店主戯言00205 2002/05/01〜2002/05/31 "There goes talkin' MOMO"


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2002/05/31 (金)  
【今日は盛岡日帰り】

■札幌独演会使用PPT

お約束の通り,5月29日札幌独演会使用PPTをダウンロードできるようにしましたので,ご利用ください。

http://briefcase.yahoo.co.jp/cd4sonet/
「桃知の宝箱」ホルダ内のBD06_03.zip

これは,6月6日岐阜での講演に向けてのプロトタイプのようなものですが,岐阜では時間的な制約がありますので,これを全てお話しすることはできないでしょう。

強いてあげれば,今回は「相補均衡」の考え方を理解していただきたいのです。

この考え方をベースにして事業者団体でのIT化や,個々の企業のIT化の活動は行われていることを再確認できるはずです。

そして,なによりも「公共工事ダメダメミーム」が何ゆえに世間に蔓延してしまっているのかを考えるベースであることを理解することができるかと思います。

しかし,この「相補均衡」という考え方は(独演会後の懇親会での皆さんのお話によれば)以前掲示されていたPPTでは理解はできなかったけれども,(今回の独演会での)私の話を聞いてようやく理解できた,という意見がほとんどでした

→少なくとも,札幌独演会にご参加いただいた方々は,かなりコアな方々にもかかわらずです。

ですので,今回のPPTを見るだけだと,「相補均衡」という考え方がなんのことなのか理解は難しいかもしれません。

なので6月6日は是非岐阜へ私の話をお聞きにおいでください,ということです。

■昨日は東京国際フォーラムでの講演,そして今日は盛岡で講演。

昨日は,札幌から帰るなり東京国際フォーラムにて,横河技術情報さまの「鋼構造生産システム研究会 総会」にて講演。

1時間20分という非常に短い講演時間のため,私のIT化論の基本であるミーム理論と相補均衡論についてお話しをさせていただきました。

つまりコンピュータの話は全然出てこない,というIT化論ですが,最近はこのような本質的な面倒な話でも,真剣に聞いてくださる方々が多くなりました。ありがとうございました。

そして,本日はこれから盛岡まで参ります。
岩手ゼロックスさまのご招聘で岩手建協の若手の方々向けの講演です。

多分,初めて私の話をお聞きになる方々がほとんどでしょうから,今日は初心者コースで3時間です。

2002/05/30 (木)  
【感謝!札幌独演会】

桃知@札幌です。
昨日の会員制札幌独演会にご参加の皆様,長丁場にもかかわらず熱心な受講ありがとうございます。

そして,ゲストスピーカーの熊谷社長@トライネットさま,葛西常務@CMnetさま,遠路ありがとうございました。

私はこれから東京へ戻り,東京国際フォーラムで短い講演をします。
その後,歯医者さんへ行きまして,夕方(っていうか夜)面談を一件予定しています。

早速,まにあ1号さまから感想文が届いていましたので掲示させていただきます。

自分達の向かうべきベクトルの方向性を
探る為の物差しとしての「ミーム理論」。
ミームは現状では客観的に表現する事が
極めて難しい為、それを人間の内的心理という
切り口で表現した「相補均衡理論」

建設CALS時代に生き残る為の組織。
組織とは人の集まりであるから、生き残りの
方向性の物差しとして人間の「ミーム」を考える。
人間の「ミーム」の発生源は人の「心」であるから
心のむかう方向性の物差しとして「相補均衡理論」を考える。

最近の桃知さんの考察がどんどん「人間の内面」に
向かって行っているな気がしていますね。
人間の行動原理の本質を追求してゆく過程。
それは「どうしたら人間は幸福になれるのか・・・?」を
考察するプロセスのような気がして成りません。
・・・・・・
理解不足ですね。これじゃ(笑)

それより、何より・・・・
ミーム理論の登場の時も感じたのですが
今回の「相補均衡理論」では
桃知さんご自身の理論や新しい発見を貪欲なまでに
追求される姿勢に、まず打ちのめされました。
(それを我々にわかりやすく表現するために
きっと、「呻吟」されているんでしょうね。)

そして、圧巻だったのが細かく修正、リメイクされているPPTです。
桃知さんのセミナーは何回聞いてもあきることがないのは
常に最新版に更新されているからですね。
そしてその最新の思考の到達点を、極力わかりやすくするため
時として「落語的」手法で笑いをとりながら解説されます。

聞き手のノリ(反応)を子細に観察しながら、聞き手を乗せ
その熱気に自らのリズムを合わせていく。
逆に言うと自らの精神をギリギリまで鼓舞するために、あえて
笑いを取りにいっているのではないか・・・?

今日は「話してと聞き手がハモる」ことによる相乗効果としての
「熱気」に圧倒されました。
そして、寒気がするほど感動してしまいましたね。その「芸」に!
もう、素直に降参・脱帽です。

「人間のミーム」ではなくて「ミームマシンとしての人間」だね。
我思わなくても我ありなのです。

そして,多分会社とか組織っていうものは,「ミームプール」なのだと思います。

昨日使用しましたPPTは,本日の夜にでもダウンロードできるようにしておきたいと思います。
と言うことで,今朝はここまで。

2002/05/29 (水)  
【今日は札幌独演会です】

今回の旅のお供第一号は,森徹,『公共財供給メカニズムの有効性−実験経済学的アプローチー』(1996年9月30日,多賀出版)です。

なにやら難しげな本なのではあります(確かに数式バリバリで難解な部分が多いです)が,結論はこうです。

『このように,コミュニケーションの可能性は,個人の効用最大化行動に一定の制約を加えつつ,社会全体の利益を高め,より公平な費用負担を指し示す社会的ルールの形成を促すと考えられる。コミュニケーションの許容がメカニズムの有効性の飛躍的改善につながるという結果が示されたのは,こうした社会的ルールの形成ないしは経済化を促すコミュニケーションの許容の機能によるものと考えられる。』

『以上のように,自発的支払メカニズムの有効性に関する実験的研究をさまざまな角度から検討してきた本書の一応の到達点は,コミュニケーションを通じた社会的ルールの形成が,このメカニズムの成功にとって非常に重要な要因であるという主張である。このような主張は,公共的活動が,社会の構成員の自発的貢献ないしは積極的支持を背景として,効率的かつ安定的に遂行されためには,その活動の規模や内容についての論議に個々の構成員が参加しうる可能性が常に開かれていることが決定的に重要であることを示唆している。』(P311)

この主張は正しいと思います(「コミュニケーションを通じた社会的ルールの形成が,このメカニズムの成功にとって非常に重要な要因である」という主張は私たちの議論の出発点でもありますから,この論文はそれを証明する作業として有益なものだと思います)が,結局,経済学的なアプローチ(実験経済学という聞き慣れないものですが)では,ここ(私たちの議論の出発点)が限界なのだと感じています。

我々はIT化について考え始めたときから,その本質が「コミュニケーション」であり,森氏が言う『社会的ルールの形成』や『社会の構成員の自発的貢献ないしは積極的支持を背景として,効率的かつ安定的に遂行されためには,その活動の規模や内容についての論議に個々の構成員が参加しうる可能性が常に開かれていることが決定的に重要であること』の本質的な問題解決方法をIT化が持っていることを直感的に感じています。

私は,このコミュニケーションこそがミーム伝達の基本プロトコルであり,その行為はメタ情報としての「信頼」の形成ベクトルをもったものだと感じています。

それ故に,追い詰められた(弱者としての)地場型中小建設業がとるべきIT化をバルネラブル的な発想方法で展開することを試みていますが,今日の札幌独演会はそのような話になる予定です。

尚,本日使用したPPTは後日ダウンロードできるようにいたしたいと思います。

2002/05/28 (火)  
【北海道へ】

本日はこれから北海道に飛び空知建設業協会さまのIT委員会に出席いたします。
そして今夜は札幌にて,久しぶりにトライネットの熊谷社長ともお会いいたします。

夜はサッポロビール園で生ラム+生ビールの予定です。

明日の会員制札幌独演会は午前9時から午後6時までの長丁場なのです。
さすがに私一人でこの時間を続けるのは,私も聞いておられる方々も脳みそが溶けてしまう恐れがありますので,今回は3名の方々をゲストスピーカーとしてお呼びしております。

熊谷社長もゲストスピーカーのお一人です。
あとのお二人は,CMnetの葛西さま,そして空知建協からは坂田副会長です。

楽しそうでしょう。

■もとい

昨日書いた文章を読んで誤りに気付きました。
「問題解決方法がこの二つしかない,という思想的な閉塞は経済学に詳しい方々が陥る一種の罠だということができます。」という表現ですが,経済学に詳しい方は,この思考方法の限界を感じていらっしゃるはずです。失礼をしもうしあげました。

正確には,「経済学を生半可にかじった方々が陥る」でしょう。
謹んでお詫び申し上げ訂正いたします。

■杉のうどんすき

昨晩はとんかつでも食べようかと,行きつけの「とん将」へ行こうとしたのですが,お店の入っているビルごと改築のようでお店は無くなっておりましいた。

しかたありませんので,新規開拓ということで,近くのうどんすきの店が目に留まりましたので(「杉」というお店)行って参りました。

さて,結果報告です。ここは「美々卯」以外では,ようやく見つけた,私が認めることのできる,うどんすきのお店でありました。

ここの特徴は厚みのある極太のうどん(とても「うどん」には見えないものなのです)と,澄んだ塩味のだしでありまして,これは炊き込むほどにおいしさが増します。

本当においしいですよ。
全国のうどん星人の皆様,浅草にお越しの際は是非お立ち寄りくださいませ。

2002/05/27 (月)  
【リチャード・クー氏の講演内容について(その2)】

■今週の予定

今日はこれから歯医者へ参ります。
明日からは北海道二連戦です。

28日は空知建協さんでIT推進会議,29日は(会員制)札幌独演会(笑)です。

30日は北海道から帰京後直ぐに東京国際フォーラムで1時間20分程の講演,そして夕方は面談を一件予定しております。

31日は盛岡にて岩手建協の若手の方々向けの講演,その後ぴょんぴょん舎の冷麺を食べて(笑)日帰りです。

月が替わって6月1日は宮崎まで飛び延岡の上田工業さんを訪問いたします。
そして6月2日に帰宅の予定です。

なかなかハードな月末であります。

■リチャード・クー氏の講演内容について(その2)

さて,ここからは昨日の続きです。

私は,クー氏の議論を社会問題を解決する方法としての二極化に陥っているとしました。
その二極化とは以下のようなものです。

一,政府によるもの。
二,市場経済システムによるもの。

問題解決方法がこの二つしかない,という思想的な閉塞は経済学に詳しい方々が陥る一種の罠だということができます。

私が,地場型中小建設業の直面する問題を考えるときに「信頼」という社会心理学的なアプローチやミーム理論を用いるようになったのは,この経済学的なアプローチの限界を感じたからに他なりません。

これまで社会問題を解決する方法としては,一,政府によるものと,二,市場経済システムによるものと二つしかなかった。どちらも,問題と自分を切り離すことによる解決方法である。具体的には,それれは,一,税金を払い,たまに選挙で投票するだけであとは政治家や官僚に任せるか,あるいは,二,それぞれの構成員が自分の利益だけを考えてそれを最大化しようとすれば全体としちぇ世の中はうまくいく,というかたちをとる。(中村雄二郎,金子郁容,『弱さ』,1999年5月25日,岩波書店,P167))

では,このような閉塞に対して我々は何を持って問題解決の糸口を見つけようとしているのでしょうか。そして,以下のような考え方は問題解決策(信用と責任のない官僚主義的な建前を乗り越えていくこと)として有効でしょうか。

ところが,このふたつの方法のいずれによっても,うまくいかない場合があることがわかってきた。その代表的なひとつが環境問題である。そこで,政府と市場のほかに,「NGO」や「NPO」という第三の選択を追加しようということになった。そして,NPOの場合,政府や企業ではないただ第三のものとして,NGOがやればいいのではなく,その根底に,「情報の自発性と相互性」が否応なしに要求される。公共財については「市場の失敗」のおそれが大きいし,さればと言って,政府による対策でも成功は保証されない。とくに,福祉や教育のようにその効果がにわかに判断しがたいという「情報の非対称性」が存在するサービスについては,NPOが供給すべきだ,という意見がでてきた。(同書。P167,168)

以上は,中村雄二郎氏による,金子郁容氏のいう「セクター論」のまとめですが,このセクター論のような考え方は「信用と責任のない官僚主義的な建前を乗り越えていくこと」ができるのでしょうか。

そしてそれは地場型中小建設業にとって己の存在を証明できるなにものかになりうるのでしょうか。

私はできる,と考えています。
ただし,それは方法論としてのNPOやNGO(つまり「セクター論」)ではなくて,NPOやNGO活動を支える「弱さの強さ」(金子郁容)という思想に拠っています。

→メタ情報としての「信用」

5月9日に紹介しました,佐藤正則,『あなたは公共事業が好きになる−公共事業はなぜ嫌われたのか−』が,日刊建設公共新聞社さまより届きました(書いてみるものです。ありがとうございます。m(__)m)が,この本の主張も「セクター論」の一部ということができるかもしれません。

佐藤氏は専門家としてのコンサルタントに対して,市民との調整役に目覚めることを期待しているようですが(高知NPOを紹介しながら,そのようなNPO活動において専門技術者がどのような役割を果たせるのかを問題提起されております),日本のコンサルタント業界が「高度な専門性を有した社会正義者」として,市民とコミットメントできるかは,(その「信頼の構築」の道のりを考えても)地場型中小建設業界よりも(地域性とその信頼のストックにおいて)困難な問題だと感じています。

ということで,次は「弱さの強さ」と地場型中小建設業というはなしになるのでしょうか。
→書くかどうかはお約束はできませんが。

2002/05/26 (日)  
【リチャード・クー氏の講演内容について(その1)】

今日は,(社)郡上建設業協会さんの50周年記念式典出席の為,郡上まで出かけてきます。
郡上建協の皆様おめでとうございます。

スーさま@Fe業界からもメールをいただいておりましたが,リチャード・クー氏の海外建設協会の総会後の講演内容が,5月23日の日刊建設通信新聞に掲載されておりました。

クー氏は,日本経済低迷の原因を,資産価格下落によるバランスシートの問題とバブル崩壊後も堅調に推移する家計貯蓄のギャップがそのままデフレギャップになっているとし,バブル崩壊後の景気対策は間違いではなかったとしています。

そして,国債利回りが低い現状は公共事業推進の最後のチャンスだといいます。
これはケインズ政策を支持する立場からは当然の見解であると思えます。

ここまでは従来からの一貫された主張です。

一方,(海外工事で海外企業と受注競争をしているゼネコンに対してという限定付きで)『国内ではゼネコンに対して生産性の低さやコスト高が指摘されるが,そんなことで海外で競争ができるわけがない。(指摘は)国内は地域事情による発注の仕方とか規制があるからだ。今後,皆さんは(規制緩和など)どんどん提言していくべき』としています。

これは苦悩の結果の言葉だと私は思うのです。

ケイジアンであるクー氏の理論は,財政発動をその前提としています。
ですので公共工事を中心とした需要の刺激を積極的に支持したい立場であることは明らかです。

しかし公共工事に対し国民に蔓延している「ダメダメミーム」(例えばそのひとつが「国内ではゼネコンに対して生産性の低さやコスト高が指摘される」という発言)は一向に治まる気配を見せません。

そしてそれが,クー氏の理論展開の最大の障害になっているように思えます。
その苦悩の結果がこの発言なのでしょう。

それは,ポールクルーグマンをして「だいたい、経済の資源を使って、人々が本当に求めているものをつくれないなんて、ホントにほんとなわけ?」といわしめたジレンマへのひとつの回答でもあるのです。

(これは海外建設協会での講演ということを考えるとリップサービス部分を割り引いて考えなければなりませんが),文面通りに読めば,地場型中小建設業にとってはかなり不利な発言でしかかないということです。

