Googleの純粋贈与仮説―普遍経済学的アプローチ。

午前6時50分起床。浅草はくもり。

Radical Trust

googlelogo.gifWeb2.0 meme にある「Radical Trust」(過剰な信頼)は、私の最大の関心事だ。私たちが享受しているGoogleのサービスの殆どが無償であることは、Web2.0にある過剰な信頼を象徴しているように思う。

その本質は技術に対する信頼なのだろうが、今回はGoogleは純粋贈与である、という仮説をたてて、 「Radical Trust」(過剰な信頼)について考えてみようと思う。

Googleのサービスは、無償であるだけではなく、表面上は見返りさえ求めていない。つまりそれは、単なる贈与ではなく、純粋贈与に近い――というかそのものに(私たち=ユーザーには)思える。私の場合、Google AdSenseを利用しているので、毎月お小遣いさえいただいている有様なので、なおさらなのである。

贈与

普遍経済学贈与であれば必ずお返しの義務が発生する。

贈与は互恵的な関係であり、極めて日常的なものであり、つまり人類がESS(進化的に安定な戦略)的に獲得した特徴なのだと(私は)考えている。

「ギブアンドテイク」「おたがいさま」「もちつもたれつ」で表現されるように、日常生活でも親切にはお返しをし、ひどい目にあわせた相手には仕返しをしながら、私たちは互恵的な協力関係をつくっている。

つまり贈与であれば、それはお返しというかたちで円環をつくり、人間的な関係(信頼)をつくることができる――贈与の原理。

普遍経済学

多くの無償提供を謳い文句にするビジネスモデルは、この贈与を基底として、「お返し」に交換を求めている。しかしそのことで、その人間的な関係の円環を断ち切ってしまう。

つまり、贈与を交換に転換させるスキームを持つビジネスモデルは、そのシステム内に純粋贈与を孕めないことで「限定経済学」的なのであり、贈与‐交換‐純粋贈与の関係が、ボロメオの結び目のごとくバランスを保った「普遍経済学」(バタイユ)からは程遠いものとなる。それは結局、人間的な信頼関係を持てない(持続できない)。

たとえば、公共事業という産業の行っている地域貢献は、見返りを求めることで贈与ではあるが、その見返りが工事の受注という交換が見え見えなことで、市民社会との信頼の関係改善は難しいままだ。

純粋贈与-神の領域

一方Googleときたら、(私は)Googleに(直接的に)お返しをしたことはないし、Googleとなにかの交換関係(売買関係)を持った覚えもない。ただGoogleの提供する無償のサービスを享受しているだけなのである。(多くの方々もそんなものだろう)。それを純粋贈与(お返しを求めない贈与)と呼べるのであれば、Googleは今、神の領域にいることになる。

交換‐純粋贈与‐資本

そしてさらに興味深いのは、Googleの収益構造は99%以上が広告料収入であり、それはGoogleが「交換の原理」抜きでは存在し得ないことを意味している。Google AdWordsはマーケット・メカニズムそのもので動いている(広告料はオークションで決まる)。

純粋贈与と交換の間に生まれるものが「資本」であるならば、確かにGoogleは膨大な資本を持っている(株式時価総額は10兆円を超える)。 しかしこの資本さえGoogleが最初から持っていたものではなく、増やした(増殖させた)ものなのである。

Googleは贈与を行わないのか

つまり、普遍経済学的に考えれば、増殖には、贈与と純粋贈与の交わりが必要だということだろう。贈与は人格的な信頼を孕むことで、価値の増殖のメカニズム(純生産)となる。ではGoogleにおける「贈与」とはなんだろう。

私はそれをインターネットなのだと考えている。それをGoogleは、贈与のシステムをその内部に持たず外部化している、といってもよいだろう。

つまりGoogleは直接的には贈与を行わないのである。人類の持つESS的特長としての互恵性、その延長された表現型としてのインターネットに自らを置くことで、贈与のメカニズムを得てしまっているようにみえる。

贈与の本質-インターネットの精神文化

その贈与の本質を、今は「インターネットの精神文化」であるとだけ仮説的に記述しておこう。 

  • 自発性(ボランティア
  • 草の根(グラスルーツ)
  • 開放系(オープン)

Googleの商品

であればこそ、インターネットという贈与のシステムと、交換(資本の原理・消費社会)の間に、(今のところ)Google唯一商品ともいえる Google AdWordsが生まれ得る。これは具体的であり、わかりやすい商品である。

わが社の商品は信頼ですとか、安心ですとかの抽象性を持たないことで、 Google AdWordsは交換の原理(マーケット・ソリューション)に歓迎され易い――つまりGoogleは機能しか語らないのである。

そしてそれは、コンシューマー(Googleのサービスの享受者)からの(直接的な)対価の回収ではないことで、Googleが孕んでいる「交換の原理」を覆い隠している。つまりGoogleにおいては、むき出しの資本の原理が、われわれには(直接的には)みえないのである。

三位一体の企業 - Google

Googleを過度に賞賛するつもりはない。けれども、このように考えていくと、Googleは、純粋贈与を孕んだ、三位一体モデルの企業ということができるかもしれない。(たぶんそれは、Googleが意図したのではなく、インターネットに身を置くことで、偶然にそうなったのだと私は考えているが)。

予想される反論といいわけ

しかしそれさえ、人々を消費にかりたてているだけではないか、純粋贈与(見返りを求めないサービス)は、資本が大きいところ(つまり金持ち)でないと出来ないのではないか、という批判も予想される。さらにいえば、Googleの純粋贈与は、純粋贈与のようにみえるだけではないか、といわれるかもしれない。これらについては、私もそう思うところがある、というのが正直なところだ。

今回の記事は、仮説的に、Googleは普遍経済学的な企業である、かもしれない、という出発点を示してみたに過ぎない。つまりもう少し考えてみる価値はある。たぶん今後もGoogleの純粋贈与仮説については言及することとなるだろう。

それは、Googleが(偶然につくった)この奇跡のようなバランス(ボロメオの結び目)は、いつまで維持可能なのだろうか、ということでもある。それが1年なのか2年なのか3年なのか、それとも10年なのか、それとも明日崩壊するのかは、今の私にはわからない。