さんのまじめな人柄がにじんでくる味のある発表であった。

【 全体所感 】

正直、各社の発表がこれほどまでに個性的でバラエティに富んだものになるとは予想もしていなかった。

2ヶ月間、5回にわたる桃塾での「勉強の成果」が随所に現れてきて、全体の進歩を確実に実感できた。その例として・・・

●発表者および塾参加者の面々は「自分達の取り組みを自分達の言葉で語る」為に「自分達の取り組みを棚卸し、おさらいする」という「反省の作業」を行えた。

●そして、それを「発表する」という事で桃知さんのいう「フィードバックループ」 に自らを乗せられた。そして、懇親会という場で、自分達の発表がどのように受け とめられているか・・という「他人に受け止められる自分」と言うものを実際に 体感する機会に恵まれた。

という点があげらられる。つまり、発表者は「さいころいってき」・・・自分自身に何が変化としておきるか、全く予想できないこと・・・を体験出来たという事があげられる。

さらに、

●発表者がそれぞれ「種(会社)と個(自分)」「企業のミームと自分のミーム」 と、口をそろえて表現されていた。そして、自分が変わることで周囲も変わりうる という可能性に言及していた。

と、言う点もあげられる。

塾生のみなさんがそれぞれに「反省の次元」「種と個」の理論、そして「ミーム論」を真剣に受け止め考えて来た姿が見事に「表現」されていた点におどろいた。

個人的には大成功の場であったと考えるとともに、「これで終わらせてしまうのは余りにもったいない」という感を強くした。塾生の皆さんがこれからどのように進化(変化)し、種である企業の変化を促してゆくか、引き続き一緒に学んで生きたいと強く感じた。

ということで、今回の表現の時間、わたしの選んだチャンピオンは、神部組の後藤さん。

心臓の行動までが聞こえてくるような、表現は、わたしにも、忘れていた何かを思い出させるに十分な「剥き出しの魂」であった。

ご褒美は、桃知商店暑気払いへご招待である。

ということで、今朝の札幌も寒い。
昨日の千歳は、霧で、着陸できずに1時間も空中待機だったし・・・。

まあ、これから暑い東京へ戻るわけで、東京へ戻ったら戻ったで、また、北海道が恋しかったりするのだろうなぁ。

2004/07/10 (土)  
【四万六千日】

午前5時10分起床。
浅草は、今日も元気だ。

昨日から、浅草寺は、ほおずき市で、今日は四万六千日である。

四万(しまん)六千日というのは、観音信仰で、7月10日の縁日に参拝すると、その日の功徳は普段の46000日分にあたる、ということらしく、昨日も大変な参拝の方々でにぎわっていたけれども、今日は、さらに大変な人出だろう。

ぎらぎらとした夏の日差しの下で、縁起物としてホオズキが売られ、境内も仲見世も、どこもかしこも人だらけ、という風情は、これも浅草、わたしは大好きなのである。

さて、昨日は、ほんとにまじめに(笑)仕事をして(二度ほど息抜きに外へは出かけたが)、予定しいた仕事は8割がた終えることができた。

それで今日は、少し安心して札幌へ向かうことができる。

今日札幌では、葉月桃塾の最終回が行われ、受講していただいた会社さまから、9社の方々の表現の時間がある。

これは非常に楽しみにしている。
表現方法は自由とした。(笑)
だとすれば、是非、意表をついてほしい、とも思う。

表現をすることを、わたしは、IT化実践のの中核においている。
それは、情報を見る能力(信頼)は、情報を発信する能力(信頼性)を高めることとの、共進化でしか高まらないからだし、我われのリアリティは、対人コミュニティからしか生まれないからである。

イントラネットを利用した、表現する、反省の次元を経過させようとするIT化は、これらの能力を高めるためには、うってつけの道具なのだ。

なにしろ、きわめて声の文化である建設業が、弥が上にも体験するテクストの文化、それがイントラネットなのである。

そしてこれらの能力は、ITを使う使わないに限らず、いつも我われの活動の基底を力強いものにしてくれる。

すなわち、これらの能力が、係数a(養老猛司)につながり、社会的知性(山岸俊男)につながるとき、この(個々人の持つ)能力は、あらゆる企業活動、組織活動の基底にあることがわかるだろう。

これがなくては、どのよなベスト・ソリューションさえも、その本来の機能を発揮することはない。

なぜなら、ベスト・ソリューションは、人間が動かすものでしかかないからだ。

そしてこれらの能力は、個人の財産であることで、即、その個の属する種の財産なのである。(種の論理)

だから問題は、このIT化へと向かう人間のエネルギー(若しくはきかっけ、インセンティブ)なのだけれども、それは我にあることはいうまでもないが、すくなくともなんらかの外的起爆装置は必要である。

その外的起爆装置になれるか否かが、コンサルタントとしての、わたしの評価だろう。

だから、わたしが関わっていながら、起爆しない人がいるとすれば、それは、わたしのコンサルタントとしての能力不足故であり、それは、わたしの係数a(養老猛司)、社会的知性(山岸俊男)の貧弱さに由来する。(であれば、わたしは、職業人としてなにをすべきかは、明確なのである)

ただ、最初から毛嫌いされて、コミュニケーション不可能であれば、どうしようもないのは事実なのだけれども。

今日の講義、わたしによる最後のまとめは、総評としての、このIT化論なのだが、結局は、この個々人の能力の向上のためのIT化論に収斂する。
だから最後は、こうして表現の時間にしてみた。

このあたりは、従来というか、既存のIT化パラダイムから脱皮できない方々には、まずは理解不能であろう。

つまり、情報がミームであることを理解できないと、そして、ミームが何物かが理解できないと、IT化は、従来のパラダイムの中で息苦しく閉塞するだけで、実践にリアリティがないか、幹の無い、経済的(?)枝葉理論に翻弄される。