クー氏が規制緩和の対象としている『国内は地域事情による発注の仕方とか規制』とは,私の言葉では『地場経済の活性化と雇用の確保』という官公需法を後ろ盾にした配分のルールに基づく公共事業そのものです。

つまり,規制緩和というルールの変更(多分にそれはクー氏の宿敵である主流経済学派が主張するようなものでしょう)によって,公共工事の信頼性を高めようとするねらいが見て取れます。

クー氏をして(故に?),こういう理論展開しか公共事業は推進されない(つまり,彼の理論展開において景気回復はない)という状況に追い込まれていることを,地場型中小建設業は理解しなくてなりません。

つまり,有能なケイジアンであるリチャード・クーをしても,地場型中小建設業の味方にはなれない程,地場型中小建設業が依存している公共工事システムには問題が存在している,それが国民の公共工事ダメダメミームを形成してる,といえましょう。

しかし,私は,今回のクー氏の発言にはやはり矛盾があると感じています。

確かに,マクロ経済学的には,大手ゼネコン向けであろうが,地場型中小建設業向けであろうが,公共事業投資は同様の成果を生み出すでしょうが,今回のクー氏の発言は,地域経済における地場型中小建設業の役割を無視した発言ととられても仕方がないでしょう。

→地場型中小建設業の機能については,開発主義関連の私の書き込みを参照してください。

クー氏が陥ったものとは,社会問題を解決する方法としての二極化にあります。それは,

一,政府によるもの。
二,市場経済システムによるもの。

解決方法はこの二つしかない,という思想的な呪縛なのだと思います。
→そしてそれは私自身も陥った罠でした。

私が,地場型中小建設業の直面する問題を考えるときに「信頼」という社会心理学的なアプローチをとるようになったのは,この経済学的なアプローチへの限界を感じたからに他なりません。

経済学的には,新古典主義者でもケイジアンでも,リチャード・クーの発言と同様の答えにたどり着いてしまうのは当然の帰結なのです。

ということで,そろそろ出発の時間です。
ただ,この話は私の考察の本質部分でもありますので,続きは明日にでも書きましょう。

2002/05/25 (土)  
【この世の関節がはずれてしまった】

■植木市

浅草(浅草寺裏,つまり私の町内)は,今日と明日と二日間「お富士さん(浅間神社)の植木市」です。

先週は三社祭だったし,こうして浅草はなんやかんやと絶えずこの街に人を呼ぶ努力をしています。

→この街は外貨を稼ぐしか生きるすべはないのです。
→しかし,外貨が豊かでないとお金はこの地に落ちません。

私はといえば,この植木市で破竹とカサブランカの鉢植えを購入してきましたが,地元民が買ってもあんまり意味はないのだろう,と思うのです。

最近は日本橋高島屋1階のバラ屋さんで,バラの鉢植えを購入することが,私のささやかな楽しみになっていたりしていますが,身近にこうして観賞用の植物を置くような生活は4年ぶりなのです。浅草というところはそういう気分にさせてくれるミームが充満したところでもあるわけです。

■この世の関節がはずれてしまった

小泉首相がTVインタビューに答えて曰く。
「いろいろなことが次々と・・・」

それは我々国民のいう言葉だろうが・・・お気軽な方である。(笑)

シェイクスピアは,ハムレットに「この世の関節がはずれてしまった」といわせましたが,まさに今の日本という国は,関節が外れてしまったような状況なのだと思います(私はずっと関節がたがたで壊れていますが)。

それは旧来の安心の崩壊とも信頼の崩壊の姿とも(そしてそれらを担保するところの既存の権威の崩壊とも)見えます。

信頼とか安心というのは,人間間(相互作用)における関節のようなものだと理解しています。

しかし,私は時々思うのですが,戦後の高度成長期に形成された安心とか信頼とか,そしてそれらを担保していた権威とかは,ここ最近(例えば失われた10年といわれるような期間)私たちが(勝手にそう)思い込んでいることで存在できた,とてもあやふやなものだったような気がします。

例えば,多くの建設業界の方々にとって,談合は必要悪として永遠に存在するものと思われて来ましたが,この談合という絶対に崩壊しないであろうと思われている「安心のシステム」でさえ,今で風前の灯であるように見ます。

それは,談合という「安心のシステム」を担保する権威の崩壊だと考えてもよいかもしれません。

談合は「安心のシステム」として理解することができます。

囚人のジレンマ理論によれば,1回かぎりの取引においては,背信が利益をもたらしますが,継続的な取引を前提とすれば,協力が利益をもたらす,ということになります。

談合は片務的な公共事業における受注者側の囚人のジレンマを安心のシステムとして昇華させてきたシステムだ,といえましょう。

談合における安心の問題点は,常にその安心の担保をどうするかにあったわけですが,その安心の担保の方法が,時代時代に変革してきたことも確かです。

その昔は,それは談合屋と呼ばれる方々の「ある種の警察力,統制力」(つまり暴力による威嚇)であった(武田晴人,『談合の経済学』1999年11月25日,集英社)だろうし,最近は公共事業複合体とよばれる政官民によるインカベントシステムにそれをみることができるでしょう。→天の声,官製談合。

地場型中小建設業が今直面している(若しくはしようとしている)現実は,この安心の崩壊以外のなにものでもありません。

その大きな理由はグローバリゼージョンであるだろうし,その時代の変革の中で,戦後の行動成長期に出来上がってきた,安心とか信頼とか,そしてそれらを担保していた権威とかが脆くも崩れ落ちている,という現実でしょう。

市場原理の暴走→制限付き一般競争入札のブーム
          →公共工事の非効率性批判
          →魔女狩りのようなインカベントシステムの摘発

それらは「この世の関節がはずれてしまった」ように,地場型中小建設業コミューンから安心を奪い去っているのでしょう。

何度もここに書いていることですが,地場型中小建設業はコミットメントする相手を,今までの閉鎖的なコミューンから脱却し,市民社会に求める時期にきているのだと思います。

それは,同時にわが国に存在するようで実は存在していなかった真の「公共」性の表出なのでしょうし,市民社会の逆襲なのかもしれません。

2002/05/24 (金)  
【今日はお休み】

■足利

最後の大取となった足利支部の懇親会は,大変にはまらしていただきました。(笑)
私はただの酒飲みではありますが,何時も漠然と酒を飲んでいるわけでもないわけです。

私の酒飲みはコミュニケーションの拡充(コミットメントの形成)と人間観察の場なのでありますが,昨晩は,建設業界(人生)の先達のおはなしにはまりました。

もう,大好きです!

足利支部に行く前には,いろいろと事前情報をいただいていたわけです。
それによれば,足利は栃木ではない。。。云々。

確かに,足利は(私の知ってる)栃木の匂いのしないところではありましたが,それは私が今まで栃木建協で感じていたモヤモヤを払拭するようなミームを持ったところである,という意味でむしろ新鮮な空気を感じさせていただきました。

つまり,確かに(他の地域の方々から見れば)この地域は異端なのだと思いますが,その異端性は決して悪いものではない,ということです。

やっぱり,実際に行って見て話してみなければ,なにもわからないのです。

■今日はお休み

今日は,28日の札幌行きの航空券の差し替えと26日の郡上行きの新幹線チケットの手配,それから6月6日の岐阜で使うPPTの納品,それから,栃木建協さんの清算計算,阿久津工業さんのイントラの設定,それだけやったらお休みです。
(他になにか忘れていないだろうか。。。)

2002/05/23 (木)  
【栃木建協支部研修終了】

桃知@足利市%勉強会を終え足利市駅前のホテルで一服中です。
栃木建協さんの支部研修も本日の足利支部さんで,10支部全て終了です。

全県的な取り組みですので,一通り終了するのに半年近くかかってしまいましたが,今回の勉強会はIT化のほんの始まりにしか過ぎない,と考えています。

栃木建協さんのイントラネット構築にあたって,調査した項目のひとつに電子メールの使用状況がありましたが,回答をいただいた385社中,会社では電子メールを使用していない,との回答が121社(31.4%),全社員にメールアドレスを配布しておられる,という回答が22社(5.7%)でした。

これには正直めまいがしましたが,今回の勉強会の成果として,この数字が逆転できことを祈っています。→この調査を来月早々にも行う予定でいます。

事業者団体ベースのIT化の場合,構成員の方々に,どうしても反対の立場をいう方々がおられるのですが,その誤解を解く作業を第一義に,今回の勉強会を行ってきたつもりです。

特に建設業協会の場合,事務局さんが旧守派となってしまう傾向はどこでも見られるものです(栃木県だけではないという意味です)。

それはある程度いたしかたないところもあるのは十分理解しておりますが,既存環境の変化が避けられない事実である以上,事務局は会員企業のIT化に対して積極的な援助を行う立場であることも忘れれてはならないことでしょう。

そのために事務局は会員企業に先駆けてIT化に取組む必要があります。
→まずは事務局が情報の発信源にならなくては何もかわらないでしょう。

このあたりもどこまで理解していただいたか,少し不安が残っています。

今後,必要であれば補習もしなくてはならないかもしれませんが,これはイントラネットの利用状況及びアンケート調査を基にして考えていくこととしたいと思います。

そして,会員各社はこの協会ベースのイントラネットをひとつの足がかりとして,各社それぞれのイマジネーションで自社のIT化を推進していく必要があります。

協会ベースという部分に甘んじていては,会員各社のIT化の推進という,本来の目的を達成できないこととなってしまうでしょう。

ということで,これから足利支部の皆さんと懇親会です。

栃木建協の皆様,大変にお世話になりました。
そしてご苦労さまでした。



【今日は足利市へ】

桃知@栃木%二日酔い気味です。★\(^^;

31万ヒットは小川さま@北海道でした。
ありがとうございます。

今日はこれから足利市までまいりまして,栃木建協支部研修最終日です。
足利支部の皆様,よろしくお願いいたします。

そして,昨日の下都賀支部の皆様ありがとうございました。m(__)m

現在,メールの返信等の処理が遅れてご迷惑をおかけしていると思います。
どうしても,朝から晩まで+懇親会付きの場合,というかお酒が入ったらダメですね。★\(^^;

本日も自宅に戻るのが午後10時を過ぎてしまいますので,明日移行に一生懸命対処いたします。

宜しくお願いいたします。

 2002/05/22 (水)  
【栃木市にて】

■栃木市,夜おばさん達が闊歩してる街

桃知@栃木市です。
私は生まれて初めて栃木市へまいりました。

栃木市は蔵の街で売りだしておりますが,私の宿泊しているホテルは,その蔵の街の真ん中にあります。

それで,昨晩は(夜にもかかわらず)付近一帯を一時間ほど散策してまいりました。

散策の結果,まず最初に気が付いたこと。
→この街では,やたらとおばさん達が散歩をしている。

午後8時30分ごろに出かけたのですが,蔵の街を沢山のおばさん方が散歩しておりました。
→そのせいか,皆さんスリムな方が多いような気がしました?

散歩のついでにコンビニ(コンビニは旅人にとっては分散型倉庫みたいなものなのです)によって,必要品を調達しようとしたのですが,この蔵の街,どこまで行ってもコンビニがありません。(T_T)

ようやく見つけたセブンイレブンは,歩いて20分ほどのところ,人通りはそんなに多くはない場所でした。入ってみれば品揃えも薄く。。。

しかし帰り路,夜空を見れば大きな流れ星が流れ落ちていくところでした。
→こういうものは,なんとなく得した気分になるものです。

さて,本日は栃木建協下都賀支部さんでの勉強会。
夜は懇親会が予定されています。

■安心の崩壊

今回の旅のお供は,山岸俊男『安心社会から信頼社会へ−日本型システムの行方−』(1999年6月25日,中央公論社)です。

ここにおいて山岸はこういっています。

『現在の日本社会が直面する問題を,「信頼崩壊」の問題としては考えていません。そうではなくて,これまで「安心」を提供してきた集団主義的社会の組織原理が,機会費用の増大というかたちで高くつきすぎるようになったことが生み出した「安心崩壊」の問題だと考えています。』(P238)

『これまでの日本社会では,コミットメント関係の内部で情報を共有しながら外部に対しては情報を漏らさないというやり方で関係を安定させ,その内部で社会的不確実性を低減してきました。情報開示と政治や社会的諸制度の透明化は,まさにこの正反対のやり方で社会的不確実性を低下させ,安心の提供をはかろうとするものです。』

『前者のやり方の典型的な例としては,公共工事の参入に際して不確実性を低めるためには,企業間で談合を行ったり,特定の代議士の講演会に加入して地域ボスと密接な関係を保つ建設業者のやり方があります。』

『これに対して後者の方法による不確実性の減少は,公共事業への参入に際してすべての障壁をとりはらい,意思決定過程がすべて透明に行われる場合です。この場合には談合や政治家との結びつきによってもたらされる確実性の保証は存在しませんが,客観的基準以外の理由によって契約が恣意的に拒否されるという意味での不確実性は存在しなくなります。』

この文脈において,地場型中小建設業を取り巻く環境が変化していることは否定できない事実でしょうし,この文脈上にCALS効果が存在していることも事実です。

しかし,だからと言って,中小建設業が依存する公共工事に市場原理を持ちべきだ,ということはイコールであるとは私には思えません。

公共建設市場の市場原理化は透明性の確保の問題の文脈上に存在していることは重々承知しております。

しかし,透明性の確保は市場原理においてだけ行われるものではないのではないのか,そう考えています。

それは,この「価値観シーソー」のスイッチが「機会費用」の増大にあるとすれば,地場型中小建設業が依存するようなドメスティックな公共事業に関しては,急激な市場原理の導入だけでは,機会費用(国民が負担する社会的な費用)は決して減少はしないだろう,ということです。

この問題は深いので,また後程。
そういえば,以前もこう書いて逃げたままですね。★\(^^;

2002/05/21 (火)  
【@札幌】

桃知@札幌です。

はやいもので,インデックスページの一お連カウンターがまもなく31万ヒットとなります。
30万の景品もまだできあがってきていないというのに。。。

今回の景品は,台東区名物シリーズといたしまして,かっぱ橋から,食品サンプルキーホルダー&携帯ストラップをセットで準備したいと思います。

→食品の種類選定は私にお任せください。
→私は現在レンゲの中のラーメンというものを使用しております。

昨日は新冠の逢坂マサキ建設さんで勉強会。
新冠は寒かったですが,私は半そでシャツで頑張っておりました。
→当然にストーブは必需品でしたけれども。

途中まにあ1号さんからメールがあり,勉強会終了後,予定変更で急遽札幌へ移動することに。正木さん→まにあさんとリレーされ,午後8時10分頃には札幌のホテルへチェックインできました。

その後,秋野@岸本組さんも交えて,Van菜@パルコで29日のお勉強会の打ち合わせをしまして,当然にしっかりと飲みました。

飲んだ割には,今朝は目覚めさわやかなのですが,今日はこれから一旦自宅へ戻りまして,その後,浅草 18:00 東武特急きぬ 135号 栃木 19:16で栃木市へ移動します。

明日からは,栃木建協支部研修2連戦です。

2002/05/20 (月)  
【「内集団ひいき」原理(内集団ひいきの相補均衡)と個人(普遍)主義】

今日はANA 057 東京(羽田)(0850) - 札幌(千歳)(1025)で北海道まで飛びます。
そして久しぶりに(本当に久しぶりに),新冠の逢坂マサキ建設さんを訪問いたします。

私のコンサルテーション趣旨は,業界団体ベースでは,業界を取り巻く環境に対して,その変化のスピードを鈍らせる作業(変化をとめることはできません)を行うことを推進し,一方,個々の企業ベースでは,自らを取り巻く環境の変化を理解し,他社に先駆けていち早く環境変化に対応する作業を行うことです。

