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店主戯言050602 2005/6/16 〜2005/6/30 "There goes talkin' MOMO"


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IT化を通して建設業に貢献する

2005/06/30 (木)  
【反転と3分の1切断モデル】

午前7時15分起床
 浅草は 雨

今朝は 朝一番の用事をすませ
 ちょっと遅めに このサイトを更新しています

さて 昨日からの続きです

個人にしろ クラスターにしろ
 メビウスの帯的に 外と繋がる可能性を持つ というとき
 つまり 反転(ひねり)には 二つあると考えていました

一つは オタク的才能であり
一つは 反省の行為です

それを どうわかりやすく 説明できるだろうか と考えていましたが
 ふと あることを思いつきました

それが メビウスの帯を切ってみることでした
 インスピレーションですね (笑)

まず メビウスの輪を 本当にてきとーに
 3分の1のあたりから 切ってみました
 (それは偶然にであって 意図的にではありません
  なんとなく3分の1だったのです)

すると(↓)の写真のように
 お互いが繋がっている 大きな輪と 小さな輪ができました

この状態を 分裂症状態と考えることもできますが(笑)
 繋がった状態を  リンクと考えることでもできるので

3分の1で切ることは 外との
 なんらかのリンクをつくる と考えました

これを「反転と3分の1切断モデル」と勝手に名付け
 このモデルは 「繋がる」 という意味では
 「悪くはないんではないかい」 と単純に考えたのです

では  「3分の1で切る」ということは
 現実的には 何を意味しているのだろうか と考えたとき

まず 思い浮かんだのは
 コミュニケーションのためのコミュニケーションの再生産です
 
それは インターネットに見られる 
 コミュニケーションの典型的なパターンです

それは mixi (SNS)のような ある程度閉じた空間でも
 ふつーに見られるものです

コミュニケーションを目的としたコミュニケーションの再生産では
 話題は たいした意味を持ちません

そこでは コミュニケーションそのものが
 意味あるものとして 型をつくり 再生産されていきます

そこには たわいもない会話もありますが
 中には 反転(ひねり)が 見られるものがあります

シニカルで アイロニカルな 視点もみられ (3分の1で切る)
 象徴は 最初から否定されているような 会話です

例えば それは ある書き込みに レスをつける場合でも
 まじめな回答することは 必ずしも求められてはいないような場合です
 
むしろ 大切なのは「ズレ」です
 ズレは格好の突っ込みネタであり
 そのズレ自体が またネタとなり レスはつながります

そのレスにも たいした意味はありませんが
 そのレスのズレが またネタとなることで
 コミュニケーションは 再生産されていきます

「反転と3分の1切断モデル」は
 このような 反転を孕んだ
 コミュニケーションを目的とした
 コミュニケーションの再生産であるように思えます

これは 厳密な考察ではありませんし
 かなりいい加減で 直感的な意見ですが

東 浩紀の言っている データベースモデルに近いものがあるな
 と感じています

動物化するポストモダン動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

東 浩紀(著)

2001年11月20日
講談社

735円(税込)




つまり 「オタク的才能」の一端なのだと思いますが
 問題は それが「中景」(象徴界)の喪失による
 「外的連関」意識 の発動において生まれていることだと思います

ですから 中沢新一の言うように
「それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない現実である。」であろうし

「ハイブリッドな前対象の氾濫が、私たちの世界に危機をつくりだしている。」
 ということなのだと 思います

「オタク的才能」には 確かに 反転を孕んだ繋がる才能 があります

しかし それが 中景(象徴界)の喪失によってもたらされた
 無意識的なものであることで
 そして そもそもそれは「中景」(象徴)を持ちませんから

土地的な制約を持ったクラスター(地域や中小建設業)における
 HUB能力には (そのままでは)使えない
 という問題を孕んでいる と思います

ですから わたしは こう書くしかなかったわけです

今 私たちの世代(四十代後半)でさえ やらなくてはならないことは
 私たちよりもさらに若い人たちの可能性を認め
 そして積極的にその可能性を生かせるような環境をつくりだすことなのだと考えています

そしてその時に 私たちができる最も大切なことは
 「変えてはいけないもの」を 若い世代に伝えることだと考えています

でも  「変えてはいけないもの」がなければ それを伝えることもはできません
 それは とても悲しいことだと思います
店主戯言 2005年5月27日【ハイブリッド】より)

2005/06/29 (水)  
【ひねり】

午前7時30分 起床
 浅草は 雨

声の文化と文字の文化 声の文化と文字の文化

ウォルター・J・オング(著)
桜井直文他(訳)

1991年10月31日
藤原書店

4305円(税込)





人類が 地上にあらわれたのは約5万年前ですが
 文字を使い始めてからは まだ6千年程しか経っていません

しかし 「書くことは意識の構造を変える」
 「書くことは意識を [一段高く] ひきあげる」 というオングの指摘は正しいと思います

書くことは「技術」です
 その「技術」を 人類が持ったことで
 技術のミームは 急激(S字波的に)に進化してきたと言えます

私たちは 間違いなく「文字の文化の人」です

さて 「おいしいことを おいしいという言葉を使わずに 表現しましょう」の実行は
 「反転」を意味しますが
 その「反転」とは 文字の文化がつくりだした 象徴(固定観念)の一部否定です