まあ、閉塞することを、わざと狙っているとしか思えないIT化もあるけれど・・・CALS/EC? (笑)

ということで、今日のわたしは、ANA 053 東京(羽田)(08:00) - 札幌(千歳)(09:35)に搭乗なので、遅くても7時には、自宅をでなくてはならない。

なので、今朝は、ここまで。

2004/07/09 (金)  
【おやすみビール】

午前7時起床。
二日酔は、三日酔いにはならず、快調。
浅草は、相変わらず、猛暑の予感。

 ええと、本日昨日のメールに書きました銀河高原ビールの「おやすみビール」を
デパートでみつけましたので、お送りいたしました。今日(7/7)に手配しましたので
7/8か7/9には届くと思います。もしかしたら12缶でも桃知さんには「一口」かもし

ませんが、どうかお飲み下さいませ。でも、みのさんの「顔が嫌い」という方には
ちょっと辛い飲み物かもしれません・・・・・・・・・


                       みるきい☆☆☆


ということで、昨晩、みるきいさんから、銀河高原ビールの「おやすみビール」が届いた。
ありがとうございます。

わたしは、もともと、この銀河高原ビールのファンであり、特に焼肉系、キムチ系との相性は抜群だと感じている。(一方、寿司の類には全くといっていいほどあわない)

盛楼閣のカクテキとレバ刺で飲む銀河高原ビールが、わたしベスト・オブ・オールなのである。

しかし、昨日は、二日酔の延長系の延長系の為、酒類はまったく受付不可であり、残念ながら、この「おやすみビール」は試せなかった。

ということで、(↓)が、みるきいさんからの前日のメール

 さて・・店主戯言で「さらに、銀河高原ビールには整腸作用があるようで、」と書
かれて
いますが、「銀河高原ビールはお腹だけでなく身体にいい」と現CMの「みのもんた」
さん
もおっしゃってます。私もビールは不得意ですが、銀河高原のヴァイツェン生だけは
いくら飲んでも身体が冷えにくいのか悪酔いしないし、ビールを飲むとそれだけで
お腹一杯になるのが、ヴァイツェンだと食欲が逆に増します。
 そうそう、今度銀河高原ビールでは135ml小缶の白ビールをおやすみビールいう名

で発売するそうです。寝酒として健康にいいビール酵母たくさんのビールを・・とい
う事だ
そうですが、いやー、色々な売り方があるものだと感心しました。

 さて・・・前に桃知さんが書かれていたじゃじゃ麺の事ですが、考えたら40歳以
上の方
ではじめてじゃじゃを食べるという方が一番に抵抗をしめすのはやはりあの「見た
目」
ですね。味噌とぐちゃぐちゃにまぜたあの「見た目がおいしそうじゃない」という声
が圧倒
的です。逆に若い子が素直に食べるのは普段からジャンクフードを食べ慣れている
上に「プリンに醤油をかけるとウニの味がする」(*_*)など味噌をまぜた麺に酢をか
ける
といった一般的でない食べ方、またあの見た目に抵抗感を感じないからではないかと
思います。
 私は16歳から、家の子ども達にいたっては離乳食として(^^:食べさせていました
から
大好きですが、30半ばで盛岡にきた主人は今でも一切じゃじゃ麺を食べようとしま
せん(^^:

                    みるきい

じゃじゃ麺は、食べることはできなくはない、である。(笑)

ということで、今日は、昨日の失われた一日の穴埋めで大忙しである。
まずは、いつもの喫茶店でモーニングから始めよう。

2004/07/08 (木)  
【二日酔の延長系の延長系】

午後6時を過ぎてもまだ、頭が痛い。
ポカリスエットの1リットル一気飲みが功を奏したのか、だいぶ楽にはなったけれども。

まあ、昨晩は、(焼酎を)飲んだ、といえば飲んだのだが、でもそれは特段量が多かった、というわけでもないので、つまりいつものことなわけで、肝臓のアルコール分解機能が衰えているのかもしれない。

毎回二日酔になる度に、今度は気をつけようと思うのだが、わたしはこうして毎回同じ後悔を繰り返すわけで、こういうのを馬鹿というのだろう。

そして問題なのは、今日の予定が全くこなせないことで、日が落ちたら、ごそごそと動き出そう、とは思うのだが、生産性の高い仕事ができるわけもないだろう。

桃知先生へ

横浜を拠点にしている関係で、これ幸いと横浜でのセミナーを拝聴させていた
だきました。
久しぶりにお顔を拝見しましたが、半年前より引き締まった精悍な印象を受け
たのは、日焼けのせいだけでしょうか。
セミナーも、よりエッジの効いた展開で、改めて刺激を受けましたが、
特に今回は、IT化の根幹部分について、今までとは違う、一種の確信に近いも
のを感じました。

セミナーの内容を私が整理しても伝えきれるものではありませんので、言及し
ませんが
「(学び)考え」「提案し」「実行し」「反省する」の繰り返しの中で培かっ
てこられたIT化論は力強く、
建設業界を超えて、情報化社会のモデルとして広く伝えたいものです。

残念ながら、私には先生のようなアプローチはできず、枝葉のIT化サポートが
精一杯ですが
サービスの根底に、先生のIT化論を持ち続けていたいと考えています。
今後ともよろしくお願い致します。

ホームページを立ち上げました。出来ればリンクを貼っていただけますでしょ
うか。
URL http://www.3wing.jp

浅草桃塾 岩田

岩田さん、いつもありがとう。
ということで、昨日の講演用PPTをダウンロードのページに置いた。



【二日酔の延長系】

正午に目覚める。★\(^^;
浅草は・・・暑い!