これらをどちらもIT化をベースにして行うことを趣旨としています。

一見矛盾した行動にしか見えないでしょうが,それには,きちんとした理論的な裏づけが存在します。

しかし,この部分の理解は難しいものなので,事業者団体ベースにおける私の活動を見ている方々は,私の真意が汲み取れないかもしれません。

地場型中小建設業が依存する公共建設市場は,「内集団ひいき」の原理(内集団ひいきの相補均衡)(山岸俊男)に従って均衡が維持されている市場です。

→配分のルール。

このような『集団主義社会では,「不特定多数」に自分を売り込むという適応課題が存在していません。そこで重要な適応課題は,自分を売り込むことではなく,集団から排除されないようにすることです。何か目立ったことをしでかさないかぎり少なくとも現状維持は可能であり,集団から排除されることはありません。したがって,集団から排除されないようにするという適応課題を解決するためには,人とちがったことをしないという「自己隠蔽傾向」という心の道具が役に立つこととなります。』(山岸,P229)

地場型中小建設業のIT化を遅らせている大きな原因は,上の文脈,つまりまだその依存する市場には,「内集団ひいき」の原理が働いているから,というのは間違いではないでしょう。

しかし,この「内集団ひいき」の原理は,簡単に崩壊することも理解しておかなくてはなりません。

その崩壊とは,「内集団ひいき」原理の存在前提条件の変化によってもたらされますが,その条件とは,集団に属する構成員にいきわたるだけの原資がある,ということです。

→つまり,公共建設市場の場合,仕事(公共工事の予算)がある,ということです。

この前提が崩れたとき,「内集団ひいき」の原理は必然のように崩壊します。

この「内集団ひいき」の原理に支えられた「集団主義社会」に対することばを山岸は「個人(普遍)主義社会」とよんでいます。

ここに(普遍)ということばがわざわざ入るのは,俗にいわれる「個人主義」とは違うという意味です。

『集団主義に対比されるべきは,人々が内集団ひいきをし合っている程度あ低い状態,つまり集団のちがいがあまり重視されない状態ということになります。つまり,この観点からすれば,集団主義に対比されるのは,人々が相手の所属する集団によって行動をあまり大きく変えない状態,つまり集団所属性によって行動が左右される状態が小さい「普遍主義」ということになります。』(山岸,P222)

→今回は詳しくは書きませんが,この理解は非常に重要です。

例えば,公共建設市場の場合,過度の地域要件は「内集団ひいき」原理に基づいた行動ですが,一般競争入札は個人(普遍)主義に基づいた行動となります。

公共建設市場は,この主義の綱引きの最中にあるように見えますし,その見解は間違い無いと考えています。

問題は,この相補均衡の綱引き状態(限界質量)がどちらに振れるのか,ということですが,それは「個人(普遍)主義」に振れて進んでいくことは,ほぼ間違のないところです。

というよりも既に,日本という国のシステムの多くは,個人(普遍)主義へと相補均衡化されてきている,ということができます。

→その推進エンジンがIT化とグローバリゼーションであることは何度も述べました。

問題となるのは,その「個人(普遍)主義」への相補均衡の中で取り残された領域としての「内集団ひいき」原理の強く働いていたドメイン,ということでしょう。

この「内集団ひいき」原理の働く集団主義社会を維持しようとする力が,既得権益でしかありません。

→しかし,この既得権益さえも,相補均衡論から考えれば,よほどの「熱血先生」が現れない限り存続は難しいといわざるを得ません。

こう書くと,おまえは個人(普遍)主義を推進しているのか,といわれそうですが,それは違います。環境変化の現実を説明をしているに過ぎません。勘違いなされないように。

→しかし,私の仕事(IT化のコンサルタント)においては,私は個人(普遍)主義であり市場原理主義者ですす。
→それは,「機会コスト」を限りなくゼロにすることで,私の可能性を際限なく創出してくれるからです。
→私自身の仕事のやり方はIT化の文脈の中にあり,個人(普遍)主義は,今日の私の存在を際立たせている原理です。

問題は,地場型中小建設業が依存する公共建設市場に存在する「内集団ひいき」の原理(集団主義)の正当性を我々はどこまで主張できるのか,ということにあります。

→地場経済の活性化と雇用の確保のための公共事業は必要なのか必要ないのか。
→必要だとすれば何故必要なのか。
→この論議に関して地場型中小建設業側から発せられる意見はほとんどの場合トートロジーに陥っています。
→これを感情論に走らずに,正確に話しのできる方を私は知りません。
→つまり,もう「建設業だから」という口上は通用しません。
→この部分を考え行動することを私は事業者団体ベースのコンサルテーションにおいて行っているわけです。

そしてこの問題を考えるために,私たちはあたらしいキーワード(理解すべきことば)を用いる必要があるようです。

それは「機会コスト」という概念ですが,これについては,相当に長くなりますので,また後日。

2002/05/19 (日)  
【ちたけ】

昨日はじめてたべたもの→「ちたけ」
阿久津工業さんへお邪魔した際,お昼ご飯は高根沢町の「おおき」さんで,「ちたけそば」なるものをごちそうになりました。

「ちたけ」というきのこなのですが,これは高いものらしいです。
→冷凍ものがお店ではキロ当たり4000円で売られておりました。

この「ちたけ」を茄子と一緒に煮たものが漬け汁になっていいまして,それに皿に盛られた冷たい蕎麦をつけて食べます。

香りのよいきのこでした。



【浅草は朝から伝統(三社祭)ミームが充満しております】

浅草は比較的良いお天気です。
浅草は朝から伝統(三社祭)ミームが充満しております

今日の三社祭は沢山の人出が期待できそうです。
私は,浅草の住人といってもまだまだ外様ですから,観光客のようにお祭りを楽しみたいと思います。

→少しだけおすそわけ。
http://briefcase.yahoo.co.jp/cd4sonet
→マイフォトホルダ内の「三社祭」をご覧ください。(動画ファイルですので,低速回線の方にはお勧めできません)

ところで,昨日私が書いた薬の適応テストは「Oリングテスト」とよばれるものらしいです。
http://www1.odn.ne.jp/oricon_health/Ort.htm
http://www2.ktarn.or.jp/~o-ring/

おぐたん,どうもありがとう。(^o^)/

さて,昨日は,栃木県は高根沢町の阿久津工業さんで社内イントラネット・スタートアップ勉強会でした。
熱心に受講いただいた皆さんに感謝いたします。

ITは時代の変革に対応しようとする方々の為の単なるツールでしかありません。
そして現時点でのIT化とは,ITを利用して「読む・書く」に尽きてしまうのです。

つまり,IT化において第一義的に必要な能力とは「読む能力」と「書く能力」です。

IT化とはミーム進化の必然の中で生まれてきたものだということができます。

つまりミームは,言葉(文字)による高速なコミュニケーションを培地としての我々に要求してしているように見えます。

それは,ミームは自らの増殖のために『コミュニケーションできる人間』を増やそうとしているだけなのかもしれません。

我々が考察の対象としている「情報化」というものの「情報」という部分を考える時,それが「ミーム」でしかないことに気がつけるか,それが最初に肝要なところです。

2002/05/18 (土)  
【五行相生と五行相剋の歯科医とプリンシパル・エージェント問題としての公共事業(その2)】

浅草は雨,桃知は歯を抜いたところの具合があんまりよくない,です。
私は今日は,栃木まで行ってまいります。

さて,私は好き好んで蕨の歯科医院まで通院していますが,その大きな理由は,ここの院長がかなり変わっている人だからです(私のイメージする歯科医という概念に比べてと言う意味で)。

例えば,治療用の椅子を倒すと,天井には「五行相生と五行相剋」のが書かれた紙が貼ってあることを確認できます(なんの為に,という思いがいつもあります)。

それから,昨日,私は化膿止めの薬と痛み止めの薬をいただいてきましたが,この薬を決めるのに,院長はこんな方法を使います。

まず,私の右手の親指と薬指でリングを作ります。
院長は,その親指と薬指を両手を使ってそのリングを開こうとします。

その時,私の左手は患部を人差し指で指しながら残りの指を丸めて指の容器を作ります。
院長は,その左手の容器に小さな試験管に入れた薬をいれ,その度に私の右手のリングを開こうとします。

この右手のリングの開き具合で,私と薬の相性をはかっているわけです。

→確かに右手のリングは薬の種類によって開き具合が違うのです。
→不思議なんだよ,っていうか手品でも見ているようで,こういうなんだかわけのわからない感覚がなにか(好き嫌いではなく)私をひきつけています。

さて,スーさん@Fe(元素記号)からのメールです。

> 『エージェントは依頼者の利益を代表すると同時に,自分自身の
> 利益も考えて行動するからです。したがって,二人の間の利益が
> 一致しない場合,エージェントは自分の利益を重視して,依頼者に
> 不利益を与えてしまう可能性があります。これをどうやって避けるか
> というのが,プリンシパル・エージェント問題(省略して「エー
> ジェント問題」)です。』(山岸,P125)
>
 わたしは、勝手ながら・・ どっかの国の議員とその秘書の
 関係に置き換えて読んでしまいました。

プリンシパル・エージェント問題というのは,人と人との相互作用,相互依存の問題ですから,人が絡む問題でしたら,どこに存在していても不思議ではないでしょう。

ですから,「どっかの国の議員とその秘書の関係」を,「エージェント問題」としてみる視点は間違いではないでしょう。

ただ,私が「エージェント問題」を考察するときに,今注目していることは,山岸の言う,『この「エージェント問題」は,「エージェント問題を生まない品質保証済みの人材」に対する大きな需要を生み出します。』(山岸,P126)という文脈なのです。

それは,我々は,その「品質保証済みの人材」をどのような方法で認識するのでしょうか,という命題です。

ここで,再びA木さまの発言を某MLへの投稿から無断借用いたします。

 最近、業界の方々と話をしていると、決まって話題
になるのが発注者責任です。官庁技術者が役所
の内部で信頼を失い、事務方が入札・契約システムの
主導権を握り、企業の専門性や技術力が個々の入札行為に
反映されていないとの不満が広がっています。
 この問題の背景には@役所はもう技術力がないA経営事項
審査や競争資格審査は欠陥だらけで玉石混交の業者が交じっ
ているーという実態にふたをした、行政の保身的な姿勢にあります。
 でも、中には「技術と経営に優れた建設企業を残していく
ために、事務方とけんかしながら議論している」という腹の
座った官庁技術者もいます。(本当に少ないけど…みんな退職金
がパーになることだけを恐れている)
 札幌市の“欠陥工事事件”を何ともやりきれない思いで見ています。

私たちは,既存のメトリックが機能しなくなりつつあることを知っています。

アカンタビリティがいわれる背景には,この「既存のメトリックの崩壊」,という問題が存在しているのだと思います。それは既存の権威の「信頼の崩壊」,といってもいいでしょう。

学歴や,職業や,資格や,ブランドや,例えば建設業の場合,経審や建設業許可やISO云々,そういうもので,「品質保証済みの人材」かどうかを確認することにプリンシパル(国民)は不安を持っています。

そして,一旦崩壊した信頼は限界質量を超えたときからスパイラル的に崩壊を続けます。
雪印問題や産地偽証問題もこの文脈で考えることができます。

→報道は,その崩壊に加速度を加えるミームを持っています。
→ミームはスギ花粉のように飛び回る。

公共工事システム(公共工事複合体)の信頼の崩壊も同じ文脈でおきています。
この崩壊は,限界質量(その限界質量を特定することは今の私にはできません)を超えてしまったとしか思えません。

例えば,「相互依存行動と相補均衡理解についてのノート」における「頼りなし先生」が鈴木宗男氏の問題だったり,井上元参議院議長秘書問題だったり,札幌市の“欠陥工事事件”なのでしょう(これらもわずかな例でしかありませんが)。

→いじめのボスは,マスコミであったり,最初から公共工事に批判的な方々といえます。
→生徒たちは,もちろん国民です。

これらの公共工事に批判的なミーム複合体が,頻度依存的に国民(プリンシパル)をして,エージェント(公共工事複合体,つまり,行政,政治,建設業界)への信頼を崩壊させ続けている,と私は理解しています。

そして,相互依存行動と相補均衡の考え方が教えてくれるのは,「頼りなし先生」がいじめのないクラスにいじめをもたらしたように,さらには一旦崩壊したクラスが「普通先生」では,回復ができないように,公共事業批判は,マイナス方向に限界質量を無くしつつある,つまり,一旦崩壊してしまった信頼を戻すことは非常な困難を伴う(不可能かもしれない)ということです。

ここで,我々は建設業界の「熱血先生」の出現を望むことになるのですが,それは一人のヒーローではありません。それは,業界自らでしかない,ということに気が付かなくてはならないのです。

→建設業界は自ら公共工事ダメダメミームを発している。

公共建設市場は,典型的な環境依存型の市場ですが,この環境を変えられるものがあるとすれば,建設業界自らの変革にしかありません。
それは既存のメトリック以外での「エージェント問題を生まない品質保証済みの人材」への変化です。

→この文脈で私はIT化の可能性を模索しています。
→つまりバルネラブル。
→「エージェント問題を生まない品質保証済みの人材」。

その文脈において地場型中小建設業における「相互依存行動と相補均衡」を考える作業をしています。

→「建設業界は変わらない」とすればそれはなぜか。

私はその答えを「相互依存行動と相補均衡」を用いて考えています。

→つまり,「建設業界は変わらない」ものではないのです。
→建設業界も「相互依存行動と相補均衡」の中で動いているに過ぎません。

2002/05/17 (金)  
【プリンシパル・エージェント問題としての公共事業(その1)】

今日から浅草は三社祭。
でも,東京は午後から雨が降るそうです。

私といえば,あいも変わらず蕨の歯医者へ出向き,治療の甲斐なくどうしてもダメな歯を抜くことになっております。

義歯も作ってもらわなければならないので,今日は一日2回の歯医者通いとなります。

→憂鬱であります。

さて,A木さま@北海道からのご発言を某MLへの投稿から無断借用いたします。

 きょうの店主戯言に登場している松久さんのHP「大声小声」も同じですが、
ご本人たちは桃知さんのように毎日文章を書き込む大変さと難しさを身に染みて
感じておられることと思います。(多分、自分でやってみて『やっぱり桃知さん
はすごい!』とあらためて感心しているのでは…)
 文章の怖さはどんなに鎧を着ていても、行間からその人の人柄がにじみ出る
ことです。
 でも、それを恐れずに(↓)が大事なんですね。
 桃知さんの店主戯言(5月7日)
 『自ら進んで情報を発信する人,自発的にボランティア活動を開始する人
は,そのことによって自分の立場をバルネラブル(他人から付け込まれたり,
利用されたり,非難されたりしやすい状態)にする。しかしバルネラブルな立
場に自分の身をさらすことで,そういった人たちは情報を創り出し価値を生
み出すことができる。』(山岸,P237),というようなものですが,これは,
私がいう「インターネットの精神文化」そのものなのです。

 この点から言えば、バルネラブルと正反対の行政が信頼を得ていない原因が
よく分かります。

A木さま正解です。

昨日「エージェント問題」と書いた部分がこれなのです。
これは正確には「プリンシパル・エージェント問題」といいます。

エージェントとは,依頼人(プリンシパル)に代わって依頼者の為に働く人間のことですが,行政や政治(しいては公共事業)の問題も「プリンシパル・エージェント問題」として考えることができます。

例えばこんなふうに使われます。(↓)

行政における非常に多段階のプリンシパル・エージェント問題(委託者と受託者の持つ情報が異なるために生じる問題)を、意思決定を多様化することにより軽減するシステムが重要。

費用負担と納得性の問題に関連し、パブリックインボルブメントはプリンシパル・エージェント問題を緩和する力がある。

以上http://www.mlit.go.jp/road/singi/21rcomc2.htmlより引用。
パブリックインボルブメントのリンクは私の御節介。

『エージェントは依頼者の利益を代表すると同時に,自分自身の利益も考えて行動するからです。したがって,二人の間の利益が一致しない場合,エージェントは自分の利益を重視して,依頼者に不利益を与えてしまう可能性があります。これをどうやって避けるかというのが,プリンシパル・エージェント問題(省略して「エージェント問題」)です。』(山岸,P125)

