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2019年03月03日|お知らせ



『「世界征服」は可能か?』 岡田斗司夫 を読む。

 「世界征服」じゃ可能か?

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書 61)

岡田斗司夫(著)
2007年6月10日
筑摩書房
760円+税

欲望としての世界征服

午前7時10分起床。浅草はくもり。私と同い歳である岡田斗司夫は(子供の頃)「世界制覇」を夢見ていたらしい。それはTVアニメやマンガや特撮モノに刺激を受けてのことらしく、同じような環境で育った私も、かつては「世界征服」を夢見ていたのかもしれない(が、そんなことは覚えていない)。

今のあたしにとって「世界」とは、他ならぬ「私自身」のことでしかなく、「世界征服」といえば、「私自身の征服」でしかありえない。

この歳になると〈他者〉を支配して得られるモノなど興味もないのだが――それは若い頃は大いにあった――、しかし(その欲望の対象である)「私自身」がなんだかよくわからない。そのことで、それは到達不可能な「欲望」(語り得ぬ欲望)ではある。が、その征服欲はたしかに(あたしには)あって、つまり(あたしも)「世界征服」を目指している、といえば、いえないこともない。

〈他者〉に対する欲望が、いつの間にか自分自身に向いてしまったのは、なんなのだろうか、とは思う今日この頃なのだが、〈他者〉=欲望の対象は〈私〉の中にある、ということが身に沁みてきたのだろね、というような陳腐な言い方で、一応逃げてみる。w

こんなはなしは、オタク的「世界征服」に比べれば、夢のないことだろ。けれど、「欲望」をあきらめないことでは、同じことなのかもしれないな、と思ったりもする。

オタク的

閑話休題。この本で岡田は、「世界征服」について考えている。その題材に、アニメやマンガというオタク的なものを使うのは、岡田斗司夫らしい戦略といえば合点がいくか。

それは、今や50歳近いあたしでも共有できる題材であることで、かなり広い世代から支持されるだろう。(この国の総人口の1/2以上はオタクだろう)。少なくとも私は非常に面白く読めた。

交換の原理

そして検討に用いる尺度(ものさし)が、「エコノミー」であることがまたよい。〈良し/悪し〉、倫理ではない。ただ、〈わりにあう/あわない〉のバイナリーであることで、これもまた、「交換の原理」に支配された脳みそ(消費主体としての「私」)には、非常にわかりやすい。

オタク的抜き

ただ岡田は、この考察の結論では、オタク的な要素を持ち出すことをしない。それは「第4章 世界征服は可能か?」のことで、この本の主題はこの章に要約されているのだが、そこにオタク的はない。

「すべてに値段がつく経済社会」「すべての情報が流れ出す情報社会」には支配者が必要とされず、単なる気分的な「流れ」「ブーム」「祭り」だけが支配します。今の世界はもう既に、自由経済とネット社会、情報社会によって革命が終了してしまった世界です。

ここでもう一度世界を征服するのはすごく難しい。どういうことかというと、自由経済とネット社会というシステムによって、私たちの「気分」がブームを作り、それが私たち自身を支配しているからです。

この支配には、まず勝てない。なぜかというと、自由経済もネットも、ただ単にシステムですから、中心点がなく支配者がいないから攻撃のしようがない。(p179)

ぶれない軸としての大衆

いってしまえば、今という時代に、「〈他者〉を支配して得られるモノなどなにもない」し、〈他者〉を支配しなくとも、今という時代は、何でも手に入る、ということだ。お金というメタ欲望さえ手に入れば、階級のないこの国では、階層を飛び越えることなど、いくらでも可能なのである。

なぜかというと、今や世界中の文化が大衆文化だからです。/世界中にいる中途半端な小金もちや貧乏人からもれなくお金を取ろうという動き、これを自由主義経済と言います。自由主義経済が発達したおかげで、この世界のあらゆる「いいもの」は誰でもお金さえ払えば手に入るようになりました。(p173)

六本木ヒルズの上階に住むのに、大きな液晶TVでサッカーを楽しむのに、誰かを支配する必要(世界征服)など、さらさらない。必要なのはお金だけだ。では「いいもの」(選択の尺度)はだれが決めるのか、といえば、それも「大衆の気分」と手持ちのお金(懐具合)である。

つまり「ブーム」は「ぶれない軸としての大衆」の「気分」と「懐具合」でつくられる。(公共事業という産業は、これにコテンパンにやられた)。

ボロメオの結び目「政局」も大衆の「気分」と「懐具界」でコロコロ変わる。(笑)

そして私たちは、その「気分」と「懐具合」に支配されている。

象徴の貧困

この「象徴の貧困」の時代に、「象徴界」に居座っているのは「世間」と「お金」(交換の原理)だ、ということなのだな、と(私は)思う。

その2つのハイブリッドこそが「象徴界」であり、「支配者」なのである。それは繰り返されてきた議論でしかないが、この議論を、私たちはまだ乗り越えたことがないことで、陳腐ではない。岡田はこの本で、あえて、その議論を持ち出し、強調しているように思う。(以下はそのことの私の要約)。

  • つまり、「大衆の気分」とは、他ならぬ大衆である〈私〉の「気分」なのである。
  • つまり、〈私〉を支配しているのは他ならぬ大衆である〈私〉なのである。
  • つまり、あいつら(大衆)は馬鹿だ、といっているのも、他ならぬ「大衆」としての〈私〉なのである。
  • つまり、結局、馬鹿は大衆としての〈私〉なのよ、と。

欲望をあきらめてはならない

この問題に対する岡田の処方箋は、精神分析的である(ラカンのね)。岡田は(世界征服という)欲望をあきらめてはならない、というのである(直接そういっているわけではなく、あたしがそう読んだ、ということだが)。

世界征服を目指す人とは、現状を否定する人のことです。
人に優しく、環境に優しく、良識と教養のある世界を目指すことによって、「悪」の栄える世界を目指しましょう。
「いいものを、より安く」ではなく、「人を出し抜いて得するのはやめよう」。
「トレンドに敏感に」「自分のしたいことを探そう」ではなく「お年寄りを大切に」「ちゃんと学校で勉強しよう」。
いま現在の「幸福」と「平和」にノーを言うこと。
新しい「幸福」と「平和」を世界に宣言すること。
これが新時代の、世界征服への合言葉なのです。(p185-186)

悪党的

岡田斗司夫という人は、今の時代の「悪党」が何者かがわかっていたりする。それは「現状を否定する人のこと」であり、「自分自身を征服しようとする人」だ(たぶん)。 しかし今、多くの人々は「いい人」なのである。 「現状を宿命として受け入れ」、「自分自身を環境にあわせようとする人」

皆、「欲望」をあきらめている。(ことで「世界征服」をあきらめている。ことで「大衆の気分」に支配されている)。 あたかも、目の前に起こることが、すべて「宿命」であるかのように。骰子一擲(〈必然/偶然〉の賭け)をしない。未来を打破しようとしない(あきらめている?)。 それは、普通の生き方を選択するのなら、当たり前じゃないか、といわれるかもしれない。 しかし「欲望をあきらめてはならない」のだ。

このことを理解するには、たしかに岡田のいうように、第1章から第3章を読まなくてはならないだろう。 そこに出てくる世界を征服しようとする悪党たちは、じつに魅力的である。エコノミーでは割りのあわないことを、己の欲望としてあきらめない。ただそれだけである。これを今の時代にやっているのは、やはりオタクの皆さんなのかな、と思ってしまう。「オタク的」を、オタクの皆さんが、オタクであるために、だな。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2007年09月11日 08:19: Newer : Older

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