二日酔である。
もう少し、元気になれば、更新する・・・かもしれない。m(__)m

2004/07/07 (水)  
【うにのようだ】

午前5時に目覚める。
今朝の浅草は、朝から空気が重そうだ。

今日は横浜で講演
講演後、一旦帰宅して、夜はシェルパの高松氏ご一行と一献の予定。

くりちゃんから。

おはようございます。

スケベ心、ですか。

ももちさんが書くと、めっちゃいいことばだ・・・(笑)

8/7の暑気払い、行けそうにありません。
もう、みなさんとっくに申し込んでそうですね・・。

せっかく、たくさんの人に会える場なので、
残念なのですが・・。

来月で、くりごはん、一年になります。
自分で、こんなん書こうとか思ったことや、
調べようと思ったことが、けっこう山盛りあるもんだなぁ、
と、思いました。

くりごはんを作ったら
おもろいことも、ちょっとへこむことも、
まぜこぜで、ありましたが、
まだまだ、続くかなぁ、と思います。

できれば、うまくは書けないことが
書けたらいいなぁ、とか思います。

つくろえば、誰か傷つけたり、してるんだろな、と
思います。

ことばは、難しく、でも、
とってもおもしろいなっ!

そんなわけで・・・

では、どこかで股〜(^_^)☆

くり

「スケベ心」というのは、生きることというか、欲望に対する執着のようなもので、こいつは時々暴走するのだが、他人さまに迷惑をかけない程度なら、暴走しているぐらいが、わたしの場合丁度であって、これがおとなしくなると、とたんにウツになるわけだ。

しかし、難しいのは「他人さまに迷惑をかけない程度」なのだ。
これは、『話し手は相手から反転した形で自分自身のメッセージを受け取る。彼の行動の「本質的な副産物」という形で、つまり意図しなかった結果として、主体のメッセージの真の実際的な意味が、主体自身に返されるのである』でしかはかれないわけで、そのために(他人さまに迷惑をかけないように)、わたしはできる限り、全ての事象を反省に送り出そうと努力はするのだけれども、いかんせん、わたしの外胚葉の延長系は、時々それを許さなかったりするので、やっぱり、わたしはややこしく暴走する。

このややこしい暴走は、また自己嫌悪を生むのだが、そんな状況の中で、まだ精神分裂症(笑)にもならず生きているのは、現実の中で、擬似的ではあるが、(一時的に)答えをだしてしまう、という問題解決方法を行ってはいるからなのだろう。

まあ、その答えも、フィードバックの入り口といえばよいのか、つまり骰子一擲なわけで、本当の問題解決になっていないことを百も承知はしている。
それは逆説的なのだが、問題解決になっていないことを自覚しながら、擬似的な答えを出してしまうことで、救われてはいるのだろう。

このややこしい多様体の隅々までのできる限りを反省に送り出す。
→ハイブリッド


昨日は、岩手県の電気関係事業所団体さまの共同プロジェクト最初の打合せ。
次回の訪問は8月下旬。

このときは既に、動き出せ!えぶりばでぃ!の実践になる予定なので、それまでは、可能な限りの準備段階なのである。

段取り八分とは、昔の人とは、うまいことをいうわけで、如何で偶然を破棄すべき、は段取り八分からしか生まれない。準備は大事なのである。

じゃ、残りの二分はなにか、といえば、それは走りながら考える方法のようなもので、フィードバック・ループのことだろう。

そのフィードバック・ループは、現実の重み、身体で覚える、をつくるわけであり、つまりは、動き出すことでしか始まらない、と。

さて、わたしの場合、このプロジェクトに限らず、選挙明け、とか、お盆すぎから、本格的に動く予定が目白押しなので、この時期の準備はとても大切なのだけれども、しかし、ん〜、今日は脳味噌に火が入らない。まるで、脳味噌がうにのようだ。

自分自身を思うようにコントロールできないのは、もう40年以上経験してきたところで、慣れてはいるのだけれども、もう少しなんとかならないのか、と、こうしいていつも自己嫌悪なのであるが、まあ、下手な考え休むに似たりなのだ、と擬似的に答えをだす(一応走りながら考えてはいる)。(笑)

しかし、こんな按配で、今日の講演は大丈夫なのだろうか、とまた、骰子を振り出す。→PPTを再構成してみよう。

2004/07/06 (火)  
【@盛岡】

桃知@盛岡にて、6時45分ごろに目覚める。

FOMAは260K 程でていて、そこそこ快適。
H"は20K程しかでないので論外。

体調が今一なこともあって、昨晩は早めに眠ってしまった。
なので、今朝は、すこぶる元気ではある。

昨晩は、いつものように、向井田さんと、下河原さんと、工藤さんとで、盛楼閣にて冷麺と銀河高原ビール。

この冷麺は、何時食べても飽きないのだから、つくづく不思議なのである。

さらに、銀河高原ビールには整腸作用があるようで、今朝のわたしの腸は、勾配79度の配管のように、快適なのである。★\(^^;


さて、長谷川紀子社長の講演会がある、中堅・中小企業IT化展(http://www.ric.co.jp/expo/it2004/cust_confer_all.html)の「招待状」が20枚ほど手に入ったので、必要な方がおられれば、店主へメール でご請求ください。
早い順で、お一人様5枚まで。送り先を忘れに記載のこと。


