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2019年03月03日|お知らせ



テレビばかり見てるとバカになるのか?若しくは、犬を飼っている方からは反発食うだろうな、ということ。

桃知どの

おお、すごい原稿。

吉本さん引用の

現在もなんといっていいか検討もつかない「無」なのです。

の検討は、見当の誤植ですか?

午前8時起床。浅草は晴れ。北側の屋根や日の当たらない路地にはまだ雪が残っている。

昨日、二日酔いで回らない脳みそに鞭打って、140Bの江弘毅への返信、[テレビ村という共同体。]を書いた。

さっそく江からメールが飛んできて、編集者らしい鋭い指摘。(^^ゞ

編集者がいるのは本当にありがたいものだなと思いながら、さっそく修正。

以下[テレビ村という共同体。]についての余談。

入りに、大阪府知事選挙をもってきたのは、スピード感が命のブログでは、少々時期を逸した感もあるけれど、まあ年寄りのやることなのでね、許してちょーだい。

内容的には、いまやテレビを中心にあたしたちの共同体性は担保されている、というところから、テレビのもつ環境管理型権力→マクドナルド化→贈与の時間軸の衰退→私有の問題まで持ち込もうとしたのだけれども、返信感が鈍っているというか、脳みそが錆びついているというか、自分で書いていてなんだかわかんなくなってしまった。

それをあたしの気持ちわるいものである、「母親の子宮にぶら下がったままの子供」を押し出して乗り切ろうとしたのはよしとしても、その比喩に《ペットとしての犬が幾つになっても子供の機能代替物であるようにです》と書いてしまった。

それだけでも、犬を飼っている方からは反発食うだろうなとは思う。しかしあたしの疑問は本当はもっと深くて(つまりこれは書かなかったのだが)私有物としての子供に相手にされないから犬を機能代替的にその対象としている。

若しくは、犬の機能代替として子供をその対象としている、といったら大顰蹙なんだろうな。(といいつつ書いてしまっているけれども)。

それを気持ち悪いと思うのは、お前の感性が捻じ曲がっているからだ、という指摘はたぶんごもっともだし、であれば、もっと悪口書いておきゃよかったかなとも思うのだけれども、あたしは犬が嫌いなわけではないし、犬を飼っている人の気持ちもわかんないことはない。

じいさんとばあさんのボケ防止に犬は利くし、生活習慣病対策にも犬との散歩は効果的だろうし、そんな効率的なことなど持ち出さなくとも、犬との生活は幸せなんだろうな、と思ったら、余計なんだかわからなくなってしまった。

このあたりはもっと冷静に考えてみる必要があるな。

ということで、[テレビ村という共同体。]です。

Tags: 140B

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年02月04日 10:58: Newer : Older

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テレビばかり見てるとバカになるのか?若しくは、犬を飼っている方からは反発食うだろうな、ということ。 from モモログ

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コメント

はじめまして。
いつもモモログや江さんとの往復書簡等楽しく拝見させてもらってます。

さて、今回の記事に対して、もと犬を飼っていた人間として、案の定反発というか、違和感を感じたのでコメントさせていただきます。

まず断っておきますが私は犬に限らず、動物全般が好きで特に犬だけを贔屓にしているわけはございません。よく世間には、
犬より猫だとか、猫より犬だとかいうつまらない論争がありますが、私は犬も猫も同時に飼っていた経験があり、特に犬にひっかかたわけではない事をまずご理解ください。

今回の記事と先日の往復書簡の記事におけるペットとして飼われている犬についての記事を読み、まず率直に『あぁ、桃知さんは犬に限らず、ペットを飼ったことがないのだなぁ』と思いました。

桃知さんと同じくペットをなにかの代替物として捉える見方をされるかたというのはペットを飼ったことのない人の典型的な発言として実際によく耳にし、またよく本にも書かれたりしています。実際に桃知さんがぺットを飼ったこがあるかどうかは分かりませんが経験的に言ってこの手の発言をされる方にペットを飼ったことのない方は多いと感じています。

で私の申したい事は、まず以前犬を飼っていた私自身に即して言えば、犬を何かの代替物として飼ったことも捉えた事もありません。私は物心付いたときにはすでに犬がいました。(猫もいた。)ですのでボケ防止だの生活習慣病だの子供の代替物だのといった何かの機能を求めて飼っていたわけでは当然のごとくありません。だって気づいたときにはもすでにそこに存在していたわけですから。

