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店主戯言(浅草的思考)060202  2006/2/11〜2006/2/20 "There goes talkin' MOMO"



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2006/02/20 (月)  
【大関(金沢)】

午前6時30分起床。金沢は曇り。

昨晩は、金沢市木倉町の「大関」さんにお連れいただきました。

下の写真は、香箱ガニ(ズワイガニ♀)で、おでんのたねのひとつとして登場しました。たぶんわたしの知っている世界では、一番贅沢なおでんだねです。

そしてこれは、わたしが世界一好きな魚であります、のどぐろです。東京ではめったに食べられない魚のひとつなわけで、金沢では絶対に食べようと決めていたものです。
写真ではわかりにくいかもしれませんが、かなり大きなものなのです。そしてのどぐろをまるまる一匹食べたのは初めての経験でありまして、とてもうれしいのでした。

だしまきですね。完璧です。

そして、じいちゃんです。現役であります。年齢は95歳〜99歳の間であることは間違いないようです。たぶんわたしの知っている世界では、一番高齢の現役料理人です。(写真は神棚に置いて毎日拝ませていただきたと思います)


2006/02/19 (日)  
【他我言及(〈システム/環境〉そしてパースペクティブ)】

午前7時30分起床。心斎橋は曇り。
ただいま金沢行きのサンダーバード11号車中でこれを書いています。→14時過ぎに金沢へつきました。

昨日の大阪三人会は、ねぇさんをはじめ、大阪の皆さんのご協力のおかげで大成功でした。参加いただきましたすべての皆さんに感謝申し上げます。m(__)m


トップは笑福亭遊喬さんです。

即席の演台でしたが、遊喬さんは「堪忍袋」を熱演してくれました。たぶんわたしが聞いてきた遊喬さんの噺の中では、一番はまっていたと思います。

「堪忍袋」は多彩なアレンジが可能な(それだけに構造がしっかりした)噺なので、演じ手の創意工夫が生きる題材です。大切に育てていただきたい、と思います。

さて、二番目は太田ジオさんでした。

ジオさんは、PPTなしでの講演でした。彼は手ぶらでやってきたのです。(笑)
お題は「がらがらぽんからよーいどん」。じつにジオさんらしいはなしでした。

それはジオさんのパースペクティブ(立ち位置)から見える「世界」のはなしであり、ジオさんの〈システム〉における環境への「複雑性の縮減」でした。

ジオさんは、古い体質の土木コンサル業界で、(新参者の)自分のビジネスが継続できているのは、時代の先読みによるところが大きい、といいます。

それは環境への「適応」なのですが、ジオさんがいうには、適応は環境が変化してからては遅いのであり、変化を先読み(予想)し、その予想に適応できるように自らを変化させている、といいます。

たしかにそれは実践者であるジオさんのことばであることで重みを持ちます。

ただ、ジオさんの行う予想の基底には、(明言はしていませんが)日本での「リバタリアニズム」の更なる(将来的な)浸透があります(つまりわたしがいう「OS」ですね)。ですからそれとは異なるパースペクティブをお持ちの方々には、受け入れられない部分が多いのは当然です。

つまり、このOS(リバタリアニズム)の(さらなる)浸透とそれによる「環境」の変化が、(自らの)業界にどのような影響を及ぼすかを先読みし、その環境の変化に、自らが変化することで対応しよう、ということです。

そしてその変化の兆候は、事前にアメリカに見て取れる、というのですが、それはある意味当然のことです。(なぜなら、リバタリアニズムはアメリカ建国以来のOSですから…)

また、このOSが機能した場合に起こることは、特に目新しいことではないので、ここでは取り上げません。

ジオさんのはなしは「システム論」です。〈システム/環境〉の二分コードを使います。自らをシステムとし、それ以外のものを環境として区分しています。そしてシステムと環境の関係を考えます。

さらには、環境変化への対応(つまりシステム側の適応)時間を、「予想」を使って短縮しようとしているわけです。

ただ、その環境を理解するときのパースペクティブを、リバタリアニズムのさらなる浸透に置いているわけです。そしてここで重要なのは、ジオさんはそれは自分には止められないことだ、と言っていることです。

たしかにそれ(リバタリアリズムのOS化による環境変化)は、ある程度可視化していることですし、個人の力では変えようもないように思えます。であれば自分自身が変わらなくてはならない、ということなのですね。

このジオさんのパースペクティブに共感を持てるなら、ジオさんのはなしは納得できたかと思います。しかし(先にも書きましたが)このパースペクティブと違う立ち位置におられるのなら、納得はできなかたでしょう。そして、そもそも立ち位置のない方々には、ただの自慢ばなしにしか聞こえなかったと思います。(「係数a」は、いつでも機能してしまいます)


さて、わたしの感想ですが、まずリバタリアニズムへの「適応」という視点についてですが、この立場をとる方々は、「環境変化への適応」を「自己責任」として強調する傾向があります。つまり自己責任を強調することでオブセッシブ(脅迫的)なのです。(→心理学化する社会

これはジオさんの問題というわけではなく、リバタリアニズムというOSがもつ構造的なものです。生き残るためには「適応」が必要だ、適者生存といったトートロジーでしかない似非進化論が、自己責任という語彙とともにまかり通りします。

