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店主戯言(浅草的思考)051201 2005/12/1〜2005/12/15 "There goes talkin' MOMO"


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建設業に貢献するIT化
考える技術!

【当サイトについて】

2005/12/15 (木)  
【美はなぜ乱調にあるのか】

午前5時20分起床。浅草は寒い。

昨日、熊本から戻り、愛用のThinkPadのキーボードを交換しました。Enterキーの調子が悪かったので、中古品をヤフオクで1980円で調達しました。今使っているThinkPadは、今月で使い始めて2年になりますが、あと半年は使い続けたいと思っています、というか新しいものに興味がわかないのでした。

昨日の日記のお店です。みずもとさん。

吹き抜けの二階の廊下から、一階の厨房が見えます。大正年代の建築だそうで、元々は魚屋だったそうです。

龍方さんのラーメン。

もちろん、とんこつです。

さて、今回の九州ツアーでのお供は、大澤真幸氏の『美はなぜ乱調にあるのか』でした。

美はなぜ乱調にあるのか

大澤真幸(著)

2005年12月7日
青土社

1995円(税込)






まだ全てを読み切っておりませんが、大変面白い本です。例えば短編で読みやすかった「サッカーと資本主義」は、オフサイドルールの存在から、サッカーが資本主義の精神を反映していることを指摘しています。

『サッカーの快楽の中心は、「終わり」への高揚感の内にこそある』

『終わり=ゴールの瞬間の爆発的な興奮こそが、サッカーの醍醐味だ。その興奮を高めるためにも、過程の鬱屈感を強化しなくてはならない。オフサイドルールはそのためにある』(p222)

ゴール(終わり=投資の回収)への過程を引き伸ばすルール(オフサイドルール)を持つサッカーは、その過程(例えば働くこと、工夫すること、想像すること)を尊重する精神があります。そのルールと過程を尊重することを楽しむスポーツです。

しかしそのことは、アメリカでのサッカー不人気につながっているようです。アメリカで人気のあるスポーツであるアメフトやバスケットボールは、と考えると、そこにはオフサイドルールはありません。

むしろ、サッカーでは反則の、オフサイド破りの前方へのロングパスこそが中心的な攻撃手段なわけですから…。それは「ゴール」への過程の短絡化だといいます(終わりのへの先走り)。

その先走りの資本主義がアメリカ化的な資本主義なのだ、ということです。その精神はスポーツだけではなく、さまざまなところに噴出しているように思えます。

例えば、ブッシュ米大統領は、イラクの大量破壊兵器に関する情報機関の分析は誤っていたと述べるとともに、これに基づき大統領として攻撃を行った自らの責任を認めた、とのことですが、これも終わり(ゴール)への先走りでしょう。オフサイドです。しかし終わりの先走りは、終わりをなくします。

昨日の衆院国土交通委員会で証人喚問が行われた鉄筋の偽装問題もそうかもしれません。ルールの中で過程を尊重しないものの哀れのような気がします。

オフサイドルールは中景のルールです。職業人のプライドとしてのルールです。その過程は確かに乱調かもしれませんが…。もしかしたら終わり(儲け)は期待はずれなのかもしれませんが…。

五重塔五重塔

幸田露伴(著)
岩波文庫

420円(税込)






こんな時代だからこそ、コミュニケーションをレイバーやワークに奉仕させなくてはならないのだと思います。そこには精神としてのオフサイドルールは必要なのです。建設業は、いつまでも幸田露伴の『五重塔』の精神を忘れてはならないのだと思います。

主人公の大工 のっそり十兵衛、棟梁 川越源太郎,、そしてお施主感応寺上人。 三人の主役が それぞれの立場をぶつけながら立派な五重塔を作り上げていきます。

「江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す」
上人こう書いて五重塔に納めるラストシーン。

「・・・造り・・・を成す」。作る人だけでは成立しない。成す人がいて、はじめて仕事は完成します。そこには明確なルールが存在します。そのルールとは、のっそり十兵衛、そして川越源太郎棟梁がみせる職人(ワーク)としてのプライドでしょう。 それが建設業の基本哲学だろうと思います。

さて今日は、岩見沢へ向かいます。
ANA 055 東京(羽田)(09:00) - 札幌(千歳)(10:35)
空知建協さんにてTV会議システムを活用した勉強会、そして広報IT委員会です。

2005/12/14 (水)  
【山鹿にて】

午前7時30分起床。
山鹿温泉でしから、大浴場で麻風呂を楽しみ、朝食をとっていましたら、もう8時30分を過ぎていました。

昨晩お会いした素敵な方々。

映画「キルビル」の「青葉屋」を思わせる郷土料理のお店、「みずもと」の大将。

『桃論』のあるラーメン屋、「龍方」のおかあさん。

ということで、もう時間がないので、今朝はここまで。

2005/12/13 (火)  
【包衣に包まれたきびなご寿司】

午前7時起床。鹿児島はくもり。
雪の予報だったのですが、鹿児島市内ではまだ雪はありません。

昨日は、鹿児島県建築協会さんのIT委員会のため鹿児島入りしました。

昨日のお昼、鹿児島空港内で食べたものです。
一見ちゃんぽんのようでしょう。でも違うんです。

これは、「さつま揚げとんこつスープスパゲティ」というハイブリッドです。
うまい、まずいの概念を超えています。
でも「楽しい!」。そう思いました。

そして鹿児島空港に建設中の足湯。
温泉王国鹿児島県の面目躍如、というところでしょうか。

空港ロビーの外にありますが、なかなかのグットアイディアだと思います。
オープンは12月20日ですが、空港利用客の注目を集めていました。

下の写真は、昨晩食べた「きびなご寿司」です。

きびなご、山椒の葉、かぶらの三層構造がネタになっています。
この寿司は、「遊食菜彩いちにいさん」での食事(黒豚のしゃぶしゃぶ)の最後に出てきたものですが、かぶらが、まるで包衣のようであり、これは新生児へのオマージュなのだろな、と思いました。

