ボロメオの結び目:去勢端的にいって、現在の教育システムは、「去勢を否認させる」方向に作用します。
 どういうことでしょうか。まず「去勢」について簡単に説明しておきます。去勢とはご存じのように、ベニスを取り除くことです。精神分析では、この「去勢」が、非常に重要な概念として扱われます。なぜでしょうか。「去勢」は、男女を問わず、すべての人間の成長に関わることだからです。精神分析において「ペニス」は、「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。
 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念」喪失の積み重ねにほかなりません。成長の痛みは去勢の痛みですが、難しいのは、去勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。みずから望んで去勢されることは、できないのです。


 このように「去勢」を理解したうえで、学校がどのような場所であるかを考えてみましょう。そこには、明らかに二面性があります。「平等」「多数決」「個性」が重視される「均質化」の局面と、「内申書」と「偏差値」が重視される「差異化」の局面です。子どもはあらゆる意味で集団として均質化され、その均質性を前提として、差異化がなされます。均質であることを前提とした差異化は、嫉妬やいじめの温床となりますが、それはまた別の話です。さらにまた教育システム全体が、「その中にいれば社会参加が猶予されるもの」あるいは「自己決定を遅らせるためのモラトリアム装置」として作用している点も重要です。学校は、このような保護を与えることとひきかえに、学校独自の価値観を強要してきます。
 まず問題とされるべきは、子どもたちが学校において「誰もが無限の可能性を秘めている」という幻想を強要されることです。これが問題となるのは、すでに去勢の過程を済ませつつある子どもたちにとって、このような幻想が、あたかも「誘惑」として強いられることです。つまりこれが、去勢の否認です。
 ここで私は、かつての日教組に代表される「戦後民主主義」的なものの批判をしようとしているようにみえるかもしれません。ただし、その友うな批判をする前に確認しておくべきことがあります。その上うな教育システムを求めてやまなかったのが、当の私たち自身であったという、やりきれない事実です。

from 斉藤環:社会的ひきこもり:p206~208 図※1は桃知が挿入

社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)

社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)

斉藤 環(著)
1998年12月4日
PHP研究所
660円+税

※注記

  1. 日本語の構造。(縦に書け!) 参照