ジオさんはそれを避けるために、「予想」をつかうことで変化を先取りし、「あえて」自発性を持ち込んできます。つまりオブセッシブになるのを回避する方法として、「予想」が使われているわけですが、たぶんこの方法がこのOSへの適応を優先する際に、オブセッシブにならず、自発的である唯一の方法であるかもしれません。

そして、わたしが自分の講演の「まくら」ではなしたことですが、わたしはたぶんジオさんとは違った考え方(もしかすると対極)でビジネスをしています。

しかしそれでも、わたしも商売人として生き残っているわけですが、これはなぜ、ということですね。

わたしはOSの存在は知らないわけではありませんし、それが環境に及ぼす影響についても考えています。(それはこの戯言でも散々書いてきています)

しかし、そのOSへ「適応」しようとはしていないのですね。
つまり、「適応」しないところにもビジネスはあるわけです。

ただ環境の変化はあります。しかし、OSに適応しなくとも(市場原理に従順じゃなくとも)、環境変化へは対応できるわけで、それはなぜかと簡単にいえば(「複雑性の縮減」)、リバタリアニズムが起こす環境変化に対してさえ、カウンターは必ずあるということです。(例えばOSを起因とする地域の崩壊に対する地域の再生という動き)

そして、そのカウンター部分のビジネスが、「技術のミーム」として力をもつことになれば、リバタリアニズムというOSの浸透もまた、変化せざるをえない、とわたしは考えています。

つまり、環境は自我の行動によって変化する。変化は一方方向にではなく、環境とシステム(自己)の相互依存的に、起こるということだと思います。ここがジオさんとわたしの考え方の決定的な違いだろうな、と感じました。

2006/02/18 (土)  
【今日は大阪三人会】

午前5時30分起床。浅草は晴れ。

昨日は、建設未来協議会県西地区会のイントラネット研修のため、水海道のポリテクセンター茨城へ、鹿児島から直行しました。
羽田空港第2ビル 10:30 東京モノレール快速 浜松町 10:49
浜松町 10:58 京浜東北・根岸線快速 秋葉原 11:05
秋葉原 11:15 つくばエクスプレス区間快速 守谷 11:50

以前なら、ちょっと考えられないようなスケジューリングですが、TX(つくばエクスプレス)ができたおかげで移動はスムーズです。(まあ、身体はしんどいですが)

そしてポリテクセンター茨城も、素晴らしい施設でした。大垣のソフトピアジャパンドリームコア(岐阜県)を小さくしたような感じですが、研修環境は充実したものでした。協会ベースのIT化には、このポリテクセンター茨城のような施設は欠かせないわけです。

今週は、15日は山鹿市管工事業協同組合さんのスタート。16日は鹿児島県建築協会さんの一応のなかじめ。そして昨日は建設未来協議会県西地区会さんのスタートと事業者団体ベースのIT化関係の仕事が続きました。

事業者団体ベースのIT化(つまりイントラネット)とはなにかということを、昨日も一昨日も酒の席ではなしておりました(鹿児島ではちゃんと会議の中でもおはなししましたが)。

それは最初に「あえて」つくる〈プレモダン〉です(第一段階)。そして「ひねり」を加えることで行う〈モダン〉への移行です(第二段階)。

(浅田彰 『構造と力』,p236より抜粋)

それは、「内でつながること」(第一段階)。そして「外につながること」(第二段階)、と表現してもよいかと思います。

第一段階は、多くの会員がイントラネットにアクセスできて情報のやり取りができる、ということです。

その取り組み(過程)は、川俣正さんがいう、『携わることによる共同性の意識が、作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を分かち合うようになる』(川俣正,『アートレス』,p45)そのものです。

つまり最初に共同性(閉じた円環)をつくります。
しかし問題は、多くの場合、ここで止まってしまう、ということです。

つまり第二段階の、多くの会員が自らがハブ(HUB)となって外と内をつなげること(ひねり)、まで移行できないのです。

わたしの関与先でも、これが出来ているのは、まだ一握りのところでしかありません。その理由はたくさんある(複雑)でしょうが、わたしの責任で考えられる限り、それを解消していく作業をしています(複雑性の縮減)。

それは、本気で「日本には建設業が必要です」と考えるなら、この第二段階の先にしかそれはないからです。

ということで、今日は大阪へ向かいます。

2006/02/17 (金)  
【鹿児島ラーメン】

午前4時30分起床。鹿児島は真っ暗。

取り急ぎ、昨晩買っておいたサンドウィッチを無理やり食べる。どんなときにでも朝飯を食べればそれなりになってしまうのは土建屋のサガでしょうか。

今朝は忙しいのです。朝一番の飛行機で東京へ戻らなくてはなりません。その前に鹿児島空港へ行かなくはならないわけで、今日の予定表をみると「市役所前 6:27 (空港リムジンバス) 鹿児島空港 7:15」となっています。

1200円の乗車券は昨日のうちに買っておきました。鹿児島市役所前の乗車場はホテルから近いのですが、遅れないようにしないといけません。

さて、写真は昨日のお昼にたべた、鹿児島中央駅構内の「ざぼんラーメン」です。

ラーメンセット(餃子三個、ご飯つき)で950円でした。もちろん漬物は食べ放題でした。


鹿児島ラーメンは、なによりも麺がうまいんです。

わたしは、二項対立を弁証法的に止揚する(ハイブリッド)のがくせのようなもので、なんでも「区分」しようとしてしまいます。(ほとんどビョーキです)