つまり、食事の〆に、「再生」若しくは「誕生」を意味付けしています。こんなことができる店が、悪い店であるはずはありません。

くどいようですが、もう少し詳しく説明しますと、これは次のような構造を持っています。つまり、お店でおいしいものを食べれば、対価を支払います。支払った分だけ、私の懐は寂しくなり、私は少し弱くなります。つまり、これは仮想的な死を意味します。

しかし、私はそこでおいしいものをいただくことで、また少し元気になります。いったん死んでまた生き返る。しがらみ(お金)を捨てて、また新しい私を生きる、でもいいでしょう。つまり交換経済に再生を意味付けしているわけです。交換に贈与を孕ませているわけです。そしてきびなご寿司は、その仕組みを表象しています。

仮想的な死と再生。この構造は、私たちの「楽しさ」の根底にある「型」なのだと考えています。それは非合理かもしれませんが、非合理が故に楽しさを生み出しています。

そしてこの型を表現とするとき、そこにもしばり(型)があります。それは、「他者の存在を想定する限りで意味を有するような実践」(社会的機制)でなくてはならないということです。

さて、今日は熊本経由で山鹿に向かいます。1119「地域再生フォーラムin山鹿」の御礼をしてまいります。

2005/12/12 (月)  
【「考える技術」の概観】

午前6時起床。浅草はくもり。

今日は鹿児島へ向かいます。明日は山鹿へおじゃまします。
14日に浅草へ戻る予定です。

現在「考える技術」を体系的にまとめようとしています。「考える技術」とは、わたしが「建設業のIT化」や「公共事業という産業」、「地域再生」といった対象を考えるために、そしてコンサルティングの実践に用いてきた、極めて実践的思考方法ですが、それをちゃんとまとめてしまおうと試みています。

それは、来年度の法大ECに向けてのものです。法大EC2006では、「考える技術」そのものをメインテーマにした講座を開設する予定なのです。

「考える技術」は、二つの基本的な思考方法と補助的な作業のハイブリッドです。その基本思考方法のひとつは「四象限」であり、もうひとつは「ボロメオの結び目」です。

「四象限」は下図のようなトポロジーで考える方法です。社会的な事象を、システム論的にデコード(分析、微分)し、エンコード(再構築、積分)することができます。これは『桃論』でも使っている手法です。

この象限の基本形では、縦軸はグローバル性(外的)とローカル性(内的)の両極を持たせ、横軸には累積性(社会的なもの。広義のミーム的なもの)と非累積性(個人的なもの、狭義のミーム的なもの)の両極を置きます。つまり、両極の間にことなる志向性(ベクトル)を持った一本の直線を引くことにより、単純な二分、つまり二項対立を避けることができます。

この二つの軸が垂直に交差することでできる四つの象限を使って、対象を分析(デコード、微分)しながら、全体を概観していきます。これは、対象の偏りを見る、足りないものを見つける、つまり問題点の発見が比較的容易にできます(問題は両極に置く項目ですが、これには着眼力が必要です。その着眼力も繰り返し行う「考える技術』によって身につくものです)。

たぶん、項目(両極)の置き方さえ適切なら、なんにでも使えるはずです(ですから問題は項目の選択になります)が、この四つの象限がバランス良く存在し、全体をつくりだすことが理想となります。

事例としては、昨日紹介しました、松原隆一郎教授の配布資料をご覧ください。

→ http://www.momoti.com/051128quadrant.swf

尚、『桃論』で引用した金子郁容氏の『新版 コミュニティ・ソリューション』では、第W象限は「どぼん」となっていますが、今のわたしはそうは考えていません。

あくまでも四つの象限のバランスが大切だと考えていますので、第W象限が機能することも必要だと考えています(そこは、次に紹介する「ボロメオの結び目」とも関係するのですが、個人的な欲望の領域であることで、なおさに、なのです)。

新版 コミュニティ・ソリューション―ボランタリーな問題解決に向けて

金子郁容(著)

2002年4月20日
岩波書店

2415円(税込)



一方、「ボロメオの結び目」は下図のようなトポロジーです。これは、精神分析的に対象のデコード(分析、微分)とエンコード(再構築、積分)を行います。この手法は『桃論』以降に使い始めたもので、主に精神分析的な要素、社会心理学的な要素の考察に使いています(例えばマーケティング)。

わたしはラカンの精神分析からこれを援用していますので、基本形は上図のようになります。ですので、この思考方法を使うには、ラカンの言う「想像界」、「現実界」、「象徴界」の最低限の理解が必要になります(今回はそれには触れません)。

この手法も、「四象限」同様に二項対立的思考を避けることが可能となります。つまりこれは、「or」ではなく「and」の思考であり、「弁証法」の「正反合」です。もちろん、このトポロジーもバランスが取れることが大切です。偏りはこの輪の結び目を崩壊してしまいます。

この手法も、使い方によってはかなり応用がききますので、下図のような表現も可能となります。

この図はバタイユの「全体としての経済」を表現していますが、このような見方ができることで、「儲けること」(交換経済)は不要なものではありませんが、「全体としての経済」(経世済民)では、構成要素の一部であることがわかります。

そして経済とはただ循環するものであり、「儲けること」に置かれる力点が大きすぎると、「全体としての経済」のバランスが悪くなり、機能に障害が起こることが理解できるかと思います。

