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店主戯言051101 2005/11/1〜2005/11/15 "There goes talkin' MOMO"


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IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を伝える

2005/11/15 (火)  
【未来のイヴ】

午前5時30分起床。浅草はくもり。
朝方一仕事を終えてから、この戯言を書き始めたので、今朝の更新も遅めだ。

未来のイヴ未来のイヴ

ヴィリエ・ド・リラダン(著)
斉藤磯雄(訳)

1996年5月31日
創元ライブラリ

1575円(税込)



最近、リダランの「未来のイヴ」を読み始めた。本田透氏の「萌える男」に紹介されていたものだ。

『このように西洋では、中世までは「萌え」は彫刻や絵画、詩作といった芸術によって表現されていた。だが、産業革命によって「科学的な萌え」の可能性が生まれた。十九世紀、リダランは『未来のイヴ』を著して。二十一世紀の萌えの時代を予言している。』

『未来のイヴ』の主人公エワルドは、アリシャという美貌の女性に恋をする。しかしアリシャは外見こそ美しかったが、内面は低劣で愚劣だった。アリシャを通して現実の女性の不完全さに絶望したエワルドは、エディソンが創った完全なる人造人間ハダリを愛するのだ。一神教的恋愛はパートナーに神のごとき完璧さを求めざるをえないという前提にたてば、リダランの出した結論は正しいと言わざるをえない。』(「萌える男」,p83‐84)

最初のフレーズを読んだときに、中沢新一氏のことを思い出した。それは彼が「フィロソフィア・ヤポニカ」で田邉元の「種の論理」を引用しながら示してみせた「モノとの愛」の可能性だ。

しかしそれ(中沢新一氏のいう「モノとの愛」)は、本田透氏がいう「一神教的恋愛はパートナーに神のごとき完璧さを求めざるをえない」(この前提は正しいと思うが)を今あるものとして認識し、それを超えたところにあるものだ。「モノとの愛」は、自己愛を超えたところにある。

これは押井守監督の「イノセンス」に続くテーマだろうが、「未来のイヴ」でリダランが示して見せたある意味自己愛的な「内面の低劣で愚劣」(それを人間性と呼んでもいいだろう)を排除した人間ではない「モノとの愛」への志向は、なにも「萌え」ばかりではなく(「萌え」はその志向の反作用だと考えている)、今や私達の日常を覆っているのだろうと思う。

自己愛的な、人間的なものを排除したモノ(人造人間)を愛するという行為は今や普通にある。

つまり、あなたは自分自身の「内面の低劣で愚劣」を排除しようとしてはいないだろうか?ということだ。

私の人生がうまくいかないのは、私自身の「内面の低劣で愚劣」のためではないのか、と思ったことはないだろうか?

そしてそれを克服しようとして、なにかの努力したり、思い悩んだりしてはいないだろうか?

そしてそれはなんのためなのか?

わたしは、あった。
(わたし自身の「内面の低劣で愚劣」を排除しようとしてきた)。

しかしそれがなんのためなのかなんて考えたこともなかった。
(しいていえば、幸せな人生のため?、仕事で成功するため?)
(わたしは自助マニュアル的なものへ傾倒した時代があった。あの時代に「コーチング」があれば飛びついていただろう)。

つまりそうすることが当たり前なのだと思ってきた。
(しかしそれが当たり前であって当たり前でないことを今は知っているつもりだ)。

そしてそれを他者にも見ていないだろうか。
(わたしは限りなく純粋なモノへ近づこうとしているのだから、あなたもそうしなさい、と)。

だからその意に反したマナーの悪い人を見ると腹立たしくなることはないだろうか。
(場合によっては「キレる」)。
(でもそれは、ほんとうにひどい迷惑なのだろうか?)

(わたしは、「公共事業という産業」への批判は、この文脈で考えいる。つまりたいしたことのないマナー違反? でもそれが気に入らないのだ。)

わたしは以前、ある方にあるところでこう書いた。

『はい、わたしも「けしからん」とは思わないようにしています(笑)。
 もう生まれるようにして生まれてきたとしか考えられないのですよね。
 なので、ではなぜそうなのか?と考えることにしています。』

ではなにがこんな風な日常をつくりだしているのだろうか、と考えたとき、昨日のこの図を書いてみたわけだ。

わたしたちは、無自覚に象徴界としての「感情」に支配されているのではないだろうか。それは「中景」というローカルルールが喪失したことで、この国では規範のように機能しているいるものだ(「公共事業という産業」はローカルルールの塊のようなものだ)。

それは一方で、コーチングや自助マニュアル大好きな、「内面の低劣で愚劣」排除志向の人間を生み(それは精神の合理化だ)、一方で「萌える男」(これはある意味合理化への反発なんだろうと思っている)を生み出している、とだけ書いておこうか。これらは深層ではつながっている(多くの方はこのふたつの「ハイブリッド」だろう)。

そう私達は合理化が大好きなんだ、でもそれが私達を苦しめてもいる。そして「公共事業という産業」はそれ(合理化)ばかりではないってことだ。だから後戻りするのではなく(したくともできない)、今という時代を大またで跨いでしまい、その先に「公共事業という産業」が着地できるような論理がほしい、と思う。

でもその論理は今はない。中沢新一氏がその一番近いところにいて、それを示してくれそうだとは思っているが、まだどこにいもない。だから、私達は考え続け、動き続けなくてはならないのだと思う。常に「ノイズ」でありたいと思う。腹を据えてね。(笑)

2005/11/14 (月)  
【長い前置き(まくら)】

午前7時起床。浅草は曇り。

昨日は体調もよくないし、家人は不在だし、わたしひとりで過ごす日曜日だったので、手っ取り早く思考の日とした。つまりただ、考えるのでもなく、考えないのでもなく、本を読んだり、お茶を飲んだり、映画を観たりして、うだうだと過ごしていたわけだ。

しかし体調同様に脳みそは不調であって、思考も行動もまとまりを欠くのも確かで、今朝もそれを引きずっていたりするからどうしようもない。今朝もこの戯言を書く気になるまで時間がかかった。なので今朝の戯言、分裂気味なのはあらかじめご了承いただきたい(笑)。

今という時代、つまりITが普通にある時代では、確かにわたし達はとっても自由だ、なにをどう考えても他者に迷惑をかけなければ自由だし、そこになにかの権力が立ち入ることもない。旧来の権力はもはやない。自由だ、でもなにかが失われている。

例えば自動改札が導入される。スイカが導入される、まもなくそれがケイタイと一体化される。それは便利だけれども、なにかが不自由になる。その不自由とはなにかと考えると、それは「キセルする自由」がなくなるってことだろう(笑)。

IT技術が拡大することでキセルはなくなります。改札の人員も減り合理化も進みますので経費も削減されます、という理論で管理強化が行われるとに、キセル推進派は返す言葉はない。

本当は雇用の問題や、個人情報の問題とかいろいろと議論すべきことはあるのだけれども、多くの方々は「便利でいいんじゃない」というだけだろう。つまりそれが「消費者」の選択だってことだろう。

例えば電子入札(+競争原理)が導入される。合理化や効率化が進み経費も削減され、競争原理が働くのかもしれない。入札する方だって便利になるかもしれない。でもなにかが不自由になる。それは「談合する自由」がなくなるってことだろう(笑)。

電子入札を拡大することで談合はなくなります。合理化が進み経費の削減も行われます。市場原理が働きますので安くて良い仕事が行われます、という理論で管理強化が行われることに、談合擁護派は返す言葉がないわけだ。

本当は地域の雇用の問題や、地域の経済的な事情とかいろいろと議論すべきことあるのだけれども、多くの方々は「それでいいんじゃない」と思うだけだろう。つまりそれが「消費者」の選択だ。

こんな感じで、わたし達はとても自由でありながら、なにか自由ではなくなる。だからといってそれに抵抗しようとしても、その自由ではなくなるものが、結局は犯罪的なものでしかないことで、それに対する理論武装ができていない。

そしてその「いいんじゃない」を支えているものが「消費者」という私自身も含めた得体の知れないもの(空気のようなもの)であることで、わたしのような、なんとなく自由じゃなくなる、ということに確信的な危機感を持っている人間の立場はけっこう苦しい。

だからといって、技術的にあぶない、という価値中立的な立場(つまり専門家の意見)に立っても大して意味を持たない。危ないという専門家がいれば、危なくないという専門家も必ず出てくる。

ダムの建設の議論を考えてみればよい。専門家同士の議論は多くの方々の理解を超えている。鮎が減るとか減らないとか、科学的データを見せられてもなんだかわからない。だからどっちを選択するかは単なる「消費者」の好みでしかなくなる。つまりここである意味「科学的」の権威も失墜している。そこでは肝心な議論はどうでもよいのだ。だから郵政も民営化される。

「消費者」の選択が神の時代なのだろうか。では「消費者」の選択ってなんだろうか、と考えたときに、斉藤環氏がいうように、象徴界が喪失するなんてことはありえない、ってことが今の理解としてはいいのかな、と思う。なので昨日はまずこんな絵を描いてみた。
 