本日は朝から仕事なので、これから、シャワーを浴びて、朝食をとり、やる気を充満させて、出かけよう。

気がつけば、一昨日で46歳になった。
四捨五入しらた50じゃないか。

失われた20年のツケは大きいのだけれども、あとどこまでやるのか、できるのか、と思うと、一日一日を大切にせざるを得ない。

それは、己に、未練というか、スケベ心があるからだろうが、わたしは、刹那的に生きようとも思わない。

ただ、骰子一擲 如何で偶然を破棄すべき。
偶然は破棄できない。
しかし、如何で偶然を破棄すべき。
若しくは、如何に偶然を楽しむのか。

2004/07/05 (月)  
【暑気払いのご案内】


暑気払いのご案内なのである。
バナーまでつくったのである。
専用ページはこちら(↓)。
→2004年桃知商店暑気払いのご案内

みんな来てね。

------------------------------->8

■暑気払い
日 時 平成16年8月7日(土)
     17:00〜19:00
場 所 フラムドール
     東京都墨田区吾妻橋1-23-1
     スーパードライホール 1・2F 03-5608-5381
     【ぐるなび】 http://r.gnavi.co.jp/g242901/
会 費 7,000円(お一人様)

■申込はこちらのサイトから
 http://www005.upp.so-net.ne.jp/momoti/mailto040807.htm

■電子メールの場合は、
 pinkhip@dc4.so-net.ne.jpまで
 氏名
 メールアドレス
 住所
 会社名
 電話番号
 暑気払いへの参加の旨 を忘れずにご記入の上お申込ください。

申込多数の場合には、締め切り前でも申込を終了させていただく場合がありますので、あらかじめご了承ください。

------------------------------->8

ということで、今から体調を整えなくてはならない。(笑)


昨日は、かっぱばし本通で開催されている下町七夕祭りへでかけた。
このお祭りは、地元の商店街の方々の主催で、いわゆるテキヤさんはいないのだ。

わたしは、テキヤのいるお祭りは好きなので、やはり、なにか物足りないなぁ、と思うのだ。

ところで、七夕の伝説については、すっかり忘れている。
男性の星と女性の星が年に一回遭遇すると、そんなことしかわかっていないので、Webで探したら、こんなサイトがあった。

→七夕伝説

ということで、今日のわたしは盛岡へ。

2004/07/04 (日)  
【法大EC 第6回目】

使用PPT → HELP0406.zip

浅草は今日も快晴。
今朝のわたしはだいぶ調子が戻りつつある感じがする。

というのは、昨日のわたしは、風邪気味で喉の調子は悪く、頭は痛いし、それはまるで目の奥から湧き出ているような感じで、体調的には最悪だったのである。

なので、懇親会では、「眠い」しか喋らず、最低の存在なのであった。
みなさん、すみませんでした。m(__)m

さて、法大EC最終回については、明日にでもまとめて書きたく、とでも書ければよいのだが、昨日書いた、「まとまらない」が、じつはその内容なので、改めてまとめる必要はないだろう。

なので、わたしが、なぜこんなことにこだわるのか、について、少しだけ。
まずは、以下のメールのやり取りから、それを読みとっていただくことはできるだろうか。

A木さまより。
先日の法大ECで、桃知さんがメビウスの輪の話をされていましたが、地場の中小建設業に当てはめるとどうなるのだろうとずっと考えていました。

他産業(製造業や流通・サービス業など)の場合、消費者のニーズを探り、ある仮説を立てて、新しい製品・サービスを市場に解き放します。

例えば、デジタルツーカーは、過剰スペックの携帯電話よりも、通話重視型のシンプルな携帯電話のニーズが高まったと判断し、余計な機能を省いた新製品を市場に出しました。それをメビウスの輪に乗せて、ぐるっと回って戻ってきたとき、売れれば「顧客は多機能の携帯電話に飽き飽きしている」という仮説が市場に認められたことになり、逆に売れなければ「やはりカメラなど多機能の製品を欲している」ということになります。

これに対して、中小建設業の主たる仕事である公共工事の場合、メビウスの輪に乗せて戻ってきても市場の判断はありません。(つまり、顧客の手ごたえがない)また、橋や道路の「製品開発者」は発注者=官公庁であり、建設企業はその仕様通りに施工するだけという問題があります。

発注者と受注者が一体となった「公共事業という産業」が、橋や道路をメビウスの輪に乗せ、技術革新によって納税者の求める社会資本を提供していけば、買い手が喜び、新たな社会資本の欲求が高まっていくのでしょうか?

一般市民が建設業を生理的に受け入れないのは「自分たち(消費者)が彼らの生殺与奪を握っていない」ことへのいら立ちです。他方、顧客が喜ぶいい仕事をした業者の受注が思うように伸びない不合理さも業界内部には内在しています。

これらを考えると、民間分野への進出しかないと思いますが、そこは取った取られたの厳しい世界です。やはり、「動き出せ、えぶりばでぃ」なのでしょうか?
長文でごめんなさい。

わたしの返信。
『中小建設業の主たる仕事である公共工事の場合、メビウスの輪に乗せて戻ってきても市場の判断はありません。(つまり、顧客の手ごたえがない)』
というのは、フィードバックの帯(ホントはレスラーの帯といいます)を、我われ自らが作り出していないからだけだと思うのです。

それは発想自体のパラダイムシフトができていないからで、このような視座に自分を置けば、だれでも閉塞してしまうのは、従前からのの指摘の通りです。これは必ず閉塞します。

なので、「発注者を貫き、市民社会へ届く表現」を提唱するのです。
これは、長谷川さんがいう、公共工事の素晴らしさを市民社会に伝えるのが平和建設のコア、というような発想であり、自らが「表現」することに対する、市民社会からのフィードバックを内包した帯を生むことが可能な視座だ、ということです。