では私の両親がなにがしかの機能を求めて、例えば子供の教育によいからという理由で飼ったのかというとこれまた真実ではありません。というのは私の親も(両親とも)生まれたときから家に犬がいるという家庭に育ってきているからです。ですから
なにかのために飼った(買った)ということはまずありません。ちなみに繁殖させたので市場で買い求めた経験はありません。

ですから、私のように物心ついたといにはすでに犬がいて、犬とともに大きくなった人間からすれば、桃知さんのような考えかたをする人をみると驚倒してしまうわけです。えぇ、そんな考え方する人いるの?と。

今、犬とともに大きくなったと書きましたが、このように書くとまるで兄弟の代替物として機能しているじゃないかと捉えられるかもしれません。そういわれれば確かにそうかもしれません。いっしょに暮らす以上、あいてが生き物である以上、なにがしかの機能をになうということは当然あります。だから兄弟のように機能したのは真実でしょう。(実際の人間の兄弟もいましたが。)ですが、何がしかの機能を担うという意味では人間も同じじゃないでしょうか。
家族といううものが共同体である以上、つまり社会の最小単位である以上機能が発生するのはしかたがないと思います。逆に考えるならば家族としての機能を満たすために、その人員を補充するといいのは人間の世界でもよくあることで、わたしは別にそのことが色々ともんだいがあるにせよ別段悪い事だとは思いません。
例えば父をなくした母子家庭において母が暮らし向きや子供の教育費の事などを考え、新たに父となってくれる人を探す。ということはよくあるし、その母の気持ちもよくわかります。その母はまずは機能を求めたに違いありません。
ほかにも農家の夫婦が、「働き手が足りないからもう一人子供を作るか」と決心したとしても、私はそれをとがめる気はありません。
家族、家庭、家というものを維持する、つまりは生きていくためには、それを維持するに必要な機能の担い手が必要なものだろうと思うのです。
ですから、高齢者が子供の代替物として飼おうが、ボケ防止のために飼おうがそれを責めるきにはなりません。

ここまでを整理すると、まず1、なぜ動物の場合だけ代替物として機能を求めることが咎められなければならないのか?人間もおなじだろうと

2、なぜそれが犬なのか?ペットは犬のほかに猫もウサギも亀も鳥もイグアナも蛇もいる。私の知り合いは昆虫をペットのようにかっている。ペット一般ではなく犬なのか?蛇や昆虫の場合どうなのか?

3、私のように物心ついたときにはもうすでに犬がいたという人間のばあいどいなるのか?

で次に言いたい事は、ペットを飼っていても幸せな状態がずっと持続るわけではないということです。だからといって不幸せな状態が続くわけでもない。もちろん楽しい事も多いけど、
楽しくない事もある。私なんかはとくに当時、犬かってなけりゃもっと旅行にいけるのになぁとか。散歩めんどくせぇなぁ。
とかよく思ってました。
こういう思いはペットをかわれたことのある方はよく分かると思う。なにもペットは機械のように一方的に奉仕してくれるわけではない。人間だけの一方的な思惑、この場合機能を期待するということ、が通用するわけではない。
つまり、愛憎があり、
そしてこれは人間の場合と同じ事だと思うのです。

犬を飼う動機として代替物としての機能を求めたとしても、
決してその飼い主の思ったとうりにはいかない。
機能は発揮するだろうけれども、けっして機械のようにスッキリした関係性にはならない。
よって当初は所有物のように感じていたとしても、かならずといていいほどすぐ覆されてしまう。
だから実際飼っている人の意識としては所有物という感覚はきわめて薄いとおもわれます。

司馬遼太郎のあの記述はその前後の文章をよんでいないのでなんともいえませんが、私は犬を所有物だとおっもたことは決してない。もちろん人間を所有物だと思ったこともありません。

ペットを捨てる人、捨てた人というのは桃知さんのいううように一方的な所有物の感覚で、なにがしかの機能のみを求めた人なのでしょう。そしてそういう人が多いのは事実です。年間何十万引きの犬猫が捨てられている現状はその証左だと思われます。しかし現在犬を結構長く飼っている人は所有物であるといい感覚は薄いだろうと思います。代替物として飼ったとしても
時間がたつにつれてその気持ちが薄くなっているはずです。

整理すると、4、代替物として飼い始める人は多いと思われるし、現に捨て犬が多い事からもそれは確かだと思われるが、長く飼っている人にはあてはまらないのではないか?
それにそもそもそういうつもりで飼い始めないひとにはあてはまらないのではないか?犬を飼っている人イコール機能を求めている人とするのは無茶ではないか?