一部否定は ひねりですが ひねりを一回加えることで
  単純な円環は メビウスの帯へその姿を変えます

それは 裏でもなく表でもなく 外でもなく内でもない円環となります
 二項は差異としてありますが それは対立せず共存しています

つまり その外延は 外でもなく内でもない境界であることで
 「内」は 「外」と 繋がる可能性を持つことになります

この構造は <私>の内面の構造と言ってもよいかと思います
 反転は 閉じていた自我が
 よりひろい無意識の内にあることを感じる瞬間のようなものです
 
ですから あなたが 決まりきった価値観や
 たわいもない会話(それも文字の文化が生み出したものでが…)から
 一歩踏み出そうとするとき この反転は 効果的なのです

 
ペルソナは単なる思い込みのようなもので
 「おまえが思っているほど、おまえはたいしたやつじゃない」
 という言葉は ここで響いているように思います

さて
 「おいしいことを おいしいという言葉を使わずに 表現しましょう」
 を実行するとき
 
<私>は 閉じた円環から 一歩外へ出ることが可能になります
 それと同時に
 それは 無意識的なものが機能し始める瞬間にもなります

この絵を説明しきるのは大変です(笑)
 詳しくは 6月22日の【花押のせかい 若しくは 法大ECの宿題のための ヒント】
 をご参照いただけれと思います

上の絵のように 表徴(表現)は 三つの連関作用を持っています
内的連関 象徴意識
外的連関 並列連関意識
総合連関意識

表徴は この三つの連関の「機能合同」として
 シミュラークルや ハイブリッドを生みだしています
 つまり アイディアや 創出や  自己否定的変態です

しかし 多くの方々は
 このうちの一つの連関しか 表徴の中に見ない嫌いがあります
 それが内的連関である 象徴意識なのですが
 そのことで 思考は 閉じた輪に閉塞しがちになります
(まあ これも文字の文化の特徴のようなものなのですね
 つまり 二項対立の白黒思考です)

ロラン・バルトは
 その傾きの多くは その人々の抱いているイデオロギーのせいだ と言っています
 まあ それが「正解の思い込み」ですね

つまり  「おいしいことを おいしいという言葉を使わずに 表現しましょう」は
 象徴意識の一部を禁止して
 並列連関意識 と 統合連関意識を 呼び起こそうとしています
 それは 眠っている可能性をを 呼び起こしていることでもあるのです

ということで この解説は まだまだ続く…のですね(笑)

2005/06/28 (火)  
【紅い花】

午前4時50分起床
 浅草は くもり

オープンセミナーのご案内に
 2005年7月14日(木) 『IT経営応援隊セミナーinぎふ すぐに役立つIT化[建設業]』を掲示しました

現在 法大ECと 葉月桃塾の開催期間中ですし
 セミナーといえば 閉じたものばっかりやっていまして
 東京独演会等 オープンなセミナーはサボりがちでした

今回の岐阜でのセミナーは 1時間30分という 短い時間ではありますが
 最近のわたしのIT化論の 凝縮されたエッセンスをお届けできるかと思います
 当然に企業ベースのものを予定しております
 近隣の方は 是非おいで頂ければと思います

紅い花

つげ義春(著)

1995年1月10日
小学館文庫

610円(税込)





「紅い花」は 先日 鹿児島空港で購入しました
 巻末には 若き日の糸井重里のエッセイが載っていますが
 その書き出しは印象に残るものです

『「おまえが思っているほど、おまえはたいしたやつじゃない」。
 この、何もかもをぶちこわしにしてくれるような最後のひと言を、いまは誰も口にしなくなった。』(p314)

たしかに つげの作品は その最後のひと言を
 今と言う時代に生きる私たちに なげかけてくるものかもしれません

ここに収められている作品の中では
 「海辺の叙景」が好きです

それは(恋愛の?)漫画ですが
  「好き」という恋愛のメタ言語を使わないで 男女の心模様を描いています

それは作者が意図したものかどうかはわかりませんが
 1967年の作品にある メタ言語の禁止は (その当時…だからかもしれませんが)
 漫画という表現さえも  「叙景」としてしまう力があります

今回の法大ECの宿題
 「おいしいことを おいしいという言葉を使わずに 表現しましょう」は
 (意図的に) 「海辺の叙景」と同じような視座に立とうとしています

それは 「おいしい」というメタ言語の禁止です
 それは象徴連関の意識を使わないことですから
 それだけで 単純な円環(ステレオタイプ)の表現にはならないはずです

しかし もしもこの時点で あなたが お手上げであるののなら
 それは 「だってそれって常識じゃない?」という
 型にはまった考え方 つまりステレオタイプに思考が陥っているか

