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建設業に貢献するIT化
考える技術!
店主戯言(浅草的思考)060302 2006/3/11〜2006/3/20 "There goes talkin' MOMO"
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2006/03/20 (月) ▲ ▼
【「それ以上のスピード」は古層にある】
ウディ・アレンの映画「アニー・ホール」を観ながらの昼食。
家人が葵丸進の天かすでつくったたぬきそば。
天かすがいいとこのチープなそばもうまいものだ。
そして本日二発目の戯言。
今朝の戯言は、新入社員研修に日本語システムからの理解は可能か、を考えていたわけだ。
結論=使えるかもしれないが、険しい道のり。(爆)
→さらに簡単に表現できるか。
以下はmixi日記(今朝の戯言と同内容)へのコメントへの返信の引用。
(引用開始)
訓読みの複雑さは1バイト民族にはなかなか理解できないでしょう。
日本語は漢字、仮名、カタカナの三種の文字による奇怪な書記法であります。
そしてこれがbitとしてITの機器に乗っている状態がつくりだすものがなんであるか理解は無理でしょうね。
訓読みは中華帝国の文字システムを受け入れてはいるのですが完全には受け入れていないということですし、カタカナ語は西洋の文字システムを受け入れてはいるけれども受け入れていないと。
日本語システムの面白みはここに極まっているように思えます。
つまりなんでも受け入れているように見えるけれども古層はちゃんと生き続けていて、漢字にしろカタカナ語にしろ外来語に対するマークは厳しいわけです。
しかしそれも含めての雑居しているという雑種性。(笑)
本居宣長は「からごころ」と「やまとごころ」の二項区分によって、制作的、作為的なもの=「現実的な微細な差異を抑圧する態度」=外来的なものと、生成的なもの=「歴史的古層」=日本的なものとを峻別していますが、しかしむしろこれらがその出自を明示しつつ雑居していることこそが「日本的なもの」の形態ですね。
これは精神分析の言葉では「去勢」ではなく「排除」であって、つまり抑圧不全。(笑)
ですから社会としても個人としても未成熟であり無意識が露出すると近代化先進国の方々は言いたいのでしょうが、余計なお世話でございますよね。
(引用終了)
つまりハイブリッド。
これはCALSが「キャルス」としてしか受け入れられない理由。
外来的な「合理のシステム」が非合理を生む古層(第四象限)に乗ることで動く不思議。
それは「構造改革」が日本語で語られてもうまくいかない理由(英語で語られたらもっとうまくいかないけれども)。
「構造改革」が「構造」(非合理を生む古層=第四象限)を壊そうとすることで生まれる複雑性→カオス。
しかし「とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ」(川俣正)という戦略。
「それ以上のスピード」は古層にある。
昼食おしまい。
午後から外出。
【音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える】
午前7時15分起床。浅草は晴れ。
昨日の問題の解答。
問1
A 新聞を読む
B 和歌を詠む問4
A 普段よりも数倍多い警備員
B 覆いを掛ける問2
A 機能障害
B 建設業帰農の進め
C 昨日彼に会った問5
A 川に橋を架ける
B 野を駆ける馬
C 説得力に欠ける
D 命を賭けて戦う問3
A 小笠原諸島の島民
B 熊が冬眠からさめる
漢字熟語は―たとえば「島民」(とうみん)は、島(しま)の民(たみ)という具合に―、音読み(漢字)に訓読み(かな)が注釈を与えていると言いたい誘惑に駆られる。
「機能」の「機」は「しかけ・ばねじかけ」や「はたらき」のある道具のことであり、そのはたらき(能)を機能という、という具合である。
しかしジャック・ラカンが日本語を母国語をする人々に精神分析は必要ないと言う時、これは逆なのだ。
漢字(音読み)の「形」(象形)こそがかな(訓読み)に注釈を与えている。
それはパロール(話し言葉)において顕著だろう。
「昨日(きのう)」は音読みではない。
