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店主戯言(浅草的思考)051102 2005/11/16〜2005/11/30 "There goes talkin' MOMO"


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IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を伝える

2005/11/30 (水)  
【つかの間の非日常の空間】

午前7時起床。鹿屋は晴れ。

鹿児島空港から鹿屋に向かう途中、林さんのお心遣いで、道の駅たるみずの足湯を楽しむことができた。


錦江湾を望み、桜島と霧島を見ながらの足湯は、本当にすばらしい。

つかの間の非日常の空間

圧倒的な合理の圧力の中に
カッターで紙にちょっと入れた切れ目をずらしたように現れる
裂け目
公共事業は非日常を孕む

反転せよ

2005/11/29 (火)  
【使える弁証法】

午前6時30分起床。浅草はくもり。

昨晩は紀伊國屋ホールにて、玄田有史氏と松原雄一郎氏の講演を聞いた。
そのまとめは後日に書こうと思うが、質問の時間の内容が印象的だったので、それだけ紹介しておこう。

質問:学ぶ人間が自信を持つにはどうしたらよいでしょうか?

玄田:基本が大切です。基本を繰り返すことです。
たくさん小さな失敗を繰り返すことで自信は生まれます。
そして考えてばかりいないで、ある段階で思い切ることです。
あとはなんとかなる。ようござんすか。

「ようござんすか」はよかった。まるで田邉元ではないか(聞いたことはないが)。
そしてこの考え方は、「種の論理」であって、「骰子一擲」、つまり動き出せ!えぶりばでぃ!なわけで、わかる人はわかるでしょう。

さて今日は、鹿児島県鹿屋市まで出張。「考える技術」の勉強会だ。
ANA 623 東京(羽田)(1130) で鹿児島へ飛ぶのだけれども、余裕を持って家を出よう。今日は10時にエレベーターが止まる日だし。

さて、「考える技術」は「自我の弁証法」をベースにしているのは確かだけれども、わたしは、この「弁証法」という言葉をあえて使わないできた。なぜなら、なんだか毛嫌いされそうな言葉だからだ。それはまるでゴキブリ的なのであって、生理的に嫌い、というようなものだからだ(わたし自身がそう感じている)。

しかし、このところ「弁証法」という言葉を(こわごわと)使い出したのは、田坂広志氏が「使える 弁証法」という本を書いたからだ。単純なものだ。しかし、「使える 弁証法」かよ…… わたしなんぞ、とても怖くて使えない、なので「考える技術」(弁証法だけではないのよ)と勝手に名前をつけている(笑)。

使える弁証法使える 弁証法

田坂広志(著)

2005年11月25日
東洋経済新報社

1575円(税込)






昨日、amazonnに発注していたこの本が届いたので、早速を目を通してみた。久しぶりの田坂氏の本だが、三十分ほど読み終えた。反省の次元に送り込んで言葉を紡ぐことを知っている人なので、その文体はマラルメの詩のようだ。ただ難解な言葉も使わない人なので読みやすいと思うし、弁証法の基本はきちんと押さえてあるので、入門書として多くの皆さんにお勧めできるものだと思う。

わたしと田坂氏の言っていることはよく似ていると思う(当然に違うところもある)。それはわたしが田坂氏を真似たのでもなければ、田坂氏がわたしを真似たのでもない(そんなことは間違ってもありえないだろう)。

でもよく似ている。それは、思考方法の根底が同じようなものだからであって、つまり「弁証法」を使うと、まあ、こんな風になってしまうのよ、ってことだろう。

でも、この本を読んだからと言って、誰もがこんな考え方ができるわけではないし、これを自己啓発書のように読まれるのも厭だな、と思う。気楽に読んでもらいたいと思うし、「まじめにいい加減」に読んでもらいたいと思う。

「弁証法」(だんだん書きたくなくなってきた)の極意は「正・反・合」なのだけれども、つまりは中庸の思考なので、白黒はっきりさせたい人(ゼブラーマン)は、まったく納得できないし、この本への評価も低いだろう。今の時代にこれを使うと、答えは「わからない」か、「まあこんなものか」なわけで、世間からは反「改革派」(改革反対派)のレッテルを貼られることは覚悟しなくてはならない(笑)。(だからってどってことはない)

しかし、自分でいうのもなんだけれども、ゼブラーマン(改革派)よりは「未来が見える」のは確かだと思うし、市場は見えるはずだ(つまりミクロの領域でも使える)。じゃなかったら「考える技術」を伝える、なんてことはいわない。

ということで、本当は今日の出張のお供の予定であったこの本は読んでしまった。なので、久しぶりに古典を引っ張り出していこうかと考えた。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

マックス・ヴェーバー(著)
大塚久雄(訳)

1989年1月17日
岩波文庫

903円(税込)



この本は訳者である大塚久雄氏の解説がすばらしいのだ。文庫版で903円である(わたしが買ったときは850円だった)。解説だけ読むだけでも、お金を払う価値はある。たまにはこういう骨のある本を読んでみるのもいいですぜ。弁証法ではありませんが(笑)。

2005/11/28 (月)  
【法大EC2006若しくは今日の予定】

午前7時起床。浅草は晴れ。

法大EC2006の企画書は今日が締め切り。プランを練っていく中で、来年度の主題は「考える技術」にすることにした。つまり今回のわたしの「象徴の一部否定」は建設業という枠をはずす、である。

想像力
創造力
外部連関
内部連関
データベースモデル
経営
(マネジメント)
環境×原理
環境
(市場の見方)
マクドナルド化を中心に
近代化・資本主義化(開発主義)
インターネット社会とベキ法則
資本主義の精神とその欠落
合理性と非合理性とグローバル化
ハイブリッド
自我の弁証法
種の論理(超弁証法)
考える技術 原理
(ひねるために変えてはいけないもの)
合理性と非合理性
工作の時間
ひねり(ツイスト)
ボロメオの結び目
メビウスの帯
フィードバック理論
実践
(IT化)
反省の行為(コギト)
イントラネット
ウェブログ
郵便的誤配
骰子一擲
必然と偶然

「考える技術」は、もともとが「自我の弁証法」をベースとしているので、汎用性は高い思考技術だと思う。その「考える技術」を建設業に適応したものが、「建設業のIT化論」なわけで、建設業という枠をはずしても本質はなにも変わらないし、当然に建設業のIT化をやめたわけではない。ただわたしの考え方そのものを浮かび上がらせてしまおうとしている。

そして上の図のような曼荼羅を書きながら、講座内容の整理を進めている。たぶん5回程度の講座にまとまるだろう。受講料も可能な限り押さえ、「桃組」の皆さんと顧問契約先にはキャッシュバックによる割引も設け、法政大学の学生さんには特別優待制度を適用する等々、受講の「しやすさ」をいろいろ考えている。

しかし問題はキャッチコピーだ、これが難しい。今のところは『人が生きる、組織が生きる「考える技術」講座』が有力だけれども…。

ということで、この企画書をなんとか午前中にまとめ、その後12月2日に岩手県久慈商工会議所で行う講演のPPTをまとめ、レジュメの形にして依頼元へ送らなくてはならない(最近はめったにやらないのだがご要望なのだ)。

今回は建設業界向けの講演だが、どちらかというと民間マーケットの把握の仕方に主眼が置かれているので、上の曼荼羅で言えば「環境(市場の見方)」を主題として、補助的に「工作の時間」を使う、ということになるかな、と思う。

そして夜は、玄田有史×松原隆一郎 「働く若者に未来はある!」と題された、玄田有史氏の「働く過剰」の出版記念講演を聴きに紀伊國屋ホールへ行く予定だ。

働く過剰働く過剰  大人のための若者読本

玄田有史(著)

2005年10月25日
NTT出版

2415円(税込)






