人間が「同じ」わけがない。歳をとり、ついには死ぬ。どこが「同じ私」か。諸行無常と古人がいったとおりなのである。いつまで経っても同じなのは、情報なんですよ。でも人間は情報じゃない。それを取り違えたから、言葉が重いような、重くないような、変なことになったのである。変わらないのは私、情報は日替わりだ。などと思ってしまう。とんでもない、百年経っても、今日の新聞はそのままですよ。
from 養老孟司:『読まない力 (PHP新書) 』:p8
読まない力 (PHP新書) 養老孟司(著) 2009年3月2日 PHP研究所 680円+税 |
以下桃知の戯言
IT化、情報化なんてことを生業にしていると、「でも人間は情報じゃない。」ということをつい忘れてしまう。人間は情報だというのは、人間は消費者であり「みんな」であるという仮定であって、それは密画的な科学と「交換の原理」の都合である。しかしそれは、行き過ぎれば「街的」をいい、「私」と「われわれ」をいい、普遍経済学をいうあたしの心象に反することになる。
だからあたしは「情報は変わらない。変化するのはシステムである」という※1。というかそういうことを、反復するように考えていないと、ITという情報の機器を共同体性のために遣うという、あたしのIT化がダメになる。
人間が情報じゃないことについて、養老さんはこうもいっている。
言葉は意識の産物である。現代は意識優先、つまり脳化社会で、だかあ情報化社会になる。人生は「意識のみ」になってsまった。
(中略)
人間は意識じゃない。意識がない時間は、人生の三分の一を超えるはずである。意識は人間の一部に過ぎない。でもそれがすべてだという社会をわれわれは懸命に作ってきた。それを情報化社会という。
意識は情報しか扱えない。意識は言葉なら扱える。それだけのことである。(p6~7)