つまり、二分コードによる分類を作り出します。それは現実を切り出す作業のようなもので、コンサルテーションに限らず、日々の生活でもフツーに使っています。

博多の豚骨ラーメンと、鹿児島ラーメンを、スープで二分することは、浅草(弁天)の蕎麦が世界で一番旨いと確信しているわたしにはできません。

博多も鹿児島も白濁した「くさいスープ」であって、その単一コードでひとくくりなわけです。

しかし、麺は確実に違います。<細いバリカタストレート(博多)/中太なめらかストレート(鹿児島)>の二分コードぐらい、わたしでも使えるわけです。

つまり、ここで博多のラーメンと鹿児島ラーメンの差異を理解することができているわけで、その差異理解があって、「鹿児島ラーメンは、なによりも麺がうまいんです」とわたしは情報を発信することができます。

そしてこれを読んだ方の中には、「あほか!博多の方が麺が旨いんじゃ!」と、思う方もおられるでしょうし、「あほいえ!鹿児島ラーメンはスープが旨いんじゃ!」と思う人もいるかもしれないわけで、この差異がコミュニケーションの端緒になるわけです。


そしてわたしは、ご飯に迷わずスープをぶっかけて食べるのですが、この情報さえ、「あほか!ご飯はスープに入れるんじゃ!」とか、「下品!」とか、差異を生むでしょう。

つまりコミュニケーションは、<情報/伝達>の差異の理解なわけで、そこから回帰性は生まれる(オートポイエーシス)、つまりコミュニケーションは繋がりつづけるわけです。

情報を出しているかぎりね。

だから、情報を出さないところには情報は集まらないのです。

と、なにかしら書くと脳みそにも火が入るわけで、これは日記書きのサガでしょうか。(笑)

2006/02/16 (木)  
【タイピーエン】

午前6時50分起床。熊本は雨。浅草に比べると明るくなるのが遅いですね。

昨日は、山鹿市管工業協同組合さんでシステム管理者研修。その後、山鹿市内の「彩座」さんにてご歓待をいただきました。
 

この写真は「彩座」さんの入り口の吹き抜けの天井です。知っておられる方はまるで「八千代座」のようだと思われるでしょう。たいへんよくできていますし、なによりもこの広告は「現役」らしいのです。

彩座」さんは、昨年六月に「かわがにのおじや」を食べた、「味よし」さんの息子さんが経営されています。

「味よし」のおやじさんは、残念ながら昨年急逝され、「味よい」はなくなってしまいましたが、「彩座」さんのメニューには、ちゃんと「かわがにのおじや」があります。ミームはしっかり受け継がれているなとうれしく思いました。

昨晩、わたしが初めて食べたものがありました。これです。 
これは「タイピーエン」といいます。熊本ではとてもポピュラーな食べ物のようですが、なぜか今までお目にかかったことがありませんでした。簡単にいうと、ちゃんぽん風春雨のスープということになりますでしょうか。やさしい味で、呑み助には、ちょうどよいスープです。

こんなサイトを見つけました。
 →熊本太平燕倶楽部会報

その後熊本市へ移動し、マイミクの「てれすこ」さんで焼酎を飲み、閉めは最近のこだわりである「ちゃんぽん」をいつもの熊本ラーメンのお店で食したのでした(お店の名前は忘れました)。(笑)
ということで、今朝はここまで。朝ごはん食べてきます。(笑)
そして今日は、鹿児島へ移動いたします。

2006/02/15 (水)  
【システム論的】

午前6時30分起床、浅草は薄曇。室温は17度もあり暖かい朝です。

わたしは、コンサルテーション(つまり自分の仕事)について、なにか精神分析ぽいよね、でもちがうよね、と思うときがあります。

先日紹介しました『家族の痕跡』(斉藤環)に、「ああ、これだよ、これ」という部分がありましたので今朝はそのはなしを書きます。

 おそらく家族は、もっともハイ・コンテクストな集団のひとつだ。ハイ・コンテクストとは、文脈の共有度が高い集団というほどの意味である。これは人類学者で「プロクセミックス proxemics」の提唱者でもあるエドワード・T・ホールが作り上げた概念で、深く考えずに使うぶんにはなかなか便利な概念ではある。ただし、ホールの理論自体はしばしば詰めの甘いところがあり、厳密な検証に耐えられない点も多々あるため、その応用に際しては、十分に慎重な姿勢を維持しなければならない。しかしそれでも、「ハイ・コンテクスト」という概念は、問題の「入り口」としては有用なものだ。
 ここで「コンテクスト」の意味は、原義通りに理解しても差し支えないのだが、いっそう厳密には「ある刺激の意味を決定づけるような背景的性質を持つ連続性」として理解されることが望ましい。ホールはこうしたコンテクストの度合いに注目した。ホールはこうしたコンテクストの度合に注目した。比較文化論に「コンテクストの度合」をひとつの尺度として導入したのである。これが「ハイ・コンテクスト」社会と「ロー・コンテクスト」社会という独特の区分である。(p79−80)