さて、がんばろう。

2005/11/27 (日)  
【いっぺいちゃ〜ん、ご飯ですよ〜】

午前6時30分起床。浅草は晴れ。
昨晩は鹿児島からの来客があり「まき田」にて一献。その後、浅草最強の居酒屋「ぬる燗」にて、清酒を飲みながら、形而上学の夜を楽しむ。

「まき田」は、まさに灯台下暗しであった。自宅から一番近い料理屋なれど、こんなにいい店を見逃していたとは、不覚であった。

わたしの最近の酒飲みは、「酒を飲んで仕事の話をする」(つまり、コミュニケーションを「ワーク」に奉仕させる)に徹していて、しかしそれは上司の悪口を言うのでもなく(上司なんていないし)、仕事の憂さを晴らさすのでもなく(憂さをためるほどの仕事もしていないし)、ただ脳みそをギンギンにさえわたらせながら、酒で象徴の一部を壊し、そしてパロール的に、なにかを創造していく、それを意識して行っている。

それは「粋」とは無縁である。青臭い飲み方である。聞いている方も大変である。喋っている方だって大変である。でも酒はすすむ。しかしこの飲み方をしていると、不思議と二日酔いをしないのもたしかだ。これはなんなのだろうな、と思う。


昨日は、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を見てきた。この映画のテーマは家族だろう。でも家族を扱うのはとても難しい。途方もなく難しい。それは社会の成り立ちの根幹にかかわる問題だからだ。家族とは、自然と文化の蝶番である。あるいは制度が生まれるところだからだ((c)鷲田清一)。

だからすでに家族的中景が瓦解した現代を背景にした家族の物語は難しい。その難しさを極力排除するとき、この映画の時代背景である昭和三十年代は、家族的な「中景」が機能していた最後の時代として、まさにうってつけのシチュエーションだと思う。

しかし、家族的中景とはいっても、この映画に出てくる家族はまずまともじゃない。まずは鈴木オート、鈴木一平君の家族である。そこには父がいて母がいて一平君がいる。そして青森から集団就職で上京し住込みで働く星野六子も家族である。この家族は、日本的経営(家族的経営)さえ象徴している。たぶんこれが一番まともな家族だろう。

淳之介くんの家族は、これは難しい。淳之介には家族はいない。しかし血縁さえも超える家族をもつことになる。血縁で繋がらない家族、茶川龍之介、ヒロミそして古行淳之介の三人、これも立派な家族なのである。家族愛を超えて隣人愛でつながる赤の他人の共同体である。

そしてタクマ先生の家族である。戦争で愛する妻と娘を失ったタクマ先生のこころの中に生きている家族である。この映画が描く昭和三十三年(これはわたしの生まれた年でもある)は、戦争が終わってまだ十三年しかたっていないなかったことを痛感させられた。戦争の傷跡がしっかりと残っている。昭和の時代は外からの力で、家族が崩壊した時代でもあった。

そして星野六子の家族である。星野六子はあの時代を象徴している。青森からの集団就職(上野駅のCGはすばらしかった)。そして彼女は「口減らし」として自分は東京へだされたと思っている。家族から愛されていないと思っている。まるでAC(アダルト・チュルドレン)だ。でも親の心子知らずである。子供の顔をみたくない親なんていない。しかしそれを知ることで、彼女の家族は(彼女のこころのなかで)また再生する。

昭和の時代は日本全国ACのようなものだろう。まともな家庭なんて、いまよりもたぶんもっと少ない。しかしみんな元気に働きそして生きてきた。労働することへの疑問なんかない。ただ働く。鈴木オートの社長のように、自分の仕事にプライドと夢を持って働く。そしてそれこそが日本が再興できた一番の要因であったはずだ。

ではそれは、なぜ可能だったのだろうか。ひとつは貧しかったこと。そしてもうひとつは中景としての地域社会が機能していたからだと思う。夕日町三丁目である。そこは母性に満ち溢れている。

薬師丸弘子の声が町内会中に響く。
「いっぺいちゃ〜ん、ご飯ですよ〜」
そのとき、わたしの頭の中では、矢野顕子さんの「ごはんができたよ」が流れていた。

でもその時代には二度と戻れない。

もう家族的な共同体の抑圧から生まれてきた「労働それ自身を目的として尊重する精神」は今やどこかへいってしまった。だからこそ、今という時代を貫く新しい哲学を再構築しなくてはならない。懐かしむことは悪いことではないけれども、だからこそ、それを踏み超えてまた考えなくてはならないな、と思わせられた映画だった。

2005/11/26 (土)  
【「建設産業ビジョン懇話会」の反省】

午前7時30分起床。浅草は晴れ。
午前中は、映画「三丁目の夕日」をみてきた。感想は後ほど。

今日は、昨日の「建設産業ビジョン懇話会」の感想を書いてしまおう。
昨日のメンバーは、六波羅昭氏、山崎裕司氏、桃知利男氏、丹羽秀夫氏、遠藤和義氏 八木沢清隆氏。それに建行協の内部委員として、小川静子さん、大崎秀治さん、中田孝成さん。そしてコメンテーターとして大森雅夫国土交通省大臣官房審議官(建設産業担当)。

わたし以外の方はちゃんとした肩書きの方ばかりだし、所謂事務系の方が多いので、顔合わせの段階で、「たぶんこれはかみ合わないなぁ」と感じた。プロレスで言ったら、「気仙沼次郎VSミルコ・クロコップ」戦のようなもので、勿論わたしは、沼ちゃんである。そして顔合わせにもかかわらず、某外部委員はこんなことを言うわけで、前途多難だなと感じた。

『建設業は馬鹿だ!なぜ私財を持ち出ししてまで建設業を続けているのだ。このまま我慢していれば、また元に戻ると思っているんだ。思考停止だよ。』

それに賛同されている方も多いわけで、たぶん、今日の偉い人たちは建設業が嫌いなんだろうな…と思った。そしてこの発言は、何かを象徴しているように思えた。わたしは、その言葉に対して少しだけ牽制を試みた。

『建設業界の方々は、元に戻るなんて考えていませんよ。それでも建設業に執着しています。であれば、それは、なぜなんだろう、と考えないといけないと思います。』

さて、本題の討論に入ってみると、わたしと八木沢さんを除く外部委員(大森審議官も含む)は、ある種の思考的ベクトルを持っておられることにすぐ気付いた(遠藤先生は遅れて参加されたのでわからない。山崎氏はもう建設業にご興味はないようで、アジテーションを繰り返しておられた)。それは、六波羅氏のこの言葉に要約できるだろう。

『建設産業の制度のグローバルスタンダード化、透明性の確保、競争性の確保はまだ不十分であり、もっとそれを進めなくてはならない。』

それに対して、わたしのはなしはこんな風である。

『建設産業(を指導されている方々)は、合理化を進めていけば、<他者>(国民でも市民でもいい)とコミュニケーションができると思い込んでいる。しかし「合理化」を進めるだけではコミュニケーションはできない。』

『他産業を見てみよう。「マクドナルド化」と「郊外化」は今や地方の特徴になっているが、ではなぜ、私達はマクドナルドでハンバーグを買い、ジャスコに買い物に行くのか。たしかにそこは合理性の塊かもしれない。では消費者は「合理性」を買っているのか、それは違うだろう。』

『なにかの「楽しさ」のようなものがあるから、マクドナルドやジャスコで買い物をしている。そしてその「楽しさ」とは「非合理」である。「非合理」こそが消費者に「楽しさ」を提供している。』

『そして「非合理」も(「合理性」同様に)グローバルなものである。「非合理」はグローバルに世界をつなぐ。なぜ私達はジョン・レノンの歌声に共感できるのか、英語もろくに知らないのに。そして非合理の究極、「ディズニーランド」がなぜなんなに繁盛しているのか。』