補助的なものについても少し触れておきます。これには例えば、「曼荼羅図」があります。

「曼荼羅図」は、どちらかと言えばデコード(分析、微分)の仕組みです。言葉によるデコードがうまくいかない時にはこれを併用します。例えば下のように用います(この例では経営における「考える技術」をデコードしています)。
想像力
創造力
外部連関
内部連関
データベースモデル
経営
(マネジメント)
環境×原理
環境
(市場の見方)
マクドナルド化を中心に
近代化・資本主義化(開発主義)
インターネット社会とベキ法則
資本主義の精神とその欠落
合理性と非合理性とグローバル化
ハイブリッド
自我の弁証法
種の論理(超弁証法)
考える技術 原理
(ひねるために変えてはいけないもの)
合理性と非合理性
工作の時間
ひねり(ツイスト)
ボロメオの結び目
メビウスの帯
フィードバック理論
実践
(IT化)
反省の行為(コギト)
イントラネット
ウェブログ
郵便的誤配
骰子一擲
必然と偶然

そして場合によっては、これをさらにデコードしていくのですが、そのデコードとエンコード(再構築)にも技術があります。それが「象徴の一部否定」つまり反転(若しくは「ひねり」)です。

そしてそれから続く「エンコード」にも3分の1切断や2分の1切断×2」がありますが、これらを行うためにも、日常的に「反省の次元」を通して「書くこと」が大切なものとなってきます(反省の行為)。

なぜなら「考える技術」には、なによりも言葉(語彙)が必要だからだからです。
「考える技術」は、言葉を使って、対象をデコードし、そこから新しいモノをエンコードする作業を繰り返す「技術」(ミーム)だからです。

2005/12/11 (日)  
【日曜日】

午前7時10分起床。浅草はくもり。

今朝は、1128第25回新宿セミナー資料「働く若者に未来はある」の、松原隆一郎教授の配布資料を整理していました。

→ http://www.momoti.com/051128quadrant.swf

4枚の画面からなっていますが、1枚目はわたしの超合理性の理解用のもので、2枚目以降は当日配布されたレジュメから作成したものです(言葉はレジュメに忠実ではありません)。すべて象限で表現されています。

じつは1枚目とそれ以降の松原教授の図では、どうも第3象限の扱いが微妙に違うのですが、なぜ違うのだろうか、などと考えていたら、午前10時になってしまいました。

まあ、そんな日曜日です。

2005/12/10 (土)  
【牡蠣】

午前6時15分起床。浅草は晴れ。

昨晩は牡蠣をいただきました。紋別の西村さんからお送りいただいたサロマの牡蠣です。


殻つきのものは蒸し牡蠣にしました。ぷりぷりです。


剥き身はカキフライにしました。

じつは週はじめに、宮田さんからモコトの牡蠣をいただいたのですが、北海道ツアーで留守のわたしをいいことに、家人がすべて食してしまっていたのでした。

昨晩は、お客さも交え、たっぷりと牡蠣をいただきました。亜鉛はばっちしですね。

2005/12/09 (金)  
【すっぽん】

午前6時15分起床。浅草は晴れ。
めっきり寒くなりました。

昨晩は元気をつけにすっぽんを食べてきました。
いつもの銭湯、曙湯の近くにある「魚がし」さんという店です。
http://r.gnavi.co.jp/g527900/


いわゆる、「血」ですね。りんごジュースで割ってありますので、大変に飲みやすいものでした。


すっぽんの「たまご」です。「濃いー!」のでした。


すっぽん鍋(まる鍋)です。すっぽん一パイ使っています。二人で食べましたので、しっかりと「たんのう」いたしました。

おかげさまで、今朝はお肌すべすべです。
脳みそもすべすべです(しわがなくなってしまっています)。
思考能力はありません。
なのでこれでおしまいなのです(笑)。

2005/12/08 (木)  
【浅草へ戻る】

午後2時ちょっと前に浅草に戻りました。朝からちょっとせきが出ていて、寒気まであり、風邪をひいたようで調子が悪かったのでした。新千歳空港で、ユンケルとゼリア新薬工業のグリコテカプセルを調達し急場をしのぎましたが、わたしは単純ですから薬はよく効きます。なので今は元気です。

昨日のお昼は、まにあ・1号さんと、久しぶりに トラットリアトレンタでモンテマーレを食べました。大きなサラダと少な目のパスタのセットです。わたしはトラトレのパスタもさることながら、サラダがとても好きです。

大きなサラダ。


少なめのモンテマーレ。

お勘定を済ませ、帰り際に「よいお年をお迎えください」とお声がけいただいたのは、まさにその通りで、モンテマーレは今年の食べ収めなのでした。年内にはもう一度岩見沢へお邪魔する予定ですが、トラトレに寄ることはないでしょう。今年もモンテマーレをたべることができたことに感謝いたします。ありがとうございました。

トラトレでランチを済ませ、ホテルへ戻り、モンブランを食べながら昨日の講演内容をまとめていました。

なので、講演内容はとてもスイートになりました(笑)。
地域に公共事業は必要です、というのはよく使われるフレーズですが、それは「地域社会は必要だ」という前提を持って主張されているものです。

ではなぜ地域社会は必要なのでしょうか。本当に必要なのでしょか。必要だとすればその理論的根拠はどのようなものでしょうか。というような甘〜いはなしでした(笑)。



【帰り支度】

午前7時20分起床。札幌は晴れ。

昨日の葉月会の勉強会で使用した講演用のPPTを掲示しておきます。
→ http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダの中のBD051207.zipファイルです。

ということで、今朝は帰り支度をしなくてはなりません。
浅草へ戻り、時間がありましたら、講演の内容等を書きたいと思いますが、今朝はこれだけを書いておきたいと思います。