つまり,公共事業の依頼者を国民とすれば,エージェントとしての公共工事複合体は,正しく国民の利益を考えているか,という問題です。

山岸によれば,この「エージェント問題」の典型的な解決策が江戸時代における「目付制度」であり,イギリスのパブリックスクールの教育だ,としています。(山岸,P126)

つまり,『この「エージェント問題」は,「エージェント問題を生まない品質保証済みの人材」に対する大きな需要を生み出します。』(山岸,P126)

ということで,それそろ歯医者へいく準備をしなくてはなりません。
続きは後程。

2002/05/16 (木)  
【メールから二題ばなし】

■長期レンタル

以下のような質問メールが届きました。

数台のパソコンを使い、財務、積算等々システム化を随時実行しているのですが、
年々いや月々で進歩しているパソコン導入に関して、今までは新規購入という形
で導入しているのですが、実はリースの方がいろいろな面で会社にとってよいのでは
と最近思う次第であります。ももち先生のご意見はいかがでしょうか?
またすべての業務リースで大丈夫なのか?あるいはリースでした場合、気をつける
べきことありましたら、ご指導くださいませ。
先生におかれましては、ご多忙のことと存知ますのがよろしくお願いいたします。

私の答えは,「長期レンタル」をご検討くださいなのでした。
例えば,http://www.orixrentec.co.jp/等。

■バルネラブルへ

博多での独演会,山口建協での講演の沢山感想をいただいておりました。
そのひとつを紹介したします。

一昨日(5月14日)、桃知様のご講演を弊社の社長、○○が拝聴させていただきました。『我が社も取り急ぎ取り組まなければならない。是非○○で講演していただきたい』とのことで、取り急ぎメールさせていただいた次第です。
(弊社社長は、大のパソコン・IT嫌いなのですが、変貌ぶりに驚いているところです)

これは私にとって最大級の賛辞です(ありがとうございます)が,私は嬉しい反面,「弊社社長は、大のパソコン・IT嫌いなのですが、変貌ぶりに驚いているところです」というフレーズには,「・・・とすれば,それはなぜだろう」というような思いが湧き出てきているわけです。

「大のパソコン・IT嫌いな」社長様が,私の二日酔いのオヤジのような2時間30分の話を聞いて,「我が社も取り急ぎ取り組まなければならない」と思った背景はなんだったのだろうかな,と自らの講演内容を省みながらも,その答えが自分ではよく分かっていない事に苛立ちがあります(うすうすはその理由が分かってきているところもありますが)。

バルネラブルの考え方は,確かにエージェント問題を解決するのだろうな,とこういうメールをいただくと思うのです。

エージェント問題については後日詳しく書きたいと思います。
今日はこれから暫くぶりに後楽で晩飯です。


【心でっかち】

浅草は明日から三社祭です。
なにか街中がそわそわした空気に覆われております。

さて,山岸俊男はその著書『心でっかちな日本人』(日本経済新聞社,2002年2月25日)でこういいます。

思いやりの心を持っていれば,いじめはしないはずである。だから,いじめを続けている子供たちは,他人に対する思いやりや共感性に欠けた子供たちに違いない」

この主張は正しくありません。なぜ正しくないかわからない人は,「心でっかち」の罠にはまり,現実を見る目が曇ってしまっているのです。

会社が替われない,いじめがなくならない,改造改革が進まない,・・・・・・

「心でっかち」は,私たちが抱える問題の本当の姿を見えなくしてしまいます。
そして実は,「日本人は集団主義だ」という一般的な理解も「心でっかち」が生んだ幻想だったのです。
(以上,カバー書きより)

そして,「相補均衡」という概念を持って,我々の文化的な行動の多くが「頻度依存行動」であることを証明していきます。

ここで言う「心でっかち」とは,「頭でっかち」に対応する山岸の造語です。
そして,山岸は「頭でっかち」を『具体的な経験(身体)と,抽象的な現実理解(頭)とのあいだのバランスがとれておらず「現実を無視した理論」だけで現実を理解しようとする人』(P.3) としています。

一方「心でっかち」とは,『心の持ち方さえ変えれば全ての問題が解決される,と考とえる「精神主義」』(P.4 )をその極端な例として挙げ,『知識と心のバランスがとれていない「頭でっかち」のように,心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態』(P.3 〜4)としています。

例えば,私がミームを地場型中小建設業のIT化に持ち出したとき,これは「ここ掘れワンワンのポチ」であり(つまり問題発見ツールであり),問題解決策でないことを強調しましたが,それは,(私が)ミームが「精神論」に誤読されてしまうのを恐れたためです。

私がミームのはなしを書き始めた頃,この手のメール(精神論的な解釈)が多かったのは確かなのですし,今でも多くの方々はそう解釈されているようです。例えば,私の考え方に反対される方の多くはこの「精神論」的な呪縛の範疇に存在しているに過ぎません。

→つまり,「我々(の業界)は特別なんだ。ITなんて関係ない。」
→(この文脈は「我々日本人の持っている集団主義的精神は我々の心にしみこんでしまっている」というところに収斂します。)

そういう意味では,私の考え方に賛同してくださる方も,実は同じような呪縛の中にいる可能性もあるのです。

山岸はその「心でっかち」な呪縛から我々を解放する作業をしているわけです。

→山岸理論は,地場型中小建設業が抱える閉塞の原因が,日本人の心に染み込んだ固有性からの制度・慣習ゆえのものであり,我々(個々の地場型中小建設業)にはどうすることも出来ないのだ,という閉塞への唯一の対抗手段を提供してくれている,と感じています。

→それは逆に言えば,地場型中小建設業をこの閉塞から開放する唯一のものだ,と言うことです。
→生き残ったミームが良いミームだとすれば,良いミームは何故生き残るかを教えてくれているのだ,と思います。(山岸はミームには一切触れるところはありません)

当然に,私は山岸理論に惹かれるところが多く,現在この理解に努め,それを地場型中小建設業におけるIT化と有機的にからめる作業をしているところです。

→5月29日の札幌独演会では,まずこの理解からはじめることとなるでしょう。

そこで,この山岸理論の中枢を成す「相互依存行動と相補均衡」を是非皆さんにもご理解いただければと思い,私自身がその理解のために作成したPPT「相互依存行動と相補均衡理解についてのノート」をダウンロードできるようにしておきましたので,興味のある方はご覧いただければ幸甚です。

それよりも最も良い方法は,山岸俊男,『心でっかちな日本人』(日本経済新聞社,2002年2月25日)を是非購入されて,理解できるまで納得できるまで読んでいただくことをお勧めいたします。(笑)

2002/05/15 (水)  
【幻のラーメン】

桃知@浅草です。
昨日は山口県建設業協会様での講演でした。

講演の前に,腹ごしらえしようと,松久さんに連れられていったのが湯田温泉にある「幻のラーメン」というお店でした。→屋号が「幻のラーメン」なのです。

お店には少々早くついてしまい,まだ開店していませんでしたので,近所を散歩して時間を潰しましたが,山口市は楽しいところだな,と感じたのでした。

なんと言っても「中原中也記念館」があるのです。
私は遺伝子活動が盛んになりし頃に中原中也を読んだ口です。

「冬の長門峡」っていう詩が好きでした。→今は諳んじて言えるなんてことはありませんが。
それで20年ほど前に,山口を訪問した際に,確かに長門峡へ行った覚えが蘇ってまいった次第です。

この詩を改めて読めば,今の私の方が多分当時の私よりもより深く読めているような気がします。
「あゝ! ――そのやうな時もありき」ですが,これはやっぱり我々凡人には年を取らないと実感としては沸かないものでしょう。中原中也の「あゝ! ――そのやうな時もありき」は何かはわかりませんが,まあ彼は早熟だったのでしょうし,それ故の天才なのだ,と理解しています。

山口市内には湯田温泉という立派な温泉街がありまして,これならもう一泊すればよかった,と私は悔しがったのですが,7月9日に再度,山口県建設業協会様での講演が予定されていますので,このときは湯田温泉でゆっくりしよう,と心に決めたのでした。→そして帰宅後それを直ぐに実行しました。

さて,肝心の幻のラーメンですが,開店時間の11時30分にお店に行っても暖簾が出ていません。それで,すけすけと店内に入り,店員さんに「まだですか」と尋ねたところ,「麺をゆでる人が来ていない」との返事。

それじゃ,ちょっと待たせてもらうよ,ってことで麦茶なんぞをご馳走になりながら待つことしばし。
ようやく待ち人が来たかと思えば,厨房の寸胴を覗いては,なにやらぶつぶつとおっしゃってまた出て行ってしまいました。

それで店員さんが来てこういうわけです。
「スープが出来ておりません・・・」「あと15分ほどお待ちいただけますでしょうか」

私は公演時間に間に合わなくなる恐れがありましたので,店を替え,坦々麺を食べ講演に出かけていったわけです。

つまり,幻のラーメンはやっぱり幻のラーメンなのでした。

2002/05/14 (火)  
【@博多】

桃知@博多です。
昨日は福岡独演会&懇親会でした。

福井コンピュータ様,大変お世話になりました。m(__)m

1年ぶりでお会いする方々もお元気そうで何よりでした。
そして,私のなんだかわからないようなお話に,4時間もお付き合いくださいました参加者の皆様に感謝申し上げる次第です。

早速メールが届いておりました。

本日の独演会、お疲れ様でした。
そして、ありがとうございました!
講演の途中で幾度となく鳥肌が立ってしまう感動を覚えました。
いろんな講演・講話を聞いてきましたが、今日のように時間が経つのが早く感じたことはいまだかつて経験したことがありませんでした。

「信頼のミーム」「仕事を取るためのIT化」・・・
インフラ整備(全社ネットワーク・パソコン1人1台)で止まってしまっているとしか思えない(しかもイントラネットではなく、ノーツクライアントとドミノサーバ。建設業がやってはいけない見本みたいな・・・)
我社の現状を考えると、果てしなく遠い道のりのような気がしますが、少しでも前に進めるように、がんばりたいと思います。

注)私はノーツは建設業では使えないとは一言も言っておりません。(笑)

しかし,最近の私は,4時間話していても,私自信が消化不良のままですし,聞いている皆様も同様の思いではないか,と思うわけです。

話したいことが山ほどある状態なのですが,こういう思考状態での今日の2時間30分は一体どうなるのでしょうか?

→今日は飛行機の都合もありますので時間延長はありません。(笑)

懇親会では,おいしい焼酎(熊本県の「鳥飼」という焼酎→ロックで飲むと物凄く旨い!と宮崎県の「百年の孤独」)と,皆さんとの会話も弾み,すっかり調子に乗って脳みそにアルコールが蔓延してしまいました。

→気が付けば,着の身着のままでベットの上で爆睡していたのでした。

本日は,博多 9:53 ひかり 366号 小郡(山口) 10:31で小郡まで移動し,小郡からは,キャルス山口の松久様にお世話になって山口まで移動します。

帰りは当初は博多経由での予定でいたのですが,昨日の独演会に山口県からのご参加の皆様の意見に従い,山口宇部空港から飛ぶことにしました。

2002/05/13 (月)  
【相補均衡】

今日は,これからANA 247 東京(羽田)(0940) - 福岡(1125) で,福岡へ移動し,午後1時から5時までの予定で福岡独演会の予定です。

昨日の戯言にも出てきた言葉ですが,最近の私は「相補均衡論」(山岸俊男)的な立場で,IT化を考えるところまでたどり着きました。

これは,「地場型中小建設業は金魚だ」(つまり,環境依存型)である,という前提を持ちながらも,その環境は決して一方的に与えられるだけのものでは無い,と言うものです。→相互依存関係。

山岸によれば,人間の集団的な文化的行動は「頻度依存行動」であり,その頻度依存行動を決定しているものは「限界質量」ということになるのですが,地場型中小建設業のIT化を考える場合,この思考はとても参考になります。

それが,5月7日に書いた「バルネラブル」の考え方に繋がるのです。
つまり,『この「弱さの強さ」とは,『自ら進んで情報を発信する人,自発的にボランティア活動を開始する人は,そのことによって自分の立場をバルネラブル(他人から付け込まれたり,利用されたり,非難されたりしやすい状態)にする。しかしバルネラブルな立場に自分の身をさらすことで,そういった人たちは情報を創り出し価値を生み出すことができる。』(山岸,P237),というようなものですが,これは,私がいう「インターネットの精神文化」そのものなのです。』

私の行っている協会ベースのIT化の取り組みは,この作業の最初の一歩ということになります。

本当は,この部分をもっと書きたいのですが,これから出発の準備です。
続きはまた後日。

2002/05/12 (日)  
【続・14日向けのPPTの作成中】

桃知@浅草です。
この街はまだ住んで間もないのですが,とても心が和みます。

さて,14日の山口建協さん向け講演のPPTを構成していたのですが,お伝えしたいことが山ほどありすぎて,困っています。

どうしたら2時間30分の枠に収まるのか。。。

例えば,以下はある資料に書かれていたCALS/EC導入の目的なのです。

日本政府は、2005年には世界で最先端のIT国家を目指した「e-Japan戦略」を掲げて、政府一丸となってその実現に向けて取り組んでいるところである。その中で、公共事業における電子化は、「CALS/EC」により実現することが、政府レベルで認知されており、国家戦略として行われている電子化活動として位置づけられる。

また、これからの高度情報通信社会において、建設産業界もITへ取り組んで行くことは不可避なことであり、CALS/ECはその先導役も担っている。

さらに、公共事業に対する度重なる不祥事等による国民からの不信感の増大を克服する意味でも、発注者責任を全うする手段として、CALS/ECは非常に有効な手段となり得る。

このように、21世紀における公共事業を取り巻く社会情勢としての情報化、国際化、高齢化等に対応するために、CALS/ECはそれを実現する一つの有効な手段となり、国レベルに限らず市町村に至るまで、その導入が要望されているところである。

一般的にCALS/ECの導入目的の説明と言う場合,ほとんどの場合このような表現をとるのが常套化されています。しかし,皆さんこの説明でCALSの必要性が本当に理解できて,かつ己の取るべき戦略を確信を持って選択することが出来ていますでしょうか。

→つまり,これでCALSが何をしようとしているのか(皆さんの市場をどう変えようとしいるのか)が理解できますでしょうか。

重箱の隅をつつくような議論だ,というお叱りを覚悟して私の見解を書けばこうなります。

最初の「e-Japan戦略」がらみの文脈は,まあそうですかって流してしまってかまいません。そもそも私は「e-Japan戦略」自体の持つ思想的な背景にはかなり異論を持っている立場ですが,今回の議論ではまあよしとしておきます。

次のIT社会において「建設産業界もITへ取り組んで行くことは不可避なこと」というのは私も同じ意見です。

しかし,これも結果的に同じ文脈にたどり着いているだけで,その背景にある考え方は全然違うものだと感じています。その意識的な相違ははそれ以降の文脈で浮き彫りにされます。

CALS/ECの目的のひとつを,「公共事業に対する度重なる不祥事等による国民からの不信感の増大を克服する意味でも、発注者責任を全うする手段」としているのは正しいと言えば正しいのですが,ではなぜそうなのでしょうか?