『わたしは建設産業が持っている「非合理性」を大切にしてほしいと思っている。なぜならそこには、資本主義の精神のひとつである「労働それ自身を目的として尊重する精神」が生きているからだ。そしてそれは無償の(贈与)仕事さえも孕みながら、地域社会に溶け込んでいる。』

『わたしは資本主義が好きだ。しかしその精神のひとつである「労働それ自身を目的として尊重する精神」は今やどこかへいってしまった(今という時代をわたしは資本主義ではないと考えている)。なぜなら資本主義の「合理性」は、「非合理性」としての共同体的アイデンティティを壊してしまうからだ。日本がこんなにはやく近代化、資本主義化を達成できたのも、その「非合理性」があったからだ。そういう視点から、地域の問題、中小建設業の問題を考えてほしい。』

『「合理性」は、あくまでも「非合理」の上に上書きしなければならない。合理化を進め、その非合理を排除したとき、そこにはもっと厄介な非合理が生まれるだろう。』

こんなわたしに対して、グローバルスタンダード派(?)の方々は、わたしの提示した問題に触れることなく、ただ合理化理論を繰り返すだけだから、わたしはなにか肩透かしをくらったみたいな感じで、つまり討論ができないわけで、はっきりいってつまらなかった。「コミュニケーションできません」か(笑)。

2005/11/25 (金)  
【建設産業ビジョン懇話会へ】

午前7時起床。浅草はくもり。

昨晩は遅めの夕食を、まにあ・1号さんと一緒に、石原の巨牛荘でとり、その後、八木沢さんと合流し、彼とわたしが参加する本日のイベント、建行協さんの「建設産業ビジョン懇話会」(午後3時〜:品川プリンスホテル新館)の予行演習(笑)を浅草の「ぬる燗」でやった。

事前にいただいた資料によれば、今日の懇話会はこんな按配で進むらしい。

・まず、委員の皆さんから、現在の時代認識や建設産業を取り巻く環境について語っていただきます。

・地場公共工事、建設産業の現状、建設価格、入札・契約制度の現状での問題点を明らかにするための議論をします。

・建設産業におけるIT化の現状と今後のあり方について議論します。

・これからの公共事業、建設産業のあり方について議論を行います。

・各委員からご自分の意見(考え)をまとめていただき、国土交通省総合政策局大森審議官よりコメントを頂きます。

わたしは、今日の懇談会を、ほとんどを経済学的な言葉で埋めようと考えていて、そのデータベースはシュムペーターであり、村上泰亮であり、そしてウェーバーであり、そのハイブリッド「新結合」((c)シュムペーター)である。

つまり静態ではなく動態としての社会、経済の中に、「公共事業という産業」を位置付けて議論しようと考えている。それは次の(たった)二つのことをベースにしている。

「資本主義社会はまさに成功するがゆえにそれを支えてきた社会制度を瓦解させ、その結果としてやがて崩壊する、そして、それに代り社会主義社会が漸次的かつ自然的に出現するに至る。」(シュムペーター)

「資本主義の精神。1・労働それ自身を目的として尊重する精神。2・目的合理性の精神。3・利子・利潤を正当とする精神。」(ウェーバー)

シュムペーターが予想した社会主義社会の可能性は今のところない。しかし、資本主義社会はまさに成功するがゆえにそれを支えてきた社会制度を瓦解させている。

その社会制度の最たるものが、資本主義の精神のひとつである「労働それ自身を目的として尊重する精神」だ。それがニートやフリーター、そして「ひきこもり」という形で表出してきているのが今という時代である。

その「労働それ自身を目的として尊重する精神」を作り出していたのは、古い共同体的アイデンティティとしての「中景」である。それが資本主義のもつ「合理性」によって瓦解されたとき、ニートやフリーター、そして「ひきこもり」という、資本主義にとっては「非合理」が生まれる。

つまり、資本主義が資本主義として発展していくには、中景(象徴)の存在は不可欠だったのだ。しかしそれはいまやない。そして資本主義の精神を忘れた拝金主義者が、目的合理性の精神と利子・利潤を正当とする精神だけを強調している。それはまるで「賤民資本主義」でしかない、というのが今という時代のわたしなりの認識の仕方なわけだ。

まあ、こういう観点から今日の懇談会では意見を述べさせていただこうと考えている。

2005/11/24 (木)  
【弁証法?】

午前6時30分起床。浅草は曇り。
昨晩は、北海道のA木さまとまにあ・1号さまと一献。休日にもかかわらずの出張ご苦労様でした。

酒席の話題は次郎さんご提供のヘーゲルの「弁証法」について(笑)。なにやら田坂広志氏の新しい本が弁証法を扱ったものらしく、次郎さんが今お読みの橋本治氏の本も「弁証法」を扱っているし、わたしの昨日の戯言にも「弁証法」が出てきたので「弁証法」の日になってしまったらしい。

使える弁証法使える 弁証法

田坂広志(著)

2005年11月25日
東洋経済新報社

1575円(税込)







乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない

橋本治(著)

2005年11月22日
集英社新書

735円(税込)






そんなわけで、なんともアナクロリズムに満ち溢れながら(昔の、哲学を学ぶ学生のように?)正反合についてはなした。

「弁証法」の極意は「正反合」なのだけれども、わたしはそれを「元には戻らないものを元に戻そうと微分するとき現れてくる積分という運動」だと勝手に解釈して実行している。

つまりわたしの「考える技術」とは、デコード(微分)とエンコード(積分)の「弁証法」なのであり、「工作の時間」は、弁証法的思考方法のモデリングである。ラカンの「ボロメオの結び目」を使う思考方法に至ってはモロにそうなのであって説明するのも恥ずかしいと(笑)。こうして形而上学の夜は更けた。

さて、今朝は「1121東京独演会」のまとめの最終回をするつもりだったのだけれども、今日は朝から忙しいのでここまで。反省の続きは明日にでも引き続けて行うけれども、ただ書いておきたかったのはなにかと言えば、つまり、東京独演会での「こんな形而上学の言葉でしか表現できないはなしを、わたしはいったいどこですればよいのでしょうか?」である。

弁証法の運動は自己確立の過程だ。それはけっして平坦な道のりではなく、真剣さ(まじめさ)と忍耐を要求される苦痛に満ちた苦労(労働)の道程でもある。だから、そこから逃げる(欲望の主体を消費に求める=目先の答えを求める)だけなら、そして、わからないことを、わからないと認識できないと「弁証法」も「考える技術」もいらないわけだ。

2005/11/23 (水)  
【1121東京独演会の反省(その2―超合理性へ)】

午前5時30分起床。浅草は曇り。

勤労感謝の日である。勤労とは自分の勤めとして働くことである。ウェーバーには資本主義の精神というものがある。それはまず、労働それ自身を目的として尊重する精神である。目的合理性の精神である。利子・利潤を正当とする精神である。

日本人は、目的合理性と、利子・利潤を正当とする精神にはなかなかなじめない、けれども、労働それ自身を目的として尊重する精神だけは持ち合わせてきた。

そもそも天照大神は機織をなさっておられた、今でも皇室では田植えの儀式を行っている。しかしエデンの園では、アダムとイヴは働かないで生活ができた。神の命にそむいたので楽園を追い出され労働をしなくてはならなかった。

東京独演会の最後〆は、「コミュニケーションをワークに奉仕させる」「仕事のはなしをしよう」であった。しかし勤労に感謝する機会を、我々(特に若い世代は)今失っている。

さて、東京独演会の反省という非常に内向的な作業を今朝もするわけだが、昨日それをしていて感じてたのは、たった2時間のセミナーの内容が書ききれない、というもどかしさだ。書くことは大変だ(笑)。