音読みなら「さくじつ」である。
これは「熟字訓(常用漢字表『付表』にl記されているもの)」である。
「昨」の訓読みはこれ一字で「きのう」である
しかしこの場合でも、「きのう彼に会った」と言う時、「昨日」は「きのう」という音とともに漢字の表記「昨日」(の形)が思い起こされなくては理解できない。
「新聞をよむ」の「読む」、「和歌をよむ」の「詠む」もまた然り。
設問5の「かける」もすべてその類である。
つまり文字の「形」=象形=漢字(つまり音読み)が訓読み(かな)に注釈を与えている。
フロイトは無意識を象形文字として捉えた。
ラカンはこれを踏まえて、無意識=象形文字を常に露出させている日本語のような文字の使い方をする者には精神分析は不要だと言うわけだ。
『どこの国にしても、それが方言ででもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも─もっと強調すべき点ですが─、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉[パロール]への距離を触知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。』(『エクリ』序文「日本の読者に寄せて」)
ということで、朝から音訓入り乱れ和やかな朝である。
何か間違っているような気もする。(笑)
2006/03/19 (日) ▲ ▼
【音が訓に注釈を与える】
午前7時起床。浅草は雨。
二日続けて鰹のたたきを食べた。
土佐造りとでもいうのだろうか。にんにくのスライスを添えて食べた。
おかげで身体中にんにく臭い。
唐突だけれどもこんなものを考えていた。
各問いの「」内のひらがなを漢字に直しなさい。
問1
A 新聞を「よむ」
B 和歌を「よむ」
問2
A 「きのう」障害
B 建設業「きのう」の勧め
C 「きのう」彼に会った
問3
A 小笠原諸島の「とうみん」
B 熊が「とうみん」からさめる
問4
A 普段よりも数倍「おおい」警備員
B 「おおい」を掛ける
問5
A 川に橋を「かける」
B 野を「かける」馬
C 説得力に「かける」
D 命を「かけて」戦う
問題に問題を孕んでいるかもしれないが…。
解答と解説は明日にでも。
2006/03/18 (土) ▲ ▼
【新入社員研修についての最初のメモ】
午前4時30分起床。浅草は晴れ。
■AIR EDGE
昨日は風が強かったけれど、体調もまあまあだったし、ひきこもりにも飽きたので、散歩がてらに神田須田町のウィルコムプラザへ出かけた。
AIR EDGEの通信端末の機種変更をした。
何の下調べもしていなかったのだが、あたらしめのところでSIIのAX420Sを選んだ。
→ http://www.willcom-inc.com/ja/lineup/ax/420s/index.html
6800円(税込)。
AIR EDGEは4xパケットでしか使わないのだが、新しい端末はso-netをプロパイダにしても自宅で70Kbps超の速度がでている。十分である。
このAIR EDGEの契約は48ヶ月が過ぎていた。その間に機種変更はたぶん三回目である。
最近は使えるエリアも殆ど問題ないし速度も確実に速くなってきている。
AIR EDGEも進化しているなと思う。
ただ最近では、宿泊先のホテルはLAN回線が使えるところが多いし無線LANもある。
一時程のモバイル通信の需要もなくなってきている。
それもあって併用してきたFOMAのカードはそろそろお役御免にしようかと思う。
■新入社員研修についての最初のメモ
今年も空知建設業協会さまより新入社員研修をご依頼いただいた。
これで三年目になる。ありがたいことだが毎年プレッシャーもかかる。
毎年そこでは(場面的)自己言及(つまり自ら情報を発信すること)の必要性について説明を行っているのだが、それを如何にしたら容易に理解していただけるかに苦心している。
それは社会人としての経験の浅い皆さんを対象にすることでなおさらである。
昨年は幸田露伴の『五重塔』やユングの自己実現を使ってみたが、お世辞にもうまくいったとはいえない。
今年はもっとストレートにやろうと考えている。
やはり「工作の時間」である。
なんなら参加者全員事前にmixiに参加してもらおうかとも考えている。
