「ももち どっと こむ」より

還暦祝い!平成30年9月15日(土)桃組「小さな勉強会」と「暑気払い」のご案内。山と山とは出会わぬものだが人と人とは出会うもの(また会う道もある花の山)。

2018年08月01日|イベント



Lesson5 コミュニティ・ソリューション(3)―コミュニティ・ソリューションとソーシャル・キャピタル

コミュニティ・ソリューション

「コミュニティ・ソリューション」は、その位置を「コミュニティへの方向性」に置く問題解決方法です。これは、コミュニティを形成するメンバーとの積極的につながりを構築することで問題を解決しようとするもので、例えば「オルフェウス室内管弦楽団」による「オルフェウス・プロセス」(※ソロやコンダクターを務めることのできる力を持った一流の演奏家の集まりですが、世界で唯一の指揮者のいないオーケストラとしてそのコモンズの問題解決方法)や「リナックス・コミュニティ」(リナックス・コミュニティには企業組織のような権限によるヒエラルキーはなく、リーナスが最終的に下す決定をコミュニティ・メンバーが承認するというルールが出来ています)(金子,2002,p49))がその事例とされています。

「これまでの常識から考えれば、関係に依存するということは、自己完結できないということであり、その分弱みが出現するということになる」(金子,2002,p151)と金子がいうように、この問題解決方法は、私のいう「答えのない」コンサルテーション、若しくは『「わからない」という方法』によく似た問題解決方法だと考えています。この問題解決方法では、既存の権威や制度慣行もたいした意味はありませんし、ましてやお金で白黒つけるなどという方法論を持ち出しても意味はありません。ただ下品だと笑われるだけです。
 
ここで金子は、「ソーシャル・キャピタル」こそがコミュニティの関係のメモリーであり、「コミュニティ・ソリューション」のエンジンだといいます。そして「ソーシャル・キャピタル」とは、コミュニティの文化の遺伝子である「ミーム」だというのです。

「ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である。」(金子,2002,p160)

そして私は、〈IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである〉というのです。実はこの「ミーム」という共通項こそが、私の考える中小建設業のIT化と金子の「コミュニティ・ソリューション」を結び付けている重要なキーワードなのです。


ソーシャル・キャピタル

「ソーシャル・キャピタル:social capital 」は、日本語では「社会資本」と訳されてしまうので、道路や公共下水道のような「社会資本」と混同されがちですが、実は全く違うものです。

ロバート・パットナムは、コミュニティがうまくいっている、うまくいっていないの差を、この「ソーシャル・キャピタル」の差であるとしていますが(ロバート・パットナム,『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造 (叢書「世界認識の最前線」)』,河田潤一訳,NTT出版,2001)、私は、これをケネス・J・アローのいう「信頼」の文脈で理解しています。

それは人々の間の信頼である。さて信頼というものは、かりにほかの点をおくとしても、非常に重要な実用的価値をもっていることはたしかである。信頼は社会システムの重要な潤滑財である。それが社会システムの効率を高めることはたいへんなものがあって、他の人々の言葉に十分に依存できるとするならば、さまざまな面倒な問題が取り除かれる。(ケネス・J・アロー,『組織の限界』村上泰亮訳,岩波書店,1999,p16)

例えば、ここでは「談合」を例に考えてみましょう。批判を覚悟でいえば、私は本来の意味での「談合」を「コミュニティ・ソリューション」のひとつの形態と考えています。

そもそも談合は、極めて不確実性の高い要件を前提として成立しています。それは、談合が成立するには、談合参加者が決定事項を必ず守る必要がある、ということです。つまり、談合の成立自体が全く信頼のおけない構成員同士の「信頼」を前提としている、という矛盾を抱えていることで、談合は最初から社会的不安を内在しているのです。しかし、そこに何等かの信頼関係が形成され、構成員の合意によって仕事の均等な配分をおこなうという談合のシステムが正常に機能しているとすれば、ここには「ソーシャル・キャピタル」が存在していると理解してもいいのだろうと考えるのです。