それを、姿勢といってもよいかもしれませんし、表出した己の思想と考えてもよいかもしれません。

ただ、市民社会からのフィードバックを内包した帯においてこそ、「公共工事という産業」が「如何で偶然を破棄すべき」の「骰子一徹」が可能となるのではないか、とわたしは考えるわけです。
その骰子一擲の一擲が「発注者を貫き、市民社会へ届く表現」なのです。

でも、我われは、このような発想というか、視座というか、システムからは、かなり縁遠い表現ばかりをしてきた(強要されてきた)のも事実です。

その強要(主は誰もかまわない)の脱構築が、なかなか困難なことだとしても、我われは、あまり無理はできないとしても、できる限りの範囲で、その可能性を考えなくてはならないのが今の現状である、ということです。それほどまでに追い詰められているのは確かでしょう。

その可能性のためには、まず「公共工事という産業」という種に存在しながら、その種に溶けない個の存在を確立しなくてはならない、と考えています。
→それがハイブリッド。
→その為のIT化
表現の原始は、ここにある、わけで、それは企業でも個人でもです。

表現の射程を発注者(官)を貫き、市民社会に置くのであれば、それは民間も公共も同じ次元に存在することを意味するわけで、今のわたしには、公共も民間もたいして違いはないのです。

まあ、官という発注者=妖怪(種に溶解した個の集団)がいない分だけ民間の方が表現は「楽」でしょう。

が、逆に民間は価格のバリアがなくなってしまうので、マーケット・メカニズムがむき出しになり、そちらの苦労は絶えない、と。

田邉元の「種の論理」からのインスピレーションである、この表現の考え方は、公共であれ民間であれ、全ての始まりは自分の始まり(表現の始まり)であることで、種と個とに同時におきるフィードバックを可能とし、個は種のミーム中で育ち、種は個のミームの変化による種の変化を内包していることを実感し実践できる、と考えます。

この時、「公共工事という産業」における種と個の関係は
・「公共工事という産業」という種
・建設業協会という種
・自らが所属する会社という種
・そして「私」という個 です。

ただ、「公共工事という産業」のもう一つの種と個である、官という種と公務員という種と公務員である「私」という個は、個が種の洗面器の中ににバターのように溶けていることで、今まで述べたようなパラダイム・シフトを受け入れられないかもしれません。
ただし、首長という個は、違う可能性があります。
(これについてはまだ深く考えていません)

そしてこの考え方では、(特に個の)変革のエネルギーは、自らの仕事への愛、プライドであることで、全ての「公共工事という産業」に働く方々が、失望したり自虐的にならずに、この変革の参加者であることを自覚できる、つまり「分離‐不安」を最小に押さえ、アノミーの発生を押さえ、全ての変化を自らの可能性として捕らえる(正のフィードバック、骰子一徹)ことのできる
そんな論理構築の可能性を、感じているわけです。
まだ中途半端なので、表現が未熟なのですが・・・。

A木さまの考え方は、ある意味ラカン的といえるかもしれない。
それは、我われは<他者>(環境、市民社会、顧客・・・)につくられたイメージに支配されてしまって身動きできない、と。

そして、『一般市民が建設業を生理的に受け入れないのは「自分たち(消費者)が彼らの生殺与奪を握っていない」ことへのいら立ちです。』

それが主因だとすれば、多くの建設業で働く方々にとってみれば、それは、昨日紹介した「最も悲劇的な具現化」であろう。つまり、

彼女は、本質的にはつつましい正直な女なのだが、まわりの男たちは一人残らず、彼女がそばにいるだけで道徳的に堕落してしまう。彼女自身はそれを見てぞっとする。

『ぞっとする』のは、自らが意図しない立場を与えられ、その与えられた立場に対してなにもする術がない、と思うからである。
→つまり追い詰められる。

それは確かであり、現状はそうだろう。
だが、わたしは、その現実を受け入れながらも、ただ、それを出発点(正のフィードバックの出口であり、入り口である、骰子の一擲をする場)として考えているだけである。つまり、なんにも諦めてはいないし、その必要もないと考えている。

なぜならこの現状でさえ、『話し手は相手から反転した形で自分自身のメッセージを受け取る。彼の行動の「本質的な副産物」という形で、つまり意図しなかった結果として、主体のメッセージの真の実際的な意味が、主体自身に返されるのである』という状態であるだけではないのか。

そしてその多くは偶然に支配されて、その偶然をつくりだしたのは「私」の(意識的、無意識的)な骰子一擲なのだ。

であれえば、「私」は、正のフィードバックの出口であり、入り口である、骰子の一擲をする場に、いつでも立っているに過ぎないだろう。

それを自覚すれば、その骰子一擲の「如何の偶然を破棄すべき」をすべく、「私」はもがける(正のフィードバック)可能性は大きいのだろう、と考える。

例え、『ぞっとする』ことがあってもだ。

つまり、『話し手は相手から反転した形で自分自身のメッセージを受け取る』のであれば、いつでも、その出発点は「私」でありえるのだ、と考えている。

であれば、問題は、「私」が出発点であるための自覚と次なる骰子一擲のためのエネルギーなのだ。
それは、あえて意図的に骰子の一擲をする、わたしの意志である。

それは、あくまでも個の持つエネルギーであることで、種に溶けている個(「私」)には存在できるものではない。
→逆説的には、そのような個を持たない種は普遍とはなりえない。
→自覚とは、個を認識する「私」であることで、種に溶けている個(「私」)には存在できないだろう。
→可能性があるとすれば、それは「宗教的な」自覚であり、外部からやってくるものでしかないのかもしれない。