東京独演会では、いつも実験的な内容を繰り入れている。それが今回は「超合理性」である。今まで行っていたグローバルと反グローバルの正反に、合理性と非合理性の正反の上書きを試みた。


つまり合理性と非合理性の正反合(弁証法)をしてみると(考察の過程はとても書ききれないので省略する)、インターネット社会の四つの象限分類のハイブリッドこそが、いわゆる「日本的経営」的な強さではないか、ということである(これを「超合理性」という)。

そこには資本主義の精神にはない、もうひとつの要素がある。それが「非合理性」だ。シュムペーターの社会哲学には、資本主義文明は、人間社会に本性的に潜むともいうべき「非合理性、不合理性、超合理性」を野放しの状態にしてしまう、というのがあるが、この非合理性は人間社会には本性的に内在しているものである(でなければディズニーランドもマクドナルドも繁盛しない)。

ただその非合理性が野放しの状態にならないためには、「神聖さ」とか「伝統」とかいった要素(つまり実践合理性)を通じてそれらが抑制される必要がある、と言っているわけで、つまり第W象限(中景)の存在こそが、超合理性を孕んだ資本主意の形態、シュムペーターの言葉では「創造的破壊」(つまり創造性・想像性)の要だ、と考えている。

しかし「創造的破壊」と言ったときに、我々日本人が破壊してしまったものはなにかと言えば、中景としての共同体(つまり地域社会)なのであり、守・破・離の「守」であり、労働それ自身を目的として尊重する精神を壊してしまったということだろう。そこに地域社会の苦しみがある。

そして今や、中景の代わりに実践合理性(例えば、集団主義と調和)を提供しているものがなにか、といえば「感情」なのである。つまり「心理学化」なわけだ。

このような認識から、では今できる実践として「超合理性」を孕んだ経営(マネジメント)について考える。それが工作の時間(その2)である。

その3に続く。

2005/11/22 (火)  
【1121東京独演会の反省(その1−長いまくら)】

午前6時起床。浅草は晴れ。

昨日の東京独演会の反省をする。まずは使用したPPTを掲示した。

http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダの中のBD051121.zipファイル。

もしうまくダウンロードできない場合は、遠慮なくご連絡いただきたいと思う。

わたしのIT化へのアプローチは大きく分けて二つからなる。ひとつは「精神分析」的なものであり、もうひとつは「システム論」である。実際にはこのふたつのハイブリッドがわたしのIT化論の根源にはある。

今の時代は多様な部分で「心理学化」している。それはわたしのIT化論もしかりだ。しかし、わたしはコーチングや自己啓発書の類を嫌う。なぜなら、その多くはこころの問題を「個」に還元してしまうからだ。たしかに表面的にはそう見えるだろう。しかしわたしはそうは思わない。それを敬愛する経済学者玄田有史氏はこう表現している。

『私は、社会の深刻化の原因を意識や意欲の低下のせいと、単純に結論してはいけないことを経済学から学んだ。社会的に望ましくない事態が生じたとき、それを特定個人の悪しき意識変化として解釈することには慎重でなければならいと経済学は教える。意識の変化という現実がそこにあったとしても、責めるべきは個人ではない。変化を生み出してきた、社会もしくは経済のシステムそのものなのだ。』(ニート,p245

なにか犯罪があると、精神鑑定が行われ、問題は個人の精神的な異常性にあるときめつける。きめつけることで私達は安心している。そうでない私はだから正常なのだと安心している。そこでは環境(家庭環境ではない、社会のシステムとしての環境である)への疑念の目はなくなってしまう。

その傾向は「他者」にだけではなく、自分自身にも向かう。例えば仕事のことや、人付き合い、恋愛、コミュニケーションといった日常的なものの困難を、自分のこころの問題として考えてしまう。その背景には、ダメなのは自分自身のせいだ、という自己責任の強調(圧力)がある。そしてコミュニケーションさえスキル(技術)となる。安易な「心理学化」が蔓延する。

わたしの「精神分析」的手法も、下手をするとこれと同じものになりかねないのはたしかだ。だからあえて「考える」を積み重ねていく。常に「ひねり」を加えてく。あえてわかっていてそうしている。そしてその補助線を「システム論」としている。

本当の問題はシステム論にその圧力を与えているものなのだ。しかしそれは個人のこころに表出してくるということだ。だからそれを可視化しようとする時、精神分析とシステム論をハイブリッドしている。

こころへの圧力は、今や規律訓練されたものではない。むしろ環境管理型として空気のように存在しているものだ。なぜ東京ではエスカレーターの左側に立ち、大阪では右側に立つのだろうか。それは「当たり前だから」。では当たり前とはなんなのだろう。

工作の時間(その1)では、なにかに短絡的に原因をもとめて安心するモデルとしての円環をつくった。それは負のフィードバックが機能している合理性のモデルである。思考にも「標準」や合理性がある。その合理性から抜け出せないのが円環のモデルである。

そしてその円環を切る行為は行動とコミットする。それはステロタイプの再生産に終始する。機械的、動物的なモデルといってもいいだろう。思考の標準化や合理性では想像力は働かない(その仕組みは後ほど明らかにする)。それは致命的だとさえわたしは思う。想像力を働かせろ、と言っている本人が一番想像力が働いていないのが今という時代なのだ。

「公共事業という産業」は見事にこの罠にはまってしまった。合理性こそが、コミュニケーションの要だと勘違いしてしまった。それは第W象限の実践合理性、そしてその第W象限を背景にした非合理性の排除となって表出してきた。そして「公共事業という産業」は想像することを忘れてしまった。

そこで、まずは精神分析的に(フロイト−ラカン派の立場から)、考えるメカニズムつまり想像力の仕組みを考えてみる。このときの素材は、アール・ブリュットであり、ギャル文字であり、おたく的なものである。それらは象徴の機能不全が、外的連関機能である、並列連関機能、結合連関機能を駆動させ、創造性を発揮させている。

創造の機能は人間ならだれでも持っているものだが、その機能を抑圧しているもがあるとすれば、それは象徴なのである。そしてその象徴は今や旧タイプの共同体的アイデンティティではなくなっている(今や感情こそが象徴界に居座っている。その感情とは「心理学化」された感情である)。

おたく的才能(そしてその対極にある「荒れる若者」−おたくは人畜無害である)は、旧タイプの共同体的アイデンティティの喪失(中景の喪失)の時代だからこそ生まれた。

しかし、「公共事業という産業」は未だに象徴にしがみついている。それも旧タイプの共同体的アイデンティティ(中景)ではない。官製の合理化という象徴にである。

それでは短絡的に象徴を崩壊させればよいのか?といえば、そうではない(その思考そのものが白黒思考に覆われている)。基本としての象徴は必要なのだ。特に仕事、ワーク((c)アンナ・ハーレント)のレベルでは、それは欠かせない。基本がなくてはなにも始まらない(「守・破・離」である)。

だからイントラネットは象徴としてつくる。企業レベルでも、協会ベースでも、あえて閉じた円環(中景)としてつくる(一般的なIT化はここで終わる)。それは基本としてだ。

しかし問題はある。その問題とは前述したとおりのことだ。想像(創造)性が欠如する。やたらと心理学化する。ネットワーク論的には外と繋がらない。ではどうやってその閉じた円環にに想像(創造)性を持ち込むのか。

それを環境管理型権力としてのマクドナルド化から考察する。それは東京独演会以外にまだどこでも喋れない内容となる。

(その2)に続く。

2005/11/21 (月)  
【山鹿の反省から今日のセミナーへ】

午前6時50分起床。浅草はくもり。

「地域再生フォーラムin山鹿」の反省をする。まずは使用したPPTを掲示した。

http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダの中のBD051119.zipファイル。

もしうまくダウンロードできない場合は、遠慮なくご連絡いただきたいと思う。

今回の主題は「山鹿のライバルはディズニーランドである」とした。イントロダクションは映画『下妻物語』から、「郊外化」の事例としてのジャスコを、そして身近なグローバリズムとしてマクドナルドを事例的に使った。