CALSは何故「発注者責任を全うする手段」なのでしょうか。
それは,現時点でのCALS/ECが言うような電子入札と電子納品で達成できるものなのでしょか。

CALS/ECの説明にはこの部分が欠落しているものが多いのです(って言うよりもほとんど触れられていないのが実情です)。

さらに「21世紀における公共事業を取り巻く社会情勢としての情報化、国際化、高齢化等に対応するために、CALS/ECはそれを実現する一つの有効な手段となり、国レベルに限らず市町村に至るまで、その導入が要望されているところである。」と続くわけですが,この説明をされる方々は,本当に「21世紀における公共事業を取り巻く社会情勢としての情報化、国際化、高齢化等に対応する」という文脈を理解しているのだろうか,と言う疑問が常に私にはあります。

逆説的ですが,「21世紀における公共事業を取り巻く社会情勢としての情報化、国際化、高齢化等に対応する」という文脈(つまり,これはポスト工業社会である)を理解しているのであれば,対策方法は今のCALS/ECが目指しているものでもない,と私は思っています。

このような(一般的な)CALS/ECの説明においては,CALSが市町村まで導入が不可欠だとする理由を「社会情勢としての情報化、国際化、高齢化等」という環境変化(市場の変化)に求めているわけです。

→この説明は本当に正当性を持つのでしょうか。
→正当性を持つとしたら何故でしょうか・

→私はこの文脈はトートロジー(同義反復)的なものだと思います。

→つまり,なぜ市町村までCALSの導入が必要なのか,といいう質問に対して,それは,「CALSが必要だから」と答えているようなものです。

しかし,その説明では地方公共団体が行う公共事業に,そして自治体発注の公共事業に依存する地場型中小建設業に対してどのような変化を求めるものなのかの答えにはなっていないでしょう。

私は,必要なものはこの文脈の理解だと思っています。
そしてその理解に導くものこそCALSの説明だと理解しているわけです。

→私は,その説明の可能性を,その背景にある相補均衡(山岸俊男)を見る視点,具体的には「制度・慣行=環境×原理」から明らかにする作業をしているわけです。

→CALS/ECは「制度・慣行」です。

私たちは,わかったような(抽象的な)用語の羅列に惑わされることなく,その本質を理解し,その理解の基に自らの戦略を考えていく必要があるでしょう。

それこそが自治体が行うCALS的思考に基づいた政策なのだ,と私は言いたいわけです。

そしてこの説明を14日に実例を示しながら山口でしようと考えています。
それは2時間30分という時間との戦いのような講演になるでしょう。

私もその壁を越えなくてはならないことは十分自覚してはいるのです。



【14日向けPPTの作成中】

昨日は鹿沼からの最終の東武特急で浅草へ戻りました。
さすがに朝から夕方までの勉強会を5日間続けるのは「しんど」かったです。

息切れします,っていうか声が出ていませんでしたね。
喉がガラガラなのです。

さて,飛騨高山の田口さんからのメール。

自社ドメイン取得しました。
HPも移行しました。
HPは他社が画像等々入れて綺麗につくっている物の逆行を走ろうと思っていま
す。極力活字で情報量を主体に。

#相変わらず、早く廻る地球だけは外せません。(笑)
 現代を表していると思っているのですがね。

ではでは。

田口組のHPはここ→http://www.taguchigumi.co.jp

■福岡独演会

明日は福岡独演会ですが,締め切り後の申込みも多く,多分ギュウギュウ詰めでの受講となります。
→なのでいつもよりも休息回数を多く取る予定です。
→受講される方々にはご迷惑をお掛けいたします。

今,今回の独演会について考えていることはこれだけです。
つまり話の内容については全く考えていません。★\(^^;

今回は独演会らしく(?),この会を計画した段階から,己のインスピレーションって言うヤツだけで話しの展開をしていくつもりでいました。

と言っても,私の話しの根底にはいつも同じ思考が流れていますので,何をどう話しても同じようなものになってしまうのだろうとは思いますが,それをなんとか壊したい,と言うのが本音なのです。

■山口で講演

翌14日は山口県建協さんでの講演です。
山口は,東京からはとても遠いところで,今回は前日に福岡まで飛び,翌日博多から新幹線と在来線を使って山口市まで行くことにしました。→なので福岡独演会が開催できるのです。

この講演では,事業者団体ベースのIT化の取り組みを私の関与先さんの事例を持ってお話しする予定です。

ご依頼の演題は「建設CALS/ECの現況」と言うものですが,例えば電子入札と電子納品の話しをしてもどうしようもないでしょう。

まあ,そんなことを学んでも,皆さん(地場型中小建設業)が置かれた環境は皆さんに決して有利な状況にはない,と言うことを,CALSが世界的な経済環境のIT化,市場化の具現化として存在しているものであることを前提に,今後起こるであろう(既に多くの前兆を見ることができる)公共建設市場の変貌をご説明し(つまりCALSはその変貌の1つの形態でしかない),その市場の変化に対して,自らの変化を持って対応しよう(相互均衡を行う)とする取り組みが協会ベースのIT化であることの理論的な説明を行いたいと考えています。

時間は2時間30分です。
・・・あまりにも短い。

2002/05/11 (土)  
【子々孫々に受け継ぐべきものって何でしょうねぇ?】

桃知@宇都宮です。
最初に内輪のご連絡。

13日の福岡独演会にご参加の皆様で,会場がわからない,というかたがおられましたらメールをください。私自信の準備不足でご迷惑をお掛けいたします。

さて,最近の店主戯言を独占しているスーさんからのメール。
→つまり,私はほとんど何も書いていない。★\(^^;

 今回話題の選択ストーリーは・・・ 下記!

1)ももさんの説く「公共事業ダメダメ・ミームの蔓延」
 =不祥事報道や景気回復効果に寄与しないとの報道が栄養源
  今日の新聞では <公共事業は超過達成>とのこと。

 ・確かに長期計画策定時の投入予定額は超過したはず。
  でも、投入金額に見合ったベネフィットを実感できる方は
  少ないはず。 さらに、小泉政権下での予算緊縮
   →長期計画の見直しに影響(仕事が減っていく・・)

2)一方、立場上、「社会資本整備はまだまだ不十分・・」
 と言わないといけない方の意見 =<建設業界反発・・>

3)その辺は「考えてますよ」と言わざるを得ない立場のPR
 = <MLiT H14道路施策>
  (一昨日送った新聞記事に絡めて、道路を例題)

 ・どんなものが達成できるかアウトカムで説明する手法や
  事業評価手法ですが、先行きは必ずしも明るくないはず。


 #業界新聞をのぞいて、大手新聞屋さんやTV屋さんは、
  MLiTの考え方をPRしてくれない傾向があるのでわ??
   =報道の価値は「センセーショナル+受け手が望むモノ」
    と考えているのかも。
   =亀井さんが「踏切の立体交差化推進」などをPRしたが
    聞く方々は、何か裏にあるのでわ? といった気持ちが
    先立ち素直にうなずけなくなっている?

 #また、第二次大戦以降の事業執行で「私権制限」を上手く
  誘導できていないから、総論賛成・各論反対で事業が進まない。
  つまり、 約束したアウトカムの実現を阻むのは・・・
  納税者自身であろうと思うこのごろです。
   (=言い過ぎで症候群にかかっています。)
  

◆ここからは「とってつけたお話」で脈絡なし。

 ・急速な少子高齢化が進む日本。高齢者を養えるか?? 
  http://www.ipss.go.jp/Japanese/newest02/3/z_5.html

 ・国際競争力ランキングが低下している日本。
  http://www02.imd.ch/wcy/
  http://www01.imd.ch/documents/wcy/content/pastranking.pdf

 そこで、<産業戦力会議の提案>。
  =「付加価値の高い新産業(環境、iT、バイオ、ナノテク)
   の育成」、そのための施策提案。

 一方では、<科学リテラシーの低下>を紹介した論文。
  =科学に対して、中学生までは世界トップクラスなのに、
   大人になると低レベルになってしまうとの分析。

  =さらに、施行が始まる「新学習指導要領」
   レベルはもっと落ちていくのでわ??
   学習塾・公文のTVコマーシャルでは、子供に「僕たちは
   何のために勉強するんですか、何を勉強したら良いんですか?」
   と言わせている。

   なお、米国でかいま見た子供達への教育。
   教師は子供たちに「自己目標を設定させ、実現する意識」を
   養うことを狙っていた。  でわ、日本は??

 #このままでは、日本沈没どころか滅亡の最悪ストーリーが
  待っているようで恐ろしい。

  さらに唐突ですが、子々孫々に受け継ぐべきものって
  何でしょうねぇ?
               以上

「さらに唐突ですが、子々孫々に受け継ぐべきものって何でしょうねぇ?」ってことへの答えがミームなのだろうと思うのです。

但し,ミームはあのダーウィン主義の文脈に存在するとすれば,生き残ったミームこそが良いミームなのでしょう。

そうであれば,「子々孫々に受け継ぐべきもの」を考えることは,それぞれに違った答えがあっていいのでしょうし,それ自体がミーム複合体であり,常にお互いの生存と淘汰の背景を成している,と言えるでしょう。

ミームは淘汰の危険性といつも隣り合わせしながら,自己複製にせいをだしているわけです。
でも,どのミームが生き残るのかは,多分だれも(当然私も)わからないものなのかもしれません。

それでも,それはミームにとっては「進化」なのだと理解するべきなのでしょう。
例え,「このままでは、日本沈没どころか滅亡の最悪ストーリーが待っているようで恐ろしい。」という憂いが現実となってもです。

だからこそ,私に存在するミームは私をしてこう生きさせている,と言えるかも知れません。
→ミームは淘汰の危険性といつも隣り合わせしながら,自己複製にせいをだしているわけです。

と,言うことで,今日はホテルをチェックアウトして鹿沼へ。
栃木建協安蘇支部さんの勉強会が終了すれば家へ帰れる。

2002/05/10 (金)  
【二つの建協】

■栃木モデル

宇都宮のホテルは借りたままで,体調不調と溜まった仕事の整理の為に,また浅草に戻ってきています。今朝早くまた宇都宮へ向かいます。

8日から,栃木建協宇都宮支部さんの勉強会を3日連続で行っています。
今日は宇都宮支部さんの最終日,明日は安蘇支部さんの勉強会で鹿沼市民情報センターへ参ります。栃木建協の支部対象勉強会も,今週が終われば後残るは2支部となります。

今回の栃木での取組みは,所謂郡上モデルをお手本としていますが,岐阜での取組みと栃木での取組みは似ているようでもかなり違います。

その大きな違いは,岐阜は各地域建協が独立法人であるので,例えば郡上なら郡上建協というドメインでのITリテラシイー向上を目標とできる分だけ(つまり規模が小さい)集中できるのですが,栃木建協の場合は,各地域は県の建協の支部である為(例外は宇都宮支部で,ここは独立法人)対象が広くエネルギーが拡散してしまう心配があります。

しかし,栃木建協の場合は,会員の皆さんの積極的な姿勢と,青経連(二世会のようなものです)の皆さんが(裏方として)積極的に動いてくださるおかげで,現在かなり集中的な動きが可能になっています。>感謝。

全国にはこのような形態の建協さんが沢山あるでしょうから,是非この栃木建協のIT化推進パターンを栃木モデルとして確立し,同じような形態の建協さんのIT化モデルに出来れば,と考えています。

栃木県の場合は,業界を取り巻く環境において,大きく岐阜県に遅れを取っているのは確かですが,己を取り巻く環境を変えるのは自らの変化でしかない,という命題のもと,IT化を着実に進めて行きたいと思います。

■6月6日は岐阜でお祭り

オープンセミナーのご案内に,6月6日岐阜メモリアルホールで行われるセミナーの案内を掲示しました。これは「IT CITY MESSE in GIFU」の協賛事業となります。

今回は,北海道から社団法人 空知建設業協会 副会長 坂田憲正氏においでいただき,現在取組んでいる空知建設業協会のIT化の取り組みについてお話をいただきます。

全国にはIT化推進に熱心に取組んでおられる建協さんがおられます。空知建協さんは,その取り組みにおいて郡上建協さんにも劣らない情熱を持ってIT化を進めています。是非,北からの熱い情熱に触れていただきたい,と思います。

→それは多分皆さんの勇気となることでしょう。

一方私の話しの方はといえば,「それはIT化ではない」-受注確保のためのIT化概論-というお題で,この秋に出版予定の本の内容を概論的にお話することとなるかと思います。

ミーム理論,信頼の構築,そしてIT化の本性,このあたりを概論的にお話しいたします。

IT化は私たちが個人で立ち向かって行って壊せるような潮流ではありません。
つまり,この時代の流れの中では我々はあまりにも無力な存在です。

IT化とは,この時代の流れを自らの味方とするということ。
そんな視点で私はIT化を考えています。

つまり,この時代変革を,自らが積極的に利用し,自らが変革していくにはどうしたらよいのか。そんなはなしになるかと思います。

今回は事前申込みはありません。当日先着順の受付。そして無料。
全国の皆さん,6月6日は岐阜でお会いいたしましょう。

2002/05/09 (木)  
【頭が痛いです。★\(^^;】

桃知@今日も宇都宮です。
昨日は飲みすぎたため,とても戯言を書いているような具合ではありません。★\(^^;

なので昨日に引き続きスーさん@Fe(元素記号)からのメールを引用いたします。

 お疲れさまです。
弊メール引用、感謝! 以下、お調子者の蛇足メール。

『あなたは公共事業が好きになる』
 −公共事業はなぜ嫌われたのか−

 http://www.decn.co.jp/guide/syu_2/syu_y.htm

 著者紹介 (「BOOK」著者紹介情報より)
  佐藤正則(サトウマサノリ)
   1968年3月中央大学文学部卒業。
   1968年4月日刊建設工業新聞社入社、取締役編集部長、
    同編集局長を経て、現在編集工学研究室長。
   1944年東京都生まれ

 ももさんには「謹呈本」が届いているのでわ??

              以上

届いておりません。
是非,お届けいただければ幸甚です。>日刊建設工業新聞社様。

2002/05/08 (水)  ▲
【「本当は5年早く言うべきだのかもしれない」だそうです】

スーさん@Fe(元素記号)がメールにて,朝日新聞5月2日記事『国交省に世代間抗争 道路「量的拡大」見直し』(XDW)を送ってくださった。

昨日書いた【わからないと言うこと,そして一筋の光明】へ反応なさってのことだそうですが,この新聞記事は見逃しておりました。ありがとうございます。

内容的には,以下のよなものです。

「国土の均衡ある発展」を旗印に道路をつくり続けてきた国土交通省が、「量的拡大」から生活道路の拡充を優先する方向に転換した。背景には、財政難で道路予算が減っているうえ、国民の公共事業批判が強まっていることがある。国交省内では2年前から『改革派」の若手技官と、『守旧派」の幹部とが世代間抗争を繰り広げていた。終止符を打ったのは、土木学会の重鎖だった。

私が気にかかるのは,「終止符を打ったのは、土木学会の重鎖だった」というところなのですが,この土木学会の重鎮というのは,中村秀夫武蔵工大学教授だそうです。

中村教授曰く,
全国の道路整備はまだ十分ではない。生活が不便な地域の住民に道路を造らないと言ったら怒られる。ただ、70%から80%くらいは達成して先が見えてきたのも確かだ。やみくもに延ばすのはやめて、必要かどうかを峻別し、必要なら堂々と作るよう変える時期にきた。本当は5年は早く言うべきだったかもしれない。学会や論文では主張していたが、行政に働きかけることには迷いがあった。日本中で道路の仕事にかかわる何百万人もの人たちに配慮せずに地方からは「勝手なことを言うな」「暮らしていけない」と怒られるのは間違いない。だが、小泉政権で改革機運が高まったことは好機だと考えた。多くの利害が絡む道路の峻別は難しい。費用対効果など可能な限り科学的に吟味し、わかりやすい形で国民に説明できなければならない。道路整傭を景気対策の道具にすべきではない。道路は借金や税金でしか造れない社会基盤であり、われわれの世代で可能な限り負担する努力を欠いた反省もある。建設業界は海外進出など国際競争にもまれて生き残りを探らなければならない。(談)

「本当は5年早く言うべきだのかもしれない」だそうです。

そしてスーさん曰く。
・・で、具体的にどんな施策となって出てくるのか??
 下記あたりに絡めてくるのだと思っています。

 http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha01/15/150903_.html
 http://www.mlit.go.jp/hyouka/subcontents/010829_gaiyou.pdf
 http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha02/15/150329/150329_1.pdf

と言うところで,間も無く宇都宮駅です。
本日はここまで。



【出直し】

昨日は,栃木県は高根沢のSSCTで栃木建協烏山支部さんの勉強会でした。
烏山支部さんは,既にCALS/EC委員会も立ち上げられて,支部におけるIT教育にも取組みを始めるそうです。→素晴らしい!