葉月会(空知経営研究会)は素晴らしい紐帯(中景)です。

2005/12/07 (水)  
【クリスマスリース】

午前7時起床。札幌は晴れ。
今日の最高気温は3度の予定だそうです。

昨日は、岩見沢建設業協会の皆さんと勉強会を行い、懇親会でちゃんこ鍋を食べて、午後11時過ぎに札幌のホテルへ入りました。

使い慣れたホテルなのですが、ドアにクリスマスリースが飾られているだけで、なにかうれしくなるのはなぜでしょうか。

わたしはクリスマスというイベントを長い間毛嫌いしてきました。それはサンタクロースが来たことがなかったわたしのひがみかもしれませんし、マスコミの過剰な演出の押し付けがましさへの生理的な嫌悪なのかもしれません。

でも最近は、この贈与経済のイベントを楽しむぐらいのことはできるようになりました。そこにスケベ心や下心が潜んでいたとしても、まあいいじゃないの、なのです。働く人たちの上に静かに喜びあれ、です。

ドアを開けると部屋もニューリアルされていました。なにかこじゃれた感じになっていました。部屋からバスルームがシースルーできる窓があります。だからといって自分の入浴姿を見る人はだれもいないのですが、こういうのもまた、なにかたのしいな、と思うのです。これも働く人たちの上に静かに喜びあれ、です。


さて、今日は葉月会の勉強会と忘年会です。
今日も少しの時間講演をしますが、演題は「1.5の関係と地域再生」です。

わたしは、地域における中小建設業のアイデンティティの確保は、地域再生というひとまわり大きな種の視点から行う必要があると考えています。

それは建設業のためではなく、資本主義のための公共事業という可能性です。
それは中景のフラクタルな存在があって可能となるものです。

ではそれは如何にして可能なのでしょうか? このITが普通にある時代(つまり1.5の関係の時代)にです。

わたしはそれを「広くて薄い紐帯」(ウィークタイズ)の可能性にみています。あいかわらずそうなのです。

広くて薄い紐帯は、個人間のつながりのように見えますし、実際にハブとなるのは個です。強調されていることは個対個の関係です。

しかしここでの個は単純な個ではありません。反転を繰り返す個でなくてはなりません。

個は反転を瞬時に繰り返し、自らをメビウスの帯状態とすることで、そこに<他者>とつながる可能性が生まれます(骰子一擲→郵便的誤配)。

ですから、ここで注目するのは、では、反転する個とはんでしょうか、です。
それは、

「個」はどこから生まれてくるのでしょか。
自律的な個(つまり反転する個)とは、かってに生まれてくるものなのでしょうか。

という昨日の問いかけにつながります。

自律的な個は、「種」であり「中景」の存在なくして生まれることはないでしょう。
それが「種の論理」です。

種(中景)は、なによりも「資本主義の精神」を学ぶ場として機能しなくてはなりません。つまり種(中景)は、それを教える守・破・離の守の場なのです。そして「類」(国家)は、その守の場としての種を壊してはなりません。類もまた種によって生まれた反転する個の存在によって担保されるものだからです。

1・労働それ自身を目的として尊重する精神。
2・目的合理性の精神。
3・利子・利潤を正当とする精神。

日本経団連の奥田碩会長の苦言にわたしは素直に耳をかたむけます。

5日の記者会見で、奥田会長は、最近の株高に関連して「日本全体がバブルのような雰囲気になってきたとの感じを持っている」と述べました。そして、国民の間に「拝金主義的」傾向が出始めたのではないかとの認識を示しました。「日本全体が金目当ての国になりつつある」と憂えました。

「(雑誌等で)『金もうけの方法』などが頻繁に特集され、テレビ番組を見ていても貧しい人はほとんど出てこない。『勝ち組』ばかりだ」と…。こうした「金持ちばかり取り上げられている」世間の風潮に不快感を表し、「『負け組』は苦しんでいることも忘れてはいけない」と語りました。

奥田会長は「労働自身を尊ぶ」という、資本主義の精神の欠如を敏感に感じているのだと思います。そして資本主義の危機を感じているのだと思います。

地域再生を考えるなら、まず、奥田会長のこの視点に立つことが、このITが普通にある時代(つまり1.5の関係の時代)には必要なことなのだと思います。

2005/12/06 (火)  
【「現場状況報告」の可能性】

午前4時起床。登別温泉は晴れ。

今日は、岩見沢へ移動します。夕方に岩見沢建設業協会さんでの勉強会を予定しています。「現場状況報告」の可能性について話をする予定です。

まずは、昨日室蘭建設業協会さんのIT化セミナーで使用した講演用のPPTを掲示しておきます。
→ http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダの中のBD051205.zipファイルです。

このPPTでも使っている下の図は、わたしの講演ではおなじみのインターネット社会の四象限図です。ここでは第W象限、つまりノングローバル、ノンコミュニティの象限は「どぼん」ということになっています。

つまりここに入らないように、ということでわたしのIT化論は第T象限と第U象限を視野に入れた「コミュニティ・ソリューション」の可能性を考えてきました。



しかし、最近のわたしは、この図に合理性要素を上書きすることで、第V象限がもつ非合理性に注目すると同時に、その非合理性を後ろ戸的に支えている第W象限を評価し直しています。


しかしそれは、コミュニティ・ソリューションの可能性を否定するものではありません。なぜなら社会におけるコミュニケーションを可能とするソーシャル・キャピタルこそが市場発展を維持させるものだからです。

だからこそ、いかにして私達はコミュニティ・ソリューションが可能なのかを考えています。コミュニティ・ソリューションの秘密であるソーシャル・キャピタルは、どこから生まれてくるものなのかを考えています。