若しくは 思考停止(無気力)のような状態に陥っていることを
 疑ってみてもよいのかもしれません

もしかしたら 語彙(ボキャブラリー)のなさ という現実に
 愕然とされているのかもしれませんが

いずれにしろ そこには ひらめきも 創出も ありませんし
 自己否定的変態もありません

それは 閉じた輪です
 それは いつも表と裏 内と外という対立を孕んでいるのですが
 しかし それを意識しない とても 幸せな たわいもない会話です

それは 外とは繋がらない つぶやきです
 (私たちは いつも 外と繋がろうとしています―IT化)



どんなものにも よい面も わるい面もあります
 ある環境では良いことでも ある環境では悪い場合もあります

閉じていることも また然りです

ただ あなたが もし
 ひらめきや 創出や  自己否定的変態を必要としているのなら
 そして 新しいリンクが必要と思うなら

「おいしいことを おいしいという言葉を使わずに 表現しましょう」
 を実行してみることは 無駄ではないでしょう

私たちは 言葉で考え 言葉でそれを整理し
 言葉でそれを<他者>に伝えます

言ってみれば
  「おまえが思っているほど、おまえはたいしたやつじゃない」
 私たちの欲望には その可能性しかないのです

それを認めることは 悲しいことかもしれませんが…
 逆に言えば その可能性は残されている ということです

 リアルな社会ばかりでなく
 インターネットの世界でも それが溢れている現実(リアリティ)
  それが 今と言う時代なのだと思います

ということで この「工作の時間」の話題は 小出しに 暫く続きます (笑)

2005/06/27 (月)  
【なぜメビウスの帯を切ろうとしたのか】

午前5時30分起床
 浅草は くもり でも 暑い!

さて 地域再生や 建設業の再生というとき
 それは 無くしたものを元に戻すのではなく
 今あるものから 築きあげていくもの だと思います

そこには 突破はありますが 断絶はない
 というのが S字波の考え方だと思います

ですから 再生は 再び生きるではなく むしろ 細胞を組み替えるような変態なのであり
 できれば 再構築という言葉の方がよいかもしれません

そして その再構築のモデルを どう構築して提示できるのか
 というのが 今のわたしの関心事です

今回の法大ECでは そのモデルを提示しようとしています
 それも テクストでもなく 図版でもなく 工作としてです

そこに かつてない試み「工作の時間」が生まれました

わたしのIT化は まず最初にクラスターをつくろうとします
 それは中景であり 象徴界であり 種であり 地域であり 協会であり 会社です

具体的には より小さな単位である
 協会と会社からはじまりますが

それは丸い 単純な 「輪」のイメージとして
 考えられるかと思います

この輪は 表裏がいつも分かれています
 外はいつまでも外であり
 内はいつまでも内のままです

これが二項対立のモデルであることがわかります

そして この輪は閉じていますが
 これでは IT化の目的である
 <他者>とリンク それも
尊敬と信頼の関係で「繋がる」
 「広くて薄い紐帯」をつくることは 難しいことは
 容易に理解できるかと思います

つまり 単純に クラスターを構築(再生)するだけでは
 「繋がらない」という欠点は克服できませんし
 本当の意味での再生(再構築)には ならない ということです

これに対して
 二項対立の無いモデルとして 示されるのが メビウスの帯になります

このモデルは 単純な輪に
 ひねりを一回加えることで

裏でもなく表でもなく
 外でもなく内でもない円環をつくりだします

二項は差異として「ある」のですが
 それは対立することなく共存しています

つまり
 外でもなく内でもない境界を持つことで
 この輪の「内」は 外延と繋がる可能性を持ちます

では このような構造を持ったクラスターは
 構築可能なのでしょうか

可能だとすれば
 如何にしてそれは可能になるのでしょうか

それも その「繋がる可能性」を
 尊敬と信頼の関係で「繋がる」 「広くて薄い紐帯」 としながら です


最初の理解は 「ひねり」です

ひねりは反転を意味しています
 それは 象徴の否定(一旦停止 機能停止)であり
 (個にとっての) 中景 象徴界 種の喪失であり
 せっかくつくったクラスターを壊しかねないものです

しかし ここでいう象徴とは (私が)信じているものであり
 (より身近には)
 慣行 ルール マニュアルの類だと思っていただいて結構なのです

このモデルは
 (それらの 慣行やルールを持った)「種」の否定(の再生産)として生まれます

つまり このクラスターは 常に 自己否定を孕みます
 反転とは 生まれ変わるための 自己否定のようなものです

それは 負のフィードバックというよりも 正のフィードバックであることで
 「反省」の行為を必要とするフィードバックになります

ですから 自己否定とは 言いながらも
 そこには 「維持」すべきものは「ある」のです
 否定は 「変化」してもよい(しなくてはならない)もに対して行われます

ここに IT化の方程式
 「IT化=環境×原理」 が生まれます
 原理とは 「維持」です

しかし 本来「変化」(すべきももの)が
 いつの間にか「維持」へと移相してしまうことがあります

それが「正解の思い込み」なのですが
 その時 メビウスの帯は 単純な丸い輪になってしまい
 <他者>と「繋がる」可能性を失うと同時に
 「種」は 普遍性を失います