最初の「自覚」で多くはつまずくだろう。
→種に溶けた個
しかし、それでもわたしは諦めないし、その必要もない。

そして、問題は出発点であるためのエネルギーの根源はなにか、なのである。
それをわたしは、「自らの仕事への愛、プライド」(につながるもの)でなくてはならない、と考えている。
→昨日のゲストスピーカー、サイボウズの青野氏流にいえば、「商品への愛」である。

それを否定する仕組みを開発主義の裏側の政策(「公共工事という産業」を生み出したもの)は内包していた。

それは企業が行う開発主義が、きわめて骰子一擲的であることの反作用のようにである。

なぜなら、それは、開発主義の裏側の政策のエネルギーの根源が、「現実界」(ラカン)からのものに、大きく支配されていたためだ、とわたしは考えている。

つまり、主体はみずからと分かたれ、それは「それ自体と異なっている」と、そして不満足で、欲望しているだけなら、それは情愛とか悲哀の愛、嫉妬、欲望、欲動とでもよべるものとなるのだろう( →「公共工事という産業」の技術のミームを支配しているもの)。

そして、我われは<他者>(Othere、環境、市民社会、顧客・・・)につくられたイメージ(消費のミーム)に支配されてしまって身動きできない。

この時、「公共工事という産業」の技術のミームも、<他者>の持つ消費のミームも、じつは根源は同じなのだ。

たしかに我われは、こうして<他者>(Othere)の「現実界」-<対象a>に支配されている、かもしれない。

でも、それだけじゃない、とわたしはそれを否定をしたい。
それだけじゃ、日本の近代(モダン)が開発主義の中で失速してしまったように、また、わたしのいう「公共工事という産業」の骰子一擲も迷走するだけだろう。

わたしはそこから脱構築したい、既存の正しいものを徹底的に批判したい。
「自らの仕事への愛、プライド」とは、そういうわたしの意図である。

今という時代(インターネット社会)は、再び遅れてやってきた近代(モダン)なのであろう。

そのモダンの中で、開発主義が生み出した「公共工事という産業」は、いまや居場所がない(第四象限でどぼん)。

しかし、そのモダンもまた歪んでいる。
我われは、まだ一度もモダンだったこともない、のである。

そこからどうやったら、「公共工事という産業」は、第二象限に居場所を移せるのだろうか。

つまり、「公共工事という産業」で働く「私」は、「自らの仕事への愛、プライド」を、どうやったら、今という時代に実感できるのだろうか。

開発主義の主役であった官僚は、個が種の洗面器の中ににバターのように溶けていることで、骰子の一擲の当事者であることを拒み続けている。(自覚はあろうが・・・)

であればだ、誰が骰子の一擲を行うのか。
そして、今はこういうしかない。

動き出せ!えぶりばでぃ!

しかし、その言葉も、まだわたしの思考の中では無責任(わからない)のモノなのである。
→「まだ中途半端なので、表現が未熟なのですが・・・」
(これがつながらないということだ)

そして、なぜにわたしはこんな風に考えているのか、といえば、わたしの現実の仕事は技術論でしかないからだ。(現実と現実界は違うからね!)

それは枝葉である。
枝葉であれば、それには幹があるはずである。

多くの「正解」をいう技術論は幹を知らない、空中に浮遊する枝葉である。
そこには「愛」がないのだろうと考えている。
→「商品への愛」(サイボウズの青野氏)

わたしは、枝葉を語り、枝葉で仕事をするが、それは、ちゃんと幹から生えている枝葉にしたいのだ。

ところで、砂子組の熊谷さんから、夕張メロンをいただいた。
夕張メロンはやっぱりおいしいのだ。
ブランドは伊達ではないのだろう。
メロンへの愛。(笑)

2004/07/03 (土)  
【本質的に副産物であるような状態】

なぜか9時過ぎに目覚める、という体たらく。
浅草は快晴なんだけれども、初秋を思わせるような爽やかさがある。

さて、本日は、法大エクステンション・カレッジの最終日である。
最終日といっても、『反古典の政治経済学要綱』は、きちんと読んでしまったわけではなく、二章と三章はまだ手をつけていない。

しかし、今日は一応の〆なので、ちゃんとしまるような、はなしにはする予定なのだが、じつはちゃんとは「しまらない」のである。

それは、わたしのせいである。
わたし自身がわたしの理論を(今回の一応の目安のところまで)まとめ切れていないのが原因なのだけれども(なぜそうなのかは、後述)、それで、今日は、〆切れなくてすいません、と最後に謝る予定でいる。

そして、当然にお詫びの補習は準備するつもりなのだが、ただし、開催日は未定である。

なぜなら、ある程度、わたしの中で、つながらないとだめなものがあって、それがつながっていなくて、だからつながるのを少々お待ちください、なのだ。(なにがつながらないのかは後述)

もしかしたら、結局つながらなくてごめんなさい、という補習になるかもしれない。(笑)

今日の内容は、前回の開発主義からの続きであり、そこからの発展系としての、コミュニティ・ソリューション、ソーシャル・キャピタル、信頼の構築、新古典経済学批判、CALS/EC批判(まあ、ここまでは『桃論』の範疇)から、「種の論理」(複雑系)→IT化論(桃論後)へとすすめるつもりではいる。

じつは、この桃論後で、ここのところ、ずっと引っかかっているのが、ラカンのいう「現実界」と<対象a>なのだ。

これについては、先月札幌で行われた、砂子組さんと平和建設さんの合同勉強会のときに、β版とでもよべるようなものを試してはいるが、まだまだ・・・なのだ。

少し長くなてしまうのだけれども、ジジェクの『斜めから読む』から、以下の引用を読んでいただければ、何がつながらないのかが、お分かりいただけるかと思う。
とても読みにくいとは思うが、是非に読んでいただきたく思うのだ。