 ホールが例として挙げるのは、米国社会と日本社会だ。彼によれば、前者は「ロー.コンテクスト」社会の典型、後者は「ハイ・コンテクスト」社会の典型、ということになる。そして日本のような「ハイ・コンテクスト」社会においては、文化的なコードが暗黙裡に共有されている度合が高く、そのぶんやりとりされる「情報量」が節約できるとみなされる。どういうことか。たとえば「内輪ウケ」という言葉がある。ある種の親密な共同体においては、他人にはわからない固有名詞や符丁がギャグとして流通する。こうした、すべてを語る必要がない内輪ウケ的コミュニケーションは、その反復それ自体によって、いっそう親密さの度合が増すような、以心伝心の空間である。ここで共有されている「内輪性」を支えるものこそが、高いコンテクスト性にほかならない。(p80)

例えば企業も、ハイ・コンテクストとまでもいかなくても「ある刺激の意味を決定づけるような背景的性質を持つ連続性」(文化共有集団)と理解することが可能だといえます。それは企業文化、つまり社風に注目するということで、わたしがミーム論を持って捉えようとしたものです。そしてそれが社員(個)の行動に影響を与えるとともに、その個の行動がまた社風(種)をつくるというような循環(円環)関係をみています。(種の論理)

 (…)私は家族こそが、ハイ・コンテクスト集団の典型であると考える。家族とはミニマムな文化共有集団のひとつであり、ここではその「文化」こそが、すべての流れを決定づける連続性、すなわちコンテクストにほかならないからだ。
 マトゥラーナによるオートポイエーシス理論では、社会について、コミュニケーションを再生産することで維持されるシステムとみなす。そこでは家族もまた、社会のひとつとして理解されるが、このときすべての家族が、常に「コミュニケーションの再生産」にかかわっていると言いうるものだろうか。この点については、素朴に疑問なしとしない。果たして、家族はコミュニケーションを再生産していると言いうるのか。ここで同時に疑問として浮上してくるのは「家族とはシステムなのか」という問いでもある。(p82)

「家族とはシステムなのか」、ここでシステム論がでてきますね。システム論は簡単にいってしまえばオートポイエーシス理論です。

 (…)ひきこもりの家族と向き合うさいに、私自身も家族システムという仮説を利用することが多い。ただし、それは主として実際的な理由によってである。ひきこもりの治療に際しては、家族の歴史や個人的トラウマもけっして無視できない要因であるとはいえ、より重要なのは「それがなぜ続いているのか(終わらないのか)」という問いである。多くの場合、ひきこもり状態は、本人と家族との間で起こる好ましくないコミュニケーション(「断絶」を含む)の結果であることが多い。そして、もしそうであるなら、さしあたり重要なのはそうしたコミュニケーションを再生産し続けているシステムの構成と作動条件を知ることであり、次いでシステムの作動形式を変更することでもある。(p83)

 ここで発想の基本にあるのは、ある症状を、円環的なシステムの作動によって維持されているとみなす「円環的認識論」である。「円環的」とは、再帰的と言い換えても同じことだ。いずれにしても、そこでは症状それ自体がポジティブ・フィード・バックによって症状を生み出すようなシステムの作動が想定されている。具体的には、ひきこもり状態の長期化が、家族の不安・焦燥にもとづく叱咤激励によって、さらなるひきこもり状態をもたらしたり、飲酒行動を批判する家族によって、いっそう飲酒が助長されたり、といった過程である。(p84)

この(斉藤氏の)立ち位置は、個人の症状に関して、家族というシステムに注目しています。それは単純な精神分析ではなくシステム論を取り込んだものだということです。(だからこの本は面白いわけです)

わたしの実践でも、同じようなアプローチをしています。例えば、社員(個)の行動を考えるときに、会社(種)のシステム(コミュニケーション)をその考察の対象にするということです。(ですからイントラネットであり、IT化じゃないとだめなのですね)

つまり、わたしがIT化において、最初に注目するのも(企業、協会そして地域社会の)「円環的」(再帰的)システム動作です。

このシステムが環境との関係で、どの程度の適応力を持つのか、そしてその適応力を高めるには(円環を自ら変化させる)「ひねり」が必要だ、と考えるわけです。

そしてその「ひねり」の方法が「考える技術」です。(このあたりについては【批評と教養】をご参照ください)

ここでシステム論を使うのは利点ががあります。それは斉藤氏も指摘されておられます。

 (…)ただ重要なのは、あるシステムAが別のシステムBからもたらされたとして、そのシステムAが、自律性を獲得した瞬間から、もとのシステムBとはさしあたり無関係のものとみなされる必要がある、ということだ。AとBの関係性は、BがAの起源であることとは無関係に検討される必要がある。システムAの作動が適応的か否かは、A-Bのカップリングが成功するかしないかにかかわってくるが、この点について問題となるのは自律した二つのシステム間における適合性のみであり、AがBから生まれたか否かという起源の問題はどうでもよい。本来システム論は起源について語る必要がない点が「売り」のひとつなのである。これが「歴史の終わり」以降の時代におけるシステム論の優位性をよく説明する。(p97-98)

