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2019年03月03日|お知らせ



『家族ペット―ダンナよりもペットが大切!?』 山田昌弘 を読む。

家族ペット

家族ペット―ダンナよりもペットが大切!?

山田昌弘(著)
2007年6月10日
文春文庫
552円+税

午前6時50分起床。浅草はくもり。本日は岩見沢出張。先日、ペットの話題を書いたばかりなのに、またしてもペットネタを書くのは、あたしがペットを飼い始めたからではなく、そのときに書いた「このあたりはもっと冷静に考えてみる必要があるな」の自分なりの履行である。

たまたま近所の本屋で、社会学者である山田昌弘先生のこの本をみつけ、社会学者ならではの冷静な分析に期待し、これ幸いとばかりに購入、さっそく読んでみた。

あたしは、山田先生のご意見には、おおよそ賛成できる。それはまずなによりも、「家族ペット」(家族としてのペット)は役にたつ、ということでだ。そして、あたしの興味の対象である、「家族ペット」は、いまという社会のなにを反映しているのだろう、という疑問に対しても、この本は明快に答えてくれている。

  1. 家族ペット現象は、格差社会の進展、そして、その結果としての少子高齢化に伴って、現れるべくして現れた現象である。
  2. 家族ペットは、それに反対する人が何と言おうと、社会的、個人的に、現実に役にたっている。
    (p226)

まさにそうなのだろうな、と思う。それは斎藤環さんの『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』に触れたときに書いた

家族よりも大きな「中景」が、壊滅的に貧困化してしまっている今、〈私〉が「われわれ」を感じる――つまり〈私〉がほかならぬ私である――最後の拠所は、「家族」だろう、と私は考えていた。/まさにバロックの館の一階部分としてである。/それは〈私〉の最後の拠所であり、依って立つ足場である。/その最後の拠所を否定せざるを得なかった衝動とは、いったいなんなのだろうか。/彼らは家族の代わりに機能する〈われわれ〉を持っていたのだろうか。[ももち ど ぶろぐ|いちばん最後に残るもの。(家族の痕跡)]

という疑問への、ひとつの解なのかもしれないな、ということでだ。

「家族ペット」は生まれるべくして生まれたのであるし、それは「役に立つ」のである。それは「家族ペット」は、いまの時代に、何らかの役割をもって存在している、ということに他ならず、あたしの横暴な仮説を裏切るものではない。

ではその役割はなにかといえば、山田先生は「かけがえのなさ」(の補填)だという。

私は家族を「代わりのきかない関係、長期的に信頼できる関係、絆」などと定義している。つまり家族とは、自分を自分として見てくれ、自分であることを識別してくれる存在である。自分を経済的価値または機能としか見ないわけではないということだ。そして、相手から自分が必要不可欠な存在だと認識される、そういう関係を結びたいという欲求が人にはもともと備わっているのである。言い換えれば、それはお互いにとってかけがえのない存在といってもいい。人々が犠牲を払ってでも得たいのは、その「かけがえのなさ」である。(p57)

そしていまや、その「かけがえのなさ」を担保していた「最後の絆」である家族でさえ《「代わりのきかない長期的に信頼できる関係」であるとは信じられなくなってきている現実がある》(p58)。そして

人間同士で自分らしくふるまえる信頼関係を築くのは、きわめて難しい時代だといわざるを得ない。しかしペットは、自分のほうから裏切ったり、別れると言ったりしない。そこでペットの存在が、家族以上に家族らしい存在として浮かび上がってくるわけだ。(p60)

というわけだ。

この感覚はわかる。ペットは「究極の弱者だ」とある方はあたしに話してくれたが、それはこの意味でだろうと思う。つまり、ペットは他ならぬ〈私〉がいなくては、ご飯も食べられないし、病気になっても世話をしてくれる人もいないのである。

そのことで、〈私〉は(ペットにとって)「かけがえのない」存在なのであるし、そいう〈私〉を実感させてくれることで、ペットは〈私〉にとって「かけがえのない」存在となるのだろう。

