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2019年03月03日|お知らせ
『樋口一葉「いやだ!と云ふ」』 田中優子を読む。
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田中優子(著) |
午前6時50分起床。浅草はくもりから雨へ。よい天気は続かないものだ。「ああ、嫌だ、嫌だ」とあたしも云いたい。
あたしは、段落のない、うねうねと続く文語調のテクストが読めるひとで、幸田露伴も樋口一葉も現代語訳なしで読める。しかし樋口一葉は女流ということもあってか、なにが面白いのか長い間わからなかった。
しかしそれが最近、面白いと思えたりしている。先日の岩見沢での酒宴で、「あたしは樋口一葉が好きだ」とのたまってしまった。
その理由は(たぶん)二つあって、ひとつは、あたしが裏浅草に住んでしまったことだ。
たとえば『たけくらべ』は、「吉原」とその廓の界隈(つまり裏浅草)に生きる人々の描写に溢れているのだが、それがなにか地勢的なリアリティを伴って、あたしのなかに入ってくるのだ。
明治の頃よりはよくなったには違いないが(逆に吉原は衰退したけれど)、下町に住む生活感というのは、樋口一葉の時代を引きずっているものはかくじつにあって、それをあたしはいま、全身で受け止めることができる。
あたしが、芸事に、そして路地のある生活にこころ惹かれていることも、それは一朝一夕のことではなく、地面が覚えている記憶、とでもいうようなモノからの誘い――その無限小が、あたしの中に眠っていた、DNA的な、そういう時代の記憶のスイッチをONにした――なだろうなと思うのだ。(つまり、波長があってしまった、ということだろう)。
そしてもうひとつは、田中優子さんの『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』を読んだおかげである。簡単にいってしまえば、この本は、あたしの教養のなさを見事に指摘し、そしてそれを補足してくれたのだ。
『たけくらべ』は、古典の教養がないと、なにが面白のかがわからない、ということがわかった。たとえばその題名が『伊勢物語』の『丈比べ』からきているなんて、あたしの教養にあるはずもない。
ましてや、この物語には、美登利が、真如に、梅の枝を折ってくれ、と頼む場面がでてくるのだが、男性が、枝を折って、女性にそれを渡す意味なんぞ、『源氏物語』を熟読していなけりゃ、わからないものなのだ。『たけくらべ』は、そういう古典の教養をベースにしないと読みきれないものが沢山でてくる。
あたしは齢五十にしてそれを知ったのだけれど、それは遅すぎるのかもしれないが、こういう発見に遅すぎるということはないのだろう。知らないままで一生を終えずに、ほんとうによかったな、と思っている。
そして同じ日本語で書かれたものなのに、なぜにあたしはそれを今まで知らなかったのだろう、と思うと、高度経済成長期に生まれ育ったあたしたちが、失ってきたものの本質がわかるような気がする。
そしてもう一つある(これも田中優子さんの本のおかげなのだが)。
「いやだ!」である。これは「厭だ!」だ。樋口一葉の作品には、たしかに「いやだ!」がでてくる。その突拍子のなさ、といったらべらぼうなものだ。
が、その「いやだ」がいい。自分の周りでいろんなことが起こる。あれもこれもと沢山のことが自分に押し寄せてくる。それに耐え切れなくなると、一葉作品の登場人物(つまりそれは樋口一葉自身だろう)は「厭だ!」と叫ぶのだ。
しかしそれは逃げでも我慢でもなく、「いやだ!」と叫んで次へ行く。あたしゃこれには完全にまいっていたりしている。
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にごりえ・たけくらべ (新潮文庫) |
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: 2008年02月12日 17:30: Newer
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『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』 from 右近の日々是好日。 (2008年03月11日 18:47) こんばんは。今日は、T氏の『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』(集英社新書、2004年)を読んで、私が考えたことを書きたいと思います。 私は、この本を読ん... ...