それは、特に年末は、であるし、ましてや厚みのあるモールスキンダイアリーの場合は特に、である。
年の初めは見開きの右側に、未使用の新しい頁の山ができていて使いにくい。
しかしそこには、新品に手をつける楽しみ(新しい日々の希望)のようなものがあって、まだ嬉しくもある。
ようやく6月頃から使い易くなったかな、と思うと、今度は左側に、使い古し(過ぎ去った日々)の頁の山ができ始め、11月中旬も過ぎるともういけない。
ましてや12月ともなれば、その使い古しの山の大きさは年始のそれではない。手垢に汚れ十分に膨らんでさえいる。
それが私の1年間たっだのか、と思えば、哀しくもあり嬉しくもあり。そして薄く残った残りの手帳の厚みを見れば、哀しくもあり嬉しくもある。
その嬉しさとは、また新しい手帳が下ろせることの嬉しさのようなものか。過去を顧みて喜ぶような心象機能はまだ私には備わっていない。
手帳は、過去の記録であると共に、未来への希望でもある。
まだ白いその頁を見る時、私の過去は、まだこれから記録されるのだよな、と思える。
だから12月の手帳はなにか哀しい。