それは人々の専門知や実践知から成り立っています。それがコミュニケーションの可能性を作り出しているものです。では、それらはどこから生まれてくるのでしょうか、ということです。

専門知は、第T象限や第U象限にある、形式合理性や、理論合理性や、実質合理性として学ぶことが可能なものです。では実践知はどこで学ぶものなのでしょうか。

実践知とは、実存的なものとしての「実践合理性」です。それは第W象限のものです。

つまり、コミュニティ・ソリューションの可能性のためにも、第W象限は機能しなくてはなりません。そして第W象限とは、「中景」であり「種」です。

それらはたしかにインターネット社会の特徴として「どぼん」になってしまっています(中景の喪失)。しかしそれは、インターネット社会において不要だということではありません。形式合理性や理論合理性や実質合理性が強調される中で、そして市場の純化が強調される中で、失われてしまっただけのものです。それは不要であることと同意ではありません。

そしてそれは、今という時代に「個」が過剰に強調されることにつながっています(「種」がないのですから)。たしかに、今という時代が、かつての時代と違う部分があるとすれば、それは個の強調です。それはあるいことではありませんし否定するものでもありません。必要なものです。

しかし、では「個」はどこから生まれてくるのでしょか。
自律的な個とは、かってに生まれてくるものなのでしょうか。

そうではありません。自律的な個を生むのは「種」であり「中景」です。

そこで我々は、専門知ばかりでなく実践知を学びます。ソーシャル・キャピタルの可能性を身につけます。そして個として認められます(「一人前」ということです)。しかしそれが今は機能していないのです。

第W象限(種であり中景です)が機能することで、第V象限の非合理性の可能性は生まれます。

それは例えば、ミーム論でいう「広い意味での技術のミーム」であり、信頼のひとつの要素であり、「楽しさ」であり、芸術のもつ「感動」の要素であり、ソーシャル・キャピタルの可能性です。コミュニケーションの可能性です。

そして自律的な個を生み出し、そのことで種もまた変化していきます。
それが「種の論理」です。



ここから生み出されるコミュニケーションは、コミュニケーションのためのコミュニケーションではありません。コミュニケーションはレイバーやワークに奉仕するものとなります。

それはアンナ・ハーレントの思いを裏切るものかもしれません。しかし、コミュニケーションのためのコミュニケーションは、それを純化させることで、機械的なものとなり、動物的なものとなり、非人間的なものとしかなりません。

私達はコミュニケーションをレイバーやワークに奉仕させなくてはなりません。そのためには、レイバーやワークの領域である、第W象限、そしてそれが生み出す第V象限の非合理性が大切にしなくてはなりません。

そして「種」としての、つまりは自分自身の仕事のはなしをしよう。
コミュニケーションをレイバーやワークに奉仕させよう。
これが「現場状況報告」の可能性です。

(アンナ・ハーレントの「人間の条件」については、店主戯言 2005年11月16日をご参照ください。 http://www.momoti.com/myself/self051102.htm#051116 )

2005/12/05 (月)  
【資本主義のための公共事業】

午前6時30分起床。登別温泉は曇り。

今日は室蘭建設業協会さんに参ります。午前中はIT化推進会議、午後からは、網走建設業協会からゲストをお招きしての勉強会です。

協会ベースのIT化の目的は、協会という「中景」を維持しながら、会員企業へ「IT化」を啓蒙することにあります。

もちろんここで言う「IT化」とは、協会の連絡業務ををイントラネットで行うことや、個々の企業がパソコンやインターネットを使う、という合理化・効率化目的だけのIT化ではありません。その合理性に「考える」というスパイスを効かせた「考えるIT化」のことです。

今問われているのは「公共事業という産業」のアイデンティティであり、公共事業の意義です。それに合理性の追求だけで答えることには無理があります。それだけではその存在価値を失うだけです。必要なのは非合理性さえ孕む哲学です。

なぜなら「公共事業という産業」は、そもそも非合理性を多く孕むからです。今はその非合理性が批判されていますが、だからと言って合理性に向かうだけなら、それは自らの首を絞めているだでしかないでしょう。わたしは非合理性にこそ「公共事業という産業」の存在意義と可能性はある、と考えています。

ある方からいただいていたメールを紹介いたします。
入札制度が指名競争入札から総合評価方式へ移行します。
入札金額だけではなく、その他の部分も含めて総合的に落札者を決定するというものです。
私は、この制度は始まると、地場業者はもう生き残れないな〜と思っていました。

(ざっくり)

業者数を減らすと言う大目標の為に、国はさまざまな仕組みを作ってきます。
大きなプレッシャーです。それにしっかり向き合い、取り組んでいきます。
難しいからやめるという事はしません。入札制度は時代とともに変化していきますが、ルーズにはなりません、ますますタイトになっていきます。

桃知先生のお話は、実は、国が業者数を減らす施策に対抗する、地場建設業者が目指さなければならない方向であるという事が、二日間を通してはっきり理解できました。

今、「公共事業という産業」には業者削減の圧力が強くかかっています。そして協会は「構造」(慣行・規制・制度)そのものですから、「構造改革」の圧力が強い今という時代には、強い破壊圧力を受けています。

確かに「構造」は、効率化を妨げる面もありますが、それ以上に市場を「秩序化」するための条件であることを忘れてはなりません。

「秩序化」と言うと皆さんは嫌な顔をされるかもしれませんが、資本主義が資本主義として発展するためには秩序が必要です。

1・労働それ自身を目的として尊重する精神。
2・目的合理性の精神。
3・利子・利潤を正当とする精神。

これを「資本主義の精神」といいますが、これは近代的な資本主義のためにはなくてはならないものです。そしてこれらの秩序をつくりだしてきたものが「構造」としての「中景」(地域社会や家族、学校、協会、会社、そして社会資本)です。逆説的には、中景の喪失と同時に資本主義の精神は失われてしまいます。