ヒッチコックの映画における恋愛の役割に目を向けてみよう。それは、「無から」突然生まれ、ヒッチコック的なカップルの救済を可能にする、一種の「奇跡」のようなものである。

言い換えれば、恋愛は、ジョン・エルスターが「本質的に副産物であるような状態」と呼ぶものの好例である。すなわち、あらかじめ予想したとおり意思決定によって引き受けたりすることのできない、最も奥深い感情である(わたしは自分に対して「これからあの女性に恋しよう」とは言えない。あるとき、恋をしていることに気付くのだ)。


エルスターはそうした状態のリストを揚げているが、その中には「尊敬」とか「威厳」といった概念も含まれていいる。

もし私が意識的に威厳を保とうとしたり、他人から尊敬を集めようとしたら、滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだ―それらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動に直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。

そうした状態をもたらす唯一の方法は、その状態を目指して行動するのではなく、他の目標を追求し、それらが「自然に」生まれるのを望むことである。

たしかにそれらはわれわれの行動に属しているが、究極的には、われわれが何をするかによってではなく、われわれが何であるかによってわれわれに属している何かなのである。

このわれわれの行動の「副産物」にラカンが与えた名
前は<対象a>である。これは隠された財宝、「われわれの中にあって、われわれ以上のもの」、すなわち。われわれの肯定的特質のいずれと結びつけることもできないにもかかわらず、われわれの行動すべてに魔法のオーラを投げかける、捉えどころがなく、手の届かないX、である。

<対象a>を通じて、われわれは究極的な「副産物」状態、他のすべての状態の母体、すなわち転移の働きを捉えることができる。主体は、自分が他人の中にどのように転移を引き起こすかを思いどおりに支配・操作することはできない。

そこには常に「魔術的」なものがある。まったく突然に、自分が正体不明のを所有しているように思われる。そのによって、自分のすべての行動が色づけされ、変質させられる。

おそらくこの状態で最も悲劇的な具現化は、ハードボイルド探偵小説に登場する心優しい宿命の女たちだろう。彼女は、本質的にはつつましい正直な女なのだが、まわりの男たちは一人残らず、彼女がそばにいるだけで道徳的に堕落してしまう。彼女自身はそれを見てぞっとする。

ラカン的視点からみると、<他者>が登場するのはまさにそこである。「本質的に副産物であるような状態」とは、本質的に<他者>によって生み出される状態である。<他者>は、われわれの代わりに決定を下す代理人を正直に指名するのだ。

突然にわれわれがある転移的な地点を占める場合、つまりわれわれの存在それ自体が「尊敬」とか「愛」を抱かせるとき、この「魔術的」転移はなんらかの「不合理な」自発性とはいっさいなんの関係もないといえる。変化を引き起こすのは<他者>なのである。
ジジェク,p148-149)

ラカン(=ジジェク)的視点に立てば、我われの当座の問題である信頼とは、「本質的に副産物であるような状態」だと解釈してももよいのだろうか。

(しかし、山岸先生の言っている「一般的信頼」はちょっと違うような気もするが、本質的には同じか、信頼は<他者>によって決定されるのだもの「本質的に副産物であるような状態」とは、本質的に<他者>によって生み出される状態である・・・未解決というかまだちゃんと考えていないところ)

「本質的に副産物であるような状態」、それはつまり、人間の意志と行動の複雑系のことなのかと考えている。

話し手は相手から反転した形で自分自身のメッセージを受け取る。彼の行動の「本質的な副産物」という形で、つまり意図しなかった結果として、主体のメッセージの真の実際的な意味が、主体自身に返されるのである。

その際に問題なのは、一般に主体は自分の行動の結果生じた混乱状態の中に自分の行動の真の意味を見出すことができない、ということである。
ジジェク,p150)

つまり、信頼を得ようと行動すると、その最終目標とは別の、意図しなかった結果が生まれることがある。

信頼されるもされないも「偶然」に支配されているのか。
であれば、また骰子一擲に戻ればよい。

しかし、そこで問題になるのは、突然にわれわれがある転移的な地点を占める場合、つまりわれわれの存在それ自体が「尊敬」とか「愛」を抱かせるとき、この「魔術的」転移はなんらかの「不合理な」自発性とはいっさいなんの関係もないといえる。変化を引き起こすのは<他者>なのである、なのだ。

つまり、信頼を得ようとして行動しても、そこには信頼は宿らないのである。

であれば、その<他者>によって変化を引き起こされた主体の立場は不変なのだろうか。それもまた違うだろう。ただし相当強力なバイアスは働くが。

なにせ、それを決めているのが<他者>(市民社会とか顧客とか読み替えてみればよい)であればだ。

わたしの、動き出せ!えぶりばでぃ!(これは意志を問題にしているのだが)は、<他者>によって変化を引き起こされた主体の立場からの行動なのだけれども、これは、「信頼を得ようとして行動しても、そこには信頼は宿らない」というパラドックスを孕んではいる。これが問題なのだ。

だからこのパラドックス(現実界を根源とする)からの脱却には、現実界の存在を認めた上で、<対象a>の存在を認めた上で、骰子一擲と、種の論理と、インターネット社会(わが国では遅れてやってきたモダン)とを、どう重ね合わせて、繋ぐのかを考えているのだが、それがまだできていない、ということである。