この『本来システム論は起源について語る必要がない点が「売り」のひとつなのである』というのは、めちゃくちゃ面白いわけで、「システム/環境」という考え方は、つまりはダーウィニズムなのです(ミームです)。要は「適応としての進化」について考えているということですね。

ついでに書いておけば、進化というと「弱肉強食」のような俗説を信じている方が多いようですが、それは違います。ただ、「システム/環境」における適合性だけが問題になるということです。

そしてもうひとつ。生物の場合と違って、人間の社会システムは「バグとしての人間」があるということも理解しておかないと機械論のようになってしまいますね。人間を機械のようにシステムの一部として考えることはいくらでも可能ですが、どんな目的合理をもってそれを達成しようとしても、非合理は必ず生まれてくることを理解しておかなくてはなりません。

ということで今朝も時間です。(笑)

(参考文献)
家族の痕跡―いちばん最後に残るもの

斉藤環(著)

2006年1月10日
筑摩書房

1575円(税込)




この本の紹介は【家族の痕跡】をご参照ください。


ということで、今日は熊本へ向かいます。

2006/02/14 (火)  
【目地(体調の悪いときに読める本)】

午前7時45分起床。浅草は晴れ。

昨日の夕方より寒気を感じたかと思えば発熱。免疫力が落ちているんだろうな、というような自己解析をしてもしょうがないので、長谷川さんよりいただいていた葛根湯とハイアンプルを一気飲みし、さっさと床についた。

今朝は、寒気こそないけれども、体温計はまだ本調子でないことを示す。まあ、それでもこうしてキーボードを使えるのだから、たいしたことはないのだろう。


調子が悪いときに読める本というのはそうはない。庭園の写真集、うどん好き百科のような写真の多いものがよい。活字はそれを追うだけで疲れる。

しかし、このような活字だらけでも、疲れないものもある。

建築はほほえむ建築はほほえむ―目地・継ぎ目・小さき場

松山巌(著)

2004年4月30日
西田書店

1365円(税込)




この本は、有名な萩原朔太郎の「大工の弟子」という詩の引用からはじまる。

 僕は都会に行き
 家を建てる術を学ばう。
 僕は大工の弟子となり
 大きな晴れた空に向って
 人畜の怒れるやうな屋根を造らう。
 ………
 僕は人生に退屈したから
 大工の弟子になって勉強しよう。

そしてこんな文章に心を和ませる。
 (ああ、わたしの身体の目地も笑っておるのだろうな……)


 目地が「笑う」、継ぎ目が「笑う」という言葉も、建築の世界ではよく使われる。
目地がゆるみ、継ぎ目が広がったという意味だ。
 「笑う」のは悪いことだろうか。不合理なことだろうか。
 地震などで力が急に加わったとき、目地は「笑う」。
 長年、風や雨に晒されてきたとき、継ぎ目は「笑う」。
 「笑う」のは建物が生きているからだ。
 でも、どこの目地も「笑って」いたら危ない。
 すべての継ぎ目が、「笑って」いたら危ない。
 建物も人間と同じく、いつも「笑って」いるわけではない。
 生ぎている限り、
 風や雨、寒さや暑さ、湿り気や乾き、
 カビや汚れ、塵や砂、虫や猫や犬、
 そして人間によって、
 建物はいつもどこかしら「笑って」いて、
 どこかしら緊張している。
 建物と建物とのすきまや道路も目地であり、継ぎ目である。
 街が生きている限り、
 街の目地も継ぎ目も、
 いつもどこかしら「笑って」いて、
 どこかしら緊張している。
 街のなかで、もしも子どもたちが遊べないとしたら、街の目地や継ぎ目はいつも
緊張しているのだ。緊張しているのは、時間と場所のすきまがないためだ。
 どこかしら「笑い」、どこかしら緊張しているのは、建物も街も都市も生きてい
る組織だからである。使い、使われてきた組織だからである。
 目地やすきまや継ぎ目によって、結びつき、繋がり、組み合わされ、活動してい
る組織だからである。
 建物も街も都市も、緊張したままでは疲労する。

 建物は、少し微笑んでいるくらいがいい。
 
 街は、少しほころんでいるくらいがいい。

 都市は、少し笑っているくらいがいい。

 物と物とを結ぶ目地や継ぎ目が「笑う」ためにあるように、
 建物にも街にも都市にも
 小さな場を、「笑う」ために。


ということで、午前8時40分になりました。(笑)

2006/02/13 (月)  
【システム論的呑み助】

午前7時30分起床。浅草は晴れ。

トリノのジャンプ・ノーマルヒルをみていたら、当然に午前様?なわけです。しかし今のオリンピックっていうのは勝つのはむずかしいですね。

世界レベルというのはなにかとても遠くなっているように思えます。メディアはメダルの期待をあおってくれていましたが現実は厳しいですね。


 つぎの星には、呑み助が住んでいました。
 王子さまは、その呑み助を、ほんのちょっとたずねたきりでしたが、ひどく気がしずんでしまいました。
 呑み助は、空のビンと、酒のいっぱいはいったビンを、ずらりと前にならべて、だまりこくっています。王子さまは、それを見て、いいました。
 「きみ、そこで、なにしてるの?」
 「酒のんでるよ」と、呑み助は、今も泣きだしそうな顔をして答えました。
 「なぜ、さけなんかのむの?」と、王子さまはたずねました。
 「忘れたいからさ」と、呑み助は答えました。
 「忘れるって、なにをさ?」と、王子さまは、気のどくになりだして、ききました。
 「はずかしいのを忘れるんだよ」と、呑み助は伏し目になってうちあけました。
 「はずかしいって、なにが?」と、王子さまは、あいての気もちをひきたてるつもりになって、ききました。
 「酒のむのが、はずかしいんだよ」というなり、呑み助は、だまりこくってしまいました。
 そこで、王子さまは、当惑して、そこを立ち去りました。
 おとなって、とっても、とってもおかしいんだなあ、と、王子さまは、旅をつづけながら考えました。
(「星の王子さま」,サン=デグジュペリ作,内藤濯訳より)