しかしそれは経営者の理解を得ることが難しいだろうから(笑)、昨年使った葉月桃塾のイントラネット(サイボウズ)が生きているのでそれを使おうかとも思う。
ITがつくりだすコミュニケーションの特性を体感していただかないことには、私の言っていることは殆ど理解できないだろう。
なぜなら私のIT化論は主客非分離的対象を扱おうとするものだからだ。
つまりIT(イントラネットやブログやmixi)を使って自己言及することは個人的な営みのように思えるが、しかしそれはいつでも他者を意識している。
そこには「場面」(時枝誠記)が生まれる。
それは個の多様性が強調される時代における「場」(西田幾多郎)であり、「種」(田邉元)であり、「ウィーク・タイズ(弱い紐帯)」(M・グラノヴェッター)の理解であり、ITという情報の機器で日本語で語られる情報が行き来することで生まれる「前近代/近代/ポスト近代」という三幅対の共存がつくりだすハイブリッドの理解であり「超合理性」の理解でもある。
それはどうしたら個の多様性を保ちながら、ひとつの場を自己組織しながら(オートポイエーシス)共に存在する「コミュニティ的存在」(清水博)を形成できるかを考えるということだ。
それが主客非分離的対象を考慮しながら私(自己)のはたらきをその場所に自己言及的に入れるということである。
この戯言もその試みでしかない。
これを次のような説明で理解してもらおうとしても無理だろう。
近代科学技術(「科学的」)は主客分離的対象を扱い、「科学的」はその研究対象から主観性を排除してきた。
主体である人間の影響が及ばないように分離した客体を研究の対象として、存在しているものの変化のみに対象を限定し、存在そのものには触れない。
そのことによって近代科学の主客分離的な研究法は成立しているのだが、それは人間や生命を正しく理解することはできない。
つまりこれまでの「科学的」である主客分離的対象を取り扱う技術からは「場」が現れない。
そこでは「場」に現れる多様な固(人間)の営みが見落とされてしまう。
従来の「科学的」では個の一様性を前提にした秩序の持続的生成を考えることはできるが、個の多様性を前提にしてしまうとそれは複雑系になりカオスが出現してしまう。
たとえば古典経済学はこの類である。
あはは…であろう。
なので伝える手法をまた考える。
それは楽しい時間なのだ。
2006/03/17 (金) ▲ ▼
【完本 文語文】
午前7時起床。浅草はくもり。
体調はあいかわらずよくない。
体調がよくないと其方に気がつられ集中力が続かない。
そして(私の言葉では)デコード(対象をばらばらにする)力が極端に落ちてくる。
デコードが出来ないと再エンコードもハイブリッドもできるわけもない。
つまり創造的な仕事は身体が一切受け付けてくれない。
こんな時にはじたばたしてもしょうがない。
ただ日本語の勉強をするに限る。
山本夏彦の「祖国とは国語である」を理解しようとする。
完本 文語文
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山本夏彦(著)
2003年3月
文春文庫
590円(税込)
『完本 文語文』はAmazonを確認したら文庫が出ていた。
私の手許にあるのは2000年に出た単行本であるが文庫が出ることは喜ばしいことである。
私のような移動時間が読書の時間であるものにとって文庫のモバイラビリティ(携帯性)はなによりも助かる。
思い起こせば『完本 文語文』をはじめて読んだとき私は山本夏彦が全く読めなかった。
→ 2000/07/08 (土)【今週の読書】
→ http://www.momoti.com/myself/self49.html#00/07/08
それでは今は読めるのかと言われても読めない。
でも少しは読める。
読めないのはこのような文章は私の生活にはないからである。
読めるのは繰り返し何十回も読んでいるからである。
日本語の雑種性については昨日書いた。
私はそれを悪いことだとは思わない。
このことについては後日詳しく書きたいと思う。
それではお前は現状を容認するのかと言われればそうでもない。
それは昨日も書いた。
今の私において悔しいことがある。
それは古典が読めないことだ。
2006/03/16 (木) ▲ ▼
【外来語言い換え提案】
午前6時起床。浅草は薄曇。
