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2019年03月03日|お知らせ
内田樹先生のブログを読めば、家族についての記述があって、それはプレゼンテーション的にうまいなと思う。
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内田樹(著) |
午前7時50起床。浅草は晴れ。朝方、浅草4丁目郵便局へ速達を出しにでかけ、その足で丸重へダブルクリップを買いに行けば、まだ10時前で店は開いておらず、仕方がないので散歩の時間にして、山口家で玉子巻などを買いながら時間を潰し、再び丸重によって帰宅。日差しは春なのだが風はまだ冷たい。
内田先生のブログを読めば、家族についての記述があって、それはいかにも内田先生らしくて面白い。そしてプレゼンテーション的にうまいなと思う。
人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されている。
そのために言語があり、儀礼がある。
人間の生理過程が「飢餓ベース」であり、共同体原理が「弱者ベース」であるように、親族は「謎ベース」である。
親子であれ配偶者であれ、「何を考えているのかよくわからない」ままでも基本的なサービスの供与には支障がないように親族制度は設計されている。from [そろそろ春だけど]
あたしは、親族は「遺伝子ベース」「血ベース」だから謎なんだと(勝手に)思っているけれど、家族には、人間的というよりは、動物的な、縦に流れるものが働いていることで、理性を超えている(と思う)。
共同体が横の紐帯だとすれば、家族は基本的に縦の紐帯であって、そこに横から〈他者〉(夫、妻、パートナー)が入り込むんだから、なんだかよくわからなくなるのは当然なのだ。しかもそれは(縦に流れる)遺伝子的に必要なことであって、ますますなんだかわからない。
学生の頃、マル経の先生に、その縦の流れから生まれてくるのが「愛」ですかね、と尋ねたら、ばか、そんなアヒルが親の跡をくっついて歩いているようなものが「愛」であるわけねーだろう、と一括されたが、まぁ、そりゃそうだ。
けれど、その縦性を他の共同体に同心円上に展開していけば、「イエ」のシステムは出来上がるわけで、それは統治の倫理(@ジェイコブズ)だし、少なくともつい最近までこの国はそういうもので動いていたのだから、それも「人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されている」というものの内なんだろうな、と思う。
しかしあたしときたら
「家族」と「女」はあたしのなんだかわからないモノの双璧ですよ。そんなものに言及すれば、あたしはめちゃくちゃになります。それでも「家族」について書くのは、あたしは「モナド」としての個人を理想としていて、モナドには窓も戸口もない、と言いますが、それは今の時代の家族的なつながりとその同心円上にあるモノを否定しているからなのです。
なのであり、しかも
つまりあたしは家族的なつながりとその同心円上にあるモノを否定しているのですが、そのほぼ同心円上に(少し軸はずれている)しか「街的」は存在し得ない、とも考えているわけです。 ああ、なんたる矛盾――だからめちゃくちゃになるのですよ。(笑) [街的という野蛮人。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡]
なのであって、なので「街的」にこだわっているのだけれども、それはたぶん内田先生の言っている家族が持っているエートスに近く、昨日書いたように、それは「弱者ベース」の共同体で、しかも
愛と共感に基礎づけられ、家族同士が世界の誰よりも深く理解し合い、配偶者たちは夜毎エロスの極限を経験している・・・というようなものを「理想の家族」とするならば form [そろそろ春だけど]
というような「家族」的なものの同心円上にもない。けれどその差異はほんの少ししかなくて、だから「みんな」が出来上がってもいるのだけれども、そのほんのわずかをうっちゃるのが、内田先生はうまいなと思う。つまりそれは、プレゼンテーション的に、書く技術として、うまいな、ということだわね。
Written by : 2008年03月06日 11:43: Newer : Older
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