8時30分を過ぎましたので、今朝はなにがなんだかわからないまま、ここまでです。(笑)

2006/02/12 (日)  
【批評と教養】

午前7時30分起床。浅草は晴れ。

今朝は、トリノの女子モーグル録画を見ていました、結果は残念なものでしたが、しかしオリンピックというゲームの緊張感はすごいなと思います。そしてそれがテレビというメディアを通して伝わるミメーシスの不思議を感じていました。

さて、昨日の続き、「ちくま」2月号から、茂木健一郎氏の「思考の補助線」/批評性と創造」です。まずは引用から(太文字はわたしの仕業です)。

 これは特に日本で顕著な現象だと思うが、ものを創っている(と自負している)人間が、「おれは自分がおもしろいと思えるものを創っているだけのことだよ」といささか偽悪的に囁く傾向がある。その後に、「評価なんか知らない」「誰かを天才だと褒めても仕方がない」などととりつく島もない。こちらが善意でその作品はこうだね、と言っても、黙ってにやにや笑っている。批評性の欠如は日本人全般に(そして、特に地上波テレビを中心とするポピュラーカルチャーに)共通する欠点である。それにしても、創造者が明示的に批評性を引き受けなくともエクスキューズされるということを、あたかもそれが特権であるかのように自負する態度は、この際二〇世紀とともに葬り去ってしまいたいと考えるのは私だけだろうか。

 ものを創るということと、その価値を認め、批評し、ときに崇めることは、本当に無関係なのだろうか。映画『アマデウス』の中でさえ、モーツァルトは自分自身の作品の価値に自覚的であり、自負を持っている。サリエリの作品をこのように変えればよい、と具体的に提案すること(それは最上の批評的行為であるが)さえしている。およそ、良質の批評性が内在しなければ創造などできないということは、理の当然であり、別に『アマデウス』をもって検証するまでもないことであるように思う。(p35)

 そもそも、創造性ということを私たちは神秘化しすぎなのではないか。批評は散文だが創造は天上の詩であるというのは、世界を曇りのない目で見ることを知らない人の言いぐさである。自然は飛躍しない。無から有が生み出されるはずがない。創造のプロセスを徒にベールに包むことは、作品の市場価格をつり上げる戦略としては有効であっても、リアルな世界知には通じそうもない。(p36)

 創造をめぐるモデルは、いまだにルイ・パスツールによってなされた微生物の「自然発生説」の否定以前の段階にある。微生物が無から生じることがないように、人間の脳が何もないところがら何かを生み出すことはありえない。実際、脳科学は、創造性と脳内の記憶のシステムの関係を明らかにしつつある。創造とは、思い出すという行為と密接に関係しており、過去の体験の脳内アーカイヴに依存しているのである。

 「創造することは思い出すことに似ている」という説を唱えているのは、オックスフォード大学の世界的数学者、ロジャー・ペンローズ教授である。ペンローズ教授は、彼自身が広く天才と認められる創造者であるが、数学の新しい定理を考えるといった創造のプロセスは、「思い出すことに似ている」と『皇帝の新しい心』をはじめとする著作の中で主張している。もとより、プラトンは人間の思考の基礎をかつて魂がそこに住んでいた完聖なる「プラトン的世界」の想起に置いたが、ペンローズの仮説は、より現代的な脳科学の文脈の中でも有効性を持つのである。(p36)

 記憶が創造に結びつくダイナミクスにおいては、審美的、ないしは批評的な基準が介在するであろうことは明白なことである。創造するとは、ランダムに想起することではなく、ある価値の基準をもって記憶を再編成し、よみがえらせることである。ペンローズの仮説を変形して、「創造することは、審美的価値の基準のもとで思い出すことである」あるいは「創造するとは、批評性をもって思い出すことである」と陳述してもよい。想起のダイナミクスに批評性が埋め込まれることで、驚くべき傑作群が生み出され、新しい数学の定理が証明され、そして科学的インスピレーションが訪れるのである。

 現在のところ、創造性の数理モデルは、審美的基準を生成のダイナミクス自体に埋め込むことには成功していない。しばしば見られるアプローチは、非線形ダイナミクスのような一見複雑なパターンを生み出すプロセスをまず想定し、そこから一定の写像関係を通して視覚、聴覚などの物理的刺激を生み出すことである。そのようにして創り出された作品は、審美主義の権化ともいえるモーツァルトの作品とはおよそ異なる姿をしている。カオス的力学は、ある程度構造化されたアトラクターや、その間のカオス的遍歴を生み出しはするものの、人間が慣れ親しんできた高度に発達した審美性の体系とは、かなり遠くの地点にある何かを提示するにとどまる。