朝方少しの時間外出。外気は思いの外暖かいが、夕方に向かって天候は下り坂のようである。
喘息は一進一退。
昨日は完全な休養日とし、PCはこのサイトの更新をしただけで触れなかった。
そしてただ静かに日本語の勉強をしていた。
それは日本語にある外来性の刻印(マーク)についてだが、そんなものを勉強してもたぶん何の役にも立たない(でもいいのである)。
発端は国立国語研究所「外来語」委員会による「外来語言い換え提案」である。
→ http://www.kokken.go.jp/public/gairaigo/Teian1_4/index.html
例えば私がよく使う言葉だとこんなものがある。
ハイブリッド → 複合型 バーチャル → 仮想 (情報)リテラシー → (情報)活用能力 ログイン → 接続開始
その他は「提案した語の一覧(第1回〜第4回総集編)」をご参照いただきたい。
→ http://www.kokken.go.jp/public/gairaigo/Teian1_4/iikaego.html
これをみて最初に思い出しのは坪内逍遥の『当世書生気質』である。例えばこんな一節。
(宮)僕ハいつか話をした。ブック(書籍)を買ひに。丸屋までいって。それから下谷の叔父の所へまはり、今帰るところだが、尚門限ハ大丈夫かネエ
(須)我輩のウヲツチ(時計)でハまだテンミニツ(十分)位あるから。急いで行きよつたら。大丈夫じゃらう
(宮)それじゃア一所にゆかう
(須)ヲイ君。一寸其ブックを見せんか。
(中略)
須河はあゆみながら。二三枚開いて見て。口の中で。ペラペラと。二言三言読とりつつ
(須)実に是はユウスフル(有用)ぢや。
明治もカタカナ語万歳である。全編この調子で書生の口から出るのはカタカナ語ばかりだ。それは今日となんら変わらないではないか。いつの時代でもこんなものなのだろう。それが日本人の深層にあるものだと思う。
「じゃあんたはカタカナ語容認派なのか」と問われればそうかもしれない。でも原語表記じゃだめで翻訳語としてのカタカナ語ならばという条件付きでである。
そもそも今普通に使われている漢字二字熟語の多くは明治期につくられた翻訳語である。例えば「社会」を辞書で調べてみる。
〔福地桜痴による society の訳語〕
(1)(ア)生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与えあったりしている人々のまとまり。また、その人々の相互の関係。
「―を形成する」「―の一員」「全体―」
(イ)同種の生物の個体間の相互関係や、それらのまとまり。
「ニホンザルの―」
(2)同じ傾向・性質、あるいは目的をもつ人々のまとまり。
「上流―」「都市―」
(3)(自立して生活していく場としての)世の中。世間。
「学校を卒業して―に出る」
(4)「社会科」の略。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
この「社会」という漢字二字熟語は今では日本語として普通に使われているが、こうして辞書を引いてみると、そもそもは日本語ではないことがわかる。外来語の「ソサヤティ」である。
つまり「社会」は英語の society の翻訳語としてつくられた言葉なのだ。ご丁寧に福地桜痴(明治のメディア王である)という翻訳者の名前までクレジットされている。
明治の始まりは漢語の隆盛期だ。それは幕末から明治初年にかけて大量に流れ込んできた欧米文化と外国語の翻訳に漢語は便利だったからだし、武士階級の一般的な教養としての漢語は、今よりももっと強かったであろう方言を超えた共通言語として便利であったからだろう。
例えば「演説」(speech)、「自由」(freedom,liberty)、「権利」(right)などはすべて漢語に新しい意味を付して造語、あるいは転用されたもので、その頃の庶民の日常生活語である(例えば)「江戸ことば」(ひらがな)からつくられたものではない。
それが好んで使われたのは、なによりも頭良さそーに見えるし、なにか偉そーだからだろう。それは今のカタカナ語も変わらない。でも使われているうちに普通になる。
この日本語の融通の良さは、明治期に始まったものではない。かつては中華帝国から輸入された語は輸入されたそのままの姿(漢字)で書かれ音読みされた。明治期は音読みされるような漢字(漢字二字熟語)に翻訳された。