別役実氏がいわれるように中景としての象徴界は確かに喪失した。中景っていうのは言ってみればローカルルールなわけで、かつてこの国では共同体的なアイデンティティを提供してきたものだ。しかし人間の心の構造から象徴界がなくなることがないのであれば「中景」になり代わって象徴界を支配しているものがあるってことだろう。それはたぶん「感情」なのだろうと思う(これは「マクドナルド化」からの連想である)。それが「消費者」の選択だ。

と、ここまでが前置き(まくら)であって、昨日考えていたのはこの後の部分なのね(笑)。つまり「マクドナルド化」とその「感情」ってなによ?であり、ではどうしようか、だ。でも、今日はもう書く気力はない。これじゃまるで小三治師匠のようだだね(笑)。

2005/11/13 (日)  
【Listen To The Music 2】

午前5時50分起床。浅草は晴れ。
最近の仕事場&移動の時間のお気に入り。

Listen To The Music 2

槇原敬之

2005年9月28日
東芝EMI

3059円(税込)






特に、宇多田ヒカルの「traveling」、美和明弘の「ヨイトマケの歌」そして矢野顕子の「ごはんができたよ」が好きだ。

「traveling」は今更ながら凄いな、と思う。宇多田ヒカルは、日本語で歌う新種であって(気付くのが遅いか)、それを旧型の槇原がなぞる、とう構図は、かつて演歌歌手がニューミュージック系の曲を歌う(例えば森進一の「冬のリヴィエラ」)程度のハイブリッド感はある。それはそれで面白いのだが、やっぱりこれは原曲の出来が素晴らしいのだろうな、と思う。

「ヨイトマケの歌」はよくぞコピーしてくれました、と感謝しなくちゃいけない。かつての放送禁止曲。この曲はわたしたちが忘れてはならない原風景なのだと思う。そしてここから「ファイト!」(中島みゆき)と続くのだが、最初に聴いたときにそのアナクロリズムには仰け反りそうになった。

しかしそれはアナクロリズムではありながら、今生きているわたしたちの歴史性を呼び起こさせずにはいられない。「そうだよ、ついこの間まで、わたし達はその世界にいたんだ。たぶん、いや本当は今でもね…。」

それは昨今の恋愛至上ブームを考えれば、マーケティング的には失敗かもしれない。でもラブソングを捨てて、あえて政治的な歌を槇原は歌う。

しかしこの試みは、今という時代にその主張性をぶつける対象が不可視化していることで、非常に宙ぶらりんな印象をつくりだしてしまうのもたしかだ。共同体的アイデンティティへのノスタルジア。しかしそんなものは今はない。やるせなささえ感じる。

と次の瞬間、槇原は、不意打ちのようにわたし達に呼びかけてくる。

 「つらいことばかりあるな帰って帰っておいで」 ((c)矢野顕子)

わたしはここがこのアルバムのハイライトだと思う。

「ごはんができたよ」がもともと持っている母性は、その瞬間に鮮やかに浮かび上がってくる、というか際立つ。そこにはくっきりと槇原の主張が見えるように思う。

それは、共同体的アイデンティティを失い、恋愛さえも消費しなくてはならなくなってしまったわたし達が、帰る場所としての「家族」の存在だろう。それは、「恋愛資本主義((c)本田透)」(とその挫折)の先にある、生活と密着した母性であり、家族という三の関係なのだと思う。

 「義なるものの上にも 不義なるものの上にも
  静かに夜は来る みんなの上に来る
  いいひとの上にも 悪い人の上にも
  静かに夜は来る みんなの上に来る」 ((c)矢野顕子)

わたし達はいったいなにに疲れ果てているのだろうか。
わたし達はどこで子供のように眠ることができるのだろうか。

そして、アルバムは「見上げてごらん夜の星を」(坂本九)でエンディングを迎えるわけだ。

このアルバムはカバーアルバムだけれども、それをまるでコンセプトアルバムのように構成してみせた、おそるべし!槇原!なのである。

しかし若い人たちはこれをどう聞くのだろうか。ちょっ興味がある。

2005/11/12 (土)  
【「IT化(経営)=環境×原理】

午前6時17分起床。浅草は雨。
寒いので自動稼動のエアコンは「暖房」になっている。

萌える男萌える男

本田透(著)

2005年11月10日
ちくま新書

785円(税込)







「萌える男」である。また「萌え」か、と思われるかもしれないが、そう思われる方は、自分の思考停止か脳みそのモルタル化でも疑ってみるといい。そして「この本でも読みましょう、ビジネスマンさま」と、野村総研の本でも紹介すれば、ちょっとは興味を持ってもらえるのだろうか。

オタク市場の研究オタク市場の研究

野村総合研究所オタク市場予測チーム(著)

2005年10月27日

東洋経済新報社

1890円(税込)






わたしの「萌え」への興味は、システム論的に環境を考察をしているに過ぎない。それは「IT化(経営)=環境×原理」の環境であり、今なぜ「萌え」なのかだ。

わたしは、「おたく」にしろ「萌え」にしろ、今という時代に生まれるべくして生まれたと考えている。それは今という時代に「公共事業という産業」が衰退していくことと同じ文脈で、である。

では、「おたく」や「萌え」は、「公共事業という産業」の対極にあるものなのか、といえば、それは「ちょっと違う」ということが出来る。つまり「おたく」や「萌え」もまた批判の矢面に立たされることが多い。批判をしているのは同じ世間だ。

その批判の根底には、「萌える男」の言葉でいえば「恋愛資本主義」があるのだが、それは「公共事業という産業」への批判の根底にある「ネオ・リベラリズム」と同じ一元論主義にある、とわたしは考えている。

今朝、8チャンネルを見ていたら、芸能人のプロポーズについてのミニ特集をやっていた。いわく、IT長者が婚約指輪にン千万円…(しかしその先に幸福な家庭をイメージできないのはなぜだ)。それは日常にメディアを通して流される芸能ニュースかもしれないが、「恋愛資本主義」とはつまりこんなことだ。

多くの女性はそんな(お金持ち、できれば三高な)相手との恋愛を夢見ているのかもしれない。しかし現実は、婚約指輪どころか、おしゃれなデートもできない若い世代が増えているのも経済学的な事実であって(つまりフリーターやニートの顕在化、「私をスキーに連れてって」はどこにいってしまったの?)、恋愛でさえも、恋愛「できる」と「できない」の二極化が進んでいるのは事実だ。つまり誰でもが自由なはずの「恋愛」にさえ、勝ち組と負け組がある。それは「恋愛」でさえつくられたイメージで消費されているからだ。

そのつくられたイメージである「恋愛資本主義」から見れば、「おたく」は見事に「負け組」なわけだ。「恋愛資本主義」のルールに乗ることなく、戦うことなく(競争嫌いだもんね)勝手に二次元に非難しているのだから、「恋愛資本主義」(とそれを支持するマスコミ)からは非難の対象にしかされない。

つまり資本のルール、消費のルールからは逸脱しているわけだ。だからこそ非難の対象となりやすい。そしてそれは基本的には「公共事業という産業」への世間イメージと同じ構造を持つ、とわたしは思う。今それを支えているのは、「自己責任>配分的平等」の一元論だ。

しかし批判されながらも(気持ち悪がられても)、「萌え」そして「おたく」は地味に元気なのである。「電車男」が消費されても「おたく」は消費しきれない(ちなみにわたしは「電車男」は嫌いである。理由は酒飲んではしゃべっているけれども、つまりあれは「恋愛資本主義」至上主義だからだ)。

「おたく」市場規模は大きくなったといわれても、「公共事業という産業」に比べれば数十分の一に過ぎない。それでも「おたく」は元気だ。「おたく」はひきこもらない。しかし「公共事業という産業」には元気がない。なぜか。

それは位相の違いからくるものだと考えている。つまり、つくられた平等としての「公共事業という産業」(三次元)の機能不全の先にある平等として、二次元的に「おたく」は「今ある」のだと思う。

こんな視点を持つことで、「おたく」の可能性は見えてくるものだと思う。「おたく的才能」の可能性が見えてくることで、「公共事業という産業」の機能のデコードと再エンコード化は可能となるだろう。

なぜ、新しいビジョン、新しいシステム、新しい価値観をつくりだそうとしないのか? それは「公共事業という産業」もまた「一元論」に陥っているからなのだと思う。

こんな視座から、2005年11月21日(月) 突然!東京独演会 「イントラネット経営」−本気ではじめる組織改革−の展開を考えていた。

2005/11/11 (金)  
【ご当地ヒーロー】

午前6時55分起床。浅草は曇り。今日は盛岡出張。
まずは、突然!東京独演会のお知らせである。
 → http://www.momoti.com/gyoumu/semi_annai.html#051121