 ロックン・ロールやジャズ、ヒップ・ホップに見られるように、審美性や批評性は時代とともに更新され、新たな地平を開拓する。いつまでも古典的な美の基準に固執することがいいわけではない。

 その一方で、美とは何か、真実とは何かという批評性を放棄してしまった創造が、一種のモラル・ハザードに陥ることは見てとりやすい理屈である。困ったことに、人間の脳は価値中立的な刺激に対しても、それに向き合えばそれなりの魅力を見出してしまうという能動的側面を持っている。価値の普遍を志向する厳しい批評性を伴わない自己陶酔的な作品に付き合わされても、そこにある種の風合いを感じさえしてしまう。その本来無意味の感触を「現代的」だと勘違いすることが、創造者にも鑑賞者にもときに見られないか。(p36,37)

 批評精神と創造性との関係を国家というレベルで考えれば、自己批評のない没入がときに悲劇をもたらすという歴史的事実を突きつけられる。日本人に批評性が乏しい(真摯な批評というものを許容する精神的雅量に乏しい)ことは、しばしば指摘されていることであるが、そのような怠惰を放置すると、ときに国家的悲劇へとつながる。「2ちゃんねる」の一部の書き込みに見られるがごとく、匿名性に身を隠して相手を揶揄し、否定することだけに汲々とする精神は、何の創造にもつながらない。一方で、現状に対して独自のアングルから接近し、一つの理想との対置においてその差異を透徹した目で見ることは、創造につながる。それは、また、批評の対象への愛とも矛盾しない態度であるはずである。

 モーツァルト生誕二五〇年という記念の年に、批評性と創造の間の関係に思いを馳せることは、単に芸術や科学におけるイノベーションのメカニズムを解き明かすことだけでなく、日本の現状を引き受け、それを肯定的に変えていくことと必ず結びつく。日本という国を容赦なく批評することは、愛国心とやらと矛盾しないどころか、自らの住むこの社会を愛する心そのものである。無批評は、愛国を劣化させるのだ。(p37)

わたしは「批評」と「教養」を区分して考えています。「批評」とは「対象を別の前提に位置づけなおすこと」であり、「教養」とは「自分を別の前提に位置づけなおすこと」です。そして「批評」は「教養」(自己言及)がなければできないことだと考えています。

わたしが関与先の方々にいっていることに、「可愛い子には旅をさせろ」があります。これは「自分をよりひろい世界の中で位置づけなおすこと」であり「教養」です。

茂木氏が使っている「自己批評」とは、自己を「批評」の対象にすることだと思いますが、それは「教養」―つまり自己を別の立ち位置におくこと―がなくてはできないものなのです。(それは「反省」であり「自己言及」ですね)

つまり閉じた円環の内包に「没入」(種に溶けた個)したとき「自己批評」は起きません。つまり創造性は機能しないわけです。

そこで「ひねり(象徴の一部否定)」の必要性をいっているわけですが、わたしのいう「ひねり」は「批評/教養」の区分は曖昧です。ただ「教養」が「批評」に先行するものであることは、「考えるIT化」においては自明のことになります。(ITを使って自分のことを自分のことばで書く→反省)

「ひねり(象徴の一部否定)」こそが創造性が機能し始める契機です。それは茂木氏のいわれる、『一方で、現状に対して独自のアングルから接近し、一つの理想との対置においてその差異を透徹した目で見ることは、創造につながる。』ということです。(ただ、わたしは「脳科学」を全面的に受け入れる気はありませんが ―骰子一擲はあります、というか、ないとつまらない(笑)― )

そしてわたしの「考える技術」とは、『創造性ということを私たちは神秘化しすぎなのではないか』という茂木氏の立ち位置と同じようなところから出発している、ということでもあります。

ただわたしは、それを「科学」だというつもりもありませんし、「科学的」と「的」をつける気もありません。ただ、多くの方々が実践可能な、「創造性」に対する「知識と理解」として示すことができれば、と考えているわけです(つまりそれは示すだけの根拠は出揃っているということです。今回の茂木氏のテクストもそのひとつとなります)。

「知識と理解」とは「教養」であり、自己の立ち位置の多様化なわけです。それは「あえて」という態度を可能とします。

つまり、わたしが時折使うオタク的なものも、ギャル文字も、アール・ブリュッドも、生物学も、経済学も、数学も、社会学も、精神分析もそして形而上学も、わたしを「位置づけしなおす別の前提」として存在しているということです。

わたしを別の前提に位置づけしなおすことから(象徴の一部否定)、創造性(下の図では「外的連関」は機能してきます。

外的連関は、なにか特別な人間のものではなく、人間が人間として必ず持つ機能です(脳という身体的ものの差として個体差はありますよ。それが個性ですから)。どんな人でも、自ら「ひねり(象徴の一部否定」を加えれば動き出す機能です。

そして「ひねり(象徴の一部否定)」の仕方を身につけている(「ひねり」を繰り返しおこなっている)ということは、創造のための「データ」量に関係してくる、ということです。(材料ですね)