つまり日本語の文字システムでは外国語から輸入された言葉は漢字(音読み)で表現され外来語であることが刻印(マーク)されている。やまとことばとはひらがなのことである。
そして1970年代以降は漢語に翻訳されるのは稀になり、それはそのまま音写されるようになったが、それがひらがなではなくカタカナになり、ちゃんと外来語であることが刻印(マーク)されていることに関しては今も昔も変わらないのである。
であれば(わかって使っているのなら)カタカナ語でもいいのじゃないのである。
でも、今の私はなるべくなら漢字二字熟語を使いたい。それは漢字の持つ語彙の多様性を失いたくないからである。
2006/03/15 (水) ▲ ▼
【休養日】
午前7時20分起床。浅草ははれ。
昨日は確定申告終了。
「う〜む」と唸る。
唸ったついでなのか持病の喘息が活発化する。
高山善廣さんも同じ病気だったと思う。
共通点は、まさかそんな病気もちとは……ということだろう。
見た目がどうであろうと、辛いものは辛い。
だから今日は完全休養日。
一日中日本語の勉強をする予定。
日本語といえば最近のお気に入りは宇多田ヒカルの『Keep Tryin’』。
TVコマーシャルで不思議な音に魅せられた。
Keep Tryin’
宇多田ヒカル
この曲は英語と日本語のハイブリッド。けれども使われている英語は少ない。
I don't care about anythig
keep trying
Lady
money
しかしこの歌の主張はこの英語表記に要約されていて、歌詞の多くを占める日本語の部分は修飾なのである。
私は最初にこの曲を聴いたとき、英語意外をほとんど聞き取れなった。
つまり『Keep Tryin’』は日本語が聞き取れない日本語の曲なのだ。
それは私の世代が使うはなしことばのイントネーションを全く無視したものだからで、そのことが初対面の印象として単なる音として耳に心地良かったのだと思う。
しかし一旦歌詞カードを確認しながら聴けばすべての歌詞は聞き取れるようになる。
そうして聴くとまた不思議に面白みのある日本語の曲なのだ。
2006/03/14 (火) ▲ ▼
【0308地域再生フォーラムVの反省(2)】
昨日の続きである。後半の座談会について。その要点だけを書こうと思う。
今回はパネルデスカッションではなく座談会にしようということで、ソファーとテーブルを置いて、たとえば空知支長室での雑談の雰囲気をつくろうと試みた。
テーマは「空知再生のシナリオ」。
お題は荒木さんから振っていただく。最初は「私(桃知)から見た空知の魅力や優位性、あるは地域の課題」について。
空知の常識は私の非常識であること。そしてその非常識を非常識と理解するのは外から自分を見ることでしかないこと。それは「ひねり」であり具体的には情報を発信すること。つまり自己言及が必要なことを話す。
これは基調講演を引き継いでいる。パトリは退屈である。代わり映えのしない日常である。しかし私は外から空知を見ている。なので空知のよさも見える。それは私にとっては非日常であるが故に私の心を捉えて離さない。
例えば食べ物にしても深川の南大門の焼肉は東日本一うまいと公言している。芦別の「がたたん」もなんだかよくわからないがうまい。
岩見沢にも三舟があり雷電食堂がある。三船や雷電食堂の猥雑な非日常性は犯罪的でさえある。そういう非日常性や非合理性は、内からはわからない。外から見る目を持たなくてはならない。
「建設業農業参入への懸念」について
これについては2月8日に書いた【費用逓増/費用逓減】をそのまま話した。
そしてここではあえて米田さんと空知支長に「差異」をぶつけてみた。
もちろん自らの意思で農業に参入されることは自由である。それは否定するものではない。農業にチャンスがあると思う方々は農業にチャレンジすればよいだろう。
しかしそれをナイーブにいうのは、費用逓増産業の産業政策化という、経済学的見れば多くの問題を孕むものを政策とすることになる。唯一それが可能となるのはフォーディズムの導入だが、建設業の農業参入に関してはそこまでの「システム合理性」は考慮されていない。(「システム合理性」に関しては今朝の戯言【「信頼」再び】を参照)