つまり、資本主義が資本主義として健全に発展するためには、その精神的な部分のバックボーンとしての「中景」(地域社会や家族、学校、協会、会社、そして社会資本)は、とても大切な役割を果たしてきました。その地域性(ローカル性・クラスター性)を少なからず支えてきたのが「公共事業という産業」だったのだ、とわたしは考えています(その過剰があったことは反省しなくてはなりませんが)。

では、その役目は終えたのでしょうか。「終わった」というのが今の答えでしょう。ですから「構造改革」なのです。そこでは「必要な公共事業論」が言われます。では「必要」とはなんでしょか。だれがその「必要」を決めるのでしょうか。そして構造改革の進む中生まれてきたものは何でしょうか。それは健全な資本主義でしょか。

地方の衰退と郊外化、高い自殺率、ひきこもりの問題、ニートやフリーターの問題、若年層の高い失業率、そして地方(地域)での高い少年犯罪率…等々、これが構造改革が進んだ今の日本の現状ではないでしょうか。

わたしは「公共事業という産業」の役割は終わった、とは考えていません。確かに単なる社会資本(道路や構造物)のための公共事業は財政面(合理性)から投資制限はあるでしょう。

しかし公共事業には、もうひとつの側面を見てとることができると考えています。それは「中景」の再構築ための「公共事業という産業」という役割です。それは非合理性さえも孕みます(例えば災害への対応等…、これはほとんど贈与経済です)。

このような意見は、「三丁目の夕日」的なアナクロリズムかもしれませんが、贈与経済に支えられたコミュニティの可能性とでも言えるものを、地域性を越えたコミュニティの可能性をネットに見ながらも、地域性を基底にもつコミュニティの大切さ(可能性)とその持続の可能性を考えるものです。

そこにわたしの「考えるIT化」はあります(このとき「考えるIT化」は、コミュニケーションの新しいあり方を考えます=「広くて薄い紐帯」という「超合理性」)。

それは、現状をちょっと「ひねって」見たときに現れるものです。その視点を持つとき、公共事業は、建設業のための公共事業ではなく、資本主義のための公共事業、社会資本(ソーシャル・キャピタル)のための公共事業の可能性を見せることになります。

それは「中景」が「中景」として機能するための公共事業であり、その担い手としての「公共事業という産業」のあり方です。「中景」の中の「公共事業という産業」が強調されることで生まれる「資本主義のための公共事業」です。

2005/12/04 (日)  
【炭水化物の日】

午前8時起床、浅草は曇り。

今日は、明日からの北海道ツアーのために新千歳へ飛びます。今日と明日の宿泊は登別温泉ですから、いつもの出張とは違って、少しはのんびりとできるかもしれません。

昨日は、久しぶりに京浜東北線で蕨まで遠征し、多留屋さんの「おじやうどん」を食べてきました。
 
多留屋さんへ行くのは約四年ぶりでしたが、店のおばさんはわたしの家族を覚えていてくれました。それはなによりもうれしいことでした。そして蕨の街並みも多留屋さんも、時間が止まったよう、になにも変わってはいない。なにかこみ上げてくる懐かしさのようなものに浸ってきました。

今回多留屋さんにお邪魔したのは、おじやうどんの存在確認が目的でした。と言うのも、「おじやうどんの会」を久しぶりに開催しようと思うからです。

第4回 おじやうどんの会
 → http://www.momoti.com/myself/Iitiran.htm

開催日は 2005年12月17日(土)
時間は 18:00より
場所はもちろん、蕨市の多留屋(地図は「おじやうどんの会」のサイトにあります)。

前回の「おじやうどんの会」は2000年12月20日の開催でしたから、かれこれ5年ぶりの開催となります。気の置けない方々と、ただおじやうどんを肴に酒を飲むという非合理の時間を過ごしたいと思います。参加をご希望の方は、いつものように店主へメールでご連絡ください。

浅草へ戻り、夜は末っ子さんで餃子を食べました。本当は「児玉」でおでんの予定だったのですが、児玉さんは6日までお休み、と貼紙がしてあったのです。
 
末っ子の餃子は、小さめで素敵な配列をしています(写真は二人前)。ここの餃子を食べると、わたしはジル・ドゥルーズの「襞」という本を思い出すのですが、「餃子の配列は襞のフラクタルだよねぇ」、「餃子には窓がないよねぇ、閉じているよねぇ」、「でもアンの複雑さはなんだ」、「まさにライプニッツ的な個、モナドだよなぁ」などと、ウルトラ個人的な楽しみ方で、勝手に盛り上がることができます。もちろん口にはだせません。

帰り道、浅草4丁目交差点の近くの「松葉」さんに寄って、大学芋をテイクアウト。400グラムで600円(税込)です。
 
ここの大学イモは、うちの近所の千葉屋さんとはまた違った趣があります。松葉の親父のあたまは見事な五厘刈りなのですが、そのあたま同様、いさぎよい大学イモです。

創業大正14年と看板に書かれた店は、黄色のテントと看板のわりには目立ちません。ただ裏浅草の中景に溶け込み、いつも同じように店が開き、いつもと同じように大学芋をつくっています。

それはまるで閉じた円環であり、たわいもない会話であり、資本の原理や、合理化の波からは縁遠いものです。しかしそこには、親父の仕事が生きています。そして私達に代替のきかないもの、非合理を提供してくれています。親父さんにはいつまでも元気でこの店を続けていってもらいたいと思うのです。