つまり、『微生物が無から生じることがないように、人間の脳が何もないところがら何かを生み出すことはありえない。実際、脳科学は、創造性と脳内の記憶のシステムの関係を明らかにしつつある。創造とは、思い出すという行為と密接に関係しており、過去の体験の脳内アーカイヴに依存しているのである。』

これは主意主義の立場ですね。自己言及(デコード)から始まる創造の循環は、エータを増やすわけですから「思い出す」も容易になるのは当然ですし、並列連関にしろ、統合連関にしろ、その組み合わせ(結合、ハイブリッド、連関、先日の東京独演会では「ブリコラージュ」)の幅が広がるのは当然のことです。

しかしそれさえ実践されている方々(桃組の方々)にしか理解できないのかもしれませんし(反省の行為の実行)、この必要性を〈他者〉に伝えること(コミュニケーション)は難しいことです。

それは創造性が必要だ、そのためには「批評」や「教養」も必要だ、というコンテクストが、この国では薄いせいかもしれません。

たぶん皆さんがある円環に没入していることに無自覚であり、無自覚であってもさほど困ったことはないからでしょう。(動物化なんですがね)

茂木氏のことばを借りれば『批評精神と創造性との関係を国家というレベルで考えれば、自己批評のない没入がときに悲劇をもたらすという歴史的事実を突きつけられる』ということになりますか。(わたしはそこまで悲観的ではないのですが・・・…)

例えば、上の図は、昨年の法大ECで使用したPPTの一枚ですが、これを最初にウェブで公開したときの評判は散々なものでした。しかしそれが「批評」なのかといえばそうではなく、ただ「わからない」といわれているだけだったわけで、それに対してわたしがなにも反論はできなのは当然のことです。

わたし流にいえば、「あなたがわからないのはわたしのせいではない」のですから。(笑)
そしてそれに対する反論は「わからなくてなにが悪い!」なわけです。

つまりここで「コミュニケーションできません」になるわけで、「わからない(にもかかわらずそのことに自己言及しない)」という円環に対する「ひねり」(創発)を、わたし(の情報発信)がつくることに失敗しているわけです。

コミュニケーションは、「情報/伝達」の差異の理解ですが、差異が差異として理解できるということは、例えば、「あんたの言っていることは、ちょっとここが変だ」とか、「そlこは違うんじゃないのか」と自らの立ち位置との差異を理解できることです。

そこからしかコミュニケーションは継続できないわけですし、創発もないのです。それはちょうど公共事業批判に対する、私たちの情報発信(反論)と世間との関係に似ています。

世間というのは立ち位置がないただの「感情」のようなものです。ですから、そこに情報発信をしてもたいした意味はないのだと考えています。

私たちの情報発信は「世間」ではなく、例えば地域社会や発注者というような宛先を持ったものであるべきです。まあ、たまに郵便的誤配は起きる楽しみも含めて。(笑)

ということで、わたしはコミュニケーションのメディアとしてのテクストにはそもそも限界を感じているわけで、なので時々ミメーシス(書きことば以外の表現伝達)を使います。

それは講演という場における「芸」としての表現になるわけですが、それもまた、会場に来ていただかなくてはできないわけで、つまりイベントには来てね、ということですね。(笑)

■2006年2月18日(土)大阪三人会

つまらないオチですいません。m(__)m

(参考)
it1127さんの日記 【心と体】「わかる」とはどういうことか アハ体験のススメ

2006/02/11 (土)  
【ちくま】

午前4時30分起床。浅草は晴れ。

トリノの開会式、フェラーリの登場には痺れました。あの怪物のような機械が、じつは私たちの延長された表現型でしかなく、そしてそれは身体である証を示すように、フィギュアスケーターのようにターンしてみせたのですから。


昨晩は喜美松で一献でした。いつものように豚のモツ刺です。

一番色の濃いのがレバーですね。その右側が生ガツ、その上がタン、そしてシロです。すべて豚であるところが喜未松のすごさで、まじでこれは精力増強に効きます。(笑)


閑話休題。わたしは筑摩書房のPR誌「ちくま」を愛読しています。購読料は年間1000円ということになっていますが、本屋さんへいけばただでもらえます。

今年から表紙は奈良美智さんが担当されています。わたしは彼の絵は大好きなのですが(わたしの部屋のカレンダーは奈良美智です)、表紙絵は、リアルタイムで彼の方向性が見えるようで毎月楽しみにしています。
 

2月号の表紙の女の子、この子の目は、昔の奈良美智に比べると、ずっと大きくなっていて、アニメやフィギュアのそれであり、そこには感情がありません。オブセッショナルであり、アール・ブリュッドぽくなっているように思えます。

それは「あえて」でしょうが、『五重の塔を見に行っても、ポケモンを買って帰るはめになる』(ドナルド・リチー,『イメージ・ファクトリー―日本×流行×文化』)この国の表徴なのかもしれません。(かわいらしさの王国)

さてこの「ちくま」は薄いPR誌ですが、だからといって内容まで薄いわけではありません。昨日紹介しました斉藤環氏の『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』は、そもそもはこの本に連載されていたものですし、わたしは今は、茂木健一郎氏の「思考の補助線」を毎月楽しみにしています。

その茂木氏の2月号の御題ですが「批評性と創造」です。これはとても面白いのですが、その内容の紹介は明日にします。(笑)
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