にもかかわらず建設業から農業の雇用移転を民間活力という美名を借りて推進しようというのは行政の信頼の危機でしかない。
信頼はそれが具体的に100%達成されないことによってではなく(とは言っても「システム合理性」は大前提として必要なのは当然)、その意図を疑われるときに壊れていく。(意図は説明されているのか)
政策は100%達成できないことよりも、人々の信頼を無くす損害の方がはるかに大きい。だからこそ人々の生活に直接関わるような政策は困難や課題に(それはまだ今は見えないものを含めて)敏感でなくてはならないだろう。
であればこそ、敏感に「システム合理性」(つまり政策・制度)を追求すべきであるのだが、私にはそれが見えないのだ。と同時になにか不条理な(非合理ではない)意図を感じる。
「人を呼び込むための「にぎわい」とは」について
3月11日の戯言【非合理性】を参照いただきたい。
「地域SNS」について
先の人を呼び込むための「にぎわい」にも関係することだが、問題はどうやって共同体性をつくりそれを維持していくかにある。その可能性を私は「地域SNS」に見ている。
参考
1月25日【地域SNSについて(1)】
1月26日【閉じることでつながること(地域SNSについて(2))】
最後に
『携わることによる共同性の意識が、 作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を 分かち合うようになる』(川俣正,『アートレス』,p45)
そして「動き出せ!えぶりばでぃ!」
【「信頼」再び】
午前6時30分起床。浅草は晴れ。
疲れが抜けきっていない。いつものように朝食をとるが身体に火が入らない。
暫く休んでむりやり戯言を書く。
変化する社会の不平等―少子高齢化にひそむ格差
白波瀬佐和子(編)
白波瀬佐和子/佐藤俊樹/玄田有史/苅谷武彦/石田浩/松浦克己/宮里尚三(著)
2006年2月16日
東京大学出版会
2625円(税込)
昨日の移動時間に読もうとして持参した本だが、体調は全く優れず、白波瀬佐和子の書いた「序―少子高齢化にひそむ格差」と佐藤俊樹の書いた「1―爆発する不平等感」をようやく読む。頁にすれば四十五頁程度か。
佐藤俊樹の論文はいろいろと考えさせられた。佐藤は二クラス・ルーマンの「システム合理性」概念を参照しながら5つの平等化戦略を描いている。
1・本人の生存可能性・参加可能性を確保する
2・個人単位のバランスシートを厳密化する
3・不確定性を考慮した再配分をめざす
4・親と子の連続性の負の面を縮小する
5・選択可能/不能の切り分け基準を約束する
ここで各項の詳しい内容には触れないが(興味のある方は実際に読んでみることをお勧めしたい)、「システム合理性」について書いておこう。
我々の社会には行政や経済といった機能的なサブシステムを基盤 として権力や市場取引により行為調整を行いつつ社会の「システム統合」 を目指す領域がある。それをシステム合理性とよんでいる。
唐突だが、山岸俊男流に言えば「能力に対する信頼」の領域である。
機能分化社会においてはこの「能力に対する信頼」(つまり「システム合理性」)が重視される。しかし信頼というものはそれだけじゃないのよ、というのが山岸俊男であって、彼はもうひとつ「意図に対する信頼」の領域を示している。
公共事業という産業に関してあれこれ考えてきて、どうしても乗り越えられないでいるのがこの「意図に対する信頼」であり続けている。
これはとても難しい。佐藤もそれに対しては『たやすいだけの旅路も退屈でつまらない,と私は思う.』としか書けない。
『「機会の平等」ははるか彼方の終着点である.遠い彼方にあるものは,めざすよりもなげく方が,届かない痛みを記憶しつづけるよりも,見えないことにする方がたやすい.機会の不平等をめぐる議論がつねに過剰に原理的となり,また原理的な議論好きの人々の玩具になってきた背後にも,そういう心理が働いているのではないか.極論したくなるし,極論する方がたやすい.不平等とはそんな主題である.だが,たやすいだけの旅路も退屈でつまらない,と私は思う.』(佐藤,p45)
公共事業という産業をめぐる議論も常に過剰に原理的となり、また原理的な議論好きの人々の玩具になってきた。
極論したくなるし、極論する方がたやすい。公共事業という産業とはそんな主題である。だが、たやすいだけの旅路も退屈でつまらない、と私も思う。
