増補 浮上せよと活字は言う

橋本治(著)
2002年6月10日
平凡社
900円+税


 日本人の多くは、既に"自分"というものを持っている。ということは、日本人の多くは、既に"孤独"というものの恐ろしさを知っているということだ。「近代人の孤独」という、土着の日本人には決して理解されなかった――それ故にこそそれを知る「近代人」はますます孤独を深めた。その抽象的な"孤独"というものを、恐らくは、今やほとんどの日本人が知っているのではないか。

 だから、日本人は話をする。「対話」が可能になった。人と話をする――それは、自分の中にある"自分"という抽象的なものと、他人の中にもある"その人にとっての自分"というものとの一致を図ることだということが、いつの間にか、日本人には理解されるようになってしまったからだ。ムラ社会が崩壊して、そして都市的な「豊かさ」が浸透して行くに従って、日本人は、自分の所属するムラの"外"にいる人間と、コミュニケーションを図ろうとするようになった。そうなってしかし、それは密室的な"血縁関係"に留まっているだけだ。何故かといえば、日本人の多くは、ますます孤独で、言いようのない寂しさと頼りなさを感じ続けているからだ。

 それは、一向に形にならない。だからそれは漂って、"寂しい"という感情だけが増幅されて行く。「もう少し、ここに"何か"があれば自分はなんとかなるのだが......」ということだけは感じて、その"何か"がなんなのかは、よく分からない。欠けている"何か"とは、「それがシステムになっていない」という認識である。「それを、システムの前提にしてもよい筈だ」という、思い切りである。「"家"でもない、"風土"でもない、"生活"でもない、そしてあるいは、"家族"でもない。存在するものはただ"自分"という孤独である」ということを認識してしまった日本人はゴマンといて、それを「そうなのだ」とすくい上げるシステムがまったくない。だから人はそれを"近しい人間"に話す。そこに留まって、全体を停滞の中に放置している。強くなった分だけ、日本人はその"強さ"の処理が出来なくて、「強くなった自分=既に前提の違ってしまった自分」をもてあまして、孤独の中に留まっている。

from 橋下治:『増補 浮上せよと活字は言う』:p175-177