クラスターが メビウスの帯であるためには  「維持」は必要条件です
 変えてはならないものがあればこそ 変わることもできるのです

そしてそのことが 本来「個」の運動である
 自己否定的変態を
 クラスター(種)と結びつけているものであることを
 理解してほしいと思います (これが「種の論理」です)

(今回の法大ECは その「維持」を探す作業です)


次の問題は このメビウスの帯の持つ 「繋がる可能性」を
 尊敬と信頼の関係で「繋がる」
 「広くて薄い紐帯」とするには どうしたらよいのか ということです

つまりそれは 「個」のハブ能力についての考察に還元できることですが
 それをテクスト化する作業は 後日にしたく思います
 (たぶん一日潰れてしまいます)

今回は 取急ぎ 第4回講座をPPTにまとめましたので
 それを ご覧いただければと思います

http://www.momoti.com/HELP0504.swf


ここでは メビウスの帯を 2分の1のところから切ること
 3分の1のところから切ること
 という二種類の紐帯のモデルで それを考えています

その違いはなにか
 そして 切ること(切断)とは何か も示してあります

2005/06/26 (日)  
【工作の時間】

午前7時起床
 浅草は 暑い!

今日は 昨日からの流れで
 工作の再現をしていました

これは 創出若しくは再生のモデルです
 例えば地域再生のモデルは(↓)になります

これを「反転と2分の1切断×2」モデルと名前をつけています
 詳しくは 昨日の法大ECでの講義をまとめた
 PPTであきらかになるかと思いますが それは ただいま作成中です

なぜ最初に資料をつくっておかないのか と思われるかもしれませんが
 準備したものを語るだけでは つまらないからです
 そこには創出も再生もありません

法大ECの講義は パロール的です
 それは 最低限の資料だけを準備して行う インスピレーションの場であり
 創発と再生の場です

これは 一見無謀な試みですが この場は
 講義を受けるのではなく 一緒に考える場を創出できるのではないか
 と考えています

パロール つまり話し言葉は
 わたしのデータベースに無意識が機能することで生まれます

無意識が わたしに蓄積されたデータを 組合せていきます
 それは「瞬間」の作業です

ですから パロールは 常に<私>の少し前にあります
 <私>は パロールにおいつくことはありません
 それは「反省」を経由しないことで起こる創出です

そのパロールを PPTにまとめるとき それは既に過去のものですが
 それは「反省」です
 わたしが わたしの無意識に触れるときです

その反省は テクストやPPTにまとめられ
 エクリチュールとなり
 それがまた わたしに蓄積されるデータとなることで
 次なる創出の源になります

2005/06/25 (土)  
【宿題の解説のしっぽ】

午前7時起床
 浅草は 暑い!

昨晩は 午後10時過ぎに 浅草に戻りました
 人吉の皆さん 昨日は ありがとうございました

南九州の関与先さまによる合同勉強会は
 9月上旬に 熊本市での開催で準備をすすめ

また岩井國臣氏をお招きしての 山鹿八千代座での地域再生フォーラムは
 11月19日開催で動き出しています
(当初は7月9日の開催予定だったのですが 国会の会期延長等から順延になっていました)

ついでですが 7月27日は 福岡でのセミナーも予定されています
 九州でもまた 動き続けます (ありがとうございます)

今日は 法政大学エクステンション・カレッジです
 宿題は
 「おいしいものを おいしいという言葉を使わずに 表現してみましょう」でした

これはみなさん かなり苦労されているようですが
 無理もありません
 私たちは 残念ながら こういう教育を受けてきていないのです
 それが 私たちの創発能力に制限を与えています

今回の宿題の意味は 「メタ言語」を使わない ということです
 「おいしい」という言葉はメタ言語です
 そのメタ言語を解体し その意味するところを メタ言語を使わずに
 再構築してみようとしています

これを実社会に置き換えれば 
 自分を縛っている規範 慣習 思い込みを一度 解体 微分 デコードし
 (つまり象徴を解体し)

無意識の機能する 積分 エンコードから生み出されてくるものを
 テキスト化しましょう ということです

これは 一見 無意味な作業に見えますが
 じつは とても実践的なものです

なぜなら 私たちには 言葉で考え その考えを言葉でまとめるしか
 創発の手続きが ないからです

その思いつきのようなものを 「はなしことば」(パロール)というのですが
 パロールは 無意識的なものが機能するために
 常に 私(自我)よりも 半歩か一歩先にあります

私(自我)は パロールと肩を並べることはありませんが
 それを テクスト化して見ましょう というのが今回の宿題なのです

つまり 無意識的なものを 自我に取り組んでいきます
 これが反省の行為であり それがエクリチュール(表現体)になります

こつは パロールにおいてさえ メタ言語を一旦脱ぎ捨ててみることです

これが創造とか創発の手続きなのです
 アイディア や インスピレーション
 ハイブリッド なんていうものが生まれる源泉です

ハイブリッドは メタ言語レベルでは起こりません
 それはさらに微分されたモノの 再構築でしかないのです

そして それを書くテクストは 象徴であることで 象徴(界)を再構築します
 そしてその反省の共有による SYNCの可能性
 これが「考えるIT化}です

というようなことを 今日の講義ではお話しする予定です
 それも パロールとしてですね(笑)