(このフレーズはなんにでも使えそうだけれども使えない。使えるのは対象が人間の基本的生活に深くかかわるものであるときだけだ)
引用中の「そういう心理」と、そして「極論したくなるし,極論する方がたやすい」心理を「認知的けち」、ルーマン流に言えば「複雑性の縮減」と考えれば、ここに「コミュニケーション合理性」というような領域があることがわかる。
それは人々が生活世界に基盤をおいて言葉を介した了解により行為調整を行いつつ、目標などを共有する「社会統合」を目指す合理性の領域である。
ここでのコミュニケーションはいつでも〈情報/伝達〉の差異の理解なのである。
再び山岸俊男流に書けば、コミュニケーションは〈能力に対する信頼/意図に対する信頼〉の差異の理解なのである。
(だから誤解もある)
「システム合理性」(能力に対する信頼)の領域では、人の言説の妥当性は専ら客観的事実に基づくかどうかの「真理性」 を巡って主張・批判される。
「コミュニケーション合理性」の領域では、「システム合理性」にある「真理性」だけではなく、社会規範に照らして正しいという「正当性」、そして自らへの「誠実性」の三つのトポロジックなバランスによって調整(相互理解)が進行すると私は考えている。
最近の私はそれをとても簡単に言ってしまっている。(複雑性の縮減か(笑))
「情報を発信し続けること」
「差異を生み出し続けること」
「コミュニケーション接続を続けること」
「意図に対する信頼」は、はるか彼方の終着点である。遠い彼方にあるものは、めざすよりもなげく方が、届かない痛みを記憶しつづけるよりも、見えないことにする方がたやすい。
だが、たやすいだけの旅路も退屈でつまらない、と私も思う。
と書いてみたが、まだ脳みそは寝たままだ。
2006/03/13 (月) ▲ ▼
【0308地域再生フォーラムVの反省】
午前5時30分起床。浅草はくもり。
今日は室蘭へ日帰りの出張である。
3月9日砂子組さんでの研修を終え空地建協へ向かう途中、美唄市の「しらかば」でとりめしをご馳走になった。
このとりめしは無論炊いてあるのだが、一口目はどこか懐かしい醤油味の焼き飯の味がした。それは使われている鶏の脂の旨味であろう。
北海道の動物系の料理は総じて脂が強い。それは厳寒の地で生活する先人達の嗜好と工夫なのだろうが、それが受け継がれ地元に愛され続けていることは素晴らしい。
■0308地域再生フォーラムVの反省
今年も多くの方に参加いただいたことに感謝である。そして裏方で支えてくれた空知建協事務局と広報IT委員会に感謝である。
まずは使用したPPTから。
→ http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダ BD060309.ppt ファイル
PPTに無いのにもかかわらず使ったことば。
「北海道の道州制特区反対」
このイベントは祭りであり「ハレ」であり、なによりもまず共同体性としての責任の分かちあいである。開催し続ける過程にこそ意義がある。
川俣正の言葉を借りれば『携わることによる共同性の意識が、作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を 分かち合うようになる』(川俣正,『アートレス』,p45)ということだ。
私の基調講演は三十分であった。この時間設定は私が決めたものであって不満はない。PPTは昨年の1119地域再生フォーラムin山鹿のものを流用し「あなたの日常は僕の非日常」〈合理/非合理〉を強調した。
どちらかと言えば非合理性の強調に聞こえたかと思うが、それは後半の座談会へのつながりを意識し最初から狙ってのことである。
横道に逸れるが私の経営理論の基礎は学生時代に学んだ程度の域である。それはM.P.フォレットでありP.F.ドラッガーでありマネジメントである。
その特徴はマネジメントというものはあらゆる組織に共通した技術であり、企業経営でも役所でも協会でも町内会でもPTAでも使えなくてはならないということである。私はそれを忠実にトレースしようとしている。
マネジメントは技術であるがその合理性は次のふたつに上書きされる、というのがわたしの立場である。
自己言及のシステム(考える技術=情報を発信すること)
共同体性(第四象限の復活)