今回はイントラネットを「システム論」的に見たセミナーを予定していて、つまり、
 イントラネットとはなにか?
 イントラネットでなにができるのか?
 イントラネットでなにがかわるのか?
 イントラネットがなければ生み出せないものはあるのか?
等について、「システム論的」(つまり「オートポイエーシス」的)に考えてきたことを、簡単な言葉に置き換えていこうと考えている。

#「システム論」
生物の起源、成長などのシステムを考察し、そこから物理的、心理的、社会的に普遍的に一般化できるシステムを立論するもの。

#「オートポイエーシス」
初めに構成要素が存在するのではなく、システムが作動することによって構成要素が算出され、次に算出された構成要素間の関係によってシステムが再産出される循環関係をとるシステム。

時間がないので、集客には苦労するだろが、あえて21日に開催したのは、その日が、二の酉(お酉様)と重なるので、勉強会終了後、お酉様ツアーをしようと考えたからだ。
 → http://www.otorisama.or.jp/hyoushi.html
この日はわたしの自家用の熊手を購入予定なので、手締めも体験できるし、そして近所で一献の予定でいる。
勉強会+お酉様、是非多くの皆さんの参加をいただければと思う。

昨晩は、オホーツクからのお客様がおいでになり、清司から岩手屋と楽しく過ごした。皆さんありがとうございました。m(__)m

ただこの訪問は不意打ちであったため、(体調がよくなったもので)錦糸町で、もう入りません、というほど焼肉を食べてきたわたしは、清司の寿司も、岩手屋のおでんも食べられなかった。「腹八分目」ということばが頭をよぎった夜だった。(笑)
造型:nassy(SEENA-CASA)
さていきなりの展開である。熊本県は矢護川のご当地ヒーロー「グランパワーヒノクニ」である。造型者であるnassy(SEENA-CASA)さんから、11月6日矢護川 里の収穫祭にてデビューしたとのメールをいただいた。そのデビュー戦の写真がこれだ。(↓)
名前は『グランパワーヒノクニ』

GROUND POWER=大地の力
GRAND POWER=総合力 の意

個名『ブレイズレッド』(炎の赤)
消防団(ボランティア)が変身した姿。(繭には入りません)

熊本の自然と未来を守るヒーロー。

(以上、nassy(SEENA-CASA)氏のメールから抜粋。

nassy(SEENA-CASA)さん、おめでとうだ。\(^o^)/

これを一からつくりあげたあなたは本当にすばらしい。

ぜひ地元に愛されるヒーローになって、地域を盛り上げてください、なのである。

しかし、わたしといえば、上の写真で気になってしかたがないのもがあるわけで、それが左の写真だ。

 「恋も最初は挨拶から」

ん〜、含蓄のある言葉だ。思わず唸ってしまった、というか笑ってしまったわけで、こんなものが体育館に貼ってある「矢護川」って、どんな人が住んでいるだろう、と思ってしまう。たぶん礼儀正しい人ばかりなんだろうな、と思う(笑)。

さてそれはさておき、ご当地ヒーローは今や食玩の世界では有名で、例えば離島戦隊サドガシマンや、同じくイキツシマンは知っておられる方も多いだろう。


(出展:フィギュア王 No.93 ,p131)

着ぐるみバージョンでは、離島戦隊タネガシマンが有名だし、東京には「東京みやげんジャー」というのがあるらしい(わたしは見たことはない)が、今や食玩におけるご当地ヒーローはちょっとしたブームになっている。

(出展:フィギュア王 No.93 ,p131)

詳しくは、「フィギュア王 No.93」、p131をご覧いただきたい(って、そんな本を購読されている方はほとんどいないだろうな)(笑)。

これらのご当地ヒーローは、ご存知のように原型がある。古いところでは、ゴレンジャーや仮面ライダーということになるだろう。その原型をデコードし、地元の特産品や地域特性をハイブリッドしながらエンコードすることで、これらのご当地ヒーローは生まれてくる。それは戦隊モノが、次々と(少しだけ)意匠を変えて、新しい番組を再生産しているのと同じ手法である。そして今やヒーローは、テレビやアニメの世界だけではなく、地方というクラスター特性を持って再生産されることとなったわけだ。

そして大切なことはこれらには必ず「物語」がある、ということだ。
nassy(SEENA-CASA)さんはこう書いてきた。

熊本の自然と未来を守るヒーロー。基本的には環境破壊や、自然保護をテーマに田舎をPRするようなシナリオを考えたいと思っております。

誕生の際はこんなカタチになろうとは思っていなかった地球も、人間が出現し贅沢や便利さのあまり、自然にメスを入れつづけてきたが、流石に地球も病んできた。大地が怒っている。倉本聰監督の言う地球回復みたいな感じに作れればいいかなあと思っております。

現在は適役のカメレオン(ペットとして飼われていたものが、人間に捨てられ、人間に対する悲しみと憎悪を増幅させて生まれた外来種。本来は日本にはいない、物をペットとして持ち込むことによって環境破壊が生まれる。本来は現実社会にはいない物を生み出してしまったと言う設定で)との絡みとなっております。

物語である。それは小さな物語である。しかしそれを甘く見てはいけない。今や地方の公共事業は、人をひきつけるほどの物語を再生産できなくなっているじゃないか、ということで今朝はおしまい。出発の準備だ。

2005/11/10 (木)  
【一の酉】

午前6時45分起床。浅草は晴れ。
身体の不調はお腹にきている。

昨日は一の酉へ、それは賑やかなものだった。ウィークディの午後、まだ日の高いうちになのだけれども、ごらんの人出だ。

この賑やかさはお祭り特有のハレではあろう。しかしこのハレは単に華やかななのではなく、なにか妖しさがつきまとっている。ここはトビっきりの「公界」(くがい)なのである(中沢新一氏は「アースダイバー」で「アジール」と表現している)。

それはTDLと同じ構造をもつが、この妖しさは逆立ちしてもTDLには醸し出せないものだ。それは吉原(究極の日常の反転としての「ハレ」であった)が近いからかもしれないし、この御酉様というお祭りの持つ特異性ゆえのものかもしれない(御酉様の特異性については「アースダイバー」のp212〜をごらんいただければと思う)。

まあそれはなんにせよ、こんな妖しい空間が期間限定とはいえ堂々と営業中なのは、さすが浅草!としか言いようがないではないか。

さて昨日は、みちプロのリングアナ、パンチ田原氏が店番をしている「中野目」さんへ出向いた。今年のみちプロは安比での大会がなくて残念なのだけれども、こんな妖しいところであえるのも何かの縁ではある。キリ番景品用の熊手を購入し記念撮影をしてきた。自家用のものは、二の酉(21日)にある方と行く約束をしているので後回しにした。
写真上右は、やっぱり出ましたの「萌え萌え熊手」で(中野目さんにあったのではない)、よく見ると下の写真のように、萌え系のフィギュアで飾られていたりする。

これをどう理解すればよいのかはわからないのだけれども、経済原理に即して言えば、これは究極の無駄遣いであることは確かだろう。そもそも御酉様の熊手は経済原理も交換の原理もあったものじゃない。実用性はゼロである。

しかし熊手に大枚を払い(熊手は決して安いものではない)、あわよくば開運と、商売繁盛を目論んでいるのだから、自己責任も市場原理もあったもんじゃないのだ。熊手は経済原理を飛び抜けたところにある。それを可能にしているのが公界なのだ。

そしてこの萌え萌え熊手だ。これはまったく世のためには役に立たない「絶対領域」である(笑)。その意味ではこれに大枚を支払う人は、(コッパーを砕いて海に投げ捨ててしまうポトラッチのように)究極の贈与をしているようなものだろう。

しかしそれでいいのである。公界ではデッカイ熊手を買う人(無駄に消費する人)が尊敬されるのである。ここでは権力も経済原理も及ばない公界である。ただ贈与の原理が機能しているだけだ。しかし街は活気づくのである。

わたしはここに地域再生の秘密があるのだろうと考えている。メイドカフェでも、TDLでも、御酉様でも、そこを活気付けているのは、公界的な無限小に覆われた空気である。経済原理や効率化と合理化では、地域は再生できない。ましてや競争なんかなんの意味もない。

そして帰りは、いつものように露天をひやかしながら帰ってきた。これもお祭りの楽しみである。いくつになっても楽しいものだ。ここは吉原も近くてちょっとあぶなっかしい風景もあるが、しかしそれもまた非日常の空間である。ここで遊ぶ子供たちはなぜかとてもたくましく楽しそうに見えた。

2005/11/09 (水)  
【お金の話若しくはトリックと照れ】

午前6時45分起床。浅草は晴れ。
外気は冷たく、冬晴れの朝だ。札幌では雪が降ったと聞く。
昨日からどうも体がだるい。風邪でもひいたかな、と思う。

今朝は、昨日のお題、【リーバーサルTDL】のフォトアルバムを作成してみた。
興味のある方はご覧いただければと思う。
http://photos.yahoo.co.jp/pinkhip 「リバーサルTDL」