是非,そこでは,インターネットの持つ「バルネラブル」性を学んで欲しいと思います。
つまり,インターネットの持つ精神文化を己のものにしていただきたいのです。

そうである限り,その取り組みは決して無駄になることはないでしょう。
つまり,環境は相補均衡(山岸)に過ぎないのであれば,自らの環境を変えるのは自らの行動でしかないわけです。

勉強会終了後,ホテルへチェックインしたのですが,なにか寒気はするので(昨日の宇都宮地方は寒かった)一旦自宅へ戻って休むことにしました。(笑)

つまり,ホテルはそのままに,昨日は自宅に戻ってきたしまったのです。
→宇都宮-上野間は思いのほか近いわけです。

ですので,本日は上野 7:10 Maxやまびこ 203号 宇都宮 8:03でまたで直しなのです。

2002/05/07 (火)  
【わからないと言うこと,そして一筋の光明】

桃知@今日から栃木建協様5連戦です。^_^;

2月18日の【信頼のフレーム】に,私はこう(↓)書きました。

さらに,このメトリック(ミーム)はメトリックであって解決手段じゃないと私が強調するのはなぜだろう。
それは,このミーム理論の行き着く先が日本的経営の賛美に陥りやすいからである。それは結果的に組織的な経済取引・慣習を正当化することになってしまうだろう。

しかし,今地場型中小建設業が直面してる問題とは,今までの組織的な経済取引・慣習が持つミームが消費のミームを掴み切れていない,という事実なのである。ミーム理論はその問題を明らかにするためのメトリックでしかない。

そこでだ,問題は「信頼の質」と言う問題なのだ。
なので,今後しばらくは,我々(つまり,私とあなただね)は「信頼」というものを考える作業をすることになるだろう。

(中略)

と言うことで,教科書は,当然に山岸俊男,『信頼の構造』,1998年5月15日,東京大学出版会,だよ〜ん。

と言うことで,ずっと山岸の考察を追いかけてはいるのです。
しかし,頼りの山岸もなかなか「答え」にはたどりついてはくれません。

最新刊の『心でっかちな日本人』(2002年2月25日,日本経済新聞社)で,山岸はこう書いています。
心と文化の道具箱の整理と入れ替えが必要なことはわかりました。それでは,どのように整理しなおし,道具を入れ替えたらいいのでしょう。アメリカ「文化」を輸入して,アメリカ人が持っている道具箱をそのまま手に入れればいいのでしょうか。このいちばん肝心な問いに対する答えを残念ながら筆者は持っていません。少なくとも自信を持って読者に差し出すことのできる答えは持っていません。(P235)

これは,日本に長らく根付いていた「内集団ひいき」という原理。排他的で内輪を尊重するやり方が機会費用の増大により維持が難しくなってきたということを前提とし,それに替わる「心と文化の道具箱」とは何かを考察しての話しです。

→今と言う時代はそういう時代なのです。
→山岸の言葉で言えば,『私たち日本人の多くは,急速に変化しつつある経済や社会の現実(いまの日本や自分自身のあり方)に対処できなくなってしまっていることを漠然と理解し「変わらなくてはいけない」「変えなくてはいけない」という思いを強くいだきながら,いったい何を変えなくてはいけないのか,どう替わらなくてはいけないのかがわからないまま,呆然と途方にくれているのです。』(山岸,P2)ということです。

結果的にですが,私が考察し続けていることと,山岸の考察の目指すところは同じものであるようです。

それは,山岸がはっきりとした答えは持っていないと結論を避けながらも,金子郁容の「弱さの強さ」を,目指すべき方向を指し示している1つの言葉として揚げている点で確信となってきました。

この「弱さの強さ」とは,『自ら進んで情報を発信する人,自発的にボランティア活動を開始する人は,そのことによって自分の立場をバルネラブル(他人から付け込まれたり,利用されたり,非難されたりしやすい状態)にする。しかしバルネラブルな立場に自分の身をさらすことで,そういった人たちは情報を創り出し価値を生み出すことができる。』(山岸,P237),というようなものですが,これは,私がいう「インターネットの精神文化」そのものなのです。

そして,ここで前提とする「自律的な個人」とは,新古典主義経済学が想定する判断主体としての「自律的な個人」(強い人間)とは意味合いが違うわけです。

ということで,新幹線はまもなく宇都宮へ到着です。
本日はここまで。

2002/05/06 (月)  
【浅い議論】

アクセスログを解析すると,主観リンクへはこのサイトでは3番目にアクセス数が多いのです(つまり大切な商品です)が,このところ全然メンテナンスしていませんでしたので,思い切って主観リンクを整理しました。

リンク先が消えてしまったものと,かつて「依頼」があって掲載していたものを削除しました。
そして新たなリンク先を追加してみましたが,なにか漏れているような気がしてなりません。

そう言えば,以前ほどリンクの依頼は来なくなった,と言うよりも,最近はリンクの依頼は皆無なのです。

以前はISOのコンサルさんからのご依頼が多かったのですが,私はご存知の通りISO9000シリーズは大嫌いな人なので,それが世間様に浸透したせいか,最近ISO関係者からのご依頼は無いわけです。→それはそれで悪いことではありません。→主観リンクですから。

さて,そのリンクを整理しながら覗き見たoffice-egg.comさんの「日々物々」に面白い話題があったのでご紹介します。>大村さん13日は宜しく。(謎)

まずは,大西一史さんという熊本県会議員さんの県議会での建設業の情報化に関する質問と答弁内容

そして,同じく大西県議のHPからのリンクで,県議が談合容認発言 入札適正化進める県は困惑,という記事(くまにち.こむ)

→この大西さんという熊本県議のHPはなかなか面白いです。
→なので無断でリンクに付け加えました。

まずは,「県議会での建設業の情報化に関する質問内容」から読んでいくと,面白い箇所があります。それはここです。(↓)

・・・建設分野での情報化を進めるためのガイドラインもまとめております。(発言する者あり)
 わからぬという議場からの御発言もあります。・・・

(発言する者あり)というところなのですが,その後の大西氏の「わからぬという議場からの御発言もあります。」から察するに,多分,他の県議さんが「CALSなんぞわからんぞ〜」とかなんとか,野次ったのでしょう。

なので,大西氏の「わからぬという議場からの御発言もあります。」になるのでしょうが,所詮,建設業におけるIT化の認識なんて,(熊本県では)「わからぬ」の野次の彼方に存在しいているのだろうなぁと思うのです。

そういう認識で,「県議が談合容認発言 入札適正化進める県は困惑,という記事(くまにち.こむ)」を読めば,こういう発言をされている県議が,どの程度の危機感とIT化の理解を持って,この話し(談合容認発言)をしているのかは自ずと窺い知れるのではないでしょうか。

私が,4月28日の【浅い人,深い人】に書いたように(↓),このレベルで議論が終始すれば,発注者としての納税者,有権者からの公共事業批判が止むことは無いでしょう。

どこにでもIT化を嫌う方々っていうは(沢山)存在していわけで,そういう方々を私は注意深く観察させていただいている。

それはITの本質を知ってのことなのか,それとも違う理由からなのか,と。

IT化をかなり深く理解していくと,(IT化に対しては)かなりの部分で否定的な態度をとるようになる(私もその一味である)。

それはディスパラダイスのイメージであり,その本質は人の幸せという価値観と連鎖した問題である。

しかし,そこまでの話しを(私に)する方々には,滅多にお目にかかれないのも事実である。
つまり,IT化を嫌う方々の多く(ほとんどだ)は,IT化の本質を知ってのことではない。

多くは,己の保身からの直感的な危機感であろうが,まあ,それはそれで間違ってはいない。

つまり,その直感は正しい。
IT化が進めば,あなたはその価値の多く(存在意義)を失うだろう。

でも,彼らはそれが何故なのかは深く考えることをしない。

つまり逆効果なのですよ。

あのような記事を読んだ納税者・有権者は,また利権屋が己の利益の確保の為にその地位を利用している,としか判断しないでしょう。つまり,談合擁護論の記事を読んだ熊本県民の多く(公共事業依存者は除く)は,ますます公共工事ダメダメミームを己の培地に溜め込んでしまうわけです。

MIL-HBK59Bに倣えば,熊本県の建設CALS/ECは熊本県と熊本県の建設産業界の戦略にならなくてはいけないわけで,今回の談合擁護論の発言にはその戦略性のかけらも無いのです。

→強行突破っていう「戦略」なのかもしれませんが。(笑)
→悪いけれども,それは戦略には値しない。

それはつまり,議論の当事者が,IT化がナニモノなのかを知らない,っていうところに収斂してしまうわけです。
→故に議論が浅い。

つまり,5月1日のY川さんの言うように,これ(↓)がナニモノなのかが理解できていれば,議会での野次なんてありえないだろう,と私は思うわけです。

>建設CALS/ECは「Being Digital」へ対応しようとする政策に過ぎない。

これだ!
すべてはここ(BD)にはじまり、ここ(BD)に収斂されてくるのですよね。

でも,そこまで要求するのは酷な話なのかもしれません。

2002/05/05 (日)  
【こどもの日】

今日はこどもの日。
私たちは,子供たちに何を残せるのだろうか,と考えると,暗澹たる思いになる。

→The future looks gloomy.

■小さい逃亡者

5月3日に書いた小さい逃亡者(小さな逃亡者じゃなかった)に関して,市岡@北海道様からメールが届いた。

GW期間中の店主戯言なかなか濃い内容です。
読み終えたらこんな時間になってしまいました。
その中で、桃知さんが探していらっしゃる映画を探してみたらこういうものが見つかりました。
まず東芝のギャオスのHP
http://www.tdf.toshiba.co.jp/tdf/dvdsoft/soft/tkbu-5073.html
この記事内容から同時上映は「小さい逃亡者」と判明しました。
それから、googleで検索をかけると
感想文とあるのですが、ストーリーがひととおり書いてあります。
昔のいい思い出をぶち壊しにするような一部批判めいた感想もありますが・・・
勇気がありましたら見てみてください。
http://home.catv.ne.jp/nn/kotatu/movie/1998_03/980333.htm
このHPのタイトル通りなのでしょうか、残念ながらビデオやDVDは出ていないようです。
以上
つまらない情報でした。

市岡様ありがとうございます。素晴らしい検索能力ですなぁ。

こういう方法で検索確率を高めていくのをベイズ理論応用って私は呼んでいますが(私はIT化っていうのは,数学的にはベイズ統計学だと思っている),市岡さんナイスです。

それで,見てみましたよ,「小さい逃亡者」の感想文。
そうそう,そういう映画だよ,って20数年前の記憶が蘇りました。

しかし,この感想文の置いてあるサイトは凄いですね。
恐ろしい方々が世の中にはいるものです。

■電子入札についての考え方

以下の□の中の文章は,長岡市(新潟県)のホームページに掲示されている〜 長岡市電子入札契約システムについて 〜からの抜粋である。

→長岡市は平成16年度以降の電子入札導入を目指している。

ここに引用した電子入札の背景及び目的と目標をよく読んでいただきたい。
つまり,私の主張である,電子入札対応とは(IT)技術の問題ではない,ということがよく理解していただけるだろう。

つまり,「計画の背景」にあるこのフレーズ。

『一方、地方自治体における公共入札の現状は、受注者の選定や工事の施工に関して競争原理や透明性等に関し、必ずしも市民の信認を受けているとはいい難い状況です。』

「目的と目標」にあるこれらのフレーズ。

『(1)透明性を高める
現在の指名競争入札から原則として制限付き一般競争入札へ移行し、受注者選定にあたって透明性を確保します。』

『(2)競争性を促進する
・制限付き一般競争入札の実施は、指名競争入札と異なり、受注者の自主性を重んじる制度のため、受注を希望する業者で参加資格要件を満たせば誰でも参加が可能となります。
このことは参加業者の入札参加意欲を向上させ、さらに競争性が増すことになります。
・入札参加業者の事前公表を事後公表に変えることで、談合しにくい状況を作り出し競争性をさらに促進します。』

これらの事項は,なにも電子入札など行わなくても実施可能なものなのである(松阪市の例)。
つまり電子入札はツールでしかない。だが,これらの動きを活発化させているものもIT化であることは事実である。

つまり,「電子入札に対応する」といったときのIT技術的な問題は受注者(応札側)には存在しない。問題は,その背景にあるルールの変更であることを理解すべきである。

だからといって,私はこのようなIT入札(厳密には制限付き一般競争入札制度)を無条件に支持している立場ではないのは周知の事と思う。(どうもこのあたりに誤解がある)

→それについての大きな理由は昨日書いた。
→つまり,発注者(正確には発注代行者)自らが変化しなければ,『必ずしも市民の信認を受けているとはいい難い状況』は続くだろう,ということだ。

そして,もう1つ付け加えておこう。

『またコスト面においても民間部門では、従来の商慣習である「系列」の粋を超えることにより調達コストも期待以上の低減化が図られつつあります。』っていうフレーズがあるけれども,民間では採算ベースにはのらないけれども,公共の為にはどうしても必要なことを行うのが公共事業であることを,行政そして市民の方々は再確認して欲しいのだ。

例えば,こんな性能規定の公共工事があってもいいだろうと思う。

性能規定値
→可能な限り,地域ドメインにおける雇用の確保に貢献すること。

これを効率性とか合理性を根拠に批判される方が沢山おられるだろうが,それこそがわが国が直面している思想的な硬直化の象徴であろう,と私は思う。

長岡市の電子入札導入について

1.はじめに(計画の背景)
昨今のインターネットを核とした情報通信技術(IT)の進展はめざましく、特に電子商取引の調達・入札の分野では職場にいながらにして瞬時に調達できます。またコスト面においても民間部門では、従来の商慣習である「系列」の粋を超えることにより調達コストも期待以上の低減化が図られつつあります。
一方、地方自治体における公共入札の現状は、受注者の選定や工事の施工に関して競争原理や透明性等に関し、必ずしも市民の信認を受けているとはいい難い状況です。
このような中、工事請負調達に関しては、平成13年4月より「公共工事の入札及び契約の適正化の促進に関する法律」(以下「適正化法」という)が施行され、契約の公正性を担保するために、入札参加者の資格、入札金額及び契約の相手方の特定に至る経緯や契約の中で発生する情報を市民に対して公表する等、透明性を一層向上させることが求められています。
これらの状況に対応するために、長岡市においても入札契約業務にITを導入するとともに入札制度改革をすすめ、これまで以上に競争性が高く、効率的で透明性、公正性の確保された事業運営を目指す必要があります。
1.1 入札・契約業務における現状の問題点
(1)透明性が不十分
現在、実施している入札方式はその大半が指名競争入札方式であり、指名業者の選定にあたり、その選考過程が不透明であること及び発注者の裁量が大きすぎることに問題があります。
(2)競争性に乏しい
現在の指名競争入札では指名業者が限られているため競争性が乏しく、入札の落札率に至っては95%以上と高止まり傾向にあり、入札の競争原理が十分働いているとはいえないのが現状です。
(3)利便性の低さ
現行のシステムでは受注者が入札指名通知を受けた後に、設計書の閲覧や入札のために市役所に直接足を運ばなければならないことから、時間が拘束されるだけでなく、交通費や人件費などの費用の面においても受注者にとって利便性が低いといえます。
(4)業者管理システムの不備
入札参加申請、申請内容の更新等について一部電算化されているが、ほとんど手作業のため、発注者、受注者ともに大幅な時間が手続きに必要となります。

1.2 電子入札契約システムによる改革(システム化の目的と目標)
(1)透明性を高める
現在の指名競争入札から原則として制限付き一般競争入札へ移行し、受注者選定にあたって透明性を確保します。
(2)競争性を促進する
・制限付き一般競争入札の実施は、指名競争入札と異なり、受注者の自主性を重んじる制度のため、受注を希望する業者で参加資格要件を満たせば誰でも参加が可能となります。
このことは参加業者の入札参加意欲を向上させ、さらに競争性が増すことになります。
・入札参加業者の事前公表を事後公表に変えることで、談合しにくい状況を作り出し競争性をさらに促進します。
(3)利便性を増進する
インターネットでの発注・入札・結果公表システムを構築し、発注者、受注者ともに入札業務の効率化とコストの縮減を図ります。
(4)操作性、安全性
操作・管理はシンプルに、安全性は確実にをシステムの基本とします。特に電子入札の前提となる本人認証や公証は高度な安全性を確保するとともに、操作では誰でも簡単に利用できるシステムを構築します。
(5)業者データベースの整備
・現在手作業の業者台帳をデータベース化します。
・インターネットで入札参加申請等の手続きが出来るようにします。
・セキュリティを強化し、情報が改竄されないシステムを構築します。
(6)工事契約内容のデータベース化
・現在手書きの工事台帳をデータベース化します。
・受注者、請負金額、現場代理人、主任技術者、工期、変更工期、工事成績など、リアルタイムでインターネットに公表できるようにします。
(7)拡張性の確保
・将来の長岡市電子市役所構想の一つのシステムとして構築していくものとします。
・電子入札システムの本格始動まで、様々な形態での入札方法を施行する必要があるので、柔軟な対応の出来る開発方法をとります。
・長岡市が予定している工事発注情報をインターネットで公表出来るようにします。
・将来はGISを導入して、地理情報と発注情報を連携させるようにします。
・現在、長岡市と他の市町村が取り組んでいる市町村合併にも対応できるシステムとします。

2002/05/04 (土)  
【コストダウンについての考え方】

連休中はシステム変更が多い。
延びていた門倉組さんのシステムも,DNS設定が変更された旨連絡があったので,早朝から検証をしていた。問題なく動いているようでなによりである。

■コスト競争力

先日,某編集様より以下のようなメールをいただく。

このダンピング(?)横行時代に,
コスト競争力を身に付けて
がんばっている建設会社ないでしょうか。

やはり土木系の会社だといいんですが。

私は「ふーん」,と思うと同時にかなりの失望感にさいなまされてしまった。
→まだこんなことが記事になるのだろうか?