その関係は「癒し」などという生易しいものではなく、まさに〈私〉の「いちばん最後に残るもの」としてだ。

山田先生は、その現実を踏まえた上で、《家族ペットは、それに反対する人が何と言おうと、社会的、個人的に、現実に役にたっている。》という。もっともなことだと思うし、それを否定する気もあたしにはない。

ただ、「街的」をいうあたしときたら、それでもなにか違和感を感じてしまう。それは「家族ペット」がどこまでも「想像界的」なものだからだろう。(ペットが言葉を話す前の人間の子供――鏡像段階去勢以前、おかあちゃんのおっぱいを飲みながらうんことおしっこ垂れ流しのほんとうの〈私〉――に似ていると山田先生も言っている)。

あたしは家族的なつながりを否定した上で、窓も戸口もない個人が〈世界〉に感染するためには「街的」が必要なんだよ、と言いたい。しかしそれはライプニッツ田邊元の受け売りでしかないし、実際に可能なのかどうかもわかりません。/さらに「街的」がなくなっている今、「個人」にそれを押し付けるのは、とんでもない負担だろうな、とも思っています。なにしろ「街的」がないところでのモナド的な接続とは、剥き出しの魂同士の接続ですからね。剥き出しにできる魂がなければそれは無理です。[140B劇場-浅草・岸和田往復書簡|街的という野蛮人。]

こうなると生き方の問題なんだろうな、と思う。あたしはペットがいなくともよい人(大丈夫なように「あえて」生きている人)なのだ。それは幸いなのか/不幸ななのかわからないし(「家族ペット」を実感されている方からみれば不幸だろう)し、この先もそうであるかはわからない。

ただあたしは〈個〉であることにこだわり続けていることで、その拠り所(「かけがえのなさ」の根拠)を〈種〉(たとえば「街的」)に求めてしまった、ということなのだろう。

そんなミクロな「共同幻想」のようなところに「かけがえのなさ」を求めるのは、しんどい生き方ではある。けれども、求めているものは「家族ペット」とたいして変わらない(「家族ペッ」は「対幻想」か?)。ただ拠り所が違うだけで、生き方もちょっとだけ違う、ということなのだろうと思う。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年02月07日 07:49: Newer : Older

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コメント

すみません、コーギーです。
先日は失礼いたしました。
今回、特に言いたい事があるというわけではないのですが、
読んでいるうちに、私も何か書きたくなったので、少し書かせてもらいます。

私も、山田さんの見解について特に異論があるというわけではありません。
ペットがこの現代日本において、人に対するよりも、かけがえのなを感じさせてくれる拠り所(機能)として存在している。という指摘ももっともだと思うし、それが高齢化社会や格差社会のなかで浮上してきている現象だというのも分かる気がします。
そして、ペットが現になんといわれようと役に立っているのだからまぁ、いいじゃないかという肯定論として昨今のペットブームを捉えておられるのも理解できます。
また、桃知さんの友人のかたが、ペットは究極の弱者だ、とおっしゃられるのも、事実そのとうりと思います。

私は、これらの言明にたいし、その事実に関しては、まったくそのとうりだと思うのです。
じじつ、飼い主がなんらかのかたちでいなくなれば、犬の生存は危うくなります。
ペットは自ら裏切ったりしない(リードを離した瞬間に逃げられた家族がいるが)から人間よりも安心感があるというのも事実です。
しかし、私はこれらの言明にたいしてやはり少し違和感をおぼえるのです。
前回の桃知さんの「高齢者が犬を飼うの子供の機能代替だ。」という発言(今回はそのようにはおっしゃてないのでまた持ち出すのもきがひけるのですが)もそうですが、これらの発言に対して私は、それらはなにか外側からながめて得られた言明のように感じるのです。それらは事実そのとうりだと思う。でもしかし、ペットを飼っている実感からは、すこしずれるのです。そしてそういう視線では届かないとこもあるよ、と思うのです。