リバーサルという日常の非日常。反転が日常に非日常を作り出す。これは自分でやって自分でびっくりしたわけで(笑)、皆さんも是非やってみてほしい。

さて今日は御酉様だ。切番ゲッターの皆様、お待たせしました。先に注文した景品がうまく出来てこなかったこともあって、景品についてはいろいろ考えていてた。結論、鷲神社のかっこめ(熊手)にしようと思うのだ。かっこいいのを探してくる。ちゃんと手締めもやってくる。だからもうちょっと待っていてね(笑)。

鷲神社は開運と商売繁盛の神様だ。商売繁盛は、わたしのような個人事業主でさえ(だからこそ?)そう願わずににはいられないのだが、さて商売繁盛とお金儲けは同じことなのかな、と考えてしまった。

もちろんわたしは、お金はあった方がいい、と思っている人だ。じゃなかったら商売としてこんなことはしていないし、IT化をビジネス(お金儲け)に結びつけようとしたりはしない。

なんといっても、お金はメタ欲望、つまり欲望の欲望であり、俗物的な欲望の多くはそれで叶えられるし、懐が暖かいだけで、つい気も大きくなってしまう。つまり全能感がみなぎる。(笑)

それはまるでおかあさんにホールディングされた子供のようなものだ。お金に抱かれているとき、母に抱かれたような全能感を感じるのはなぜだろう。

わたしは、お金というのは、ホールディングにおけるお母さんのように、お母さんの代替になるように機能しているものだ、と考えている。

つまりそれは「自己愛」を満たす。
(ナルシシストはお金がお好き?)

お金は本来、価値の流通を円滑に、合理的に進めるためにある。つまり、お金は自己増殖はしない。お金は勝手にお金を生み出したりはしない。だからお金がお金を生む出す(増殖する)には、価値の増殖の仕組みが必要となる。今その仕組みとして最もポピュラーなものが「資本主義」だ。だからお金を増やしたいと思うなら、価値の増殖の仕組み(資本主義の仕組み)は知っておく必要がある。その方程式は簡単に書けばこうなる。

 「使用価値−交換価値=剰余価値」。

基本的に使用価値は交換価値とイコールのはずだ(それが市場原理のたてまえだ)。しかしイコールであれば単なる交換にしかならないし、剰余価値は生まれないではないか、と考えた方の思考は正しい。つまりここには使用価値が交換価値より大きくなるような、若しくは交換価値は本当はもっと安いのよ、というようなトリックが必要なのだ。資本主義が面白いのは、それがトリックの体系だからだ。そしてそのトリックを成立させているのが「生産」ということになる。
 
しかし今や、「生産」の大切さを忘れて、お金がお金を生み出す、というような言説が多いのはなぜだろう。それは資本の仕組み(トリック)を知らないからだと思う。「創出の仕組み」(上の図)を駆使しながら、何かを生産する。そしてそれを資本のメカニズムに乗せるというのは、わたし達の世代に許された唯一の(偽)コルヌコピアだ。でもそれは(偽)であり、だからそこにはトリックがある。それを知っていてあえてやっている、っていうのがまともだろうと思う。

知っていてあえてやる、というのは演技のようなものだ。どこかに「照れ」がある。それが行き過ぎ(心をお金に預けてしまうような)、例えば拝金主義者(お金にホールディングされたナルシシスト)にならないための抑制装置ではなかったのだろうか(この国ではいつの間にか拝金主義者という言葉も死後になった)。

最近のマネーゲームには「照れ」がないと思う。つまりトリックがトリックじゃなくなっている。マジなのだ。だから見ている方が恥ずかしい。最近のお金持ちを見ていると照れがないと思う。「なにまじになっているんだよ」とさえ思う。みんな(庶民?)がトリックを使っていることを知らないのとでも思っているのだろうか。
まあこれも、お金のない人間のやっかみだと言われれば、返す言葉もないのだけれどもね(笑)。

2005/11/08 (火)  
【リバーサルTDL若しくは現代の公界】

午前6時時50分起床。浅草は晴れ。

昨晩はTDLでエレクトリカルパレードを見てきた(気分転換)。下の写真はその写真をネガ反転したものだ(つまりリバーサル)。闇と光を反転させると、闇はまるで水彩画のように光を放つ。つまり見方を変えれば闇は光になり、光は闇になる(これが「ひねり」だ)。
 
TDLは昨日からクリスマスバージョンになっていて、花火も題して「クリスマスウィッシュ・イン・ザ・スカイ」。わたしは花火の神様に見捨てられていたのか、いつも天候不順で見られなかったのだが、昨晩は今年初めて花火を見ることができた。
 
こうしてリバーサルすると、TDLがとても二次元的な絵画的なものであることがわかるだろう。その秘密は闇の中に隠れ、太陽の光のまぶしさが覆い隠してしまっているものだ。

TDLにいて昨晩もこう思った。「やっぱりここは公界(くがい)だ」ってね。 公界とは無縁が保障される場所のことである。つまり日常との縁を切るという意味で(無縁)TDL(TDR)は公界である。

そして、昔から公界と芸能は切っても切り離せないものなのだが、TDRは自らを「野外劇場」と呼ぶほどに芸能的が生きているところでもある(かなりバタ臭く洗練されてはいるけれども)。

さらに、TDRではみなさんがあんなに毛嫌いしている「萌え」要素が氾濫している。なにしろ主役は着ぐるみだ(それも二次元を無理やり三次元化したものだ)。「キャスト」(従業員)を見れば、メイドカフェ真っ青のコスプレ大会である。着ぐるみにコスプレ、これがTDRの基本であり、それはTDRが芸能的公界である証でもあろう。

「今度来るときは、清掃係のコスプレで来よう。それも魔法の箒を持ってね。その格好で掃除しちゃいけない。その格好でアトラクションで遊ぶんだよ。」(昨日のわたしの馬鹿話)

そして「ゲスト」(入場者)といえば、猫耳ならぬ、ねずみ耳や、熊耳や、ウサギ耳や、鹿耳や、トラ耳なんかを頭につけてフツーに歩いていたりする。リボンまでつけてね。

そしてそれを見てもだれもなんとも思わない。どんなに「萌え」を嫌っていてもだ(孫に無理やりつけているじっちゃんまでいる)。

つまりTDRでは日常とは(少しは)違う自分がいる。でもそれは当たり前のことだとみんな思っている。なぜならTDRは公界であることを無意識に理解しているからだ。日常に戻って、ねずみ耳で過ごしている人なんか見たこともない(時々新幹線や電車の中で出会うことがあるが、大方はTDRからのお帰りである)。

(ただ、だれもがそれは当たり前のことだと思っている。当たり前だと思ったとき思考は停止する。でも「考える技術」は違う。そこにある構造を見ようとする。)

公界に居るときには、どんな人でもある意味「おたく」的なのだ。TDRというイリュージョンの中で想像が遊んでいる。それは「野生の思考」(パンセ・ソバージュ)のなせる業だろうし、「野生の思考」はTDR的なものを求めているともいえるだろう。だからTDRで楽しめないなら、自分の野生の思考の機能不全を疑って見ればよい(TDRの野生の構造はこれだけではないのだが今回はそれには触れない)。

TDRをリバーサルして見るとき「野生の思考」も、わたしが「おたく的才能」と呼んでいるものも、なんとなくは見えてくるだろう。

つまり、TDRでねずみ耳に萌えているやつはいないってことだ(TDRにいるのは人間に欲情しているカップルだけである)。TDRでは「萌え」の構造は「萌え」ではない。フツーなのだ。着ぐるみもコスプレもフツーなのだ。なぜフツーなのかといえばそこは公界だからだ。そして人間はそこで喜びを感じている。

この視点からは、いろいろなものが見えてくると思う。例えばわたしはこんな風に考えている。

「おたく」とは、自分で「公界」(日常からの無縁)をつくってしまう人間のことである。

「おたく」はTDR的を自分の領域に勝手につくってしまう(笑)。それがアキバにあったり、自分の部屋にあったり、ネットの中にあったりする。ただそれだけのことだ。そこでは皆さんがTDRで感じるように、「野生の思考」が機能している。「おたく」は、たまたまその場所がTDRじゃないってだけのことだろう。

そして日常(つまり仕事の中で)その「おたく的才能」を発揮できる人を、わたしは尊敬さえしているわけだ。(笑)

ということで、今日は一日創造的な仕事の予定である。これが結構煮詰まっていて、それが昨晩のTDL行きの原因であることはほぼ間違いない。(笑)

2005/11/07 (月)  
【萌え経済学若しくは萌え反古典の政治経済学】

午前6時30分起床。浅草は晴れ。

萌え経済学

森永卓郎(著)

2005年10月25日
講談社

1575円(税込)






まったく、森永卓郎には油断も隙もあったもんじゃない。「萌え経済学」である。「萌え」もついにエコノミストに消費される時代となった。そして「萌え萌えジャパン」にひきつづいてこ、れも講談社というメジャーからの発刊だ。