当然に私の回答は「そんな会社はないんじゃないでしょうか?」である。

私の(自認する社会的な)仕事というのは,この時代の地場型中小建設業の競争力ってなんだろう,というところの研究ではある。→それは地場型中小建設業のコア・コンピタンスの問題としてである。

その文脈でIT化を考えているのが私である。

しかし,ことコストの競争に関しては,私はそれをコアにすることは限界があるという立場をとらせていただいている。

そのあたりを,設計コンサル・測量業界と地場型中小建設業に分けて考えて見たいと思う。
サンプルは松阪市における制限付き競争入札の結果である(松阪市のHPで公表されている)

・設計コンサル・測量業界

設計コンサル・測量業界においては,松阪市の入札結果(↓)のを見てみよう。
これはコスト競争とは別の角度から解析しなければならない問題であろう,と考えている。

(↓)の表は松阪市における2002年4月18日開札分から,ある測量設計業務委託の入札結果である。
この業務の設計金額は,1,195,000円,予定価格は1,188,000円,最低制限価格はない。

開札順 入札業者 入札金額 備考 入札結果 契 約 金 額
A 430,000円 1 落札決定 451,500円
B 700,000円 2
C 1,050,000円 4
D 900,000円 3

この入札における落札率は予定価格の36%にしか過ぎない。さらに,その他の設計や測量委託業務(つまり最低制限価格なし)の結果を見ると以下のようになる。

委託業務 予定金額 最低入札金額 落札率
A 18,826,000円 6,480,000円 34%
B 9,882,000円 3,700,000円 37%
C 2,480,000円 1,090,000円 44%
D 3,118,000円 1,150,000円 37%

ここでは,軒並み30%から40%台の落札率という結果を見ることができるが,私はこれらの結果をコスト競争力の成果とは考えてはいない。それはこのような委託業務の調達に関しては,発注者側にモノを買うという意識が存在しているために,価格決定メカニズムが単純に働いているだけであろう,という見解である。

ここでのキーワードは「発注者側にモノを買うという意識」というフレーズなのだが,その理解には,なぜに設計コンサルタント業務,測量委託業務に関しては最低制限価格は設けられていないのだろうかを考えてみればよい。

→工事関係には一応(85%ライン)最低制限価格が設けられているのにだ。

これは,いろいろな考え得方が存在するだろうが,1つには設計コンサルタント業務,測量委託業務に関しては,そもそも発注者側にモノを買うという意識が存在しているためだろう,というのが結論そのものとなる。

つまり,調達に関しての仕様の縛りがゆるい,受注者側に創意工夫の余地が大きく存在しているからだ,と私は理解している。

例えば,設計コンサル業界は(IT等の活用次第では)知識労働力を海外に求めることが実質的には可能であろうし,人件費にカットにおけるコストダウンはその人件費の下限までは可能となる。さらには業務プロセスそのものの見直しによるコストダウンも可能であろう。

→つまり,コストダウンは受注者側の創意工夫の成果となる可能性がある。
→それでも調達できる人件費がコストダウンの限界でもあろうが。

しかし,前述のように私は今回の松阪市の入札結果をその成果としては考えてはいない。

私は,これらの落札結果が妥当性を持つものであるとすれば,それはこの業界においての需要と供給のバランスが生み出した単純な結果としての価格(それを正当な価格としていいのかは別問題としても)への移行が(ようやく)行われようとしているだけの話であるだろう,と理解している(つまり市場メカニズムが機能すれば,今までの価格設定の正当性は簡単に崩壊する,ということだ)。

つまり,今起きている価格のデスカウント化は,たかだか今までの価格決定メカニズムが崩壊し,市場メカニズムが単純に機能した結果に過ぎないのである。

→ただし,それはこの業界における真の価格競争の結果ではない。
→真の競争は実はこれからである。

つまり,私は,設計コンサルタント業務,測量委託業務に関しては,発注者側にモノを買うという意識が存在し,市場メカニズムが導入されればコストダウンは比較的単純に機能する可能性が高い,という認識を持っている。

→しかし,それじゃ設計価格って何?っていう疑問はまだ残るのである。
→それは従来の方法で考えうる価格と言う意味でとらえてはいるが。

・建設(施工)業界

それじゃ,何故に工事関係には一応(85%ライン)最低制限価格が設けられているのだろうか?

それは,発注者側にモノを作る視点(発注者の既得権益)が存在し続けているためであり,さらには公共事業の機能の問題からである。

「発注者側のモノを作る視点」は調達に詳細な仕様を設ける。それは調達側にとっても品質とコストのバランスに対してある程度の予測が付く結果となる。

その結果,この入札方式においては,受注者側の相違工夫の多くは(その仕様規定において)制限を受けるので,その制限の中での価格競争は,結果的にコストダウンではなくて,予定価格帯での単なる「価格のすり合わせ」でしかなくなる。→創意工夫の成果としての価格ではない,と言う意味である。

これが性能規定のような調達方法(発注者側のモノを買うという視点)にでもなれば最低制限価格は存在し得ない。つまり,受注者側の創意工夫の結果としての価格の予想は最初から無理なのである(さらに留意すべきは,この文脈では必ずしも「安い」だけでは落札できないことである)。

松阪市の工事の入札結果においては,そのほとんどが予定価格付近での落札となっているが,それも当然といえば当然の結果であり,この方式は実は指値方式あることを自ら明らかにしているだけである(例外的なものはむしろ市場メカニズムが働いていないと判断されても仕方があるまい)。

この予定価格近似値での落札結果も各社のコストダウンの成果ではないであろう。
→コストダウンは創意工夫の成果である。

つまり,発注者のモノを作るから買うへの視点変化が前提になければ,創意工夫に基づくコストダウンなどは存在し得ないし,国交省のスローガンである「技術と経営に優れた建設業」の実現は永遠に絵に描いた餅でしかないだろう。→変化すべきは調達側である。

もう1つの工事に予定価格が設定されている理由は,公共事業の持つ機能としての問題であろう。それは,単純な市場メカニズムによって,安く調達できることだけを目標とする公共事業であるならば,予定価格を設ける必要はない,ということだ。

仕様に縛られた工事におけるコストダウンの前提は人件費の削除にしかないだろう。つまり,国内(地域ドメインのほうが正解だな)雇用のコストを(人件費)を落としていくか,地域労働力は極力使わないで,グローバルに安い労働力を調達した方が資本(受注者側)にとっては有利であるという環境を設定することなのだが,前者はともかく(この動きは活発である),後者を声を大にして推進している公共事業など見たこともも聞いたこともないし,公共事業がそれを言うことはまずありえないだろう。

それは,公共事業が公共事業である意義の問題であり,公共事業の機能が,単なる社会資本整備だけではないからである。

→「地場経済の活性化と雇用の確保」
  →配分のルール

つまり,地場型中小建設業が依存する自治体発注の公共事業のような国内雇用(地域雇用)を集約的に投下せざるを得ないような市場におけるコストダウンは,本来公共事業が持つ目的のひとつである「配分」の経済政策においての限界を露呈さぜるを得ない。

→そのために労務費(積算単価)は落とされ続けるだろう。

私には,昨今の公共工事をめぐる論議は,最初のメトリック設定で市場メカニズムの呪縛を受け過ぎているようにしか思えない。

→コストダウンは確かに企業において必要な意識である。
→しかし,そのコストダウンの前提となっている仕事そのものの意義を知らずに,単純バカボン的なコストダウン論議なぞ何の意味があろうか。

→目先の空論でしかないでのはないだろうか。

土木工事(そのほとんどは公共工事でしかない)における「コスト競争力」という言葉は,結果的にはコストカットでしかなくなり,そのコストカットの対象は,発注者がモノを作ると視点(既得権益)にしがみつく限り,結果的には人件費でしかない。機械化しようが,IT化しようが,つまりその矛先は人件費の削減を指向せざるを得ない。

しかし,市場メカニズムにおけるコストダウンは創意工夫の成果でしかありえない。
もし,公共工事のコストは落とした方がいいと言うのであれば,その問題は,個々の企業の創意工夫が機能するための市場整備ができていないことである。

松阪市のような方式は,結果的にはコストは下がるだろうが,それは発注者の既得権を利用した指値だからであり,松阪市の業者が「技術と経営に優れた建設業」になろうとするインセンティブにはなっていないことを指摘しておかなければなるまい。

何度も書くが,真のコストダウンは創意工夫の成果でしかありえない。
指値はコストダウンではない。→それは価格統制であり,市場メカニズムさえも冒涜するものである。

2002/05/03 (金)  
【台東区通信?】

久しぶりに,本当に久しぶりに上野でパンダを見てきた。
動物園はさすがにゴールデンウィーク後半初日だけあって,沢山の人出。

とても,ゆっくりと動物を見るなんてことはできない状態なのだけれども,やっぱりにおいのする動物は,なにか生き物としての存在自体がとても心地よいものだなぁ,と思う。

休みが取れたら,ウィークデイにでも,ゆっくり(ぼーっと)とキリンでも見ていたら幸せになれるかもしれないと思った。

出掛けに,浅草演芸ホールの前を通っていったら,5月上席の夜の部の主任が柳家小三治さんなわけで,これは近々行かなくちゃねぇ,と確認。

日曜日の夜にでも行ってこようかと思う。
→そう,なんのために浅草に住もうと思ったのだろうか,ってことですね。

お昼ごはんは,三定で中かき丼とした。ここも超満員。
まあ有名な店なのでね,一度ぐらいは入っておいてもいいかと思ったわけだけれども,わたしゃ今一趣味じゃない,って感じだななぁ。

硬質な印象。
わたしゃどっちかっていうと,ふにゃふにゃ系が好き(笑)。

そばとか天ぷらとか寿司とかね,それからふぐもか,そいう単純明快な食い物は,世評と自分の感覚の違い,なっていうものを特に感じるのだけれども,まあ,自分がうまいと思ったものを食っていればよいわけなんだけれども,それには,食ってみなければわからない,っていう命題はいつも存在しているわけだ。

昨日からFM放送が聞こえるようになったわけだけれども,気に入って聞いていた局が葛飾FMだっとは驚き。

やたら葛飾のはなしばっかりなので何かと思ったのだけれども,そういう(コミュニティFMっていうのかな)のもありなんだ,と再確認。

→なにもインターネットばかりが情報ではない。

ためしに台東区のFM局も探してみたけれども,これは無いようだ。
→CATVがあるのだが,いまいち魅力不足。



【自律と直接的相互作用と小さな逃亡者とかのはなし】

浅草は良い天気である。

■宇宙ギャオス

結局,昨日の藤沢行きは中止に。
なので突然に降って沸いたような休日になってしまった。

休みとなると,私はやらなくてはならないことが沢山ある。

まずはメディコム・トイ製の宇宙ギャオス(初回限定生産版 0356)の作成。★\(^^;

とにかくこのギャオスは羽(腕?)と胴体の接着が難しい。

裁縫(つまり針と糸である),ホッチキス,両面テープ,瞬間接着剤と,私の持っている技術を惜しみなく使ってみたのだけれども,出来はすこぶる悪し。

→なので今回は画像はない。★\(^^;

宇宙ギャオスっていうのは,ギャオスはギャオスなんだけれでも,ノーマルな(初代?)ギャオスではなくて,「ガメラ対大悪獣ギロン」に出てきたギャオスなわけで,まあ,ギャオスにも色々あるわけである。

それで,このギャオスなんだけれども,うまく自立が出来ない。
全体的にふにゃふにゃ気味,それにでっかい羽がついているのでね,バランスはすこぶる悪い。

なんとも扱いに困るものが出来てしまったわけだ。
自立→自律→難しい。

■FM放送

私の音響製品はそのものズバリのONKYO FRV-77というミニコンポ。

こやつは,なぜかMD部分の出し入れが出来なくなっており(買ったのは昨年7月だからまだ保証期間内なので修理依頼しようと思うのだが,なにせ私は自宅には居ない人なので,リアルな活動においては色々と制限が多いのだ),最近別製品(BOSE)を発注したばかり。

この前に使っていたのも,同じくONKYOのFRS-77なのだけれども,これもMD部が壊れてしまって,FRVの替えたわけで,ONKYOの製品はMD部分が阿保っていうのが,私の消費ミームに色濃く反映されており,つまり今回はBOSE購入になった,というのがミーム理論から見たONKYO離れの真相である。

それで,新しいもの(BOSE)が来る前に,MDはダメでもFM放送ぐらいはなんとかなるだろうと思い,御徒町の多慶屋までTV用のアンテナケーブルを購入に行ってきたわけで,ケーブル代はすこぶる安く,往復のTAXI代の方が高い。。。

というわけで,壁にあるTVアンテナ口からアンテナを取ると,さすがによく聞こえる。
なんだか知らないが,こういうこと,つまり,

→アンテナが無かったのでFMがよく聞こえなかった。
→アンテナを購入した。
→よく聞こえるようになった。

と,いうような当たり前の結果というのが当たり前に得られることってなぜか嬉しい。

それで,この作業に伴って,本体の位置変更などをしてみたら,なんとMDが動くようになってしまったじゃないかい。。。

まあ,これは直接的相互作用の効果ってヤツです。
→つまり,ひっぱたいてみたわけだ。

■小さな逃亡者

ギャオスのはなしを書いていて,最初にギャオスを見たとき(つまり「ガメラ対ギャオス」を映画館で見たとき)に,同時上映の映画があったこと思い出す。

→それが「小さな逃亡者」って題名だったはずなのだが。。。

内容はほとんど思い出せてはいないが,私の隣(っていっても通路)にしゃがみこんで見ていたいたオバサンの顔が涙でぐしゃぐしゃになっていたことを記憶している。

つまり,かなりのお涙頂戴映画だったことは確かなのである。
→なので私も泣いた記憶がある。

この映画+ギャオス(子供心に本当に怖かった)の相乗効果のために,ガメラミームは私の心に深く刻まれてしまったことは確かなのである。

なので,この組み合わせでもう一度見てみたいなぁって思う。
しかし,「小さな逃亡者」「大映」でWeb検索をしてみたのだけれども,これについての資料はネット上にはないのだ。(Google調べ)