ここで強調しているのは、「合理化」つまり「マクドナルド化」であるが、その詳しい考察は行わず、ただ「マクドナル化」という現象があって、それはなにか「合理化」と「グローバリゼーション」が一体化している。そしてそれが今や地方を覆い、「郊外化」(つまり中心市街地の衰退)という現象をもたらしていることをイメージしてもらう。

つまりジャスコとマクドナルドを持ち出し「確かに便利になった」と「合理性」の肯定的一面を強調しながらも、すぐさま失ったものとしての「非合理性」を示す。このイントロダクションはかなり工夫をしたところで、ほとんどの方が初めてわたしのはなしを聞く中で、これから始まる抽象的論理展開のポップな誘い水となるようにしてみた。

そして場面を一転させる。ジャスコやマクドナルドが普通にある時代としての「インターネット社会」の特徴を概観する。ここではあえて今や古典的な手法である四象限への分類を使った(それは後の展開への布石である)。

ここでの強調は、グローバリズムのもつ「スケールフリー性」である。少数の「勝ち組」と多くの「負け組」の存在理由をあえて短絡化して示す。そしてそのスケールフリー性がもたらす、我々の思考としての「白黒思考」、そして負け組としての地域の衰退を示す(白黒思考の例として郵政民営化賛成か反対かを示すのは分かりやすさへの上塗りのようなものである)

スケールフリー性を「80:20の法則」(ベキ法則)として示すことで、勝ち組の理論である20の論理、つまり地域再生の担い手が白黒思考のままでは、地域の再生は難しいことを強調する。それはもちろん理解の単純化でしかないのだが、あえてそうしている。

つまりここまでは思考のツイストはあえて行わない。ここまでの講演はあえて白黒思考の枠内で行っている。仮想の敵として、郊外化やマクドナルド化、そしてグローバリズムを強調し、そこから最も分かりやすくある結論を導き出す。それがローカリズムの強調としての「中景」の再構築である。

中景を単純に地域社会と位置付け、それを再構築する必要性を言う。例えば山鹿の場合は、一市四町が合併され新山鹿市となったが、それがばらばらではいけない、と。その理解のために「工作の時間」を使った。あらかじめ入場者に配布してある短冊を持ちいて、単なる円環をつくっていただく。そしてそれが「中景」(山鹿市)なのだと、まずはこの円環をつくらなくてはならない。

「でも、中景を再構築しただけでは問題解決にならない」

つまり、地域としての閉じた円環は必要である。しかし閉じたままではネットワークがつくれない。外と内は壁をもって分離される。これが白黒思考なのだし、鎖国モデルでさえある。これでは山鹿に人もお金は入ってこないだろうし、通貨単位も「円」でなく「両」でもよいだろうと。

つまり単純な地域再生(共同体的アイデンティティの再生の強調)理論は、それ自体が白黒思考に落ちいているのであり、結局は地域再生にはならない(不要なのではない、それだけでは足りないのである)。

「では、中景を保ちながら、外とつながるにはどうしたらよいか?」

ここから講演はひねりをはじめる。そして全員で先ほどつくった円環をひねる(ツイストさせる)。そこに出来上がるのは「メビウスの帯」だ。そこにあるのは外でもなく内でもなく、表でもなく裏でもないトポロジーである。そしてこのメビウスの帯を「地域再生のトポロジー」と位置付ける。つまりここで白黒は白黒として対立はしない。ただ白黒としてあるだけである。

「では、地域再生における「ツイスト」とはなにか?」

そこで再びジャスコとマクドナルドを持ち出す。ジャスコやマクドナルドが、地域の衰退につながる郊外化やマクドナルド化の象徴的な存在だとしても、そこを利用しているのは実際には地域の人々である。では我々は、安さや合理化だけを求めて消費しているのだろうか。

たしかにそれもある、しかし結局負け組であるかもしれない我々ではあるが、ジャスコやマクドナルドでの消費活動に対して負けを意識してはいないではないか。むしろある種の「楽しさ」さえ感じてさえいるではないか。

それは単純な白黒思考では見えてこないものだが、グローバリゼーションや合理化、マクドナルド化が、日本という国に浸透し定着していったことのひとつの理由であると考えている。

「では、その『楽しさ』とはなにか?」

それを合理性に対する非合理性として示した。その端的な事例としてディズニーランドを事例としてあげた。ディズニーランドの消費は合理性から見れば徹底した無駄でしかない。しかし我々は無駄を楽しむためにあえて「公界」へ赴く。

これはマクドナルド化がもつ「合理性の非合理性」の一例だ。わたしは日本でマクドナルドが抵抗なく受け入れられ(ヨーロッパでは抵抗がある)、いまやアメリカに続く世界第二位の店舗数を持つにいたったのは、経営者からみれば合理性に、消費者から見れば、アメリカ文化の消費を「楽しむ」、というような非合理性に理由があったからだ、と考えている。

そしてその「楽しさ」が、インターネット社会の四分類でいえば、第Tや第U象限の形式合理性や理論合理性や実質合理性にあるのではなく、むしろ「第V象限」(本当は第W象限にも)あるにあるものだ、ということであり、それが合理性ではなく非合理性(情緒性)であることを示した(あっさりと…)。

(じつは、このPPTには、ウエーバーの合理性の四分類+非合理性が上書きしてあるのだが、その詳しい説明はしていない。ただ第W象限にある「実践合理性」とは利己心のようなものだと説明し、だから「どぼん」なのよ、と第W象限がダメな理由を簡単に話した。気付かれないように…(笑))。

第V象限にあるグローバル性とは、じつは合理性ではなく非合理なのである。つまり単純にグローバル性は合理化とは結びついてはいない。その端的なものは「芸術」であり、「おたく的な才能」である。講演では触れなかったが、音楽もそうであろうし、宗教もそうであろう。だからこそ村上隆の「スーパーフラット」は日本の枠を超えて世界で認められもした(ルイ・ヴィトンのコラボ)。

そして講演はまとめに向かう。

「では、この非合理性を域再生に意識的に取り込むにはどうしたらよいのか?」

ここでは「トスティング・コイン」と「じゃんけん」を例に用い、狡兎三窟(ボロメオの結び目)的な思考方法を示した。

(つまりそのような思考をすること自体が地域再生のもっとも有効な手段なのだ)

つまりグー(ローカル)もパー(合理性、グローバル)も、チョキ(非合理なグローバル性)もある。でも「ある」ことによって、一番強いもの(勝ち組)は「ない」(チョキがなければパーがいつも勝ち組で、グーがいつも負け組なのだ)。

ここで今回三度目の登場となるインターネット社会の四つの象限は、PPTを再生していただければ分かるように、「どぼん」の第W象限を除いてボロメオの結び目風に位相させた。つまり第V象限にある非合理性がパーの位置にくることでインターネット社会は安定する(本当は第W象限と第V象限をハイブリッドさせてからこの図を示したかったのだが、今回は分かりやすさを優先し、それは省いた)。

第V象限(非合理性)が蝶番になることで、グローバルとローカルは対立することなく共存することが可能となる。これはつまり、マクドナルド化、ディズニーランド化の(消費の)原理なのだが、それはつまり地域再生の原理でもある。だから「山鹿のライバルはディズニーランドである」なのだ。