その善し悪しを即断できる材料は今のわたしにはないが、多くの方々に少しでも「おたく的才能」が理解され、その誤解が解ければよいかな、なんてわたしは楽観的に考えている。しかしこの表紙である。いくら森永卓郎の本だからといって、スーツにネクタイ姿のビジネスマンが書店でこの本を手にするのは勇気が必要だろう。

わたしは、(「萌え」を含めた)「おたく的才能」を、日本的な「想像」(創造)の必然だと考えている。例えば日本の産業(例えば電器産業や自動車産業)は、その創成期においてキャッチアップ型である。つまり先進国の製品を手本としながら、それに改良を加え、オリジナルよりも優秀な製品をつくりあげることで成功をおさめた。

そこにはブリコラージュ的な「想像」が機能してきた。それは素材をデコードし、データ化し、再びエンコードする、という「おたく的才能」なのである。日本人の「野生の思考」((c)レビィ=ストロース)はこれを最も得意とする。それを些細な改良技術に過ぎないと見ることも可能だが、その改良と改善こそが日本のものづくりの真髄だったではなかったか。

そして経済的先進国となり、もはやキャッチアップする立場ではなくなったとき、この国の主役級産業は、「野生の思考」を吸収できなくなった。「野生の思考」は行き場を失った。つまり社会人となった若者たちの多くが、その「野生の思考」を仕事の場で発揮する機会を失ってしまった。

その行き場を失った「野生の思考」が、ポコっと押し出されるように顔を出したのが、「想像」を「想像」のまま商品化し、それをまた消費する仕組みを持った「おたく」の市場化なのだろうと思う。つまり「萌え」の産業化だ。それは社会の多くが管理化され、均質化の圧力を強めること関係しているのではないだろうか。「野生の思考」は管理されることが苦手なのだ。

つまり日本人の「野生の思考」(つまり「想像」のメカニズム)を、管理化されたメインカルチャーはもはや吸収しきれない。発揮する場を作れない。しかし人間の脳の基本的構造である「野生の思考」がなくなってしまうことはない。その「想像」は無意識的に存在し、どこかで表出するすきまを探している。そしてその表出の今のかたちが「おたく的才能」なのだと思う。

一昨日の「横浜セミナー」では、「想像」のメカニズム(日本的な「野生の思考」)の例として「ギャル文字」を使った。この「おたく的才能」は、原型に対してブリコラージュ的に手を加え、原型とはちょっと違うものを生み出す、という日本の産業界が得意とした「想像」と同じ構造を持っている。それはいわば、日本人の「野生の思考」であり、「萌え」と同じ構造を持つものだ。

この絵は、「名探偵コナン 51巻」収録の「ロシアンブルー」で使われていた「ギャル文字」である。

ストーリーはこの「ギャル文字」を毛利小五郎が解く、というのもだから、わたしには興醒めものだったのだが、皆さんは、なんと書かれているかわかるだろうか。

これは、「おとーさんの誕プレかいに行くのつきあって」と書いてある。たぶん女子中高生だったら簡単に解読してしまうだろう。

「ギャル文字」では、文字や記号はいったん部位にデコードされデータベース化さる。そのデータにはケイタイやパソコンで使える記号やギリシャ文字まで含まれ、そのデータを日本語の象形としてエンコードとすることで「ギャル文字」は作られる。

これは日本語という象徴の抑圧が強いから生まれているのではなく、むしろ日本語という象徴の抑圧の弱さが生み出したものだろう。例えば、下の写真は日本の「アール・ブリュット」である松本国三さんの作品だが、この日めくりカレンダーにびっしりと書き込まれた「文字」は、まさに「ギャル文字」だった。

(写真:「芸術新潮 11月号」,p76 撮影=広瀬達郎)

作者の松本国三さんは、じつは読み書きを習ってはいない。つまり象徴としての日本語の抑圧は機能していないと考えていいだろう。しかし「文字」をデータとした想像(芸術)は生まれてくる。わたしはまさに「野生の思考」の表出だと思う。

「ギャル文字」も「アール・ブリュット」も、「象徴の一部否定(機能不全)」故に「野性の思考」が機能した結果だろう。それは「おたく的才能」も同様にだ。だからといって、おたくは去勢されていない人間だ、ということではない。彼らは社会人として普通の生活を送る方々だ。ただ彼らの心理構造には(やむにやまれず)「野生の思考」がはみ出すだけの隙間があるのだと思う。

ここでは教育について云々するつもりはない。わたしの興味は、なぜにこの「野生の思考」が、「おたく的な才能」として商業ベースにのるほど大きな市場(コンテンツ産業は2兆円の市場)として表出しなくてはならなかったのか、ということである。それも今という時代にだ。

それを簡単にいえばこうなるだろう。管理化された社会から、その管理の「すきま」をみつけ日本人の「野生の思考」ははみだしはじめたのである。

「野生の思考」は今でもわたし達の思考の構造として生きている。しかしそれは管理化(マクドナルド化若しくは早稲田化)の下では抑圧され、勉強でも、仕事でも、社会生活でも、機能する機会は少なくない。

しかしそれは(管理化された)空間の裂け目を狙って潜り抜けようとしている。それが「おたく的才能」として表出してきた。このときインターネットは、裂け目をつなぐメディアである。

キャッチアップの終焉(開発主義の終焉)の時代とは「失われた10年」だった。そこでは自由(行動の自由)と平等(機会の平等)が強調され、個性重視、自己実現、自己責任が喧伝された。

しかしその理念とは裏腹に、(特に日本では)『緩すぎるそのすきまを埋めあわせようとやっきになる。そうしてはじめにもとめていた可塑性とは正反対のカタレプシー(硬直状態)に陥ってしまう。この世界の〈外〉へ踏みだすのではなく、この世界の内部に閉塞しきってしまう。』(鷲田清一,「(想像)のレッスン」,p37)という機能が働いてしまったのだろう。そこで日本人の「野生の思考」は行き場を失う。この国は「想像力」を失う。「野生の思考」は管理が嫌いなのだ。

例えば「公共事業という産業」はますます管理化が進んでしまっている(ISO、行政指導の新分野への進出、そして品確法…)。「公共事業という産業」は、あまりに管理化されてしまった。

そしてその世界の内部に閉塞しきってきた。それは心理社会学から見れば、まるでおかあさんに抱かれた赤ちゃん(ホールディング)でしかなのだが、おっぱいがちゃんと出ている限りは「私」は全能感につつまれて幸せである。「野生の思考」はしまいこまれていてもなんんお問題もない。

しかしここにきて、おっぱいの出は極端に悪くなった。でもあまりに管理化されてきたので「想像力」は働かない。「野生の思考」を「公共事業という産業」の中で使う方法を知らない。それは建設業が悪いのではない。我々はそう育てられてきただけだ。

だから、ここで急に自己責任と自己実現を言われてもね…、体が動かない。できることは、想像力を失ったこの国が、(この閉塞をもたらした)自由(行動の自由)と平等(機会の平等)を理念とするアメリカのいうことを聞くしかないように、また「ママ」のいうことを聞くだけだ。しかしそれはさらなる「管理化」の再生産にしかならないだろう。

そして今や、世間(と世間化した政治)という現実は、「公共事業という産業」の想像力のはるか先にある。それは善し悪しを別としてだが…。だからこそわたし達は、この時代の「公共事業という産業」のあり方を「想像」しなくてはならない。「想像」し続けなければならない。

だからこの閉塞した「公共事業という産業」に、「野生の思考」(想像力)を呼び出すにはどうしたらよいのだろうか、とわたしは考えている。それがわたしの「IT化」ということになる。それは別名「考える技術」であり、ITが普通にある時代の「社会化」ということだ。

2005/11/06 (日)  
【アンチ即戦力主義】

午前7時起床。横浜はくもり。
午前中はホテルでのんびりとし、昨晩に引き続き中華街にて昼食をとり、午後3時前に自宅に戻った。

昨日はパロール的なはなしをしたので、いつものようにその反省の行為を(PPTにまとめることで)行うのだが、その前に、昨日紹介したことばの引用先を明らかにしておきたい。

『しかし、いったいだれが、グローバル化社会のなかでの人材戦略とが、即戦力人材の活用であると言い出したのだろうか? アメリカではアウトソーシングによる即戦力のフレクシブルな活用こそが主流であると、どこかのコンサルタント会社が喧伝し、そのための活用プログラムでも企業に売り歩いたのだろうか?』

この辛らつなことばの発信者は、玄田有史氏だ。彼はこれを、「誤ったアメリカ流」と言っている。(玄田,p8)

働く過剰働く過剰  大人のための若者読本

玄田有史(著)

2005年10月25日
NTT出版

2415円(税込)






この本は「アンチ即戦力主義」から「働くこと」を考えている。大学を出たばかりの新入社員が即戦力となるような仕事は、だれでも出来る(つまり「マクドナルド化」した)代替可能な仕事である。ヘッドハンティングで採用した人材も同じだろう。代替は可能なのだ。