2005/06/24 (金)  
【釧路建設業協会での講演内容のまとめ】

午前4時50分起床
 浅草は くもり

今日は 熊本建協人吉支部さんの 会議へ参加のため
 9時30分のANA便で飛びます

本当は 一泊してご一献したいのですが
 明日は 法大ECがありますので 最終の便で帰る予定です

さて 釧路建設業協会での講演内容をまとめました

 → BD050622.swf(必要な方は「店主へメール」でご連絡ください)

最初に クラスターをつくる(再構築する)
 ここから わたしの協会ベースのIT化は はじまります

このとき イントラネットは 殻のない卵の入った器のようなものです
 
この白身(の境界)がクラスターであり
 場であり 中景であり 種であり モスラの繭であり
 自己否定的変態への 子宮(マトリックス)です

個 は 種を基底としてしか生まれません
 種は 基本であり 型であり 歴史であり
 個性は その種を 身体を通して表現するときに生まれます

しかし 種というマトリックスが きちんと機能していなければ
 個は 正常に 羽化(変態)することはできません
 まずは クラスターをしっかりとつくらなくてはなりません

しかし インターネット社会(今と言う時代)では
 クラスターであること自体が 矛盾を孕みます

その矛盾とは クラスターで閉じてしまえば
 <他者>とつながらない ということです

個が クラスターの外とつながらないのであれば
 私たちは 仕事の源泉を失うことになるでしょう

クラスター内で自給自足するなら別ですが
 今と言う時代 座して待つだけでは なにも生まれません

自ら触手を伸ばし <他者>とつながる必要があります
 自らがHUBとなって このクラスターにリンクを引き込むのです

それには 狡兎三窟 の考え方
  つまり ハイブリッドが どうしても必要です

なぜなら 建設業(地方というクラスターでもよい)におけるHUB能力とは
 クラスター(ローカル性)と スケールフリー(グローバル性)を
 対立させるのではなく ハイブリッドする能力からしか生まれないからです
 
そのハイブリッドに
 インターネット社会における 広くて薄い紐帯の可能性は生まれます
 (だから5年前であれば それは必要なかったのかもしれません)

そして このネットワークが
 信頼と尊敬の関係でしか成立できないことで
  さらには それが 真のHUB能力であることで

どうやったら <私>は<他者>と 信頼と尊敬の関係で結びつくのかを
 狡兎三窟的に
 微分と積分 解体(エンコード)と再構築(デコード)を繰り返しながら
 探し出す作業 それが「IT化」です

2005/06/23 (木)  
【釧路 霧】

午前7時30分起床
 釧路は霧かと思えばはれ はれたかと思えば また霧がかかります

それは 大気の呼吸のような リズムをもつ
 海と陸のせめぎあいに生まれる 無限小の包衣です

さて 今日は 11時30分 釧路発のANA便で 帰京します
 昨日の 釧路建協さまでの講演の反省は これからまとめをしますので
 明日には お伝えできるかと思います

2005/06/22 (水)  
【花押のせかい 若しくは 法大ECの宿題のための ヒント】

午前6時起床
 浅草は 雨

今日は 釧路建設業協会さんでの講演のため
 8時55分発のANA便で 釧路へ飛びます

花押のせかい
望月 鶴川(著

2005年6月1日
朝陽会

1,260円(税込)






名付けは 差異のシステムとして
 この世に生まれた時に 最初に行われる
 自分の力の及ばない 「私」へのラベリングでしょうが
 それは無文字の文化にもあるものです

一方 花押は 文字文化(漢字)がなければ生まれなかったもです
 それは 名前と文字という枠(象徴)に縛られながらも
 その枠のなかで自由に躍動する
 イマジネール(想像界)の働きのように思えます

漢字は そもそもシミュラークル(模型)なのであり
 漢字文化圏の人間が持つ
 自由な想像力(思想の自由)の表徴なのだ と思います

(← 白川 静(著) 『常用字解』より)

勿論それは一旦形が決まってしまえば
 暫くの間 象徴として 我々を束縛するものとなりますが

そのシミュラークルは <事物>の 徹底的な観察と
 解体(デコード)と 再構築(エンコード)から生まれていることで

そしてそれはまた 人間の持つ想像力であることで
 今も 繰り返されている(再生産されている)のだと思います

 それが漢字なのだと思います

この解体と再構築の力は 表徴作用で言えば
 <並列連関>意識 と <統合連関>意識 の力です
 (勿論 象徴意識もかかわってはいますが…)

<並列連関>意識とは わたしの IT化でいう
 三窟的な「見る力」(ヴィジョン)です

この「見る力」は
 <事物>を構築している表徴を 並列的に(対称的に)見ます

例えば 信号機の赤は
 青と黄とに対立する限りにおいてのみ 止まれ(禁止)を表徴しますが
 それはまた 赤青黄の配列の象徴が
 交通のルールを表徴していることを 理解する(想像)力です