2005/12/03 (土)  
【コダクローム】

午前6時30分起床。浅草はくもり。

昨日の久慈市での講演は予定通りにお話をしました。冒険はしませんでした。珍しくアドリブもありませんし、予定調和のような講演でした。でも聞いておられる皆さんには少しだけ難しかったと思います(ノイズであったことを願っています)。

特に想像・創出のメカニズム(「創造的破壊」のメカニズム)の理解は、短い時間では難しいと思います。昨日は「工作の時間」の導入部分だけを使いました。



それはつまり、「メビウスの帯」のひねり(反転)なのですが、「象徴の一部否定」とわたしが呼んでいるものです。弁証法では「正・反・合」と呼ばれている実践なのですが、コツは、ジャック・ラカンの次のことばに象徴されています。

「解釈(アンテルプレタシオン)は、貸借(アントルプレ)を満たすために、快速でなければなりません」。

つまり反転は快速でなくてはなりません。そしてそれは、かなりいい加減なものです、というかいい加減な方が面白いのです。例えば写真をリバーサル(ネガ反転)させてまた元に戻るときに見えるグレースケール。そしてそのグレースケールの濃淡です。

グレースケールは微分すれば白と黒になります。その白と黒は専門知です。しかし、その濃淡を決めているのは実践知だということです。
過剰な合理性(拝金主義も含む)は、このグレーの濃淡をすべて白と黒の点描に還元してしまいます。そしてそれでおしまいです。それだけで物事を理解したつもりになる。それだけで経営がわかったような気になる。

しかしそれだけではだめなのです。それは単なる分析、デーコード、微分でしかありません。

想像・創出のメカニズム(「創造的破壊」のメカニズム)は、このグレースケールに再度色をつけるメカニズムです。それは積分であり、エンコードであり、ハイブリッドです。白と黒だけでは色(楽しさ:非合理性)は生まれません。RGBが生まれるのは「実践知」を白と黒に混ぜ合わせているからです。

 仮にぼくの独身時代に
 つきあっていた女の子を全部
 写真にとって
 ある晩 集めたとしても
 ぼくの楽しいイメージに
 かないっこなんかないんだよ
 白黒でみると
 なんでもかんでもしらけちゃうのさ
 (ポール・サイモン,『コダクローム』 ,牧範之訳)

今日は本当に久しぶりに蕨の多留屋さんへ行ってきます。もちろん「おじやうどん」の生存確認のためです。できるならば、今年度中に「おじやうどん友の会」を復活させたいと思っています。
http://www.momoti.com/myself/Iitiran.htm

2005/12/02 (金)  
【日帰りな出張】

午前5時35分起床。浅草は曇り。

今日は、岩手県久慈市での講演のため出張。、二戸までは新幹線、二戸からはバスにて移動します。今日は日帰りのスケジュールで、移動が往復8時間以上、講演時間は2時間。もちろん帰宅は深夜になります。なかなかハードな出張です。

今日のセミナーはお題をいただいております。それは「中小建設業者の受注を増やす営業戦略」です。これは大変に難しいお題です。なぜこんなお題がわたしに来たのかはよくはわかりませんが、つまりこれはマーケティングのことだと解釈させていただいて、今日は、市場の見方とその見方から生まれる戦略可能性をお話する予定です。

もちろん公共事業もその中に含まれますが、公共事業について語るにはあまりにも時間が短すぎますので、これもご要望であるリフォーム市場を中心としたお話をする予定です。

まあ、ここでの問題は、わたしに市場を見る力があるのか、ということですが、そこは例の「弁証法」を使うわけです。田坂広志氏はその著書『使える 弁証法』でこう言っています。

 この「弁証法」を学ぶだけで、
 物事の本質が、分かるようになります。
 社会の未来が、見えるようになります。
 すなわち、「洞察力」と「予見力」
 それが身につくのです。
 そして、もう一つ、「弁証法」を学ぶと身につくものがある。
 「対話力」
 ただ、対話をするだけで、
 自然に、思考が深まっていく。
 そして、物事の本質が見えてくる。
 そうした力が身につきます。

そしてこうも言っています。

 「哲学的思索」
 使っているのは、それだけです。
 使っているのは、ときおり目に入る新聞や雑誌の記事と、書店で手に取る本、たまたま目に入るテレビの番組、そして、哲学的思索。それだけです。
 こう述べると、「そんな馬鹿な」と思われる方も多いでしょう。
 そう思われる方は、ぜひ、この本を読んでいただきたい。
 なぜなら、物事の本質を洞察し、未来を予見するために、膨大な情報や知識は必要ないからです。詳細な調査や分析は必要ないからです。
 むしろ、世の中には、そうしたことの落とし穴を語った、あの言葉がある。

 木を見て、森を見ない。

わたしも少なからず「弁証法」そして「哲学的思索」を学んできたわけですから、今日はそれを使ってみようと思います。ただし、具体例はたいして示すことはできません。わたしが語れるのは、市場の見方です。ですから抽象的な話に終始することでしょう。

「抽象的」、これはわたしのセミナーで批判的に指摘されることです。しかしマーケッティングのような、社会心理、つまりミームの問題を扱うとき、そのような形のないものを伝える言葉は形而上学の言葉しかない、とわたしは考えています。

つまり、木ではなく森を見て語るのですから、森の言葉を使うしかないわけです。もちろん、実際の講演ではそれを可能な限り噛み砕いてお話しますが、「何言ってんだ、この野郎〜」と思ってもらうことも狙っています(それを「ノイズ」と言います)。

さて今日はどうなりますか。
骰子一擲(郵便的誤配)を楽しんでこようと思います。

本日使用予定のPPTを掲示しておきます。
http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダの中のBD051202.zipファイルです。