前回わたしが桃知さんに言いたかったことも、機能代替というう捕らえ方だけでは、人と犬との諸相は捉えつくせないんじゃないか、ということなんです。
前にも言いましたが、物心がついたときには、すでに犬がいたという環境に育っているせいか、犬がなにかの代替物だ、とか犬は究極の弱者だとかいう形で、捉えた事がないのです。弱者にはちがいないけれど、私は犬をわざわざ弱者なんて言葉を持ち出して、他人に「犬は究極の弱者だ」と命題化して語るというのがよく分からないんです。
私が他人にいうなら「オレがいなかったらお前たちはこまるよねぇ?」といって犬の頭をなでながら、犬に向かってはなしかけるという形になると思います。
言っていることは同じじゃないかと思われるかもしれませんが、私の感覚としては彼我の違いがあります。

私は犬よりも遅れて到来してきた人間で、気が付いたら自分のそばに犬がいたからかだろうと推測するのですが、人よりも犬がもっと身の内に食い込んでいるという感じがする訳です。
だからそういうとらえかたは、事実的な水準では同意できるものの、感覚的な水準では、違うよ~なんです。

私の感じた違和感というのはそれで、それらの言明が外側から捉えられたもの、と感じてしまう理由というのもそれなんです。
そしてこういう感じ方をする人間というのは私だけではなく他にもかなり多いとおもうんです。私の生家のように犬を代々繁殖させているという家も相当数ありますし、犬を拾って買い始めたという家庭も結構あります。みんながみんな市場で買い求めたというわけではない。
ですから、犬は弱者だとか、機能代替物だという社会学的な視線では犬と人との諸相を捉えつくす事はできないのではないか。あるいはそういったところで届かないんじゃないかと思うのです。

もっと言えば、私はそのような社会学的な視線が嫌なんです。
犬を飼っている高齢者を見つけては、「爺さん、子供の機能代替物として犬を飼うのは気持ち悪いよ」と言ってしまう街というのは住みにくいと思うんです。少なくとも私はあまり住みたいとは思わない。

犬は弱者うんぬんにしても、なんか違うと感じてしまう。


そのような社会学的な捉え方は、深いのかもしれないけれど、
深いというなら、そのような社会学的な視線では汲みつくすことのできない、人と犬の街場の諸相のほうがもうちょっと深いと思うのです。

「ペットがいなくて大丈夫、大丈夫じゃない」というのもなんか違うと感じてしまいます。私は現在ペットを飼っていませんが別に、大丈夫です。もちろんか飼いたいとも思うけれども、べつにいなくても大丈夫です。というか大丈夫とか大丈夫じゃないという問題ではないんです。私には大丈夫も大丈夫じゃないもない。大丈夫とか言う段階ですでにしてペットと距離があるとかんじるんです。ですから我慢の問題でもない。もっと身近に食いこんでいるんです。分かりにくいとは思いますが、犬なんかは特に人間の世界に食い込んでいて、大丈夫とか大丈夫じゃないとかを超越して、生き方の選択の問題をすら超越して存在しているように感じられるんです。桃知さんの感覚としては「選択する」という問題なのでしょうが、私の場合、物心ついたとき犬はもうすでにそこにいたので、選択の問題ではないんです。

少しはなしが反れましたが、私は、社会学的な視線によっては、簡単に解体する事のできない街場こそ、桃知さんや江さんが、苦心して描き出そうとされる街ではないかと思うのです。

現在年間約40万匹の犬猫が引き取り手のないまま処分されていますが、これは近景としての家庭から捨てられた犬猫が、
そのまま中景としての街をすどうりし、遠景としての処分場につながっているということなんだと思います。
近景の外はすぐ遠景といううのがこの40万匹の意味で、この40万匹が中景としての街に収容されないというのが、われわれの街の現状なんだとおもいます。

しかし日本のすべての街がこうなのではなく、
例えば、熊本県では、処分場に持ち込まれる犬猫の、75パーセントは譲渡されています。また、
日本一犬が飼われている県、群馬県では信じられない事にペットショップというものがほとんどありません。犬は繁殖した家庭から譲ってもらうというのが群馬という地域の慣わしになっているそうです。ですからこの街では犬はほとんど売買されていません。
このような街が中景としての街なんだと思うんです。
(あくまで犬猫の観点から見た場合ですが)
あるいは誰が面倒を見るということもなく(みんなで見ている)犬が生きているという、桃知さんの浅草という街もそうだと思うんです。
(ちなみに私は動物愛護団体とは何の関係もありませんので。むしろそういうゴリゴリの団体は嫌いです。)