これは 全体を見る 展望の視点あり
 透視遠近図(パースペクティブ)です

一方 <統合連関>意識 の想像力は
 展望ではなく 
 一つの表徴の前後にある 別の表徴との関係を予見する力です

それは 一つの表徴が 別の表徴に投げかける橋の予見であり
 製造の想像力であり 機能の想像力であり 組合せの想像力です

それは例えば 洋服のコーディネートや
 消費のデータベースモデルです

これらの象徴作用にある意識の「機能合同」として
 シミュラークルや ハイブリッドは生まれます

 

今回 花押の作り方を知りましたが
 漢字が シミュラークルであるように
 花押も またシミュラークルなのだと思います


 (花押のせかい p71の図を利用)

それにしても わたしの心をときめかせたのは
 文字を持たない 農民が使ったとされる  「画指」と「略押」です
 
 (花押のせかい p19)

この二つの表徴は 野生のにおいがします

わたしの勝手な想像ですが
 たぶんこの「画指」や「略押」のようなものが  「花押」よりも 先にあったのだと思います

それは縄文と弥生のハイブリイドとしてです
 (たぶん王国のシステムに組み込まれていたのでしょう)

この野生の思考が生み出したモノは
 漢字との間に さらなるハイブリッドを生み出し
 姿形を変えながらも
 花押という表現をもって 今に生きているのだ と思います

それは 漢字文化圏の人間がもつ
 人間の歴史であり 人間の位置づけであり 思想の自由(の歴史)なのだと思います

さて 以上が 法大ECの宿題
 おいしいという言葉を使わずに おいしいを表現する
 の ほとんど 解説のようなヒントです

2005/06/21 (火)  
【葉月桃塾第二回講座のまとめ】

午前6時30分起床
 浅草はくもり

昨日は午後7時過ぎに津から戻り
 夜は 18日に行われた 葉月桃塾第二回講座のまとめをしていました

http://www.momoti.com/HZ050618.swf
 (Flashpaperを使っています)

法政大学エクステンション・カレッジもそうですが
 最近の講義は 二日間の時間をあけてしまうと
 わたし自信が 何をはなしたのか 思い出すのが難しいのです

それはただの健忘症なのかもしれませんが (笑)
 むしろ講義や講演がパロール(話された言葉)化しているからだと思います

事前に通しのあるPPTを準備することはありません
 無論「はなし」の大筋は 決めてはいますが

それはわたしが決めているというよりも
 その場には 場によって決められている
 枠のようなものがあるように 最近は感じています

その決められた枠のなかで 精一杯の自己表現をしようとしています
 その枠を破るように…です

過去の講演や 講義をまとめた そして日々の読書や 思考から
 搾取するようにして作成したPPTを開いておき

カーブを描いて変化していく 講義という現実の中で
 わたし(無意識的な身体で覚えたものと言語的なデータベース)と
 受講生(場)という二点の 接線に浮かび上がるものを 切り出しては
 一つの物語のように 紡いでいこうとしています

それはある意味 実践としての 微分と積分です
 それは「先生」などと称される わたし自身の足場への疑問です

それは(過去を引きずっている)わたしの否定であり
 それでも 過去をひきずらざるを得ない
しかし それでも先に進もうとする わたしの足場の再構築です

受講生の眼差しを 予定調和のように準備されたPPTでさえぎることなく
 わたし自身の視線の中で その眼差しを受け止め

瞬間の場を切り出し わたしの足場を決め
 その位置を つなぎ合わせるようにして
 (時々は 突然の転移を楽しみながら)
一つの講義をつくりだしていこうとしています

ですから こうして後付で提示される資料は
 その場を伝えきれないものであり 既に 今のわたしではありませんが
 その時間 わたしが紡ぎだしたモノを 感じていただければ うれしいのでした

2005/06/20 (月)  
【写真 微分】

深夜の地震で目覚め
 そのままF1を見ながら うとうとしていたら 朝になってしまいました
 
浅草は くもり
今日は 三重県津市まで 日帰り出張です

わたしは 食べ物の写真ばかり撮っています
 それも接写が多いのですが
 それは まず第一には 今使っているカメラの限界からです

わたしのカメラは ケータイの付属品です
 このサイトにある写真の99.9%は
 その付属品で撮影したものです

付属品ですから レンズはよいものではありません
 ピントは甘く 中景はうまく撮れません(ほんとんどピンボケします)
 ただ 近景は使えるレベルですので 接写が多いのです

撮影は かなりいい加減です
 ただ 被写体が食べ物ですから
 「さあ食ってやるぞ!覚悟しなさい」
 と わたしの欲望が パンパンに膨らんだ瞬間を
 切り取ろうとしています

