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建設業に貢献するIT化
考える技術!

店主戯言(浅草的思考)060102 2006/1/16〜2006/1/22 "There goes talkin' MOMO"


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2006/01/22 (日)  
【DK(double contingency)】

午前5時40分起床。浅草は寒い。

昨日の雪には参りました。予約していました13:30発ANA64便は、雪の影響で見事に欠航となりました。

機能の代替(つまり新千歳から羽田まで飛ぶという機能の代替)は、12:20発に変更になった(本当は11:30の)58便を選択しました(ここが機能分化社会のシステムのいいところです)。

…が非合理(偶発性)はやってくるわけで、「使用します機材の到着遅れ」とかで、1時間程遅れ、その後も10分単位で小刻みに遅れ、結局離陸したのは14時頃、羽田に着いたのは15時40分でした。まあ、昨日中に帰れたことを感謝しましょう。

さて、札幌独演会の反省の続きを書きます(今朝は早く出かける用事がありますので中途半端になりますが…)。

札幌では「DK」((c)パーソンズ)という概念を使ってみました。DK(ダブル・コンティンジェンシー;double contingency)というのは、自我と他者が対峙するするという、コミュニケーションの原基的状況です。

例えば自我(A)と他者(B)が対峙しているとき、両者とも、もし相手が自分が望んでいる行為をしてくれるなら、自分も相手の望む行為をしてやろうと考えているとします。この場合どちらからも行動を起こしえないわけで、相互行為は不発に終わってしまうはずです。

わたしのIT化では、具体行為として、発注者/受注者との関係としての官/民の接続(公共事業という産業としてのクラスター間ネットワーク)を試みます。

それは分断されてしまったネットワークの再構築(円環の再構築)とでも呼べるものですが、これはDK問題から始まります(モデルとしてでありその純粋さを問わない)。

わたしは、その問題解決方法として「ひねり」を使うわけですが、まずその前提は閉じた円環です。

閉じた円環とは、差異を差異として理解することです。

とりあえずそれは内包/外延という差異であり、自我/他者という差異であり、より具体的には、発注者/受注者、官/民、協会員/非協会員、社員/部外者というような二分コードです。

その区分があってこそ、発注者(他者)に向かって自ら(自我)のネットワークへの参加を要請するというような行動が起きます。区分がなければ「あえて」ネットワークへの参加要請をする必要もないわけですから…。

ルーマンに倣って、コミュニケーションを「情報/伝達の差異の理解」とするなら、例えば空知の皆さんが(自我としましょう)事例等を使ってIT化の可能性を発注者(他者としましょう)へ説明することは、じつは他者言及(自分以外の何かについて述べる)です(それが「情報」です。つまり刺激ですね)。

しかしここでは自己言及も起きているわけです。伝達とは自己言及なのです。伝達を行う〈私〉が自己(わたし自身)との関係の中で情報を処理し、遂行的行為として送り出しています(例えば「反省」の行為の公開としてのこの店主戯言(笑))。

これが自我のひねりですが、そのひねりによって、発注者(他者)がそれに対しての何らかのリアクションを起こしたとき、それが理解になるわけです。

理解とは、他者(発注者)が情報/伝達の重なり合いとして観察されたことを、さらなるコミュニケーションへと移送するための前提として把握することです。つまり、他者が自我の自己言及を認識することです。

それは他者もまた「ひねり」を起こした状態であり、自我のひねりが他者のひねりを誘発しています(他者もまた自己言及する)。これがコミュニケーションの「システム」的な理解なのだと考えていますが、公共事業という産業の場合、多くは発注者→受注者の片務性で終わってしまっています。わたしのIT化はその逆行為としての相互作用を試みようとするものです。

このようなコミュニケーションが発生するとき、公共事業という産業の統一性(外枠)は生まれてきます。それは公共事業という産業の〈他者〉としての市民社会を、(内包でも発注者/受注者という区分を持ちながらも)差異として認識できるということです。つまり区分があることで、ここにもコミュニケーションの可能性は生まれます。

ですからコミュニケーションを「情報/伝達の差異の理解」とするなら、最初に区分は必要であり、情報(他者言及)と、そしてなによりも伝達としての自己言及の行為(反省の行為)が必要なのです。

