「ももち どっと こむ」より

還暦祝い!平成30年9月15日(土)桃組「小さな勉強会」と「暑気払い」のご案内。山と山とは出会わぬものだが人と人とは出会うもの(また会う道もある花の山)。

2018年08月01日|イベント



Lesson18 発注者と市民社会(1)―発注者は豹変する

機会費用の増大 

マーケット・ソリューション」の台頭は、中小建設業に「安心」を提供してきた集団主義的社会の組織原理が、機会費用の増大で高く付き過ぎる、と多くの国民が感じるところから始まっていることは確かです。そうしてこう繰り返しているのです。

「世の中、飼い慣らされた金魚ばかりだから餌がたくさん必要になって国の財布はすっからかん、挙句の果てに借金までしなくちゃならない」。

ここでいう機会費用が高いという心象は、公共工事という「共有地」のステークホルダーとしての市民社会が持ち始めた「消費のミーム」のひとつですが、この心象は、地場型公共工事複合体(公共工事という産業)の崩壊を意味します。なぜなら、これに一番敏感なのが発注者という「公共工事という産業」のメンバーだからです。

友人からのメール

ここでは、私の友人からのメールを紹介しましょう。

最近、業界の方々とはなしをしていると、決まって話題になるのが発注者責任です。官庁技術者が役所の内部で信頼を失い、事務方が入札・契約システムの主導権を握り、企業の専門性や技術力が個々の入札行為に反映されていないとの不満が広がっています。
この問題の背景には
 ①役所はもう技術力がない。
 ②経営事項審査や競争資格審査は欠陥だらけで玉石混交の業者が交じっている
という実態にふたをした、自治体の保身的な姿勢にあります。でも、中には「技術と経営に優れた建設企業を残していくために、事務方とけんかしながら議論している」という腹の座った官庁技術者もいます。(本当に少ないけど…みんな退職金がパーになることだけを恐れている)

自らが「公共工事という産業」のメンバーであり続けることで、自治体の職員が自らの退職金を無にしてしまう可能性が高まることは、(「公共工事という産業」のメンバーであることで)取引費用や機会費用が増大する(損をする)ことを意味します。だとすれば、それを回避するのは当然のことです。

発注者は「消費のミーム」に敏感である(保身)

それは昨今の首長選挙でも顕著でしょう。今や、多くの自治体の首長は「公共工事という産業」を後援者として選挙を戦うことは、機会費用(構成員としての仲間以外からのたくさんの票を失うこと)を大きくするだけである、と考えているのでしょう。

発注者である自治体は、きわめて利己的に、市民社会の持っている「消費のミーム」に敏感になります。ただしそれさえも「官僚は自ら所属する組織の予算と権限を最大化する」というスティグリッツの法則の文脈においてですから、市民社会が「公共工事という産業」への「意図の信頼」を持てなければ、つまり、発注者が自らの意図の信頼を、従来型の指名競争入札制度を通じて市民社会に対して証明することができなければ、発注者は、このシステムを維持したときの取引費用や機会費用を考え始めます(つまり保身)。

「談合の結果入札価格は高くなり、それが納税者に不利益をもたらす」というような、まことしやかな言論が繰り返され、結果、発注者は「公共工事という産業」とその問題から自らを切り離します。そこでは、市民社会に迎合する形で、自己保身を目的とした制限付き一般競争入札のような「似非マーケット・ソリューション」がまかり通ります。

本来、「談合」が法的に違法だとされるのは、それが独禁法でいうカルテル行為のひとつであり、販売者が自由に競争した結果、需要と共有の関係を反映した価格が決まるような自由主義経済システムのあり方に反するからです。入札価格が高くなることが理由ではないのですが、そのような核心的な議論はお構いなしのなのが「公共工事ダメダメミーム」の特徴です。そんな「公共工事ダメダメミーム」は、気まぐれのようなものでしかありません。(ミームは自己複製子であるので、気まぐれは当然といえば当然なのですが)。

しかし、このような「マーケット・ソリューション」への傾向が大きければ大きいほど、中小建設業を取り巻く環境は、本来の自由主義経済システムでの競争とは呼べないような、むしろ統制経済システムでの「指値制度」のような、カッコ付きの「競争」を下敷きにした不毛なものとなってしまうことは避けられません。

ふたつのソリューションの限界

これは、先に「対極のルールの失敗」で指摘したように、開発主義の残像上でのふたつのソリューション(問題解決策)がおこなわれることの限界なのです。

今までの経済学が考え出したふたつのルールである「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」のどちらにしても、それがいつでも「お役人」が仕切る、という前提がある限り、このふたつの対極のルールは、(結局どっちに振れても)中小建設業には淘汰の原因ぐらいにしかなれません。つまり中小建設業はここで万事休すなのです。

公共工事ダメダメミームが主流のミームである理由

このような公共工事に対する「消費のミーム」である「公共工事ダメダメミーム」を形成する「ミーム・コア」は、新聞やテレビなどのマスメディアを媒体に大量に社会に流され続けることで、しっかりとミーム淘汰を生き抜き、そして主流のミームと呼べるものとなってしまいました。

GC空間このミームの特徴は、「マーケット・メカニズム」といカビ臭い問題解決方法が、インターネット社会でも、G軸(グローバルな方向性)でいわれるグローバリゼーション(というよりも「アメリカニズム」)がいう、新古典主義的な経済理論と同じように扱われることで、その正当性を主張し、時代の「振れ」には逆行しないことなのです。だから主流になれたのであり、強力な力を持っています。

インターネット社会においてさえ、本来「コミュニティ指向」(第Ⅱ象限)の存在でしかない市民社会や自治体が、このようなグローバル指向に寄った問題解決方法しか選択できないとすれば、彼ら(市民社会)がいる社会(つまり日本という国)もまた「ソーシャル・キャピタル」を生み出せない悲しい空間でしかありません。山岸俊夫のいうとおり、「安心の崩壊」の問題とは、なにも公共事業だけの問題ではなく、現在の日本社会が直面する「安心の崩壊」の問題でしかないようです。

コミュニティ・ソリューションに向かって

こうして「公共工事という問題」の根源は、とても中小建設業が自らの手で解決できるものではなくなってしまっています。そして、打開の糸口はさらに見えなくなってしまっているのです。つまり〈「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」というふたつの社会的選択肢には、もはや中小建設業を救える道はない〉ように思えます。

私自身は、このふたつの問題解決方法が、中小建設業の抱える問題解決の糸口を示してくれるものではない、と言い切れますが、社会的な問題解決方法としてのこのふたつのすべて否定しているわけではありません。ただ「公共工事という問題」においては、「コミュニティ・ソリューション」という問題解決方法をベースにすべきだろう、というのです。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年05月15日 23:27: Newer : Older


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