「ももち どっと こむ」より

還暦祝い!平成30年9月15日(土)桃組「小さな勉強会」と「暑気払い」のご案内。山と山とは出会わぬものだが人と人とは出会うもの(また会う道もある花の山)。

2018年08月01日|イベント



Lesson9 開発主義と中小建設業(1)―中小建設業とは

中小建設業とは

さて、私たちは、IT化の現象としてのインターネット社会、「情報」の正体としての「ミーム」という眼鏡をもってIT化を考えるという準備を終えましたが、もうひとつ本書が中小建設業のIT化を考察するときに基盤とする考え方があります。それは、「中小建設業のIT化=中小建設業×IT化」という方程式にある「中小建設業」そのものの理解です。これは、「制度・慣行=環境×原理」という方程式の、制度慣行を中小建設業と置いて考察をする作業となります。つまり中小建設業という産業を成立させている「環境と原理」を考える、ということです。

本書では、〈中小建設業は政策的に生み出されたな産業である〉という立場であることをすでに述べていますが、まずはこの部分を「開発主義」という考え方から明らかにしていきます。さらに、中小建設業に働く「環境と原理」を、「中小建設業はなぜにIT化が進まないのか」というアプローチから理解を試みることにします。このアプローチは「環境と原理」の相互依存の乗数として「中小建設業はIT化が進まない」を考えることを意味しています。つまり方程式で書けば「中小建設業はIT化が進まない=環境×原理」ということです。

開発主義の裏側で

さて、本書のいう〈中小建設業は政策的生み出された産業である〉という立場は、村上泰亮の「開発主義」の考え方をベースにしたものです。開発主義とは、先発国への追いつき型開発を支える理論体系なのですが、戦後の欧米に追いつけ型の経済成長を支えた考え方だと理解していただいてかまいません。欧米のものまねだといわれようが、日本という国は「追いつけ追い越せ」のスローガンのもと、本格的に先進工業社会の仲間入りをすることができました。そしてその結果「みんなもそれなりに豊かになったじゃないか」という程度の理解ができれば十分です。

ただ、ここで注目してほしいのは、みんなが豊かになった、ということが、主要な産業に従事している方々だけではなく、「国民総中流意識」という言葉が高度経済成長の時代を象徴していたように、地方の農村部も都市部もみんな豊かになった、ということなのです。つまり、開発主義は日本の産業化を成功に導いたけれども、産業化が農村から都市部への労働力の大量移動に支えられているわりには、農村が極端にさびれてしまったとか、いまだに戦前のままの状態にあるとかといった、混乱した社会にはなってはいないということです。でも、なにかそれも不思議なこととだとは思いませんか。

尾野村祐治は『ゼネコン大破壊』でこう書いています。

所得を求めるのであれば、離農し都市に移住するしかない選択肢が、農村に居ながら建設業に就業することが可能になった。これほど都合の良い兼業先は、農村にはなかった。作業の相手は農業と同様に土(つち)であった。農業の機械化が、農業に必要な労働時間を短縮させ、兼業を可能とした。かくして建設産業は農村地域における最大の産業となり、建設業者は工事にかかわる利権と密接に結びつく政経一体の巨大産業となった。』(尾野村ゆう(示右)治,『ゼネコン大破壊』,東洋経済新報社,2001,p34)

日本経済が右肩上がりに成長を続ける限り、建設産業に構造不況はありえなかった。これほど安心して経営できる産業はほかに見当たらない。経営で成功するポイントは中央の政治と結びつき、公共予算を獲得し、大企業を誘致する。予算獲得と誘致に成功すれば、土地の値上がりという大きな利権もついてきた。』(尾野村,2001,p35)

また、田中秀臣は『開発主義と新中間大衆の病理』という論文で、開発主義を批判的にこう指摘しています。

戦後の都市住民の所得を一部農村住民に強制的(各種補助金など)に移転することで、日本の開発主義は社会的な軋轢なく進んだ。また社会の構成員が「新中間大衆」という等質的な「消費の文化子」としてまとまりえた(という幻想も効力を発揮した)。→幻想としてのナショナリズムの成立。(http://www.t3.rim.or.jp/~hidetomi/

これが幻想かどうかは別として、開発主義は産業化の裏側で、農村部の変化を最小限にするような仕組みをもっていたということです。そのひとつが地方へ公共事業の形で配分をおこなう配分政策であり、実際に配分をする役目を担ってきたのが中小建設業なのです。これを次にまとめてみましょう。

①地方への公共事業投資は、産業化が生み出す急激な社会的変化-地方の農村部から都市部へ人口が大量流出する-の中で、地方の衰退を最低限に止めました。

②さらには、農家は建設作業員として兼業農家になることで、同じ土を扱う仕事としての雇用の確保を実現し、所得を確保することを可能とし、開発による地価の上昇は農家の資産価値の上昇をもたらしました。

③そして彼らは「新中間大衆」として国内需要を支えたことは事実でしかありません。

つまり、開発主義的な政策のおかげで、日本国中とりあえずみんな豊かになったし、豊かになったおかげで、車も、電化製品も売れたのです。「新中間大衆」は国内需要を支える形で国内産業の発展にちゃんと寄与してきたわけです。

この流れのなかで、中小建設業は配分の機能の一端を担ってきました。それは戦後のすべてが貧しい時代からの出発では決して誤りではなかったと思いますし、地方に対する公共投資も、結果の平等を目指す中では、決して誤った政策ではなかった、といってもよいでしょう。

つまり、中小建設業は、このような「ヒエラルキー・ソリューション」(開発主義は典型的なヒエラルキー・ソリューションです)の文脈において、地方への資源の再配分(それはわが国の元気の素であった)を担う機能のひとつとしてその存在を確立してきたのです。それはまるで人体の隅々まで栄養分を送る「毛細血管」のようにです。この意味で私はこういうのです。

〈中小建設業は政策的に生み出された産業でしかない〉

Written by 桃知利男のプロフィール : 2007年10月15日 16:59: Newer : Older


このエントリーのトラックバックURL

https://www.momoti.com/mt/mt-tb.cgi/1460

Listed below are links to weblogs that reference

Lesson9 開発主義と中小建設業(1)―中小建設業とは from 桃論―中小建設業IT化サバイバル論

トラックバック