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2019年03月03日|お知らせ
『サウスバウンド(下)』 奥田英朗を読む。
午前7時20分起床。浅草はくもり。
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奥田英朗(著) |
〈大衆文学/純文学〉
最近は大衆文学ばかり読んでいる。専門書が読めない状況が1ヶ月程続いている。
脳みそが象徴ではなく想像界を求めているのだろうな、と思う。
「大衆文学」と言うのもなにか時代がかった言い方だが、これは私の中では忘れられない言葉なのだ。
中学生の頃、授業の中で、今読んでいる本を紹介する時間があった。
当時私は(なぜか)家にあった山岡荘八の徳川家康を読んでいたりしたので、「徳川家康を読んでいます」と言ったら、担当教師(たぶん国語の先生か)が、「ああ大衆文学ね」と何処か蔑んだ言い方をしたわけだ。
私はその頃、純文学と大衆文学の区別などつくわけもなく、「大衆文学って、文学には区別があるのですか」と先生にたずねた。
そしたら、「純文学というのがある」と教えられたわけだ。
その違いは何ですか、という不躾な餓鬼の質問に、その先生はこう答えた。
「大衆文学は、説明が多い分、字数も多いのだよ」、と。
例えば純文学が50頁で表現するするところを、大衆文学は2割増の60頁かけて説明(表現ではない)するのだ、と。
それが正しい区分の仕方なのかどうかは(私は)知らない。
しかしその時から、私の中ではその区分がまかり通っているのである。
もしそれが間違っているとしたら、中学のときのその先生の故(せい)であるので、そっちに文句を言ってくれ、と。(たぶん既に亡くなっているはずだが)。
そして私の理解は、50枚なら理解は難しいのだろし、2割増なら読むのが面倒なのだろうし、どっちにしろ文学って大変なのね、なのであって、私は好き好んで文学(小説)を読まない人になったわけだ。
サウスバウンド(下)
そんな私が最近一番面白く読んだ「大衆文学」が奥田英朗の『サウスバウンド(下)』なのである。
これは文庫本であり、上下巻を(移動の時間の暇つぶしの為に)岩見沢駅のキヨスクで買った。
はっきり言って上巻(東京編)は期待はずれであった。
大衆文学の2割増が冗長に思えた。それはまるで、喋りすぎ(説明過多)の落語のようにだ。
しかし上巻に比べれば半分程の厚さしかない下巻(西表島編)になったら、途端に奥田英朗は蘇生した。
奥田作品は、例えば、精神科医伊良部一郎のような、現実にいそうでいない特異なキャラクターが、現実にいたらこうなる、というありそうでありえない、〈非日常性/日常性〉すれすれの想像界こそが脳みそに快感を与えている(のだと思う)。
不思議な人物がいないことには奥田英朗は始まらない。
今回の特異キャラは元過激派の父だ。
それは精神科医がありふれた存在のように、ありふれた存在だろう。(団塊の世代の皆さんもそうだろうし、私の世代もそういう奴は多かったりする)。
しかし小説中の「一郎」父さんのようなキャラは、精神科医の伊良部一郎同様、現実の世界にはいないのである。
しかしいないものが、沖縄に居たらこうなる、と思った途端、「一郎」は妙なリアリティを持ち、スピード感あふれて動き出す。
ここでは説教くさいものはどうでもよいのである。(家族とか……)
この妙なリアリティとスピード感、それが楽しめれば脳みそはうれしい。それはよく出来た落語のようにだ――イリュージョン、若しくは緊張と緩和。
想像界でここまで楽しめれば、勿論、映画は見ない。(笑)
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: 2007年10月13日 08:24: Newer
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