以上です。なにかコメントくだされば幸いです。
乱文お許しください。
これからもご活躍きたいしています。
それと新著楽しみにしています。

草々。

投稿者 コーギー : 2008年02月04日 19:16

私が送ったさきほどのコメントですが、誤字脱字がとても多く、読みづらいと思いますが、どうかご容赦ください。

それとなんだか挑戦的な文体になっていてすみません。

(私は本来論争が好きではありません。)

気を悪くなさらないでください。

投稿者 コーギー : 2008年02月04日 19:35

>コーギーさん

参考になるコメントありがとうございます。

先日、犬を二匹飼っておられる方と、お話をしたのですが、彼は、犬は究極の弱者だといっておりました。(あくまでもその方の意見です)。

その真意はよくわかりませんが、弱者だというのは、人格をみとめている、ということだと理解しましたし、「弱者」である飼い犬の世話をしている自分を感じることに、なにか充実感のようなものを感じているのだろうな、と感じました。(その方にはお子さんがおられません)。

今回の発想はそこから大きなインスピレーションを受けているのはたしかですが、私は犬に対しては、人格を認めている人です。

それは精神分析医の故・小此木啓吾さんの言い方であれば、「2の関係」つまり「近景」としてです。ですから犬は家族同様の扱いでよいのであって、私はそこには違和感はありません。(小此木先生もペットは2だといっていました)。

なぜなら犬は「笑う」からです。
表情を持ちます。
表情を持つがゆえに、飼い主を煩わせます。しかしそのとこによって、2の関係が成立しているのだと思うのです。(これは私の勝手な見解です)。

それはたぶん、古代からの、犬と人間の相互依存的な関係から、犬はそういうふうに進化してきたためなのだと思います。

つまり、犬は人間に好かれるように進化してきた動物だといえるかと思います。なので犬は表情をもつことができるようになったのもしれません。

そんな犬たちも、かつては猟犬とか牧童犬とか番犬とかの機能を持たされた、労働主体としての身近な(家族同様の)存在だったと思いますが、いまの犬たちの機能は私にはわかりかねています。(なので精神分析的に考えていたりするわけです)。

機能はない、としても、人間が機能を求めずに、何かを飼育する、ということが、はたして可能なのかどうか。それは私にはわかりません。(子供や孫の場合は、遺伝子のヴィークル、ミームのヴィークルとしての機能を持ちますので、最優先に育てるのは生物学的なものでしょう)。

ただ、時代とともに、人気のある犬は変わっていくように、時代とともに、ペットとしての犬の機能も変わっていくように私は感じています。それはその時代時代の人間の社会のありようを反映しているようにも思えます。

浅草寺の裏庭へいくと、そこは犬同士の集会場となっています。そこにいる犬たちをみていて私が感心するのは、なによりも、いまの犬同士は喧嘩しないんだな、ということです。

それは、喧嘩しない、温和な性質の遺伝子が優先的に残されてきた、ということなんだと思いますが、その遺伝子を嗜好し選別したのは、ほかならぬ人間なんだと思います。そしてそれがいまの犬の置かれている立場だと感じています。

私は犬が嫌いではありません。動物も嫌いではありません。私もペットを飼ったことはあます。それはアロワナと猫で、ご指摘のとおり犬は飼っていません。

だからそんな冷たいことが言えるのだ、といわれるのはごもともなことなのですが、私の興味の対象は、ペットを飼うことではなく、ペットを飼うことの時代的な意味でしかありません。

余談ですが、私のペットだったアロワナも猫も、いってみれば「笑わないモノ」です。たぶんそれは、1.5の関係(近景と遠景の間)に限りなく近いもので、犬に比べれば、飼い主を煩わせる量は少ないと思います。

いってみれば、より現代的なペットなのかもしれませんね。昨今のペットの多様性は、よりより笑わないものへの向かっているように思うのですが、それも時代を反映しているように思えます。(それがなにかはわかりませんが)。

