大三の天とじそば


大三の天とじそば

昔書いたブログを読み返していた。「大三」のあった「千束通り商店街」がやけに懐かしくなった。まだ今よりもずいぶんと若い頃のテクストが懐かしい。「無限小」、そう街全体が「無限小」に包まれていたギリギリの時代だった。

大三は特別な蕎麦屋ではないが、その更科そばはうまい。ただ、つくっているのも年寄りなら、客も年寄りという、典型的な千束通り商店街の店であり、5年後はどなっているのかは甚だ不安ではある。勿論「ミシュラン東京」とは無縁である。

じつは(あたしは)蕎麦屋というものが無い環境で育った。では、子供の頃、蕎麦を知らずに育ったのか、といえばそんなことはなく、ソバぐらい食べたことはある。

ただそのソバは、蕎麦屋の蕎麦ではなく、ラーメンもカツ丼もカレーライスもオムライスもなんでもある大衆食堂のソバで(茹で麺)、あたしが蕎麦を主として商う蕎麦屋というものを知ったのは、ずっと後になってからのことだ。

そんな蕎麦屋後進国からやってきたあたしの目には、ただ黙々と普通の蕎麦屋でありつづけてきたのであろう大三の店内は、気負い無き蕎麦屋の無限小とでもいうものが飛びまくっている。

それはもはや(浅草新参者のあたしの)普通(日常の空間)ではなく、その異質な空間にただ翻弄させられる。しかし大三はそんなことを客に要求しているわけもなく、ただ坦々と蕎麦を出す。

そんな大三の天とじは、小ぶりなどんぶりに入った卵とじした蕎麦の上に、普通の海老天が一匹乗っている、という、この店ならの力の抜けた姿だ。それはまさに年寄り向けなのだろうが、その姿形がまたなんともいえない。

あたしは、そのあまりの凡庸さに平伏したくなってしまうのだが、平伏す前に全部食べ終えてしまう。その味覚は、「街は店に宿る」が如く「味覚に街は宿る」といっていいだろう(それを無限小を纏うという)。

そして、こういう店が存在している、という同時代性に、ぎりぎり間に合ったことが、あたしは素直に嬉しいのだな、と思う。例えばそれは、現役時代の長嶋茂雄と同じ時代を生きたぐらいに、幸せなことなのだよなと思うのだ。
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品書き