つまり、ここに書かれている「即戦力主義」とは、昨日のセミナーのお題である「0.5」であり、その即戦力を生み出すことを目的とした大学のシステムこそ「早稲田化」である。今この国は「即戦力化」がすすみ、『個性重視、自己実現、対人能力への偏重が若者たちを追い詰めている。』

『そもそも、安定をつかむとは、その場所に居さえすれば、ノーリスクで確実なリターンが得られるよな、思考停止を許される安住の地を見つけることでは、すでになくなっている。むしろ、安定した生き方に必要なのは、今後自分に起こる可能性がある最悪の事態や状況を、今の段階で、できるかぎりリアルにシミュレーションすることだ。そして、その最悪の発生を未然に防いだり、実際の起こってしまったときの被害を最小限に抑えること、そのために今でき得ることをコツコツと続けていられる状態を、真の安定というのだ。』

『安定した生き方とは、最悪に対する想像力を確保できることであったりするし、それにやれるだけのことをやってあとは上手に開き直る所作であったりする。だからこそ、大人が若者に提供できる安定というメッセージとは、経験不足の若者に対して、最悪とはどういう状態を指しているのかを、具体的に想像させることなのだ。そして、そんな最悪のイメージを前にしてそれを真に回避するにはどうすればよいかを、理屈を超えて実感させることでもある。』(玄田,p255)

しかし、そんな風にはなっていない。なによりも「中景」としての地域社会や協会や会社や学校の機能が喪失してしまっている。自分自身を考えたとき、自分の中になにがあるだろうか。地域や協会や学校や会社があるだろうか。せいぜい「家族」にこだわるだけの自己愛パーソナルがいいところじゃないだろうか(まあ、家族が機能するだけでもましだが…)。

わたしは昨日、今までのわたしの主張を否定することを言った。それは「@の右側を大切にしよう。」だ。わたしは、個人事業主として@の左側で生きてきた、と考えてきた。それは自己責任と自己実現の時代にはふさわしかったかもしれない。しかし、わたしのような生き方でさえ、じつは@の右側は存在していたことが今になってわかってきた。例えばそれは@「公共事業という産業」であったり、@浅草であったりする。

そして@の右側で、代替が利かないことで、わたしはわたしでありえる。それを共同体的アイデンティティと呼んでもよいだろが、わたしがなにものであるかがわからないでは、わたしは希望をもつこともできないだろう、と思う。

そして@の右側とは象徴なのである。それは「象徴の一部否定」という時の「象徴」である。つまり、否定するものがなければ、象徴の抑圧がなければ、@の右側がなければ、「想像力」は働かないということだ。しかし、「公共事業という産業」は、象徴が強すぎる。それでもまた「想像力」は働かない。象徴には、一部否定できるだけの「すきま」が必要なのだ。

2005/11/05 (土)  
【Passion and Action - 生の芸術 アール・ブリュット展】

午前6時35分起床。浅草は晴れ。
今日は「横浜セミナー」。

昨日、仕事場の断水で仕事ができなかったので、銀座へ出かけ、ハウス オブ シセイドウで開催されている「Passion and Action - 生の芸術 アール・ブリュット展」を見てきた。
http://www.shiseido.co.jp/house-of-shiseido/html/exhibition.htm
 
「At.Jennie Richee」 Henry Darger (配布チラシより)

ヘンリー・ダーガーの戦闘美少女であるヴィヴィアン・ガールズは楽しい。彼の意思からすれば、本当はわたしが楽しんじゃいけないことは知っている。でも彼がこの絵を描いているときのことを想像したら楽しくなる。彼はこのとき創造主だった、自分だけの「非現実の王国で」。

今回の展示会にある作品は(一部を除けば)「あかるい」という表現ができるだろう。作品は崩壊した精神の再構築の中から生まれてきている。その再構築された精神のルールが一般的ではないだけだから、創出は「くらい」ものではなくなる。彼らは皆創造主なのだ。つまり「我書く、故に世界がある」。

その中でも、一番衝撃を受けたのは、日本の松本国三さんの作品だった。これを見て涙する若い人は多いのじゃないだろうか、どこかで同じ心の構造を感じるはずだから。

(写真:「芸術新潮 11月号」,p76 撮影=広瀬達郎)

写真が小さくてよくわからないだろうが、日めくりカレンダーに、文字がびっしりと書き込まれている。美しい文字の反復である。ひめくりカレンダーにリズムとしての文字が刻み込まれている。

松本国三さんの作品は、(彼が知的障害をもつ故に)『読み書きを習っていないのだが、歌舞伎のプログラムから広告のチラシの類まで、さまざまな印刷物を参照してはお気に入りの文字を日めくりや手帳にびっしり書き込んでいく』(「芸術新潮 11月号」,p82)ものなのである。

しかしその文字は記号であり、最初から文章ではない。データである、材料である。「我書く故に文字あり」だ。そして批判を覚悟で書くが、ここに書かれた文字を見て、これは「ギャル文字」と同じ構造をもつものだなと思った。つまり日本語という象徴が機能していない故に生まれた創出なのだとわたしは思う。ギャル文字には同じ構造が働いている。

ギャル文字の例
原文 おはようございます。
ちょっと ぉはょぅこ〃さ〃ぃます★
そこそこ ぉは∋ぅこ〃±〃レヽます★
とことん ぉレ£∋ぅ⊇〃±〃レヽма£★
(ギャル文字変換: http://mizz.lolipop.jp/galmoji/ による)

これは、文字をデータとしていったん部位にデコードし、それから象形的にエンコードすることで生まれている。つまりこれが可能なのは象徴界からの抑圧不全の結果(つまり日本語という象徴の縛りがゆるいから)であって、データベースモデル、「おたく的才能」のひとつだとわたしは考えている。
(ギャル文字については、2005/6/16の【今頃 法大EC最終回の反省 ^^;】でわたしなりの理解を試みているので、詳しくはそれを読んでほしい)

ギャル文字を、ケータイやインターネットの普及を原因に批判する言説がある。またそれと同様に、「おたく」や「萌え」についても、そして「1.5の関係」についてもケータイやインターネットの普及を原因に批判する言説がある。まったく関係がないとはいわないが、それは頭の悪い批評家の戯言でしかない。2005/11/03【萌え萌えジャパン】で書いたように、弱いものをスケープゴード化して安心している今という社会の構造がもつ「へたれ」に過ぎない。

象徴界としてのアイデンティティなんか、とうの昔に壊れているし、それを壊したのは、ケータイでもインターネットでもない。私たちはそう育てられてきたのだ。そしてその中で崩壊した精神の再構築をしている。それはギャル文字を見ればよい。「あかるい」だろう。ただ精神構造のルールが違うだけだ。(笑)

さてこの展示会には、「コラージュ」と分類されるものが何点か展示されていた。作成者不明の作品(石に彫刻をほどこしたもの)は、コラージュっていうよりはブリコラージュ(器用な手仕事)に近いもので、それは「野生の思考」((c)レヴィ=ストロース)を思わずにはいられない。そしてその解説が面白かった。たぶんこんな感じ…「改善と修繕という機能は働いていない…」。間違っていたらごめんなさいだが、「なるほどそうか」と思ってしまった。

そしてこの展示会で見つけた素敵なことば。
『ちょっとした逸脱―Deviation
 アール・ブリュットへの一歩は、ちょっとした逸脱からはじまります。』

『ちょっとした逸脱―Deviation』は、いいことばだとは思う。意味は「象徴の一部否定」と同じだけれども、おしゃれな使い方だと思う。でも、この展示会にあるものは「ちょとじゃできないよ」ってね、わたしは笑ってしまったわけだ。

大いなる精神の逸脱と再構築。つまり精神のデコードとエンコード(だからルールは違うのよ!)から生まれてきた「創出」、それが「アール・ブリュット」なのかなと思った。

2005/11/04 (金)  
【〈想像〉のレッスン若しくはchanger la vie(生活を変える)】

午前7時起床、浅草は晴れ。

<想像>のレッスン〈想像〉のレッスン

鷲田清一(著)

2005年10月31日
NTT出版社

1785円(税込)






「〈想像〉のレッスン」は、「アート」(芸術)が生まれる構造について、事例を紹介しながら、やさしい語り口で書かれたものだ。つまりそれは「考える技術」や「創出」とわたしが呼んでいるものだが、それがわかりやすく書かれている。

鷲田先生は、〈想像〉をこう定義している。『〈想像〉というのは、ここにあるものを手がかりとして、ここにないもの、つまりは不在のものをたぐり寄せる、あるいは創りだすという、精神のいとなみのことだ。』(鷲田,p32)

これは昨日の【萌え萌えジャパン】で紹介した「萌え」の定義、『「ふれたい、でもふれられない」という、不在と実在の境界でたゆたい、現実には届かない存在に、想像力という手を伸ばす。そうして対象のリアリティをより強固に感じる行為。』(堀田,p37)と同じ構造を持つことがわかるだろう。

それはまた下の図(↓)でもあり、つまりデータベースモデル((c)東浩紀)であり、ハイブリッドであり、「おたく的才能」だってことだ。
 
  (図:「網状言論F改」,p29)