題名が違っているのかも知れない。
人の記憶なんてあやふやなものなのだけれども,そのあやふやさゆえに過去は益々美化されていくのだろうな,と思う。

2002/05/02 (木)  
【価値観はシーソーのように移り替わる】

各市町村発注の公共工事において,制限付一般競争入札の導入が目立ってきている。
その代表事例は言わずもがなの横須賀市

ここは電子入札という付加価値付なので,センセーショナルな取り上げ方をされている。
しかし,昨今目立ってきているものは,電子入札なしの制限付一般競争入札である。

この代表事例が松阪市ということになろうか。
このような事例,動きは私の耳に入っているだけでもかなりの数に上る。

例えば,先ほど栃木建協のイントラネットを覗いていたら,氏家町の二件の制限付一般競争入札(ほぼ松阪市方式)の紹介記事が出ていた。

私には,このようなドメスティックな公共工事がなにゆえに,という疑問の方が多いのだが,このような地方の小さな公共工事まで一般競争入札化されてくる,という事実を,建設業界(公共工事依存型の方々は特にだね)はどのように受け止め考えられているのだろうか。

マクロ的な公共政策の視点から見れば,公共工事は二つの主義からなる。

1・「地場経済の活性化と雇用の確保」
  →配分のルール

2・「より良いものをより安くより早く校正に」に調達する社会資本整備
  →市場のルール

今まで,多くの公共工事依存型の中小建設業が立脚していたのは(つまり存在できていたのは)「地場経済の活性化と雇用の確保」を目的とした主義に支えられた市場の存在ゆえである。

この市場は,法的には官公需確保法に守られた保護主義的公共建設市場であるが,この市場を支配しているのは極めてネポティズ的思想に立脚した配分のルールであるし,政策的にはケインズ政策理論がそれを支えてきていた。

じゃ,なぜにいまさら一般競争入札の導入なのだろうか。

それはこれだね。つまり(↓)を読んでください。
→【What's Going On?(そろそろわかってきたでしょう)】(店主戯言 2001年9月22日)

つまり,その1つの原因は,小渕,森政権時代に行われた,景気対策のための公共工事中心政策への反動だろうし,小泉内閣の経済政策的な背景である新古典主義的経済政策つまり,ケインズ的な政策批判故である。

それはポール・クルーグマンをしてもこういうしかないわけだ。
「だいたい,経済の資源を使って,人々が本当に求めているものをつくれないなんて,ホントにほんとなわけ?」

財政政策:流動性トラップに対する古典的なケインズ流の見方はもちろん、金融政策はある状況では無力だから、唯一の答は財政的にポンプをまわして公共事業することだ、というもの。この論文で検討したフレームワークは、金融政策的にはちょっとちがった示唆を示すものではあるけれど、一方で確かに、財政拡大でもうまくいくかもしれないことは示している。もちろんこのモデルはリカードの中立命題にしばられているので、減税はなんの効果もない。でも、期間 1 で政府が財やサービスを買ったら、それは部分的には民間消費支出が減って相殺されるけれど、でも確かに需要と産出を増やすかもしれない。

 この政策はうまくいくかもしれないけれど、日本にとって正しいものだろうか? 日本はすでに、ものすごい公共事業支出で経済を刺激しようとしたけど、失敗してる。しかも事業のほとんどは、どうしようもなく無駄なものばかり。どうでもいいところにかかる橋や、だれも使わないような空港などなど。確かに、経済は供給に制約されてるんじゃなくて、需要に制約されてるんだから、無駄な支出でもないよりましではある。でも、政府にも予算の制約ってものがある。日本はたぶんこれを口実に使いすぎてるところはあるけど。だいたい、経済の資源を使って、人々が本当に求めているものをつくれないなんて、ホントにほんとなわけ?

「日本がはまった罠  6.ではどうしよう」(山形浩生訳) から引用 http://www.post1.com/home/hiyori13/krugman/japtrapj.html

以下は,1月7日の戯言から引用である(つまり同じことを書かざるを得ないのだ)。

------------------------------->8
『だいたい、経済の資源を使って、人々が本当に求めているものをつくれないなんて、ホントにほんとなわけ?』という疑問。
公共工事が抱える問題点はこの言葉に収斂されるだろうし,公共工事批判への対策もここにあるだろう。

つまり,『建設業の世界ではおよそ競争政策が導入されず,談合が常態化している。こうした社会構造では,景気が悪くなると,国が国債を発行してでも"景気づけ”をするしかない。小渕,森内閣では,百三十兆円もの国債を発行して景気づけをしたが,国家構造が悪いばかりにさっぱり効き目がなく,国と地方の債務残高はなんと六百六十六兆円にもなった。最悪といわれたイタリアを,対GDP比で軽く追い抜いてしまたのだ。』(屋山太郎,『THE21』 2002年1月号,P56)というような批判が国民の間の共通した空気となってしまっているということだ。

私は,小泉改革に対して諸手を挙げて賛同するものではないが,同時に所謂「抵抗勢力」の味方をする気もさらさらない。
かつての栄光の日々を想うことは勝手だが,その復活はありえない。
------------------------------->8

上の「国民の間の共通した空気」を,私は「公共工事ダメダメミーム」とよんでいるわけで,このミーム保持者が有権者の多数を占めている限り,自治体の首長は,従来の配分のルールを主義としていた公共工事のルールを市場原理重視のルールに変更せざるを得ない。つまりそうしないと選挙には勝てないのだからね。

IT化の潮流(つまりIT革命だな)は,その本質として新古典主義,競争原理を指向する。
それは自明の理なわけで,それで私はここで反市場主義的な話を延々としているわけだ。

→地場型中小建設業を市場原理の洗濯機(選択機)に突っ込むのは社会的なコストが大きすぎる。
→それは,地場型中小建設業以降の雇用の受け皿の準備不足故なのだが。

そして,ここにおいて必要なこととは,地場型中小建設業からの主張でしかないだろう。
→自律的な主張でなくては意味がないが。。。

→私は,この時代の建設業界(建設業協会)で最も活躍すべき部署(委員会)は情報化の委員会ではなく広報委員会である,と言い切る。

→だから私は北海道建設業協会の「北をつくる」という広報誌にクレームをつけた。

必要なことは,公共工事の必要性,建設業の有用性を広く国民に理解してもらうことでしかない。
そして「公共工事ダメダメミーム」の根源となっている底の浅い公共の論議をもっと深く掘り下げ,本当の公共性を理解していただくことしかない。

→公共性は市場原理では補いきれない。

当然そこに地場型中小建設業のIT化も必需なものとして存在している。
それについては4月30日に書いた。

ということで,今日はここでお終い。
今日は藤沢へ行ってくる。

2002/05/01 (水)  
【鹿沼から帰る】

鹿沼から帰還。
本日は栃木建協イントラネット事務局対象の(体で覚える)勉強会。

皆様熱心な受講,誠にありがとうございました。

帰りは新鹿沼駅から,東武鉄道,特急スペーシアけごん30号という壮大な名前の電車で帰る。
東武は浅草始点,終点なので,私にとっては,そりゃ便利なわけだわねぇ。

しかし,行きも帰りも車内はがらがらなわけで,大丈夫なのか>東武と心配になる。
そのせいか東武鉄道の社員さんって,いっちゃ悪いが態度に覇気がない。

つまり,だらだらしているのよ。
これは東武ミームか?

それから,電車の待ち合わせ時間に鹿沼市内(といっても東武の駅側)を散策してみたが,なんだか鹿沼ってところは何もないところなのだなぁ。。。と。★\(^^;

目に付くのは,女子高校生と男子校高校生(どちらも似非不良っぽい)。
駅前のタクシーはひたすら暇そうだしね。

なんだかわかんないところであるなぁ>栃木県。



【石の上にも三年ってやつですか】

昨日は郡上白鳥の前田土木さんで勉強会。
皆さん大変にお世話になりました。m(__)m

今日は浅草 10:10 東武急行南会津 273号 新鹿沼 11:42で鹿沼(栃木県)まで行って勉強会。
そして日帰りの予定。

■Win or Mac?(若しくは,私の背中には日の丸の旗がいつも棚引いている)

昔一度書いたことがあるのだけれども,私は一部のMacユーザーがあまり好きではない。
それはMacミームはミームとしては伝播力は弱いにもかかわらず(それ故に?),やたら声がでかいからだ(Winユーザーに比べて)。

つまり,Macミーム(身近にいるMacファンのはなし)っていうのは,Winに対する優位性のはなしに終始するのだけれども,それは私にとってはノイズでしかない。

つまりWinがどうだとかMacがどうだとかいう話ほどつまらないものはない(不毛な議論としか思えない)。

私の主張はWin でも Macでも,どっちでもいいじゃない,である。
そのココロは,どっちも米国製だもの,ということだ。

つまり,日本はこの時代にデファクトスタンダードとなるOSを育てられなかった。
そして90年代,ポスト工業国への転換で米国に先を越された。

その結果が今という時代である。
その事実認識の前では,WinもMacもたいした意味を持たないのは当然ではないか。

枝葉で世界を語るのを聞くのは疲れる。

■Y川氏より

ここまでくると(↓)「ももまにあ」に認定である。(笑)
後で認定証を作ってあげましょう。→「ももまにあ」認定第一号。

「30万HIT!本当におめでとうございます!!」
(お祝いが遅くなってすみません、また「時間差攻撃」と叱られそうですね・・・笑)

最近、私自身少々煮詰まってきている処があって少しばかり悩んでいました。
連休に、少し「基本に立ち返ろう」と戯事をさかのぼってみました。
そして、見つけました。

>建設CALS/ECは「Being Digital」へ対応しようとする政策に過ぎない。

これだ!
すべてはここ(BD)にはじまり、ここ(BD)に収斂されてくるのですよね。
これを押さえてさえいれば、枝葉末節の技術論に迷い込んでも進むべくベクトルにもどれます!
ほかにも道しるべがあるわあるわで!自分の悩み・迷いの霧が随分晴れてきた気がしています。

「桃知の独り言」に始まり、「閑話休題」を経て「店主戯事」へたんなる「タイピングの練習の場」として生まれた「場」がいつしか「建設CALSをかたる上で、書かせないサイト」までのべ30万人のアクセスにより押し上げられてしまいました。

>ネットの可能性を信じていた・・・
ともおっしゃられてもいらっしゃいますが、ここまでの「成長」を予想されていらっしゃいましたか?

これからも、50万、100万アクセスに向けて私たちの「指針となる・タイピング練習」書き続けて下さい。

(↓)はお祝いのおまけです。
桃知さんの正確なログとは若干差異があるかもしれません。
(なにせ、私は「戯言」ベースでひろいましたので・・・)

カウント (日時・ゲッター)
10000_(1998-10-7)
20000_(1999-2-7・埼玉の高橋さん)
30000_(1999-5-11・北野さん)
40000_(1999-7ー30・門倉組・高田さん)
50000_(1999-10-28)
60000_(1999-12-18)
70000_(2000-2-16門倉組・中村さん)
80000_(不明・・・4月くらい?)
90000_(2000-5-24)
100000_(2000-7-7新潟のナカムラさん)
110000_(2000-8-23)
120000_(2000-10-5)
130000_(2000-11-17・松山・菊池さん)
140000_(2000-12-29・松江・森さん)
150000_(2001-2-9・岩槻・高橋さん)
160000_(2001-3-14)
170000_(2001-4-18)
180000_(2001-5-25・長野・久保田さん)
190000_(2001-6-25)
200000_(2001-7-23・北海道・市岡さん)
210000_(2001-8-22・北海道・長谷川さん)
220000_(2001-9-17・北海道・私)
230000_(2001ー10-15)
240000_(2001-11-9)
250000_(2001-12-9)
260000_(2002-1-12)
270000_(2002-2-6・北海道・長谷川さん・私)
280000_(2002-3-4・北海道・勝井さん)
290000_(2002-3-31・北海道・小林さん)
300000_(2002ー4-26・北海道・市岡さん、山口・松久さん、埼玉・鈴木さん)

ふむ、10万までは2〜3月のペースだったのが2000年の10万から一気に倍の1ヶ月ペースに激増してますね。
2000年の夏あたり・・・って何かあったんでしたっけ?
ちょっと調べてみても面白そうですね。

それにしても足かけ、ちょうど4年の30万。
本当におめでとうございます。
そして、これからも「思考の続く限り」・・・
「体のつづく限り」ではありません、念のため(笑)
頑張ってください!!

→最初に10,000アクセスになったときは,とても嬉しかったことを昨日のように思い出せる。

思えば,よくもまあ,ここまでやってきたものだと,我ながら呆れ返る反面,熱心な読者の皆様に支えられて生きている自分を確認する。

→心から感謝している。

それから,確かに私のPC操作スキルは,たいしたことはない。

なので,こうしてここで毎日タイピングの練習をしていたことは事実であって,すなわちITの最初はスポーツと同じなのだ,というのが私が実践をもって得た答えである。

→最近の私の口癖 →体で覚えるイントラネット。

まあ,最近はタイピング練習と言うよりは,「コピー」と「貼り付け」の練習と化しているのは否めない事実ではある。★\(^^;

それから「ネットの可能性を信じていた・・・」ってやつだけれども,まあ,信じていなければこんな阿保な事をするわけもないのは事実だ。

けれども,今の私があるのは,それは単なる偶然に過ぎないのも確かである。
ただ,偶然は偶然に起きるものじゃない,ってことも,この4年間で学んのも確かである。

→良い経営と悪い経営の差は,たかだか環境変化にうまく対応できたか否かの差である。
→そしてその多くはほとんどの場合偶然が支配している。
→しかし,その偶然を自らに引き寄せるのも己のミームだろう。
→私は相互作用を信じる。→環境はたしかに変えることができる(ほんのわずかかもしれないが)。

くだらないが,私の所信を「石尽くし」で書くとこうなる。

『石に枕(まくら)し流れに漱(くちすす)ぎ,石にかじりついても,石に矢が立つ事を信じ,石の上にも三年,石が流れて木の葉が沈む。』

以下,私自身によるどうでもいいような解説。

【石に枕(まくら)し流れに漱(くちすす)ぐ】
山野に隠れ住み、自在な境地を楽しむ。
 
→サラリーマンをやめへんてこりんな商売を始めた私は,

【石にかじりついても】
どんな苦しい事が有っても。

→当然に,最初は食えるわけもないのだけれども。それでも,

【石に矢が立つ】
信念を持ってすれば、出来ないことは無いということのたとえ。

→単なるIT馬鹿であり続け,

【石の上にも三年】
つらい事でも長い間辛抱すれば、むくわれるものだということ。

→タダ黙々と本を読み,思考を積み重ね,同じ事を念仏のように唱えていたら,

【石が流れて木の葉が沈む】
物事が逆になることの たとえ。

→「へん」と「へんじゃない」なんていう価値観は,シーソーのように簡単に移り替わってしまうことと,ミームは確かに存在し,そしてインターネットはミームのプールであるってことを身をもって学んだ。

橋本治曰く。
「へんじゃない」に慣れてしまった人は,「へん」を排除することに慣れて,「へん」の存在を発見することができない。それはつまり,「自分を把握できなくなった」ということなのである。「わかる」も「わからない」も自分の頭からでることなのだから,その根本の自分が見えなくなってしまったら,「わかる」も「わからない」も方法にならない。二十世紀以後の時代に必要なのは,まず自分の「へん」を把握することだと思って,私はこのような余分をつけくわえているのである。

以上,5月の始まりに本当の戯言。

momo
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