例えば「公共事業は必要です」という情報でも、その区分と伝達によっては理解の差は生まれてくるのだということです。

例えば、この事例は不適当かもしれませんが、自社(の体制とかシステム)の批判をされる方はたくさんおられます。それは会社/自己という差異を前提とした他者言及なのですが、その批判の多くが他者の理解を生まないのは、多くの場合、会社という他者にある自己の自己言及(反省)がないからです。

つまり、ここでいう「情報/伝達の差異の理解」としてのコミュニケーションとは、「反転と二分の一×2」モデルと理解されることになるのですが、今朝はここまでです。ちょとまとまりきれていませんが、急ぎ仕事ということでご勘弁ください。m(__)m


2006/01/21 (土)  
【笑福亭遊喬】

午前7時20分起床。岩見沢はくもり。でも雪だらけ。

昨晩の葉月会の新年会のゲストは笑福亭遊喬さんでした。「桃組」の皆さんにはおなじみの方も多いのです。昨年の「桃組」暑気払いにもおいでいただいております。

「相撲風景」を一席、そして余興の連想ゲームで場を盛り上げてくれました(植村真美さまの「○ん☆カイカイ」は脳裏から離れません:謎)。

落語家は仮想コミュニケーションをつくりだします。私達はその仮想コミュニケーションを〈情報/伝達〉の差異として理解し、そこに接続することによって、脳内にイリュージョンが生まれます(コミュニケーションが成立します)。

そのイリュージョンに心の緊張が緩和するとき、笑いが生まれたり、ほろっとしたりする(心を揺さぶる)わけです。

そのとき、全体社会的な閉じた空間が形成されます(会場がひとつになる)。しかしそれは噺の終わりとともに消えていきます。まさにイリュージョンなわけですが、その一体感の余波は「いい噺」であればあるほど残っていくのだと思いますが、わたしのやろうとしているIT化の原型はここにあるわけです。コミュニケーションです。

遊喬さんには、三次会の「雷電食堂」までお付き合いいただき、ホルモンとラーメンとカレーをご堪能いただきました。そして2月18日に、わたしと遊喬さんのコラボレーションを大阪で行うことにしたのでした(詳細は後日)。

さて今日は、昼過ぎの便で帰路につきますが、心配は東京の雪ですね。来るときには新千歳の雪に、帰りは羽田の雪に…。まあ急ぎ旅でもありませんから、のんびりと構えましょう。

ということで、札幌独演会の反省の続きは後程。

2006/01/20 (金)  
【ひねり若しくは反転(札幌独演会の反省)】

桃知@岩見沢です。岩見沢は雪です。葉月会の新年会までのひととき、昨日の札幌独演会の反省をしたいと思います。

まずは昨日の独演会の資料を公開いたします。
→ http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダ、BD060119.swf ファイルです(FlashPaperファイル)。

ご覧いただければわかるように資料自体が非常に少ない枚数ですが、実質講演で使ったのはこれ(↓)だけでした。(画像をクリックすると大きな画像が表示されます)


この図は浅田彰氏の 『構造と力』,p236からの引用ですが、別にこれを使って「現代思想」をしようとしているわけではありません。

わたしの目論見は、考察(マネジメント)の対象である、社会や組織を、三つの型(パターン)― システム的な特徴 ―を、〈プレモダン〉型、〈モダン〉型、〈ポストモダン(リゾーム)〉型として「あえて」区分することで理解し、夫々の特徴を「工作の時間」をつかって理解を深めようととしています。

今という時代のOSは、〈ポストモダン(リゾーム)〉型を志向しています。つまり「とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ」という戦略をとろうとするとき、「大きな流れ」とは〈ポストモダン(リゾーム)〉を志向するOSです。

しかし〈ポストモダン(リゾーム)〉型を、例えば地域再生のようなプロジェクトに使えるのか、と言えば使えません。なぜなら(リゾーム)はそもそも共同体的基体が壊れた状態なのですし、わたしの問題意識はリゾームに耐えられない個から始まっているわけです。

ですから、わたしのIT化は(共同体の残り香をたぐり寄せるようにして)「あえて」閉じた円環〈プレモダン〉型(「構造」)をつくります。それは次のステップへの前形態であり、繭であり、基本となるものです(種)。