ただ、「おたく的才能」とは、ある精神構造のもとで、ある意味自然に生まれるものだが、それを例外とすれば、今という時代にぶら下がって生きている方々に、「想像力、創造力を働かせろ!」などといっても、「そりゃ無理なこった」というのがわたしの意見だ。今はただ生きているだけじゃ創出は生まれない。そんな時代なのであり、そんな精神構造の時代なのである(だからそこ、あえて「考える技術」なんていうものを考えている)。

人は本来、生きているだけで想像力は機能する。しかし今はそれがはたらきにくくなっている。なぜかといえば、「ひねり」(ツイスト)がない円環にみんなで閉塞しているからだ(マクドナルド化)。つまり流動的知性(対象性思考)が正常に機能していないのだ。ただ唯一、スーパーフラットな1.5の関係=「おたく的才能」が浮遊する日常になってしまっている。

『古い街にあっていまのニュータウンにないものが三つある。一つは大木、一つは宗教施設、いま一つは場末だ。この三つには共通するものがある。世界が口を開けている場である。』と鷲田先生はいう。(鷲田,p33)

どこか中沢新一的ではあるが、わたしはこれを読んで思わず笑ってしまった。「そうだよ、わたしが地震の恐怖に怯えながらも(笑)、好き好んでここ(浅草)に住んでいるのは、この街にはニュータウンには無いものが三つあるからだ。」ってね。

残念ながら浅草は、大木は関東大震災や東京大空襲で焼かれてしまい、浅草寺の境内にその傷跡を残すものが数本残っているだけだが、宗教施設と場末はばっちり完備されている。

これらに惹かれるように浅草に住んでいて思うのは、これは『この世界の〈外〉に通じる開口部や裂け目』(鷲田,p36)であり、この世界の内と外をつないでいる裂け目なのだ、ということだ。この世界の〈外〉とは〈想像〉で結びつく世界であり、それは『別様の存在の可能性』(鷲田,p36)でもある。

例えば浅草寺の戦災、震災樹木は、この街の歴史を雄弁に物語っているのだが、それはわたしの生まれるずっと前の出来事である。しかし、わたしがそれらを前にできることは、『ここにあるものを手がかりとして、ここにないもの、つまりは不在のものをたぐり寄せる、あるいは創りだすという、精神のいとなみ』であり、つまり〈想像〉だけで過去とつながるという行為だ。

浅草寺の無の構造(子宮的構造)は、以前に書いたように(2005/06/17 【エロスとタナトス】)「小さな死」という「反転」」の場であり、場末とは、『ひとを追いやる場所というよりもむしろ、そこに身を沈めることで、緊急避難場所として、ひとが息をひそめ、かろうじて生き延びることのできる場所でもある。』(鷲田,p35)

そんな場末は『都市の〈闇〉を象徴してる』(鷲田,p35)が、それこそが「裂け目」であり、「すきま」であり、境界であり、わたしの言葉では「ひねり」(ツイスト)の場であって「反転」の場である。

そこには『別様の存在の可能性』(鷲田,p36)がある。追いつめられるようにやってきたその場所もそれはそれでひとつの人生である。つまり世の中には「こういうのもありなんだ」、という人間の生の「多様性」が見えるのである。それは流動性を保ちながらたゆたう空間のようなものだ。

その流動性や多様性のない世界は、『あまりに確固として硬く(ということはあまりに脆いということでもあるのだが)、ひとがなにか力を加えることで変わるという感じがしない。ひととしては、無力感、つまりはふんづまりの閉塞感に包まれる』(鷲田,p36-37)のである。(これは「ニートの文脈」だ)

かといって「すきま」が大きすぎると、『緩すぎるそのすきまを埋めあわせようとやっきになる。そうしてはじめにもとめていた可塑性とは正反対のカタレプシー(硬直状態)に陥ってしまう。この世界の〈外〉へ踏みだすのではなく、この世界の内部に閉塞しきってしまう。』(鷲田,p37)

これは「アノミー」の構造であり、昨今の公共建設政策が陥っているネオリベラル化の罠である。たぶん今という時代は、自由(〈私〉の尊重と自己責任)というものを意識しすぎた反覆として、逆に硬直化が進んでいるのだと思う。だからそこでは「おたく的才能」以外の想像力は働かない。

政治さえ「おたく的才能」(1.5の関係)で動いているというのが、小泉さんの政治手法、そしてそれを支える世間へのわたしの見解だが、そんなものでさえ、硬直化した「公共事業という産業」の想像力をはるかに超えているのだから、「勝負になるわけがないじゃん」と思う。つまり現実は「公共事業という産業」の想像力のはるか先をいってしまっているのだ。

だからこそ必要なのは、合理の枝葉論などではなく、「想像力」なのだ、とわたしはいうのだ。しかしいったん世界の内部への閉塞が始まってしまうと、『過剰なまでの合理主義や過度の饒舌、嫉妬心、被害妄想、さらには、つねに厳格に同じ仕方で同じ行為をおこなわないと安心できないという常同行為、あるいは幼児的な退行現象といった、定まった規則の存在の確認に異様なまでにこだわることで、緩すぎるそのすきまを埋めあわせようとやっきになる。』(鷲田,p37)

つまりこうして(やらなくてもいいような)マニュアル化(マクドナルド化)が進むわけだが、それは結局、『はじめにもとめていた可塑性とは正反対のカタレプシー(硬直状態)に陥ってしまう。この世界の〈外〉へ踏みだすのではなく、この世界の内部に閉塞しきってしまう。』のである。つまりただしばりつけるだけの神経症的「負のフィードバック」に冒される。それで「安心」を得ようとする。そかしそれでは自ら「反転」することはますます困難になってしまうだけなのだ。

だからこそ「象徴の一部否定(ひねり)」が必要なのだ。しかしなにを「一部否定」すればいいのかも、なにを否定しないのかも、その閉塞の中からは見えない。「考える技術」がないとそれは見えない。「考える技術」とは、ことばで視界をこじ開けることだからだ。

だからこそわたしは「おたく的才能」に期待をかけている。若い人たちの持つナチュナルな「想像力」に期待している。それは閉塞した「公共事業という産業」に対する「ノイズ」としてだ。

しかしそれは「1.5の関係」であることも確かで、今や世間では常識的なものだ。だからできればやりたい「象徴の一部否定(ひねり)と2分の1切断×2」なのだ。しかし一朝一夕にはこれはできないことも確かである。だから勉強して欲しいと思う。書いて欲しいと思う。反省を続けて欲しいと思う。

今必要な〈想像〉とはことばで視界をこじ開けることだ。



ということで、今日、わたしの仕事場はなぜか断水となり、トイレも使えなくなる。なので銀座の「ハウス オブ 資生堂」で開催されている「Passion and Action - 生の芸術 アール・ブリュット展」へ出かけてくる。
 http://www.shiseido.co.jp/house-of-shiseido/html/exhibition.htm
そこは、ナチュナルな想像力が、日常に切り開いた「裂け目」があるはずだから。
そして、『合理に非合理を突きつけ、目的志向の中に無償を爆発させる』((c)岡本太郎)を感じてこようと思う。

2005/11/03 (木)  
【萌え萌えジャパン】

午前7時起床。
浅草は少しだけ曇り。

萌え萌えジャパン萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造

堀田純司(著)

2005年3月31日
講談社

1680円(税込)




「おたく的才能」などと言っているわたしのまわりには、「萌え」や「おたく」を理解されている方が多い(?)、とは思うが、世間一般では、まだまだ「おたく」は嫌われ者なのだろうと思う。世の中の不条理や陰惨な事件が、「おたく」と結び付けられてイメージさることも多い。

それは人の心理的なもの、つまり不条理や陰惨な事件に対しては、なにか理由付けをしないと安心できない、という心理が働いているからだろう。なにかを元凶とみなし、それを批判することで安心を得ようとする。そして「おたく」はこの元凶の対象になりやすい。

なぜなら「おたくは」不条理や陰惨な事件の元凶と思われるほど、危険なものだからではないからだ。わたしは「おたく」は人畜無害である、と言っているが、世間はこのことをよく知っている。「おたく」がフィギュアが欲しくて盗みを働いたとか、メイド・カフェのメイドさんに乱暴を働いた等というはなしは聞いたことがない。いくら責立てても「おたく」は反旗なんか翻さない。ただ「おたく」の生活を満喫するだけだ。

だから「おたく」は、「おたく」と「おたく」を理解しようとしない人にとっては、「なんだかよくわかからないもの」であり、「関係のないもの」なのだ。それがマイノリティであるときには、ここには差別の芽がある。そして「なんだかよくわかからないもの」に対する不安は、批判へと結びつくのだろうと思う。

例えば不条理で陰惨な事件な事件ばかりでなく、ひきこもりやニートといった社会問題も、その原因が「おたく」と直接若しくは間接的に結び付けられて語られることが多い。

しかしそれは、「なんだかよくわかからないもの」をスケープゴードにするという、人間の心理が働いているだけだろう。本当のことはよくわからないのだけれども、それを問題の元凶として理由付けし、批判し、安心しているのだろうと思う。それがわたしの嫌いな二元論だ。

