前宮崎県知事も逮捕されるらしいこと、もしくは『桃論』について。

午前7時起床。浅草はくもり。

安藤前宮崎県知事、逮捕へ 業者選定で「天の声」

宮崎県の官製談合事件で、安藤忠恕前知事(65)が部下に指示を出して談合を主導した疑いが強まったとして、宮崎県警捜査2課は8日、前知事に任意同行を求める。談合容疑で取り調べ、容疑が固まり次第、逮捕する方針。福島、和歌山両県に続き、知事の刑事責任が追及される事態となった。(引用:Chunichi Web Press

予想していたこととはいえ、あらためてこの報道がなされることは、私には大きな落胆の材料でしかない。

今年になってから夕張市の財政破綻、岐阜県の裏金問題、福島県、和歌山県、宮崎県の知事の逮捕、そして昨日書いたような、相次ぐ市単位での官製談合の摘発等、自治体のあり方を根本から問うような事件が相次いで表面化したた。

そして(これはまだこの戯言では触れていないが)、(先送りされた格好の)道路特定財源の一般財源化等の財政問題も、公共事業という産業に深いダメージを与えている。

これは間違いなくあるシステムの終焉を意味しているのだろう。それを簡単にいってしまえば、開発主義というシステムの終焉である。

つまりよりわかり易くいえば田中角栄的なシステム、金魚論的なシステムの終焉である。その終焉(それもハードランディング)が、われわれの時代におきているということだろう。

桃論それもまた予測していたことではある。たしかに私は『桃論』をこの終焉がくることを予測して書いた。

そしてその終焉を、ハードランディングにさせないことを、そして時間をかけておこうなうことを主張しながら、公共事業という産業のIT化(つまり、私の語彙では社会化=適応)の問題としてそれを捉えていた。

なぜなら、地場の建設業は、政策的につくられたものであり、脱農業という日本の産業構造転換のための下支えの装置だったからであり、その産業構造の転換をさらに下支えした「種的基体」(地域社会)の下支え装置であったからだ。

であれば、その終焉は、政策的にかつ時間をかけておこなうべきだというのが私の主張であった。さもなければ、公共事業という産業の終焉は、地域社会(贈与の関係を基底にもつ共同体)の崩壊を意味するだけでしかないからだ。

そこに美しい国がうまれるはずもない。(安倍政権は表面上は保守を装ってはいるが、それを壊す市場経済システムを優先することで、強烈な矛盾を孕んでいる)

たしかに、われわれはまだ、モダン(近代)でさえもないかもしれない。しかしモダンでなければならない理由もない。