それは
 「さあ食べて! 私はおいしいのよ」
 と料理が主張する瞬間でもあることで
 空腹を満たすだけの欲求とは 異なるものです

瞬間を切り取ることは
 数学的な表現を使えば 微分です
 
  (図:「目からウロコ」 p134

それは 現実という曲線上の二点(対象とわたし)が
 かぎりなく近づいた瞬間 つまり接線です

それは 限りなく 0 に近いけれども 0ではない
 つまり 無限小としての瞬間を 切り取ろうとするものです
 (動画は積分です)

その無限小の表徴は
 コマーシャルに使えるようなものでもなく
 また子供の運動会の写真のような 記録的なものでもありません

ただ わたしの欲望の ある瞬間の断面なのだと思います

錦糸町 サイゴンマジェスティック の「ちまき」
 エロティックでさえある 欲望の断面

2005/06/19 (日)  
【松尾ジンギスカンの焼きうどん】

午前4時頃起床
 札幌は くもり
 今日は11時30分発のANA便で帰路につきます

TVをONのまま寝てしまい その音で目覚めました
 チャンネルを変えると F1アメリカGPの予選が放映されていましたので
 そのまま見てしまいました

結果は ヤルノが一位
 つまり トヨタが初のポールです 決勝が楽しみです

それから ゴルフの全米オープンを見ていました
 タフなコースのようです
 わたしは こんなところでは ゴルフをしたくはありません
 (ゴルフはぜんぜんやってはいませんが…)

昨日の  葉月桃塾第二回講座(滝川市)は
 山形建協村山支部の方々にも参加いただき
 充実しいた内容で 終えることができたと思います

懇親会は 松尾ジンギスカンでした
 その〆は 巨牛荘の〆の定番 焼きうどんをイメージしてみました

ちなみに(↓)は巨牛莊のものです


松尾のジンギスカンは 鍋料理ですから
 本来うどんは 他の具材と一緒に煮込むものです

それを できるだけ焼きうどんのイメージで食べよとしたものです
 勿論 わたしがつくるわけはありません

これは 桜井さんという 名鍋奉行が 大切に鍋を育ててくれたおかげで 生まれたインスピレーションであり
 調理は すべて彼の手によるものです

プルコギの後の巨牛莊のようには 見栄えはよくはありませんが
 シミュラークルとしては とてもよくできたと思います

2005/06/18 (土)  
【たらこのにぎり】

午前6時20分起床
 札幌は くもり

本日は滝川で 葉月桃塾の第二回目の講座があります
 ゲストスピーカーは 芦別建協から 浅井IT推進委員
 特別聴講者として 山形建協村山支部の方々が 昨日に引き続き参加されます

懇親会は 勿論 松尾ジンギスカンです

さて 昨晩は すすきのの「ふじ田」での一献いでした
 しかし 今週は 毎日 外で飲んでいますねぇ…(笑)

ふじ田では 季節のものを肴に 日本酒をいただき
 〆は たらこのにぎりでした

わたしが 最初に ふじ田を訪れたときのことは
 今でもよく覚えていますが

そのとき 店主の仕事に天才を感じたのは
 この 微小の集合のにぎりでした

これは 無限小の星を内包した 星雲の断面です

崩れるのでもなく 崩れないのでもない という均衡
 空間に ようやく輪郭をつくりだしている 境界の見えない運動

ひとつひとつの微小は
  無限から生じた 生の残骸です

その微小は いったん 本来の姿になることを とめられ
 死骸の集合でしかなくなります

しかし 文字どおり 自然のはらわたに
 素手で触れるような 職人の技術が触れたとき

事態は一転し 個は再び生をもち
 自然ではない 新たな生として意味をもちます

人間の 自然の純生産への感謝を孕む 技術 が介在することで
 いったん死に そして再び生まれる タナトスとエロスの集合

それが たらこ です
 
たらこは 本来 鮨という「種」 とハイブリッドされることのない 異様です
 しかし ふじ田という「個」のブリコルール(天才)は

その異様さえも飲み込んでしまうことで(ハイブリッド)
 鮨という「種」に新たな普遍性を生み出しています

これが 「種」をベースにしながらも
 その「種」さえも否定してしまおうか というような「個」の運動なのです

基本(種)があること
 そして 創造への溢れる情熱 この二つがなければ
 このブリコルール的な仕事は できません

それが「守・破・離」の実践者としての「個性」なのだと思います
 そしてその個性を 「種」が内包することで
 また「種」も変化し 普遍性をもつことができるのだと思います

2005/06/17 (金)  
【エロスとタナトス】

午前6時起床
 浅草はくもり

二日酔いの朝です

今日は 山形建協村山支部の方々が
 空知建協さんに視察研修においでになられますので
 葉月桃塾の一日前ですが 北海道入りいたします

さて今朝は 昨晩の向田さんとの一献からの
 インスピレーションです

アースダイバーアースダイバー

中沢新一(著)

2005年5月30日
講談社

1890円(税込)





中沢新一の「アースダイバー」 には こんな面白い記述があります

『人類の抱いた最初の哲学的謎は「子供はどこからやってくるのか」という質問なのであった。すると女性の股間の洞窟は「無」への入り口なのであるから、それを人目にさらして、子供はここからやってきましたと言うことは、「無」を裏切ってしまうことになる。』(p195-196)