つまり「おたく」を「よくないもの」とすることで、それがなくなれば世の中はよくなる、ひきこもりも、ニートもいなくなる、と考える二元論的な発想がそこにはある。それはまるで、「公共事業」が無くなれば財政赤字も解消される、と同じものではないのかと感じるわけだ。

そして種明かし。上のテキストの「おたく」を「公共事業」に読み替えてみればよい。私たちを苦しめているものが、二元論的な発想にあることに気づくだろ。

と言うことで、「萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造」だ。いわゆるキャラクター産業は、年間2兆円の市場になっているらしく、これは既に第1次産業を超えている。たかが「おたく」の…と差別されていたものが市場に乗ってしまったわけだ(市場に乗ることが良いことなのか悪いことなのかは別の議論)。

それはある意味当たり前で、今や「おたく」の第1世代は四十五六才にはなっている。第2、第3世代を含めると、日本国中「おたく」化が進んでいることがわかるだろう。今や「おたく」はサブカルチャーじゃなく、メインカルチャーなのであり(特に四十五歳以下では)、この動きはどうやっても止めようがない。そして「萌え」の産業化はますます進むことは確かなのだ(これについては後日書くことになると思う)。
 
堀田純司氏は「萌え」の定義をこんな風に言っている。
『「ふれたい、でもふれられない」という、不在と実在の境界でたゆたい、現実には届かない存在に、想像力という手を伸ばす。そうして対象のリアリティをより強固に感じる行為。』(堀田,p37)

いまさら面倒な説明は省くけれども、これは創造性の構造と同じであるし、「1.5の関係」の構造と同じでもある。
 
では翻って「公共事業という産業」を考えてみよう。その時の視点は、我々の創造性(創出)とはなんであろうか?である。そしてもうひとつ、「創造性のなさが淘汰されやすさの原因ではないのか」という生物進化からの直喩である。

2005/11/02 (水)  
【祝・ドルチェビータ・ミニ復活若しくはお客様は神様です】

午前5時10分起床。
浅草は晴れ。

修理に出ていた、ドルチェビータ・ミニが戻ってきた。
 
修理のお願いをした札幌Loft万年筆売場の方には、親切に対応していただき感謝している。修理状況の説明は電話で二度だったけれども、それは要点を得ていて、対応にいやらしさがなかった。それはなによりも心地良い。

わたしは、客は適度に大切に、と思っている。今や金さえ持っていれば、子供だろうが死人であろうが、だれでも「お客様」の時代だ(「マクドナルド化)。けれども、過剰なそして機械的なお客様至上主義は、ただの客を「お客様は神様」にしている。「お客様は神様です」の空気の中で生きていれば、ただの客も「俺は神様なのか」とのぼせ上がる。

今流行のメイド・カフェに行けば、「ご主人様、お帰りなさいませ」と迎えてくれる。初めてそれに遭遇したとき、四十七年も生きてきたわたしでさえ、「ああ、俺の本当の家はここだったのか」と思ってしまったぐらいだ。(笑)

それは客の自己愛を満たすかもしれないが、ただそれだけでしかない。自己愛的な満足は自己愛が満たされないだけで壊れる。それは些細なことで起きる。つまり些細なことに、わけもわからず切れる客は機械的なお客様至上主義がつくったものだ。

本当の客、つまり顧客は簡単に切れたりはしないものだと思う。わたしの商売における掟のひとつは「客と共に育つ」だ。それは客に育てられると同義であり、若しも馬鹿な客しかいなければ、わたしも馬鹿になるだけだろう。幸いそうなっていないのは(?)、お客様のおかげなのだろうと思う。

(三波春夫さんの「お客様は神様です」は、芸人としての己に対するストイックさの表れなのであり、つまり客の芸を見る目つまり技量を異常なくらいに認めている。それは「客と共に育つ」であり、今の機械的な「お客様は神様です」とは異質なものだ。機械的な「お客様は神様です」扱いは、客をも機械的に見ているだけでしかない。)

まあ、そんなことはさておき、こうしてまたお気に入りの万年筆と一緒の生活ができるのはとても嬉しい。インクも新しくしようと思い、早速エルバンのヴィオレパンセを注文した。エルバンにはいろいろな色があって楽しい。
http://www.pen-house.net/pen/herbin/index.htm

昨晩は、久しぶりに曙湯へ行き、帰りに喜美松へ寄って軽く一杯やった。喜美松は豚のモツが有名だけれども、わたしはこれ(↓)もお気に入りなのだ。

ポテトサラダである。これで一風呂浴びてのビールはたまらない。ポテサラと串焼きとおでんで生ビール(中)を二杯をいただいた。昨日は一日中机に向かっていたこともあり、また銭湯帰りは酔いが早いのも手伝って、帰宅後、早々に寝てしまった。さて本日からは来客週間だ。週末は11月5日横浜セミナーが待っている。

2005/11/01 (火)  
【早稲田化若しくはマクドナルド化そして考えること】

午前7時起床。
浅草は晴れ。

昨日は内閣の改造が行われたが、それにたいした意味はなく、ただ小泉・竹中ネオリベラリズム政策は邁進する、ということだろう。そこにあるのは、かつての「開発主義」の担い手であった自由民主党ではなく、自己責任と市場原理を御旗とするジミントーである。

その意味では、確かに小泉首相は「自民党」をぶっ壊した。今ある自民党は名称こそ継承はしているが、かつての自民党の延長にはない。つまり違う主義主張を持った政党だと考えた方がよいのだが、まあそんなことはどうでもよいのかもしれない。私たちが直面する問題は、「公共事業という産業」には厳しい時代が続く、ということだ。

「はじめての中沢新一。」では、中沢新一氏が大学教育の自己責任・市場原理化を「早稲田化」という言葉で揶揄していた。「早稲田化」とは大学教育の「マクドナルド化」((c)ジョージ・リッツア)だとわたしは理解したのだが、「マクドナルド化」とは、端的に言えば「合理化」でる。

その合理原則は多く分けて四つある。
(1)効率化、(2)予測可能性、(3)計算可能性、(4)脱人間化だ。

マクドナルド化する社会マクドナルド化する社会

ジョージ リッツア (著)
 George Ritzer (原著)
 正岡 寛司 (翻訳)

1999年5月
早稲田大学出版部

3675円(税込)



わたしは、今と言う時代にこれ(マクドナルド化)を経済学や経営学の文脈で考えてもたいした意味はないと考えている。経済効率を強調すれば肯定面をなぞるしかないのだし、人間関係論者は、そこにどうやって自己啓発や共同体的アイデンティティを持ち込むかを考えるだろう。しかしそれは「マクドナルド化」の再生産に寄与するだけのものでしかない。

しかし、ジョージ・リッツアが「マクドナルド化」という言葉を使ったのは、それが人間社会に及ぼす影響を踏まえてのものだ。つまり「マクドナルド化」という現象は生産の面だけでなく、消費の面にもあらわれている。

生産の合理化なら米国よりも日本の方が進んでいたのである。「マクドナルド化」が日本にもたらした最大の影響は、じつは消費の合理化であり、生活のあらゆる領域が効率化、マニュアル化していく中で、我々の精神構造も変化した、ということだ。開発主義からネオリベラリズムへ、そして「社会の心理学化」((c)樫村愛子)が進む。

つまりそれが「早稲田化」を生み出し、小泉・竹中ネオリベラリズム政治を支え、そして「公共事業という産業」の「マクドナルド化」を強要している「空気」なのだ。わたしはかつてそこに無自覚に漬かっていた人間であった。そしてあるとき「人間の退行」を自分自身の危機として感じた。だから今のような生活を始めた。

そして合理化や効率化そしてマニュアル化(つまり「マクドナルド化」)を最優先としないIT化を薦めてきた。それは脱人間化に対する抵抗であり、「マクドナルド化」に順応することは適応ではなく、人間的(精神的)な退行だと考えてきたからだ。

それは、直接的・間接的に自然を相手にする建設という人間の営みは、効率化、予測可能性、計算可能性、脱人間化という「マクドナルド化」の四原則だけではできていないし、そこには機械には代えられない人間の智恵が必要だと考えてきたからだ。

大学の「早稲田化」と同じ文脈で、「公共事業という産業」の「マクドナルド化」も加速するだろう(行政の「マクドナルド化」もだ)。もはやそれは誰も止められないのかもしれない。

しかし、ではそれは何を生み出すのか、そして社会全体の「マクドナルド化」という環境の中で、「公共事業という産業」は何ができるのだろうか、では我々は何者なのか、を考え続けなくてはならないだろう。

なぜなら、考えることをやめることは退行でしかないからだし、私たちが「公共事業という産業」を考えることをやめた途端、地方を担ってきた中小建設業の姿、つまり我々の存在は消えてしまうからだ。
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