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2006年12月18日(月) Tweet
ちび太おでんで一杯やるということ。(浅草寺羽子板市にて)
午前6時40分起床。浅草は晴れ。
昨日は、町内会の餅つきの後、羽子板市の様子をうかがいに、浅草寺へでた。
――本当は、餅だけでは足りず、ちょっと腹を満たしたくて、境内に出ている屋台に向かったのだが……(笑)。
羽子板市は、かなりの人出であって、歩くのも大変であった。
浅草寺の子宮的構造の持つ、人を呼び寄せる力は、あいかわらずなのである。
羽子板市というイベントも、それは別に奇をてらったものではない。
むしろ古臭い因習のようなものだろう。
だからこそ、今という時代に非日常性を発揮させ、際立った存在足りえている。
それを多くの人々は楽しいと感じている――だからこそ人が集まる。
つまり、人が集まるということに関しては、別にそれが目新しいものである必要はない。
古臭いものが、すべての価値を失うことはないのである。
私といえば、羽子板に心奪われることもなく、さっさと、つくりもそまつな休息所付きの店に陣取った。(笑)
店の内側から、人の往来を観察するのが私は好きだ。
人ごみの中、そこからちょっと遮断されたシェルター的なモノの中にいるという安心感(アジール性)は、それもまた子宮的というか、潜水艦的というか、ひきこもり的な、私の心性に心地よい。
この店で食べたものは、広島風お好み焼き、けんちんうどん、おでん。それで缶ビールを飲んだ。
外で飲む酒はなぜかうまい。
ちび太おでんのこのかたち――△○□のシルエットは、私たち世代にはたまらないものがある。
ちび太とは、赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』にでてくるキャラクターで、彼がトレードマークのように持っているおでんのシルエットがこれなのだ。
このシルエットは、日本の高度経済成長期の記憶である、と(私は)思っている。
なによりも『おそ松くん』は、その時代の作品であり、そしてちび太の存在がそういうなのである。
ちび太は(たぶん)孤児であって、土管に住んでいたと思う。
しかし他の登場人物の誰よりもたくましい生活力をもち、いろんなことをしては小金を稼ぎ、せっせとおでんを食べていた。
それは、高度経済成長期(三丁目の夕日的)時代の、日本人のありようだったように思う。
ちび太は、今でいえばホームレスである。しかし貧しくてもいつも希望を失わない生き方をしていた。
今思えば、ちび太とは、その時代の気分の投影だったのだろう。
そして私は、そんなちび太おでんのような、ちょっと前の近代の象徴――三丁目の夕日的なものにノスタルジーを感じるし、千数百年も続く浅草寺の無の構造(深淵)、つまり近代以前に心奪われてもいる。
そして現実の私は、一応ITの専門家(生業にしている者)であり、この(東浩紀のいう意味での)ポストモダンの住人でもある。
こういう一見めちゃくちゃな、節操のない時代性を受容してしまうモノが、私の内にはたしかにある。
それは、この国の近代化のプロセスが、古層を完全には覆い隠せずに、古いモノが必ずしも埋もれてしまっていないことでもあるだろう。
これを私は「否定的受容」として理解している。
そこからしか生まれえない雑種(ハイブリッド)性こそが、わたしたちの強み足りえるモノなのだと(私は)思う。
投稿者 momo : 2006年12月18日 07:49 : Newer : Older
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