ということで、つたない返信になってしまいますが、私が犬について語れるのはこのぐらいです。すみません。

今後とも、ご愛読、宜しくお願いいたします。

投稿者 momo : 2008年02月04日 22:03

もう少し補足させていただきます。


例えば、
冬の寒い雨の降るある日、桃知さんが道を歩いているとします。桃知さんは公園にさしかかりました。するとどこからか「クーン。」という子犬の声が聞こえてきます。桃知さんはふと足を止めました。まさかと思います。聞き間違いじゃないかと思いました。するとまた「クーン。」という声がきこえてきます。
桃知さんは雨に霞む公園を覗き見ました。すると公園の中央にダンボールらしきものが見えます。うそだろ?と桃知さんは感じながらそのダンボールに近づいていきました。
するとどうでしょう、雨と寒さに震えかなり衰弱した子犬がいるではありませんか。桃知さんは周囲をみわたします。あたりには人気がありません。このまま放置しておけばこの子犬は衰弱死するだろう。桃知さんは直感的にそう思いました。
桃知さんは別に犬がきらいではありません。だからといって飼いたいとも思いません。しかしこのまま見捨てることもできません。しかたなしに、家へつれて帰ることにしました。誰か飼い主を見つけるまで家であずかるしかないかとはらをくくったのです。
それから桃知さんと子犬の共同生活がはじまりました。桃知さんは犬を飼うのは初めてでしたが、献身的な世話のおかげで子犬はすっかり元気になりました。そして子犬は桃知さんのことをまるで親のように慕っています。
しかしなかなか飼い主のなり手がみつかりません。
桃知さんは弱りました。だけど捨てる事はできません。もう大分愛着や愛情がうまれています。それはなによりかわいいからです。しかし桃知さんはまだ飼うつもりはありません。
桃知さんは、捨て犬をひきとりそして飼い主をさがす仕事している施設を訪れました。専門のひとたちにさがしてもろうと思ったのです。しかしいざ子犬をわたす段になると手が動きません。自分の目で飼い主になってくれる確かな人を探さないとまたこの子が捨てられてしまうかもしれない。
…そして二年の月日が流れました。まだ飼い主が見つかりません。あいかわらず近所の人や友人には、飼い主を探している間オレが預かっているんだと言っています。しかしほんとうに飼い主が現れて欲しいかというと自分でもよく分かりません。犬を飼う事、それは面倒といえば面倒です。しかしこのうえなく愛着をかんじているのもまた事実です。
子犬は元気いっぱい。捨てられていたのが嘘のよう。桃知さんに拾われて幸せそうです。
そう、この街にはまだまだ収容力があったのです。

ある日桃知さんは犬を公園でにつれていきました。
公園のベンチには二人の人がいてなにやら話しをしています。
桃知さんはベンチの前をとうりすぎようとしました。
すると、そのうちのひとりが「爺さんが犬を子供の代替物として飼っているってのは気持ち悪いよなぁ」と突然いい放ちました。
さて、ここで問題です。このとき桃知さんはどうおもったでしょう?
A、そんな考えかたをするひとがあるのかと驚倒した。
B、別に子供の代替物として飼っているわけじゃねーよ。
たまたまの成り行きさ。人生ってのは複雑なもんさ。

つまりはこういうことです。物語にしたほうがうまくつたわるかと。ちなみに私の場合ははじめはAです。そしてじょじょにBです。
わたしが言いたいのは人が犬をかってたからって、かならずしもなにかの代替物として飼っているわけではないと。たとえそれが老人であろうと。

私は桃知さんのような包容力のある人が住む収容力のある街がすきです。

投稿者 コーギー : 2008年02月04日 22:52

私が追加コメントを書いているあいだ、返信をいただいていたみたいで。いまから拝読させていただきます。
それといまそうしんした追加コメントもなんだか嫌味なかんじが漂っています。桃知さんを物語りに登場させたりして、しかも爺と呼ばせてしまいました。
ちょっとやりすぎた感があり、謝罪します。
これからはもっとよく考えてからコメントしたいとおもいます。これからもよろしくお願いします。

投稿者 コーギー : 2008年02月04日 23:00

先ほどいただいたコメントの感想です。

桃知さんの問題意識のようなものがつかめたきがしました。

確かに、ペットはより笑わないものに向かっているのかもしれないですね。

私もペットを飼う事の時代的な意味については気になります。
そしてペットを含め動物と人間の関係性の変遷に興味があります。

アロワナと猫をかわれていたのですね。
なんだか私は桃知さんのことを冷たい人間のようにしたてて筆をすすめていたきらいがありますが、全然そうは思っていないので。物語で私がしてしまったように桃知さんはきっと、路地裏とかで捨て犬とか捨て猫をみるとほっとけない人なんだろうなと想像しています。なにぶん唐突にかんじたものでつい…でもその問題意識のようなものがつかめたのでなっとくしました。

私も一方的な思い込みのもとに動物を飼う事は、あまり幸福な結果にむすびつくとは思いません。
高齢者が寂しいからという理由のみでペットを買おうとするのを見ると、私も、あんたが死んだらそのあと誰が面倒みるのよ?とつい言ってしまうとおもいます。
この意味では私も桃知さんともそんなにずれはないと思っています。

あまりうまく書けませんが、コメントありがとうございました。またよろしくお願いします。


投稿者 コーギー : 2008年02月05日 00:08

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