つまり「ソーシャル・キャピタル」とは、ブラウがいうところの「社会的交換」のようなもの、つまり「何らかの将来のお返しの一般的期待はあるけれども、その正確な性質はあらかじめ確定的に明記されない」の文脈上に存在する「信頼」と呼べるようなものをベースにした、人と人との関係性の財産と理解すればよいでしょう。(P・M・ブラウ,『交換と権力』,間場ほか訳,新曜社,1974,第4章)それであれば、昨今問題となっている官製談合や、あっせん収賄などといった政官との癒着の必要など本来存在しないはずなのです。

しかし、談合のシステムに政・官が加わることは、談合が本来持っている「コミュニティ・ソリューション」がその機能を失い、その代替策としてコミュニティの秩序を形成するために「ヒエラルキー・ソリューション」が機能していることを意味します。それは、本来の意味での「談合」における信頼を構築するシステムがなんらかの理由で機能しなくなっている、ということですが、私はこのような状況を「ソーシャル・キャピタル」が失われてしまった結果だと理解するのです。

つまり、本来の談合のシステムさえも正しく機能しないコミュニティでは、そもそも信頼関係が成立していないがために、権限と強制力による「ヒエラルキー・ソリューション」が必要とされてしまいます。その意味では、このコミュニティには最初から「ソーシャル・キャピタル」は存在していないともいえるのですが、逆説的には、「コミュニティ・ソリューション」が機能するためには「ソーシャル・キャピタル」は不可欠なものであること意味しています。

このことは、談合というシステムが持つ本来の機能への批判と、政治家や行政との癒着といった不正行為への批判は、本来違うものであってもよいことを意味しています。つまり談合というシステムは、必ずしもルール違反として批判されるだけのものではないと私は考えるのです。

私は「コミュニティ・ソリューション」の効用を語る立場として、本来の談合が持つ機能はこれからの社会の問題解決方法として十分に研究に値するものだと考えています。しかしこのことは、昨今批判の対象となっている建設業と政治家や行政との癒着といった、本来の談合の機能を歪める不正行為に対しては、徹底的に批判する立場に私がいることを意味していることもご理解いただけるかと思います。

私は、「公共工事という問題」は、「ヒエラルキー・ソリューション」でも「マーケット・ソリューション」でもすでに解決はできない、つまり〈経済学が生み出したふたつの解決方法では中小建設業を救えない〉という見解に立っていますが、このような状況の中で、第三の道とでも呼べるような解決方法があるとすれば、それが「コミュニティ・ソリューション」であると理解しています。しかし、それが実行され有効に機能するには、信頼の構築という「ソーシャル・キャピタル」の編集作業という、かなり困難な作業をともなうことは、この談合の例でも理解できるかと思います。

つまり、私にとって「中小建設業のIT化」を考えるということは、インターネット社会において通用する「公共工事という問題」の問題解決方法を考える、ということと同義なのですが、それを「コミュニティ・ソリューション」に求め、その推進エンジンである「ソーシャル・キャピタル」の編集作業とIT化の関係を理解することを意味しています。それは、インターネット社会では中小建設業は第Ⅱ象限の存在であり「コミュニティ指向」でしか生き残れない存在であるということです。そして同様に、発注者である自治体も、公共工事の主体である市民社会や地域社会も、第Ⅱ象限に存在するものでしかないことを根拠とした議論だということです。

そしてこの立場でおこなう本書の問題提起とは、第一に、中小建設業と発注者が、「ソーシャル・キャピタル」の編集をすべきコミュニティの住人とは「だれなのか」ということです。これは、「公共工事の真の発注者とは誰か」という問題です。

そして第二には、「中小建設業のIT化」というときの「IT化」の捉え方が、例えば「ソーシャル・キャピタル」の編集作業とIT化の関係、というような表現をするように、多くの方々が考えているコンピュータ化や情報化、ましてやOA化とはぜんぜん違うものであるということです。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2007年09月17日 18:55: Newer : Older


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