では、行ってきます。

2005/12/01 (木)  
【1128第25回新宿セミナーの反省】

午前6時45分起床。浅草はくもり。
12月になってしまった。年末に向けてせわしない日々が続きます。ご安全に。

さて11月28日の第25回新宿セミナー資料「働く若者に未来はある」の反省をしてしまいます。まずは松原隆一郎教授の配布資料を引用します。

T.「構造改革」と労働市場改革
・構造改革=コミュニケーションの「透明化」と経済の「市場化」
・市場化=公共部門の民営化と市場の純粋化、
・市場の純粋化=製品市場における規制緩和、生産要素市場における構造撤廃
・生産要素市場における構造撤廃=土地市場における「都市再生」、資本市場における「直接金融化」、そして労働市場における「リストラと成果主義」

U.構造改革が破壊するもの
・「構造」(慣行・規制・制度)は、効率化を妨げる面もあるが、それ以上に市場を「秩序化」するための条件である。
・「構造」の過剰な撤廃は、将来への不安を招く(希望を失わせる)。
→流動性の罠(貨幣保有)、止まらない少子化、高い自殺率、年金の不払いなど。
・コミュニケーションには、専門知にかんするものと実践知にかんするものがある。専門知は一般化でき、教科書に記載しうるもの。実践知は、断片的であり、コツやカンにもとづく判断を要するもの。
→戦後日本では、学校と企業が専門知と実践知の双方を扱ってきた(学歴社会、会社主義)。社会(コミュニティ)は縮小し、部活などに追いやられた。
・しかし、社会におけるコミュニケーションを可能とする社会資本こそが市場発展を維持させるものである。
・大学院化などの専門主義や、即戦力の要請は、社会資本を弱体化させる。
・学校・企業・社会の健全な均衡が必要。Jリーグ百年構想。

松原教授は、なにか漫談ぽい玄田有史氏に比べればかたい印象があったのですが、その内容はとても興味深いもので、それはヴェーバーの「資本主義の精神」を思い起こさせるものでした。

つまり「構造改革」の合理化圧力は「構造」(中景)を破壊します。しかしその破壊された「構造」(慣行・規制・制度)はたしかに効率化を妨げる面もありますが、それ以上に市場を「秩序化」するための条件だということです。

そして「構造」(中景)は、社会におけるコミュニケーションを可能とする社会資本(「ソーシャル・キャピタル」ですね)を育てあげる場であって、そのコミュニケーション可能性こそが市場発展を維持させている、ということです。

しかし戦後の資本主義化の中では、学校と企業がコミュニケーションの可能性を担うなかで、地域社会の役割は軽視されてきました。松原先生は専門知も実践知も学校と企業が担ってしまった、と言っていますが、今や学校や企業に対する合理化圧力が高まる中で、専門知を優先し、実践知はいらないものとなってしまいます。つまりわたしの使っている下図では第W象限は「どぼん」となるのです。



そこで松原先生は、コミュニケーションの可能性を、(学校や会社ばかりではなく)社会にも均等に戻す必要がある、といいます(つまり「コミュニティ・ソリューション」です)。

その例をJリーグに見ているのですが、松原先生は浦和と新潟をほめておられました(それを地域性をベースにしたコミュニティと理解してもよいでしょう)。

つまり市場がちゃんと機能発展していくためには、無駄なものとされた(反構造改革的な)中景は必要だということです。そして実践知(実践合理性:例えば集団主義)さえも無駄なものではないのです。

この理解は、昨今の合理化至上主義(つまり民営化)をよしとする方々には受け入れられないものでしょう(それは単純に議論がナイーブなだけです)。けれども、近代化、資本主義化によって失われたのは、じつは資本主義が資本主義として機能するために必要だった「労働それ自身を尊重する精神」であり、それらを作り出していた(というよりも過剰な合理性や利益優先や専門知の優先を抑圧していた)「構造」(慣行・規制・制度)、つまり「中景」だった、ということなのです。

今回の出張の移動時間に読み直していた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の訳者解説で、大塚久雄氏はこんな風に書いています。

 天職義務 ちなみに、ヴェーバーはここではこういうエートスのことを天職義務(Bersfspflicht)と呼んでおりますが、これは彼が別の個所で「世俗内的禁欲」と呼んでいるのと同じもので、これが「資本主義の精神」を形成する不可欠な核となるわけです。言いかえると、この天職義務と呼ばれるようなエートスを労働者が身につけているばあいにのみ、産業経営的な資本主義が成り立ちうる。つまり、それは資本主義的産業経営にとって構成的な意義をもっているというのです。もちろん、資本家たちのばあいもまったく同様で、この天職義務というエートスを彼らが身につけているのでなければ、経営者としての機能を果たしえないだろう、とヴェrバーは言っております。

 これはたいへん興味のあることがらです。このごろイギリス病などということが叫ばれておりますが、あれはおそらくイギリスの経営者や労働者たちのあいだから、この天職義務というエートスというよりは、それに見合う行動様式がついに姿を消してしまうという現象を指しているのではないかと思います。あの「民間活力」というような次元の考え方ではとうてい理解できないことがらではないでしょうか。

例えば、最近話題の耐震偽造問題にしても、個々の当事者のはなしを聞いていますと、この「天職義務」のようなものが微塵もないことに気付きます。彼らはそれぞれに自らの立場の合理性を主張しているようですが、その合理性の挙句が非合理を生み出してしまっているわけです。なぜなら彼らにはヴェーバーが「天職義務」と呼んだ倫理が微塵もないからです。彼らは幸田露伴の『五重塔』なんて読んだこともないのだろうな、と思うのです。

五重塔五重塔

幸田露伴(著)
岩波文庫

420円(税込)






コミュニケーションをレイバーやワークに奉仕させる。
反転のために、変えてはいけないものを持っているか。
自問せよ。
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