これは 浅草とストリップの関係について書かれたものです

ストリップという芸能が 浅草である時代を築いたのは
 浅草寺の御本尊が いまだかつて御開帳されたことがないことと関係がある
 と言うのです

意外なことに浅草寺の観音様は 見ることのできない(ご開帳されない)
 絶対の秘仏であり 「無」なのです

杉のおかみ曰く「見たら眼がつぶれるのよ」なのです

中沢新一に言わせると そのこと(見えない観音様)こそが
 見えそうで見えない 古いタイプのストリップには絶好の環境を
 浅草という街がつくりだしていたのだ  ということなのです
 
浅草寺が かなりなまめかしい構造を持つことには気付いていました
 ここには エロスとタナトスがあります

三砂ちづるの 「オニババ化する女たち」の見方を借りれば
 雷門は 女性の股間の洞窟(つまり「無」)への入り口です
 立派な クリトリスまでついています

銀座線浅草駅を降りた参拝者は その入り口をくぐり
 仲見世という参道(産道)を 通って本堂に向かいます

つまり 参拝者は 本堂という 子宮に向かう 精子です

しかし 本堂へたどりついても
 そこには卵子である 観音様は姿を見せませんから
 精子は 受精に失敗し ここで死の疑似体験をすることになります

つまり 俗を背負った<私>は ここで一旦死にます

しかし それはまた 新しい 生へ始動なのです

<私>は 一旦死んで また生き返り
 仲見世(参道)を通り 雷門から また誕生するのです

これは 日本人に限らず 人類の無意識に備わった 再生の構造です
 神社や 教会や
 放射状につくられた都市なども ほとんどこの構造を持っています

例えば 皇居を中心に持った 東京を考えてみてください

引用:
表徴の帝国 p53

ロラン・バルト(著)
宗 左近(訳)
1996年11月7日
筑摩書房
















また ディズニーランドも この構造に忠実にできていますし
 神戸ルミナリエのもつ エロスとタナトスについては 昨年末に書いたとおりです

この子宮(マトリックス)的な中心で
 俗な<私>は一度 死に 再生され また現実の世界へ戻るのです

浅草寺の場合は その中心が「無」であることで
 東京の東側の低地に 強烈な無の深淵をつくりだしています

その深淵の発するにおいに吸い寄せられるように
 浅草の人々は この地に住んでいるのでしょう

その意味で わたしが浅草に住んでいる理由を
 浅草寺に呼ばれました と最近は言っています

オニババ化する女たちオニババ化する女たち−女性の身体性を取り戻す−

三砂ちづる(著)

2004年9月20日
光文社

756円(税込)





2005/06/16 (木)  
【冷や汁】

午前5時起床
 浅草は くもり

昨日は 宮崎から戻りましたが 羽田でおきたJAL便のタイヤ脱落事故の為
 滑走路が一本閉鎖され 着陸がやや遅れましたし
 ごとうびと雨の影響でしょうか 首都高も渋滞していましたので
 なにか 気乗りのしない一日になってしまいました

14日の夜は 宮崎地区建設業協会さんと 鹿児島建築協会さんと
 宮崎市の「杉の子」さんで懇親会をしました

宴会の〆は 冷や汁でした


(以下は 昨日の戯言に書いた「宿題」の実践で 昨日 mixiの日記に書いたものです)

宴席の最後に
 冷や汁は 賭けの表徴として現れる

満腹と酔いという大洋に
 麦飯と冷や汁という小船で漕ぎ出す
 いちかばちかの 二つの椀という賭け

しかし客の腹はすでに満ち足り
 選択肢は限られる

 食べないのか 食べるのか…

その掛け率は 食べないに大いに傾きながら
 その選択の深淵が ますます深みとなりかける

   難破… その瞬間

地元の民は おもむろに二つの椀を一つにする


   ハイブリッド

この無邪気さは 客の掛け率をかえてしまう
 そして 自らの 骰子一擲

   食べるを選ぶ

冷や汁は 複雑さの象徴として現れる


 味噌汁かけご飯でもなく 猫飯でもなく
 味噌と胡瓜だけでもなく
 汁と麦飯だけでもなく

微小化された 材料のハイブリッドが
 フラクタルの構造を持って 椀に内包されている

その複雑さの一粒一粒を追いかけていくとき
 客は 満腹さと酩酊を 忘れている


このテクストの原型は マラルメの「骰子一擲」です
 わたしは まちがっても「骰子一擲」のような詩は書けませんが
 「骰子一擲」は大好きな詩ですから
 その形式を 型として いつでも使えるように身体で覚えています

その型に 冷や汁を食べたときの印象をのせると
 こんなテクストになるのでしょう

そしてこれは 今回の宿題のためのヒントなのですが
 おいしいものを おいしいという言葉を使わないで 表現するとき
 「わたし」という 主語を できるだけ使わないでみると
 面白い結果が得られるかもしれません
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