しかしそれは「外とつながらない」ということで、今という時代のOSには非適応(「走らない」)なのです。つまりは円環が円環(構造)のままでは、例えば「構造改革」の対象として「どぼん」なのであり、使えないのですよ。(種に溶けた個)

ですから、次のステップとして、ここに「ひねり」を持ち込みます。閉じた円環がひねりを持つことで外とつながること― メビウスの帯 ―(〈モダン〉型)を、わたしはIT化でつくろうとしますが、その時の主体は種ではなく個です。

つまり「個は種のミームの中で育ち、種は個の変化による(種)のミーム変化を内包している」になります。

それはヘーゲル弁証法的であり、日常的な(プチ)脱構築(デコンストラクション)(デリダ)と呼んでもいいかもしれませんが、そのこつは、「象徴の一部否定」にあります。

それをシステムとしてIT化の中に取り込んでいくこと、逆説的には、そのようなシステムをもつものを(広義に)IT化と呼んでいます。

ということで途中ですがここまで。


【札幌独演会御礼】

午前6時45分起床。札幌は晴れ。

昨日は足下の悪い中、24名さまの参加をいただき無事札幌独演会を終えることができました。ご来場いただいた皆様に感謝申し上げます。

今年は、東京以外での独演会も積極的に開催する予定でおります。勿論札幌での独演会もまた開催したく思いますので、今回参加できなかった皆さんも次回は是非にご参加いただければと思います。


■ピカンティ

昨日の昼食は「ピカンティ」でスープカレーです。

 住所:札幌市北区北13条西3丁目 アクロビュー北大前1F

NEW YORK 生揚げ豆腐 辛さ2番
すりゴマの味と香りがなにか懐かしさを(わたしの内から)引き出してきます。個人的にはスープカレー業界最強だと思います。

ということで、今朝はデータベース的記述でお茶を濁してしまいます。昨日の勉強会の反省は後程。

2006/01/19 (木)  
【札幌独演会開催します(勉強会の反省(4)】

新千歳空港の降雪除雪に伴い、1時間程遅れて新千歳空港につきました。
札幌独演会 ―2006年建設業正念場の戦略―開催いたします。

さて空中にぷかぷかと浮いている間に、本日の戯言をまとめていました。勉強会の反省(4)と、今日の講演内容のハイブリッドのようなものです。

今日の講演では、先週の栃木での講演同様、「OSとアプリケーションとしえての社会」という「考え方」を導入します。今という時代の基底にある「OS」を理解することは、(即効性を求める方々には)迂遠のようですがけっして無駄なことでもないでしょう。「060203東京独演会」の【概要】にも書いたように、「急がば回れ」ということわざは機能しています。

なぜならば、近代社会は弁証法的螺旋として考えることができますし、わが国におけるインターネット社会(今という時代)とは、モダン化(近代化)過程の早送り(そこにリゾームの理想を先取りしている)ようなものだからです。
 
(浅田彰, 『構造と力』,p236)


さてIT化が創造的な経営である― 個の埋没(種に溶けた個)を起こさない ―ためにまず何が必要なのかといえば、それは自らを外から見る目です。

それは差異を差異として認識できることであり、境界は「ない」(地平)のではなく「ある」と認識できることであり、システム論的には「自我−他我」(DK)があることであり、情報システム的には、自らの共同体の境界を超えた外部とのネットワークの必要性です(外とつながること)。

それは、近代以降では当たり前のコミュニケーションに過ぎません(ビジネス原則でさえあります)が、その当たり前が当たり前ではないのが公共事業という産業の特徴なのです。

IT化の失敗としての「システム(イントラネット)を導入した、形式的にクラスターをつくったということで、個(協会員や経営者そして社員)が安心してしまう― 思考停止 ―」はそのような特徴の象徴だと感じていますが、それはまるでプレ・モダン(前近代のモデル)の如きであります。(私達はまだモダンであったこともない…か)


しかし、インターネット社会(グローバル化)というものは、社会の近代(モダン)化過程の早回し再生のようなものであり、さらにはリゾームの理想を先取りしています。そしてそこでは、OSとしての「リバタリアニズム(自由至上主義)」が機能しています。