つまり、地域のもつ非合理性(第V象限で通用する非合理性ということになるが・・・)への共感こそが地域を越えたネットワークをつくる。

ここでは岡本太郎の「合理に非合理を突きつけ、目的志向の中に無償を爆発させる」を引用し、非合理のひとつとして「縄文的なモノ」の可能性を示す(北海道発の今年のヒット商品。ジンギスカンとスープカレーを事例とした)。

山鹿の非合理性の可能性のひとつは「縄文の地層を掘り起こす」ことだろう。山鹿には古墳群があり、縄文の地層が表出している地なのだ。それを覆い隠すことなく、その空気(エートス)を生かす。ちょっと無理やりだがそんなまとめとした(講演時間は約50分)。

今回は、第V象限にある(地域を越えグローバルに通用する)非合理性を強調したが、この非合理性を生み出すのは、後戸的に存在する強烈なローカル性である(「種の論理」。それを今回の講演では時間的な制約もあり扱わなかった)。

それはインターネット社会では「どぼん」とされる「第W象限」の可能性にもつながる(中景の再構築)のだが、今のわたしのIT化理論では「どぼん」さえも含めた四つの象限のハイブリッドを「超合理性」((c)リッツア)として考えている(これについては、本日の東京独演会で触れたいと考えている)。

つまり今のわたしのIT化理論では、第V象限と第W象限(安心としての集団主義であるが故に信頼としての第U象限にならないもの)を「種の論理的」にハイブリッドしている(まずはクラスターをつくる)。

第W象限は「安心」((c)山岸俊男)であるが故に、インターネット社会では「どぼん」扱いなのだが、わたしは第W象限が後戸的に第V象限をつくりだし、それが第T象限と第U象限をまた後ろ戸的に支えていると考えている。

それから、岩井國臣先生から「私とちょっとちがうところ」と指摘された「灰色」について説明しておこう。この「灰色」とは池波正太郎氏の次の言葉の引用の中にあったものだ。

「人生は黒か白かだけではなく、黒と白の間にある灰色の部分に面白さがある」

池波正太郎のいう「灰色」とは積分なのだ。一方、岩井先生の言われる「あるべきよう」は微分なのだ。それは同じようなものなのだが、たしかにちょっと違う。

灰色を微分していけば白と黒はある、それはメビウスの帯の表裏のようにある。あるものをあると認めることからはじめる。それは「灰色」も「あるべきよう」も同じなのだと考えている。

しかしあえてわたしが「灰色」を使うのは、わたしのIT化論は、「ハイブリッド」としての「考える技術」を理論的な背景としているからだ。つまりそれは想像力としての「データベースモデル」であり、「おたく的才能」ということになる。

想像力とは微分された(デコードされた)白と黒をデータベース的に組み合わせることで、白でもなく黒でもない灰色をシミュレーションすることだ(その表出がシュミラークルとしての例えば「芸術」である)=エンコード。

そこにはデータの組み合わせとしての濃淡はある。
そして今わたしが考えているのは、現実にある「灰色」を再び微分すると、それは白と黒ばかりではなく、12色の絵の具をすべて混ぜ合わせたときに表出する「灰色」でないのか、ということである。それは多様性のハイブリッドしての「灰色」である。

ということで今日の独演会は「考える技術」が中心になる。それは多様性のハイブリッドとしいての「灰色」の見かたである。イントラネットはある中景の「灰色」として表出してくる(イントラネットは中景である)。経営(マネジメント:(c)ドラッカー)はそれを微分し、再び積分する技術だ。だから微分するとき、そこには白と黒ではなく、もっと多様な色を見て取れることも必要なのだろうと考えている。

つまり地域再生にしても、会社の経営にしても、すべては人間の想像する力がベースとならなくてはならない。その想像力を働かせるには微分する力と、積分する力と、データが必要なのである(考える技術)。その基礎的なものを提供してくれるのが、つまりは中景としての地域社会であり、会社であり、協会であったりする。つまりこれがハイブリッドの哲学である「種の論理」である。

2005/11/20 (日)  
【ありがとう山鹿。】

午前8時起床。山鹿は晴れ。
阿具根の井之上さんの車に同乗させていただき、熊本空港へ移動。
熊本発12:15分のJAL便で羽田へ。羽田からは、モノレールから空いている山手線を使い、のんびりと上野まで移動した。上野からはタクシーを使い午後3時前に浅草へ戻る。

昨日の「地域再生フォーラムin山鹿」は320名さまの参加をいただき、成功裏に終了することができた。懇親会も含め大変楽しいイベントだった。これも岩井國臣先生や本フォーラムの実行委員会の皆さんをはじめ、各地からご参集いただいた「桃組」の皆さん、桃熊会の皆さん、そして本フォーラムに参加いただいた皆様のおかげである。

この場をお借りして御礼を申し上げたく思います。

「ありがとうございました。」

わたしの講演内容及びフォーラムの内容については、後ほどまとめるとして、今日は写真をふつたつほど。


写真上は、フォーラムの開始を告げた「山鹿太鼓」。写真下は、楽しい交流会のオープニング「山鹿灯篭踊り」である。

どちらも山鹿の誇る日常の中の非日常である。
非日常、合理性に対する非合理性。公界としての非日常性。非合理性。ケに対するハレ。じつはそれらはグローバルなものだということだ。地域性を強烈に保ちながら、尚且つ地域を越えて共感(感動)を伝えてくれるものだ。わたしはそこにわたしたちの探しているネットワークである、薄くて広い紐帯の秘密があることを、また実感していた。

そして昨日最後に寄ったラーメン屋さん(泥酔中で名前を失念してしまった)。ご主人がフォーラムに参加してくださっていて、その上「桃論」を購入してくださっていた。

カウンターにすわったわたしをみて「実物がいる…」と。(笑)
生まれて初めて、ラーメン屋さんでサインした非日常。
そこにある偶然。非日常、非合理性と偶然の中で、また薄くて広くつながっていく。

みんなすばらしかった!ありがとう!山鹿!

2005/11/19 (土)  
【第V象限】

午前7時20分起床。熊本は晴れ。
昨晩は前夜祭。少々はじけてしまって、わたし自身今日は大丈夫かな、と不安だったのだけれども、いたって元気である。

おなかも空いていて、早く朝ごはんにしようかな、とも思うのだけれども、その前に今日のPPTをまとめたい。

今日の主題は「山鹿のライバルはディズニーランドである」であり、それは「第V象限」の復活宣言である。

「第V象限」については、いままでは「ここはグローバル」で片付けてきた。つまり地域に生きる「公共事業という産業」には関係のない領域だと…。

でもそれは「まちがいだった」。
それは素直に認める。

「第V象限」の重要性は、ウエーバーの合理性の四分類を、この四つの象限に重ね合わせたときに、くっきりと浮かび上がってきた。そして「おたく的才能」を考えてきたときに、その居場所として浮かび上がってきた象限だ。

「第V象限」は非合理なのである。

ということで、これを50分程度にまとめて、はじめてわたしのはなしを聞いてくださる方々にもご理解いただけるような「芸」にしなくてはならない。

本日初演の出し物だし、シュミレーションのようなものになるかもしれない。
つまり、PPTは準備したけれども、今日の芸はパロール的なものとなるだろう。

ということで、朝飯食べながら、また芸について考えよう。

2005/11/18 (金)  
【下流社会】

午前7時起床。浅草は晴れ。
今朝も寒い。

昨日は明日の講演用のPPTをつくっていた。
明日の講演は、わたしが好んで行う「パロール」ではなく、シナリオのある芸となる。

その始まりは映画「下妻物語」からの引用とした。何を引用したかはまだ秘密だけれども、勘の良い方は、予告編をご覧になればピンとくるかとは思う。


1 年収が年齢の10倍未満だ
(年収だったら × だけれども、可処分所得だったら ○。)