つまり地域再生でもなにか特別なものはない。ただ共同体性が崩壊した今の時代にはあえてこれをつくることからはじめなければ合理のシステムは動かないということである。
そのためにあえてIT化を組織のプロジェクトとして共同体性をつくり、そのIT化に自己言及のシステムを孕ませようとしているのは『携わることによる共同性の意識が、 作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を 分かち合うようになる』(川俣正,『アートレス』,p45)ということだ。
2006/03/12 (日) ▲ ▼
【はじめてのやのあきこ】
午前7時起床。浅草はくもり。
今から三十年前のはなしである。矢野顕子の『長月・神無月』を聴いていた十八歳のある日のことだ。叔母がわたしの部屋にやってきて暫く一緒にこのアルバムを聴いていてのだが、叔母は徐にこう言った。
「あんた……頭は大丈夫?」
長月・神無月
1. あんたがたどこさ
2. あわて床屋
3. いもむしごろごろ
4. 待ちぼうけ
5. アメフリ
6. 相合傘
7. 金太郎8. あの町この町
9. 風太2
10. 君が代
11. 達者でナ
12. 絹街道
13. 津軽ツアー
14. ジャイアンツを恋うる歌
このアルバムがわたしの「はじめてのやのあきこ」だった。
その後「あわて床屋」は振り付けが加わり学生時代のわたしの宴会芸となり、社会人になってその芸でアキレス腱を切断した。今は別居している子供たちの名前には「顕」の文字がある。
ずっと彼女をおいかけてきた。
『はじめてのやのあきこ』を聴いた。
三十年も過ぎてしまったのだな。
『長月・神無月』のとんがりはもはやない。
どの曲もささやかな日常の中のささやかな非日常である。
それをポエジーとよぼう。
はじめてのやのあきこ
1.自転車でおいで (with 槇原敬之)
2.中央線 (with 小田和正)
3.PRESTO
4.ごはんができたよ (with YUKI)
5.架空の星座 (with 井上陽水)
6.ひとつだけ (with 忌野清志郎)
7.そこのアイロンに告ぐ (with 上原ひろみ)
2006/03/11 (土) ▲ ▼
【非合理性】
午前7時起床。浅草はくもり。
昨晩は浦和の「なんやかんや」にて古い友人と酒を楽しむ。
懐かしい時間がよみがえるや否やそれは反転し今を楽しむ。
非合理性に溢れた時間であった。
非合理性という「ことば」はなんでも呑込んでしまう。
うかつに使ってはならない。
「ことば」は名指しであり区分である。
「非合理性」という名指しはその名指しを拒否したものたちの深淵であることで既に非合理である。
浅草寺が子宮的構造をもつ非合理であることをばらしたのは中沢新一である。
アースダイバー
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中沢新一(著)
2005年5月30日
講談社
1890円(税込)
浅草寺の観音様はだれもみたことがない。見たら目が潰れると教えられた。「無」である。それをありがたく拝むのだから非合理としかいいようがない。
しかしそれは無の根源である子宮的構造〈エロス/タナトス〉をもつ。
その深みは人を吸い寄せる。それも世界中からである。
「非合理性」は真正のグローバリズムである。
例えば「芸術」を思ってもらえばよろしい。ポピュラー・ミュージックでもよろしい。芸でもよろしい。芸術は合理の対極にある無意識であり非合理である。
浅草は(浅草寺の)非合理性を再生産することでいきている。
非合理性に行政のシステムや経済のシステムの合理性が上書きされている。
その重ね合わせの境界に生まれるものを共同体性(文化)と呼ぶなら共同体は非合理性の再生産をおこなうことで自らの共同体もまた再生産する(実践合理性)。
浅草寺の非合理性がなくなれば浅草は浅草ではない。
行政のシステムや経済のシステムは勝手に動くだろうがそれはもはや浅草ではない。
一昨日は栃木の皆さんに日光のはなしをした。
東照宮である。世界遺産であり非合理性である。
日光という街は東照宮の非合理性の上に重ねがきされた行政と経済の合理の境界に生まれた街である。
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