ですから、今という時代には、個人の自由こそが尊重されます(多くの方々は今を自由な時代だと感じていることでしょう?)。しかしその代わりに(リゾーム的自由であるが故に生まれる)「差異を差異として肯定し享受」しなくてはなりませんから、つまり、二極化― 勝ち組/負け組 ―や、不公平な経済的競争とスケールフリー性は、このOSの特徴として表象されます。

社会学(IT化も社会の問題です)は、今という時代の認識を共同体の崩壊―近代化の再演とリゾームの先取り―であるところから始めている、と考えてよいかと思います。出発点は「みんなばらばらになりそう」なわけです。

そんな中、非合理(過剰)でさえある様々な事象(構造改革とその象徴としての郵政民営化、地方の衰退、改定独禁法、耐震偽造問題、ライブドア等々)が起きているわけですが、そのとき、では社会は今の「みんなばらばらになりそう路線」(リゾーム化)でよいのか(選択)、それとも否(非選択)なのか、否とすればなにを代替として提示できるのか、という問題意識が生まれます。

その問題に対してわたしは、否(非選択)という立場であり、そもそも人間はリゾーム(的自由)には耐えられないと考えていますから、人間の過剰なるもの(欲動)の受け皿として、中間共同体(種)の再構築を模索しています(近代的なものへ…)。

ですから、IT化を考えるときにも、まずは円環としてのネットワーク(共同体)をつくり、そこに差異を作り出します。そして差異を見る目、自らを外から見る目、つまり自分の立ち位置として、種(内包)を超えた外部(外延)とのネットワークをつくろうとします(係数a、情報を見る目=信頼。そして個は種の内包と外延を自由に行き来できる)。

それが「工作の時間」における「ひねり」(反転)をもった種― メビウスの帯―です。


それは既に古いタイプの閉じた共同体ではなく、むしろ「モダン」として浅田彰氏が提示してみせた「クラインの壺」です。

過去の出来事や習慣に引きづられ、空間化されてしまった時空でもありませんし「思考停止」ではありません。

個は種の内包と外延を自由に行き来できますが、種は崩壊しているわけではなく、境界を持ちます。

ではこのモデルを具体的にはどうやってつくっていくのか、ということですが、ここで事業者団体(境界)ベースと個々の企業ベースのIT化は若干異なる戦略を使うことになります。







【状況報告】

■午前6時20分

羽田空港第2ターミナル着。
チェックンも問題ありませんでした。ラウンジでお茶をしています。

■午前4時20分

午前4時起床。
新千歳空港は雪のようです。
はたして飛行機は飛ぶのでしょうか?

2006/01/18 (水)  
【お詫びとお願い、そしてお知らせと勉強会の反省(3)】

午前7時起床。浅草は曇り。

■お詫びとお願い

新年会のお申し込みを、申し込みフォームからされた方で、まだわたしから確認のメールが届いていない方がおられましたら、ご面倒をおかけいたしますが、店主へメールでご一報いただければ幸甚です。システムエラーにより、メールが届いていないことがあることが判明しました。ご迷惑をおかけいたしますが宜しくお願いいたします。

・店主へメール
 → mailto:pinkhip@dc4.so-net.ne.jp

・新年会参加申し込みフォーム
 →  http://www005.upp.so-net.ne.jp/momoti/mailto060128.htm

■お知らせ「2006年1月19日(木)札幌独演会に関して」

この時期の北海道の天候は大変不安定であり、明朝の新千歳空港の状況次第では、フライトがキャンセルされる恐れもあります。わたしは19日午前7時発のANA便を予約しておりますが、若し欠航となった場合には、独演会も中止となります。中止の場合には、速やかに当サイト及びメールマガジン等でご連絡申し上げます(連絡がないときは無事開催です)。宜しくお願いいたします。


■勉強会の反省(3)

では勉強会の反省の続きです。問題はシステム(イントラネット)を導入した、形式的にクラスターをつくったということで、個(協会員や経営者、そして社員)が安心してしまうことです。

それは確かに円環の閉じという安定性負のフィードバック)を意味しますが、その「閉じ」は別名「思考停止」です。『過去の出来事や習慣に引きづられて空間化されてしまった時空のうちに人々が埋没』しています(『』jは中沢新一,『フィロソフィア・ヤポニカ』,p119)。