2 その日その日を気楽に生きたいと思う
(これはない、わたしはある意味トラブル好きだからね。……でもちょっとまって、トラブルがあることがわたしの「気楽」なら、なにもないことが「気楽」じゃないのだから、わたしは「気楽に生きたい」と思っているわけだ。○)

3 自分らしく生きるのがよいと思う
(たぶん多くのフリーターの方々の言い訳はこの「自分らしく」なのであり、自分らしさを探している。それに引っ掛けようとしているのだろうけれども、そうはいかない。わたしゃ爺のフリーターのようなものだけれども、だからといって「自分らしく生きている」なんていわないものね。だいたい自分なんかなんだかよく分かっていないし、わたしはいつでも「他者」にあるものでしかないのでね。しいていえば「そうなっちまった」わけだな。×)

4 好きなことだけして生きたい
(できればそうしたい。素直にそうしたい。この歳になれば好きなことは沢山あって、本も読みたいし、絵も描きたい。美術館めぐりもしたい。でもそうするためには稼がなくちゃならないのも知っているわけでね。だからといって一発当てようなんて思ってもいない。○)

5 面倒くさがり、だらしない、出不精
(余計なお世話だ、といいたい。わたしがデブだからってなにか他人に迷惑かけたか。存在そのものが許せないって? それは「いじめ」だよ、って逆切れするような質問をするな、そのとおりじゃないか。○)

6 一人でいるのが好きだ
(一人でも、二人でも、三人でも、もっと大勢でもぜんぜん問題はなくて、こういう人はなんて答えればいいのでしょうかね。?)

7 地味で目立たない性格だ
(自分の性格なんて、ぜんぜんわかりませ〜ん。「他者」が勝手にラベリングしてくれているだけですわ。?)

8 ファッションは自分流である
(最近は自分で考えて着ていますから、自分流なのかもしれませんが、自宅にいるときのほとんどを作務衣で暮らしているわたしは、浅草では別に浮いた存在ではないし、元IVY小僧ですからTPOぐらいは知っていますしね、ユニクロでも着なさい、もしくは人民服にしなさい、とでも言いたいのでしょか。まあ、○)

9 食べることが面倒くさいと思うことがある
(少し前までは、飲んでいると食べなかったのですが、今はよく食べます。朝ごはんを抜いたことはここ30年ほどありません。二日酔いでもなにか食べます。×)

10 お菓子やファーストフードをよく食べる
(食べません。×)

11 一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごしていることがよくある。
(日本語がわかりません。「インターネットをして」ってなに? 仕事で年中インターネットの中にいるわたしは、まあご質問の通りですが…。ちなみにテレビゲームはやりません。それはたいした理由はなくて、興味の対象が別にあってテレビゲームまで時間を裂けないからです。たぶん○)

12 未婚である(男性で33歳以上、女性で30歳以上の方)
(余計なお世話だろう。わたしの話でも聞いてくれるっていうのか? 堂々と×)

以上の項目で『半分以上当てはまるものがあれば、あなたはかなり「下流的」である』らしい。

下流社会 新たな階層集団の出現

三浦展(著)

2005年9月20日
光文社

819円(税込)






この本はただいま売れまくっているが、評価は賛否両論だ。この本が売れているのは、みんな自分の「中流」を確認して安心したいからだろうか。わたしはこの手の本はほとんど機械的に反応して買ってしまうので、「中流」を確認したいから購入したわけでもない。

三浦流では私自身しっかり「下流的」であるが、自分のことに関しては「まあそんなもんだろうね」なのであって、この本に腹をたてることもない。むしろある意味この本は面白かった。

三浦氏がいっている「下流」とは「中流の下」であり、「上流」は中流の上に過ぎない。どちらも基本的には「労働者諸君!」なわけで、本当の上層と本当の下層から見たら戦後の開発主義がつくりあげた「中流」なのだ。ただその中流も二極化しているというのが三浦氏の主張であり、それは「ベキ法則」(スケールフリー性)が働いていることを明らかにしてくれた、ってことだろう。


これはわたしの明日の演題にも関係することだけけれども、三浦氏をわたしが支持できるのは、この二極化の原因を、個人の資質の問題として還元してはいないところだ(フツーだったら、この手の本は自己啓発書のようになるのだが、それをぎりぎりのところで回避している)。

つまり、この本を批判している人は、自らが下流であることを指摘された人というよりも、自らが「中流の中若しくは上」であることを、私自身の努力とか資質に還元してくれないことが不満の原因ではないか、とさえ思う。

この本は意外と政治的なのである。
曰く、

『そして、いっか、上流や中流は下流を慮(おもんばか)ることがなくなる。ブッシュがイラクの庶民の暮らしを慮らないように。いや、アメリカの失業者層の気持ちすら慮らないように。』

『少数のエリートが国富を稼ぎ出し、その国富を消費し、そこそこ楽しく「歌ったり踊ったり」して暮らすことで、内需を拡大してくれればよい、というのが小泉一竹中の経済政策だ。つまり、格差拡大が前提とされているのだ。』

『しかし失業率5%、若年では10%以上の状態が恒常化し、毎年4万人近くが自殺して、それでも大衆はそこそこ楽しく生きていると言えるのか?』(下流社会,p256)

この本を通して感じられる作者の憤りのようなものは、『それでも大衆はそこそこ楽しく生きていると言えるのか?』という、大衆の中にある「バカの壁」の存在に凝縮されているように思えた。

ということで、今日は熊本へ飛ぶ。

2005/11/17(木)  
【私の嫌いな10の言葉】

午前7時起床。浅草はくもり。
今朝も寒い。


1 相手の気持ちを考えろよ!
(いつも考えているのですが、考えてもわかりません。自分の気持ちもよくわからないときがありますし、かみさんの気持ちもわからないのに、相手(他者)の気持ちなんてもっとわかりません。)

2 ひとりで生きてるんじゃないからな!
(はい、おっしゃる通りです。わたしは一人では生きられない体質です。だれかがいないとだめです。そして皆様のおかげで生きております。心から感謝しております。)

3 おまえのためを思って言ってるんだぞ!
(ありがたく承っております。でも最近は誹謗中傷のメールも少なくなりました。なぜでしょう、諦められたのでしょうか? 寂しさを感じております。)

4 もっと素直になれよ!
(いつでも素直です。ただ素直にひねくれているだけです。なにしろ「ツイスト」(捻り)野郎ですから、わたしは。かってに反転を実践しています。)

5 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
(はいお安い御用です。わたしのせいでご迷惑をおかけしているのであれば、一度といわず何度でも頭をさげます。そんなことはどってことありません。)

6 謝れよ!
(はい、わたしが悪いのであれば、いつでも謝れます。謝るぐらいなら最初からやるな!といわれそうですが、最初から謝るつもりでやっていることはなにひとつありません。結果的にそうなっただけです。)

7 弁解するな!
(これだけはだめです。弁解はさせてください。弁解が大好きなのです。いくらでも謝ります、何度でも頭をさげます、でも弁解だけはさせてください。)

8 胸に手をあててよく考えてみろ!
(気持ちいいかも…。というより、「反省」はわたしの日常なので言われるまでもありません。)

9 みんなが厭な気分になるじゃないか!
(わたしは「ノイズ」になりたい人ですからねぇ…、無理かもしれません。しかし厭な気分ってなんでしょう?)