なんだかはなしがうまく纏まらなくなってしまいましたが、私は年間多くの犬猫が処分されている街も嫌だし、みんなが社会学的な視線を漂わせている街というのも、なんだか住みにくいなぁと思うのです。ですからあえて違和感を言葉にする事が、うまく書けてるとは思いませんが、私の感じている街場というものを記述する事になるだろうと思い書いてみました。

またまた失礼な物言いになってしまいましたが、読んでもらえれば幸いです。これからもご活躍きたいしております。

投稿者 コーギー : 2008年02月08日 03:03

すみません。またまたコーギーです。
先に送ったコメント、なんだかうまく書けなかったので、少し補足します。書き足したところで、分かりやすくなるとは思わないのですが、もうちょっと書かせてもらいます。

「犬は弱者だ」という、社会学的な見方(私にはそう思える)についてなのですが、
犬は確かにに弱者なんですが、それは絶対的なもではなく、あくまで相対的なものだと思うのです。
人に飼われている犬は、人という強者に対して弱者であるというに過ぎないのであって、
私がもし犬で、なおかつ人の言葉を解し、さらには話すこともできるとするならば、犬である私はきっと、犬は弱者だ!なんて言葉を聴けば、「なめとんかワレ、オレは人間と居るほうが、楽で生活も安定するからいっしょにいるだけやぞ!勘違いすんな!この、ボケ!」と言うと思います。
つまり、犬も犬であることを演技しているのではないかと。
そんな気がするときがあるのです。

犬は確かに人間の改良によって弱くなってきているとは思うのですが、それでも動物の持つ本能のようなものは曲げる事ができないと思うので、犬を放せば、よっぽど飼い主に従順な犬は別にして、街では野良犬として、山では山犬として、生きていくと思うわけです。

ですから犬は絶対弱者ではなく、あくまで相対弱者なのではないかと。
だから私は、もちろん犬は究極の弱者なんかではないとおもうのです。
で、問題は犬を弱者だときめつけて動かないその見方のほうにあるのであって、そういう視線がかえって、中景としての街を貧しいものにしているのではないかと考えるのです。

私の周囲ではけっこうまえから野良犬をみかけなくなりました。この野良犬が街から消えてしまったというのが、
中景の衰弱と軌を一にするんではないかと思うんです。
ここで私が野良犬といっているのは、なにも人と敵対的な行動をとる危険な犬というものだけをさすのではなくて、誰が飼っているのか分からないような、なんとなくみんなで世話しているような犬を含めた広い意味においてです。

そしてこういった野良犬はもはや弱者とはいえないとおもうんです。もちろんだからって強者ってわけではありませんけれども、弱者と言う表現では収まりきらない、むしろ弱者ー強者と言う対立を無効化し、調停することで、中景というものを存在させてしまう媒介者ではないかと、それが野良犬という存在なんだとい気がするんです。

こんな難しいいいかたをしなくてもいいんですが、私は犬を弱者だととらえる視線というのは、弱者ー強者という枠を強化しこそすれ、中景としての街を立ち上げることにはならないのではないかとおもうのです。

私が弱者と言う視線をなんかいや、と感じるのはこのためだと思うのですが、どうでしょうか?


投稿者 コーギー : 2008年02月08日 07:16

>コーギーさん

コメントありがとうございます。

コーギーさんの言われていることはわかります。

たぶんそれは「ペットとの愛」とでもいえるものだと思いますが、社会学は本質的に陰気な学問(@山岸俊男)なので、それを記述する語彙をもたないのですね。

それを可能せしめる、記述できる、のは(たぶん)「文学」だけでしょう。

投稿者 momo : 2008年02月08日 19:10

コメントありがとうございました。
すみません。
これからもよろしくお願いします。

投稿者 コーギー : 2008年02月08日 23:10

コメントを送ってください