イントラネットは、「あえて」つくった境界です。しかし「個の埋没」にあるとき、その境界に生まれる「内包/外延」(内と外)という「あえて」つくった二項対立軸(差異)さえ見えないのです。

それはわたしのIT化がつくろとする種的基体(共同体)ではありませんし、それどころか、もっと悪い結果を生み出しかねないものなのです。

なぜなら、種が単純に閉じているだけなら(差異、二項対立軸を使えないのなら)、個は否定性(多様性)をもてないからです(個の埋没)。

そこでは種の自己否定性によるダイナミズムな変化(適応)も起きません。もちろん個は埋没したままでしょう。(井の中の蛙大海を知らず)

「個は種のミームの中で育ち、種は個の変化による(種)のミーム変化を内包している」とき、共同体(協会や会社)は、種的基体として普遍性(境界や会社が存続するということ)を持ちます。

普遍であるということは、変わらない、変化しない、ということではありません。ただ自己超越を繰り返しながら適応(変化)するだけです。

そのためには、『過去の出来事や習慣に引きづられて空間化されてしまった時空』の否定性を孕んだ個の存在が必要なわけですし、種はそのような個を生み出せなければ、その普遍性もない、ということです。

この「否定性を孕んだ個」を如何に生み出すかが、「考えるIT化」、「考える技術」(IT化の第二段階)になります―「工作の時間」におけるひねり―(それについては後程)。

また、『「過去の出来事や習慣に引きづられて空間化されてしまった時空」の否定性を孕んだ個の存在が必要です』と書くと、「種の論理」(を基底にしたわたしのIT化)は、小泉首相に牽引された「構造改革」の論理と同じように思えるかもしれませんが、しかしそれはまったく違います。

ここでは、中沢新一氏による田邉元の「種の論理」の解説から引用をもってそれを説明しておきます。

『グローバルスタンダード。それは果たして新しい「類」であろうか。田邉元は否と言う。そのような「類」は、真実の普遍をつくりだす「絶対値」ではなく、「種的類」にすぎないからだ。ひとつの強力な「種」がヘゲモニーを握って、地球上にグローバルな基準を設定していくとき、そういう世界を生きる「個」はみずから「種」に対する否定性を失って、「個の自己喪失としての種化」をおこすことになる。このとき、「個」自己を喪失し、「類」は「種的類」にまで自分を疎外していく。「種的基体」の解体を推し進める資本主義世界においては、「個」も「類」も抽象化されて、自己の喪失に陥っていく』(中沢新一,『フィロソフィア・ヤポニカ』,p161)

つまり「システム(イントラネット)を導入した、形式的にクラスターをつくったということで、個が安心してしまう」という「個の埋没」が、国家規模で起きているということですね。

ということで、今朝はここまでです。9時になってしまいました。
明日は出発が早いので、「勉強会の反省」の続きは、今日時間のあるときにでも書きためておこうと思います。

2006/01/17 (火)  
【ゆばコロッケと勉強会の反省(2)】

午前7時起床。浅草は曇り。

オープンセミナーのご案内に、2006年2月3日(金)東京独演会 ―建設業の現状と戦略的IT化(企業編)―を掲示しました。みなさんきてくださいね。m(__)m

■ゆばコロッケ

とどさんから、日光さかえやさんの「ゆばコロッケ」をいただきました。
ちょっとわかりにくいかと思いますが、ゆばが入っています。塩でいただきます(500万年前の塩が付いていました)。
 
同封されていたさかえやのご主人からの手紙によれば、『このゆばコロッケは、3年前に「日光の新たな新商品開発」として、老舗店の若者達が試行錯誤の末、商品化され、以降多くのリピーター様に喜ばれている逸品です。』とあります。

地域の名物を新につくりあげることは簡単なことではないと思いますが、創造を模索すること(創造の過程)こそが地域文化をつくりあげていくのだとわたしは思います。

創造の素材は、古今東西なんでも調達できるのがグローバル化された今という時代であり、その時代背景を持った創造は、ある意味雑種であり、ブリコラージュであり、ハイブリッドです。

日光の名物であるゆばと、別に日光でなくともよいコロッケの混合(ハイブリッド)は雑種性を表象しているのですが、その雑種性(ハイブリッドの力)を持って新たなものをつくりあげ、それを広めようとする過程にある情熱。その情熱に多くの人々が携わること(過程)こそが地域再生 ―地域の名物をつくることは、つまりは地域の再生です― には必要なのだと思います。