10 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!
(あるかもしれませんし、ないかもしれません。やっているうちに好きになってしまったというのはあります。)

以上、中島義道氏の嫌いな10の言葉とわたしの茶々でした。

私の嫌いな10の言葉私の嫌いな10の言葉

中島義道(著)

2003年2月
新潮文庫

420円(税込)




わたしはご意見をいただくことにはある意味慣れていて、このサイトやわたしの活動は、それこそある方々にとっては「ノイズ」でしかないわけだから、誹謗中傷に近いメールが来るのも当たり前だし、来ないとある意味寂しいのも確かだ(アホか!とは思うけれども)。

味方もいれば敵もいて、そのハイブリッドの空間でわたしは考えることができ、活動するエネルギーをいただいているので、そのスタイルは崩すつもりもないけれども、最近思うのは、個人尊重主義というか、それこそ「みんなが厭な気分になるじゃないか」や「相手の気持ちを考えろよ」が強調され過ぎていはいないか、ということだ。

それは「だから私のことも大事にしてね」になっていて、私の「厭な気分」が強調される。それは悪いことではないけれども、その「厭な気分」なものは、異分子なわけだ。

都市の理論は、自然界にある異物や汚物のようなある意味「厭な気分」を排除することを起源としているのだけれども、都市化(地方の場合は郊外化)が進む中で「癒し」や「気持ちのいいもの」ばかりが強調され過ぎてはいないだろうか(そしてそれを提供しているものはなんだろうか)。

そんな気分の中で、私達のコミュニケーションは、言葉の持つ力を失っていくように思う。そして、コミュニケーションはただの機械との相互交換、若しくは動物的な反応に近いものへと帰っていく。

ということで、今日はやることいっぱい。
なので、中途半端なところでおしまい。

2005/11/16 (水)  
【おでんとアイデンティティと人間性】

午前7時10分起床。浅草は晴れ。

昨晩銭湯に行くと、珍しく外人のお客さんが三人さん入ってきた。なにかがぎこちないなぁ、と思ったら、彼らは前をタオルで隠している。普段、銭湯にはそんな人はいないわけで、中学生の修学旅行を思い出して妙に新鮮だった。それに、でかいのを見せつけられるよりはましかもしれない。

そして案の定というかやっぱり、熱いお湯は苦手らしく、湯につかろうにも、足湯のように湯船のヘリに座ったまま身動きできない。それで世話好きのおじさんが、もっと熱いほうの湯船に彼らをご招待したりするから…、やっぱり銭湯は楽しい。

銭湯の帰りに、児玉さんでおでんを食べた。

ちくわぶ、はんぺん、牛スジ、ジャガイモ、蒟蒻、昆布、大根、ごぼう巻き。
そして、おかわり。

すじ(魚のスジ)、がんも、つみれ、玉子。

もちろん全部わたしが食べたわけじゃないけれども、おでんはたねが大きいので複数人でシェアすると沢山の種類が食べられてうれしい。

おでんを食べていると、テレビジョンでは紀宮さまの結婚の話題が流れていて、
家人曰く 「皇室から嫁ぐことは大変でしょうね、普通の生活ってできるのでしょうかね。」

わたし曰く 「普通ってなによ、だろうね。たぶん私達の知っている普通の生活じゃないだろうね。でもそれは贅沢三昧の生活という意味じゃないよ。たぶんとても質素な生活をされるんじゃないかね。」

「なぜなら紀宮さまは、皇室を出られても自己のアイデンティティを持ち続けることができるだろうからね。私達のように、消費にアイデンティティの確立を頼らなくてもいいんだよ。『いつかはクラウン』は、なんの意味もないんだね。」

「ブランド品もまったく意味はないだろうね。なぜならご自分の方が遥かに高いブランドをお持ちだからだ。つまりそれがアイデンティティなんだね、だからブランド品に自己のアイデンティティを求めるようになられたら普通なのかな。まあ、そんなことはないだろけれども。」


ハンナ・アーレントという哲学者には「人間の条件」というのあって、それは人間活動の三分類として示されている。

動物的 レイバー(労働) 生物的な欲求
ワーク(制作・仕事) 職人的創造から芸術的な創造まで
人間的 アクション(活動) コミュニケーション

まあいい加減に表にまとめたけれども、彼女(アーレント)によれば、真に人間的であるのはコミュニケーションだ。けれどもコミュニケーションにも、レイバーやワークに従属している場合があって、それは真のアクションではない。

真に人間的なものは、レイバーやワークから切り離されて、コミュニケーションとしてのコミュニケーションとしてのアクションである、とされている。なんかマズローの欲求五段階説のようでわかりやすいし、納得される方も多いだろう。

でも、今わたしが考えているのは、これとはまったく違う事態なわけで、つまり、アーレントのいう「真に人間的」なものであるアクションを純化していったら、つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションをレイバーやワークとの関係から解放していったら、人間的じゃなく動物的になってしまった、ということだ。

今やコミュニケーションはただの機械との相互交換、若しくは動物的な反応に近いものへと帰っていく。この状態は、わたしの「工作の時間」では「円環」(たわいもない会話)の再生産であって、2チャンネルをはじめ、ウェブ上では典型的に見ることができるものだ。

わたしはmixiを中心にバーチャルなコミュニケーションを楽しんでいるけれども、そこでのコミュニケーション(つまりコメントの書き込み)は大方機械的反応、動物的反応になる。つまり、あんまり考えないで、相手を傷つけないように配慮して書いている(そうすることでわたしも傷つかない。そしてそれは別に悪いことでもない)。

こんな状況を、東浩紀氏は「動物的」といっているのだが、つまりそれが今という時代なのだと思う。つまりアーレントの人間の条件は破綻している、というのが今という時代なんだと思う。だから経済政策は古典主義的なもの(弱肉強食)を受け入れやすくなるし、「勝ち組/負け組」なんていうのも、動物的な概念だろう。

それは昨日の戯言と関係しているのだけれども、「公共事業という産業」への批判も、じつはとても機械的であり、動物的だってことだ。その動物的が民主主義の一人一票つまり多数決のシステムと融合している(民主主義のシステムは悪いものではないと思う)。そこでは政治や行政もまた動物的である。

それじゃ「公共事業という産業」も動物化すればいいじゃないのか、と考える人は「公共事業」がなにものかを知らない人だ(知らないから動物的に反応するのだろうけれども)。少なくとも「公共事業という産業」が、閉じた円環のようなアクションをしていては、古典主義的経済政策(弱肉強食)や、「勝ち組/負け組」なんていう地域とともに生きる(少なくとも地方の「公共事業という産業」は地域のためにある)とは逆方向の環境を受け入れやすくしているだけだろう(このことに「公共事業という産業」は対応策がない)。

じゃどうすればいいのか、といえば、今のところ(この動物的な社会を斜めから見るという意味での)「反転と3分の1切断」、若しくは(今の段階で理論的には一番有効だと思う)コミュニケーションを「ワーク」と関係付けること、つまり「反転と2分の1切断×2」の立場から、「公共事業という産業」は情報を発信すべきだろう、と思う。それがわたしいうIT化だ。

つまりそれは、アーレントの分類でいえば、レイバーとアクションの中間的な存在(ハイブリッド)としての「ワーク」の位置に自らを置くことなのだと思う(しかしそれさえ、全体的にはフリーターに代表される「労働力の流動化」や、ニートの問題が立ちふさがる。だから動物化はますます進む)。

しかし多くの「公共事業という産業」の関係者は、自らの仕事を持っているはずだ。であればこそ、コミュニケーションを自らのワークに奉仕させるべきだと思う。つまり「反転と2分の1切断×2」の立場から情報を発信する。

わたしのウェブログ(店主戯言)は、この実践を繰り返してきたつもりだ。つまり常に自分のワークにコミュニケーションを奉仕させようとしている。おでんのはなしをまくらにおいて(笑)。

しかしそれも問題がないわけではなくて、つまり動物化が進んでいる今という時代に、こんな面倒な戯言を読む人もまた稀な存在だ、ってことだ(笑)。だからあとは骰子一擲なんだよね。偶然さえも楽しむ。しかしこの偶然性が小さくなっているのも事実なわけだ(これについてはまた後日)。
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