街的ということバッキー氏が言い、彼自身がそうであるように、街の先輩はいつでも正しいわけではない。酔っぱらったらカウンターで寝て店に迷惑をかけることもあるし、その場になじめずに大声で説教を垂れて一緒にいると恥ずかしい時もある。でも、その「恥ずかしいを教えてくれた」と思う先輩がいる限り、街は先輩で溢れかえる。先輩が多い街には後輩も多い。そういう街は、立ち小便が多くても、実は健全だ。 from 江弘毅:「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ (講談社現代新書):p212


珍しくあたしの解説

金融資本主義が日本の大人をダメにした。|140B劇場-浅草・岸和田往復書簡 や 首相が一晩で何万円もするような店で飲むのは庶民感覚とかけ離れているのか。で書いた、「どうしてあたしは大人になれないだろうか」という自問は、結局、江弘毅の『「街的」ということ』の最終章「街の先輩」―街で大人として生きる。に収斂してしまうのかもしれないなと思った。なのでここも引用しておこう。

街で大人として生きる。

街場で過ごす人間は、その街で大人として生きる「仕方」を先輩から教えられる。
しかし、どういうわけかこのところ「街には"先輩"がいなくなった」という声を聞くことが多い。
酒場というのは大人しか行ってはいけない店の代表である。酒場に行き始め、お酒を飲み出した若い頃というのは、どこで何を飲んでいいのかわからずに途方に暮れるものだが、「誰かの真似」をすることによってわかることがたくさんある。
酒場のカウンターで隣に居合わせた人の真似をして、ああギムレットはこういう酒なんだ、こんな味なんだ、こういう時に頼む酒なのか……というふうに、ヒントをもらって実践して覚える。
鮨屋でなら、握りは出されたらサッと食べるとか、こういう順番で食べるとおいしいというように、その店その現場でのさまざまなやり方が、真似をすることによってわかってくる。
けれども本当は「誰かから習う」という仕方が一番近道だし、それしか街で学ぶ方法はない。その誰かにあたる人が街の先輩だ。(p204-205)

街的ということ

「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ (講談社現代新書)

江 弘毅(著)

2006年8月20日
講談社
720円+税