『携わることによる共同性の意識が、作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を分かち合うようになるからであり、唯一その関係性の変容を体感したいという興味が私にはある』(川俣正,『アートレス』,p45)

たしかにそんな情熱感じるコロッケでした。おいしくいただきました。ありがとうございます。


■1月14日の勉強会の反省(2)

さて昨日の続きです(昨日の戯言をお読みでない方は、先に昨日の戯言をお読みになることをお勧めしたします)。繰り返しになりますが、わたしのIT化の基本は、種的基体 ―中間共同体― をつくる(足場をつくる)ことにあります。それを建築に例えるなら、ちょうどバロック形式の二階建ての館の一階部分のようなものです。
 
(ジル・ドゥールーズ,『襞』,p11)

二階部分は「個」、一階部分は「種―中間共同体―」です。二階部分の個には窓はありません。個は一階にある小さな窓を通すことによって世界(外)と繋がっています。(ライプニッツ的個)

昨今は個人主義やら自己責任やらの大安売りのおかげでしょうか、最初から二階部分だけが宙ぶらりんで存在している、若しくは二階部分の単なる集合が種や類であるような思考をされる方が多いのですが、個(人間)が個(人間)であるというのは、一階部分も含めた全体としての建物が個(人間)であるということです。

それはことばの問題を考えてみれば簡単かもしれません。私たちはミーム的 ―ミメーシス(模倣)的と言った方がよいでしょうか― な経験を経て言語を自らのものとし、鏡像段階を脱却し自我を形成します。

つまりことばは、最初から個に萌芽としてあるのではなく、種(一階)部分にプールされているものです。それがミメーシス的に(種から個へ)伝染し、そしてことばで考えるようになります。

人間という建物は、一階ががなければ二階が立ち上がらないようにできています。それは建築の基本的な構造と同じです。今のところ人間は(生物として)このシステムを省略することはできません。

種は多様性を孕んだ運動体です。それは種を基底にした個が多様性を孕むということです。それは種の否定を常に内包していますが、この種と個のダイナミズムが適応(創造)の過程と言うことができるでしょう。

ですから「個は種のミームの中で育ち、種は個の変化による(種)のミーム変化を内包している」わけです。

つまり種の否定を孕んだ多様性を持った個の存在によって、種はオートポイエティックに変化することができることになります(生物学的には「適応」です)。

経営(マネージメント)での適応(創造的破壊)というとき、そこでは正のフィードバック(創造的破壊)が蓋然的(必然的にではない)に導くような力が働いているとわたしは考えています。

その認識は、経営者の思考的差異(思想的差異)―主知仕儀/主意主義(解説は本日の日記の末尾に書いておきます)によって違うのも確かですが、わたしの立場は「主意主義」ということになります。

ですから骰子一擲 ―如何で偶然を破棄すべき(でも偶然は破棄できない。であれば偶然さえも楽しもう!)― なわけです。

この立場から言えることは、種の否定を孕みながら(象徴の一部否定 ―は逆に変えてはいけないものを鮮明にします― )、自ら考えてそして行動する(骰子を振る)社員(個)を育てられない種(会社)は、種としての適応能力が低いのは当たり前だという(当たり前の)ことです。

職業的な能力(技術・技能)にしても、昨今は「即戦力化」圧力が強いようで、卒業したらすぐに使える人材育成が学校側に求められているようですが(早稲田化:c糸井茂里)、(建設業に限ってみても)そんな甘くはありませんよね、ということです。種は考える個を育てなくてはなりません。若しくは個は種の中で育ちます。(モスラの繭)

(詳しくは、1128第25回新宿セミナー資料「働く若者に未来はある!」の、松原隆一郎教授の配布資料をご参照ください。→ http://www.momoti.com/051128quadrant.swf

一階つまり種的基体とは、建設業のIT化では既にある組織のことです。それは建設業協会(事業者団体)であり、個々の企業のことです(新たにつくるわけではありません。再構築です)。

ですからわたしIT化の第一段階は、種的基体の再構築のためにイントラネット(サイボウズ)を使います。イントラネットはとは、境界のあるネットワークであり、閉じたクラスターです。それは「工作の時間」では「円環」として表現されるものです。