ということで、じゃぁまた。

2004/07/02 (金)  
【お茶を濁す(時間を稼ぐ)】

某所にて午前6時30分起床。
快晴。
今日は午前中にお客様があるので、早めの新幹線で帰らなくてはならない。

なので、今朝は大盛さんからのメールを転用させていただき、お茶を濁しておこう。
続きは、浅草に戻ってから書く・・・かもしれない。

桃知さん,お疲れさまです。
大盛です。

2004/07/01 (木) の戯言より

>もっと勉強しなくちゃいけない時代に(つまり若い頃)、もっと勉強しておけばよかった。
>しかし、学校の勉強はつまんなかった。
>勉強してこなかったのは、しょうがない。
>じゃ、今から勉強しようじゃないの、なのである。

この言葉,大好きですねぇ。
自分は高卒で今の業界にいますが,歳を取るにつれ,勉強に対する意欲が湧いてきています。

自分の専門はもちろんですが,例えば普段使う語句にも,この語句にはどう言った意味が含まれているのかを意識して考えるようになりました。
これは学生の頃,机に向かって参考書を開いて勉強とはまた違うのだと思います。

また,昨日勉強したことが明日使えるかと言えば,そうでもないのですよね。
知らないなら知っておこう!といった感じですね。

己の容量を知り,それに見合った勉強をし,脳みその中にきちんと整理して保管し,使える時にその引き出しを開ける。
自分はこの作業ができるようになってから,枝葉の付いた勉強ができるようになりました。

また,歳を取ってからは,高校・大学に入る・・・・といったゴール(答え)のある,強制的な勉強から解放され,ゴール(答え)はない,でもいつか使えるよ,といった自由奔放な勉強になったのも,意欲が湧く原因の一つにもなっていると感じます。

>しかし、学校の勉強はつまんなかった。
>勉強してこなかったのは、しょうがない。

自分も学校の勉強は面白くありませんでしたたし,好きな科目以外は見向きもしませんでした。
勉強できるヤツよりも「べったん(めんこ)」の強いヤツの方を尊敬してましたし,
勉強で赤点取るよりも,好きな女の子にフラレる方が大事件でした。

いつもするのが勉強ですし,できる時にするのも勉強ですね。
自分ももっと勉強しなあかん・・・・・
と・・・・思いました。

つうことで,失礼します。

2004/07/01 (木)  
【最近の読み始め】

7時12分起床。
浅草は曇り。今日も暑そう。

FOMAのカードをP2402に交換した。
今まで使っていたP2401をPCのスロットに差したままにしておいたら、ひびが入ってしまって、まったく通信できなくなってしまったからだ。

ポイントを使っても、19530円也の出費。

そして、たぶん同じ原因なのだろうが、X30のPCMCIAのスロットもバカになってしまっていて、エジェクトが効かないのだ。
今や、無理やり手で抜き取っているのである。

面倒でも、カード類は、スロットから抜いて持ち歩いてモバイルしましょう、ということなのだろうが、わたしは、懲りもせず、H"のカードはいつも差したままなのである。


さて、最近「今読」をやっていないので、今日は、最近読み始めた本を紹介してみたく思う。


『斜めから見る』―大衆文化を通してラカン理論へ

スラヴェイ・ジジェク(著)
鈴木 晶(訳)

1995年6月20日
青土社

2730円(税込)




これは、読み終えるのかどうかは全く不明。
ラカンの勉強用に読み始めたのだけれども、ジジェク自身というかその表現方法自体が、とても面白い。
が、わたしの基礎体力(知力)の問題もあり、ほんとうに読み終えるのかどうかは全く不明。


cover 『日本の国という水槽の水の入れ替え方』.

岡 潔(著)

2004年4月19日
成甲書房

1995円(税込)




これは、まだ読みやすい(但し、仏教用語を除く)。
岡潔は数学者であり、なによりも愛国者であった人のようだ。

一般的にいっても、数学者の書いた数学に関するもの以外の本は、面白い。
それは、ある意味当たり前なのだが、彼らが数学以外のはなしをするとき、哲学者がすっぴんの思想を表現しているようなものだからだ。

岡潔の文章も、けれん味はなく、論理的でもない。
だから哲学的でもない。

たぶんそれは、わたしの岡潔への興味の対象でもある、彼が日本人的なものという「情」へのこだわり方に理由があるように思う。

『日本民族は情の民族である。人と人との間によく心が通い合うし、人と自然との間にもよく心が通い合う。この心を情けというのである。日本民族は情けによってつながっているのである。』

『この意味の情という言葉はフランスにはないし、和英によれば欧米にもないし、ドイツについては、フィヒテのさす方向にもあり得ない。』

『愛と情は違う。情は通い合うものであるが、愛は自他対立する。そのまま連続的に移すと憎しみになる。それで、仏教では一つのものとみて愛憎というのである。』(,p62)

岡は、ラカンのいう「現実界」から、「情」を分離してみせるのだろうが、わたしはまだ全然納得もしていないし、理解もできていない。

もし、この「情」が、田邉元のいう「剥き出しの魂」であるなら、わたしの頭の中ではつながるのだが、わたしは仏教に関する知識はまるでなく、これが理解の邪魔をしているように感じている。


cover 『常用字解』

白川 静(著)

2003年12月18日
平凡社

2940円(税込)




これは、漢字に人生をかけてしまった白川静がつくった辞典の廉価版。
辞典なのだが、わたしは暇なときは、これを読むことにしている。

漢字は、その姿形だけで、意味を持つという、なんとも凄まじい文字であることがわかる。
アルファベットも、ひらがなも、カタカナもそれはできない。

本読みながらの最近の反省(そして、一昨日の「杉」での一献のときにも出てきたはなしなのだが)。

もっと勉強しなくちゃいけない時代に(つまり若い頃)、もっと勉強しておけばよかった。
しかし、学校の勉強はつまんなかった。
勉強してこなかったのは、しょうがない。
じゃ、今から勉強しようじゃないの、なのである。

momo
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