まずはこの円環としてのネットワーク ―協会の場合は協会イントラネット、個々の企業の場合は、現場を含めた現場のIT化(考えるIT化の基本インフラ)― をつくります。

ですから最初の段階では、この種は窓さえもなく閉じています。というのは子宮的安心感を「あえて」そこにつくろうとしているのです(それは第二段階で行う「考えるIT化」への布石として)。

ジャック・ラカンなら、それは「父なるもの」だと子宮性を否定するかもしれませんが、わたしはこの閉じた円環は母性を持つものだと考えています。将来的に表象される(生まれる)であろう多様性を「孕む」「場」だからです。

ついでに言えば、この円環は、父と母と子が同居する場を想像してもらえばわかりやすいかもしれません(ミニマムな共同体としての家庭を思い浮かべてください)。

とは言っても、このネットワークは、かつて(古い時代に)共同体が持っていた強い紐帯を形成することはできません。それが今という時代(グローバル化)の特徴です。

この閉じた円環の内にある個は、既に階層的に別のクラスターにも所属していますし、既にリゾーム状態であるかもしれません。それを前提として、「あえて」閉じたクラスターをつくるプロジェクトをスタートさせます。

それはこのネットワークを構築するプロセス(創造を模索すること)こそが共同体の再構築だからです。再び川俣正の言葉を引用します。

『携わることによる共同性の意識が、作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を分かち合うようになるからであり、唯一その関係性の変容を体感したいという興味が私にはある』(川俣正,『アートレス』,p45)

しかし、多くの場合、システム(イントラネット)を導入した、このクラスターができた、ということで安心してしまうのです。「過程」は終わってしまうのです。わたしはそこに想像力の欠如を感じてしまうのですが、でもそれでは今という時代のOSには適応不全なままなのです。なぜなら過程は終わりなきものだからです。

ということで、今朝はここまでです。まじめに書くとやっぱり疲れます。(笑)

主知主義
神が不合理を意思しないのならあらゆる全体〈世界)は合理的に記述できる、と考える立場(アリストテレス=アクィナス的)。
人間的理性を信頼するので計画万能主義を帰結しやすく、基底不能なものや未規定なものを不安がる心性に結びつきます。実存的には不安を、コミュニケーション的には不信を推奨します。

■主意主義
神が不合理を意思しないのならあらゆる全体〈世界)は合理的に記述できる、と考えない立場(プラトン=アウグスティヌス的)。
主意主義は、神と同じく人間の意志をも理性に還元できない端的なものと見なすので、不条理や規定不能性をあらかじめ前提とする態度に帰結します。実存的には内発性を、コミュニケーション的には信頼を推奨します。

以上、宮台真司&北田暁大,『限界の思考』,p33〜35より抜粋。

2006/01/16 (月)  
【「大根そばとホルモンと勉強会in栃木」の反省】

午前5時起床。浅草は曇り。
昨日よりはだいぶ具合がよいです。

■蕎麦とホルモン

さて14日は「大根そばとホルモンと勉強会in栃木」でした。はじまりは大根蕎麦、佐野市の魚苑さんにての昼食会からスタートです。
大根蕎麦全体
蕎麦の合間に、白い更科蕎麦のように見えるものが大根です。大根の混入は、蕎麦粉の不足を補う、つまり「かさあげ」ためのだと聞いています。(代替品)

ものがなかった時代に、苦肉の策として生まれたものが、慣習的に残っているのは、なにか皮肉的なのですが、それは「おじやうどん」的であり、昨年食べた「ニラそば」との違いです―ニラそばのニラは蕎麦の代替物ではありません―。大根はわたしの身体的な原記憶である「まずしさ」に訴えかけてくるものがありました。

写真でもわかるかと思いますが、蕎麦の間にある大根―茹でてあります―は、異物感がざらざらと感じられます。大根はまさに蕎麦の代替物として蕎麦に混入していますが、その混ざり具合が、蕎麦に似ることで融合しているわけではなく、大根は質感を保ち、輪郭は際立っています。つまり大根と蕎麦は、それぞれがばらばらにあります。拡大するとこんな(↓)感じです。(箸の目)
大根蕎麦(箸の目)
しかしこの異質さは、いったん口の中に入ると消えてしまいます。つまり見た目(視覚)の違和感が、食感に訴えることがありません(若干水っぽい感じはしますが)。しっかり蕎麦です(大根は自己主張をしない)。うまいです。

夜は「アリラン」にて焼肉パーティでした。わたしはここのホルモンには目がありません。このホルモンは「茹でオタ」(あらかじめ茹でて味付けしてあるホルモン)ですが、これがまた病みつきになりそうに内臓的(湿った、うにゅうにゅとした質感)なのです。ぜんぜんおしゃれじゃありません。悪党的てさえあります―パンピーは初デートではまず使えない店でしょう―。
アリランのホルモン
「アリラン」のホルモンは、2004年10月以来二度目だったのですが、こういう店が近所にあったら、わたしは入浸りでしょうね。健康を考えたら、逆にないことに感謝しなくてはならないのかもしれません。(笑)

■勉強会

さて、肝心の勉強会ですが、いつものように講演用資料を公開いたします。
→ http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダ、BD060114.swfファイルです(FlashPaperファイル)。

二時間の講演時間を三十分ほどオーバーしてしまいましたが、準備したPPTをすべて消化できませんでした。OSに関する説明が長すぎたようです。

ただ、OSの考え方を理解することは、とても大切だと考えています。なぜなら、これからの戦略は、制度や支援というようりも(れは迂遠ではありますが)「哲学」だからです。

その内容は、1月14日の戯言【反転】にも書いたことなのですが、つまり「リバタリアニズム」(自由至上主義)的なOSが強く働いてしまうことで、中景としての構造、種的基体、共同体的なものの崩壊は加速されてしまっています。

「公共事業という産業」の生みの親である開発主義は、そもそも近代化と産業化のアプリケーションであり、地域共同体の崩壊を孕んだ政策だったのですが、地域共同体の代替として会社共同体を提供してきました。つまり、基底には「共同体主義」(イエ的共同体)というOSがあったわけです。(日本的経営)

しかし「リバタリアニズム」的OSは、共同体主義をを否定するOSです。日本的な経営としての会社共同体も、最もミニマムな共同体である「家族」さえ崩壊させてしまいます。(中景の喪失)

つまりOSの書換えが構造改革の持つ意味なのですが、その流れの中では、当然に開発主義的な構造も崩壊します。それはソフトランディングというようりはハードランディングであり、構造改革が進む中で、地方も公共事業という産業も、その足場(開発主義がなんとか保っていた「共同体主義」)を失うことになります。

内田樹氏はこう言っています。『「弱者を守れ」という政治的言説はいままったくインパクトを失っている。その声を「既得権益」を手放そうとしない「抵抗勢力」の悲鳴として解釈せよと教えたのが小泉構造改革のもたらした知られざる心理的実績である。』(『知に働けば蔵が建つ』,p241)

『「弱者は醜い」という小泉首相の「勝者の美意識」っはこの大衆的な倦厭感を先取りして劇的な成功を収めた。
(…)
こうるさく権利請求する「負け組」どもを、非難の声も異議申し立てのクレームも告げられないほど徹底した「ボロ負け組」に叩き込むことに国民の大多数が同意したのである。/日本人は鏡に映る自分の顔にむけてつばを吐きかけた。/自己否定の契機をまったく含まないままに「自分とそっくりの隣人」を否定して溜飲を下げるというこの倒錯を私は「特異な病像」と呼んだのである。』(『知に働けば蔵が建つ』,p243)

つまり弱者(交付金を受け取る)としての地方は否定されています。わたしは内田先生の認識に異論はありませんが―例えば【嫉妬の勝利?】―、それは開発主義に孕まれていたものの表出なのだと考えています。つまり日本が開発主義というアプリケーションを選択したときに、OS書換えの萌芽は孕まれていたのだと思います。

そして新しいOSは、長い時間をかけ9・11にほぼその書換えを終え、現実に機能しているということです(かなりの部分心理的にです)。であれば「公共事業という産業」がとるべき戦略も、変わってこざるを得ないのだと考えています。

それを簡単に言ってしまえば、一回半ひねりで「中間的共同体」を再構築することです。ということで今朝はここまで。続きは明日にしたいと思います。(笑)
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