|
ジェイン・ジェイコブズ(著) |
午前7時起床。浅草は雨が降っている。その雨に鳴くすずめの声さえ、どこかで暖かげであるのは、桜木の色の変化をみたからだろうか。
山岸俊男先生が、近著で紹介していたジェイン・ジェイコブズの『市場の倫理 統治の倫理』を読んだ。もちろんうちにはない本だったので買って読んだのだ。
けれど買うにしてもこの本、Amazonで調べれば既に絶版のようで、あるのはマーケットプレイスばかり。それもべらぼうな値札がついていて最高値は5000円もする。
「そんなに貴重なモノなのかね」と思うあたしは、ブックオフを探してみた。すれば1冊在庫があり、700円也の値札がついていた。
「まぁ、これなら妥当な線か」と思う。なにが妥当かは主観でしかないわけで、5000円で妥当だと思えれば5000円で買えばよい。あたしは5000円では絶対に買わない、妥当だとは思えない。けれど700円なら買うのは、(あたし的に)妥当だと思うからでしかなく、だから買ったのだ。
古本とはいうけれど、どこが古いのかわからない本が届き、「へぇ~」と思いつつさっそく読んでみた。結論を急ぐなら(つまり速読するのなら)、巻末にある「付録」と、香西泰さんの「訳者あとがき」(の前半部分)があれば十分だな、と思う。
「付録」とは、山岸先生が紹介していた例の(市場の倫理と統治の倫理の)15条であり、その引用に過不足はないけれど、香西さんの訳者あとがきからまとめを引用すればこうなる。
- 人間がその必要とするものを入手するには、縄張りから取得する(take)か、またはお互いに取引する(trade)。前者は他の動物と同じ生活だが、後者は人間だけが行う。
- 人間の生活にこの二つの様式があることに対応して、人間の社会的道徳にも統治の倫理(たとえば忠実)と市場の論理(たとえば誠実)の二つがあり、両者はしばしば相互に矛盾し対立する。
- したがってこの二つの倫理を混同すると、「救いがたい腐敗」が生ずる。
- これを避けるには、統治者と商人を身分的に区別するカースト制を布くか、または課題に応じて統治の倫理、市場の倫理のいずれかを自発打てkjに選択が、二つに一つである。
- 民主主義の下では身分制はとれず、自覚的倫理的選択が必要となる。
経済学がモデルをたてて考えるように、ジェイコブズの〈市場の倫理/統治の倫理〉も(今の時代では)モデルでしかないだろう。
ただ《この二つの倫理を混同すると、「救いがたい腐敗」が生ずる》のはたしかであって、開発主義は、この二つをおもいっきり混同した経済政策だったから見事に腐敗した。しかし、命題は、
「人間は腐敗せずに生きられるのか」
である。つまり
「人間はこのふたつの倫理を混同せずに生きられるのか」
ということである。
そのキーワードは、ジェイコブズのいうように「自覚的」でしかないのだが、「われわれ」のない「みんな」の時代に、「自覚的」であることの方が難しい(面倒な生き方だから選択しない)ことは今までさんざん云ってきた。
あたしは「自覚的」であろうと10年頑張ってみたけれど、「自覚的」なあたしが、あたしの全て(「私」)であるわけもないことだけはわかった。
男の失敗の原因は女と金だという(女の失敗は知らない。そこまで深い付き合い方はしていない)。成功してまず手に入れるのも女と金であり、失敗して失うのも女と金である。
たぶんこれは誰にでもあるものであって、そこに倫理なんてあるはずもない。あるとすれば全て後付けである。どこかで勝手にあたしは動いている。
それは、〈欲望〉ならぬ〈欲動〉としてなのだが、〈欲動〉に走らずに「欲望をあきらめないこと」(@ジャック・ラカン)は、身分制のない時代に、〈市場の倫理/統治の倫理〉を混同しないで(自覚的な倫理選択をして)生きることと同義である。
つまり、難しい。
しかしそれは倫理を捨てることを意味してはいない。
だけど、どこかで協力しないと人間ってもたないし、他がいないと自がないんだからね。それが、飢えがなくなり戦争がなくなりで、協力もしなくなった代わりに、オノレまであやふやになってきちゃった。(立川談志)
だから、あたしらは混同した倫理を(それらしく)纏うのである。「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ」(@太宰治)なのである。
つまり、〈市場の倫理/統治の倫理〉も、どちらも「うんと固くしばってくれる」モノでしかない。
それは利己性をしばる利他性のことだ。――本来利己的な遺伝子の持ち主である人間は、利己的に行動するよりも、利他的な行動に出た方が、ESS=進化的に有利な戦略であることは、人類500万年(たかだかだけれども)の歴史が証明している――。
そして利他性には容器(ヴィークル)が必要となる。それが共同体なわけだろう。
市場の倫理も統治の倫理も〈利他性の倫理〉である。
「市場の倫理」は今生きている「私」を大切にし、より現実的である。個体レベルで考えている。今生きている「私」が悲観してしないで生きていけるようにできている(ことは先に書いた)。
一方、「統治の倫理」は遺伝子レベルで構築されている。利己的な遺伝子のためなら(遺伝子が生き延びるためには)、今生きている「私」はどうでもいいのである。遺伝子さえ生き延びれば「私」は死んでもっらっても結構なのである。だから遺伝子レベルなら統治の倫理は絶対的有利を発揮する。
つまり、どちらもESS的には「正しい」としかいいようがない。だから問題は環境で、今という時代の環境としての民主主義+資本主義なら、「市場の倫理」の方がちょっとばっかし「私」と「われわれ」には有利だろう(とあたしは)思う。
「街的」も、利他性の倫理の容器であり、それはあんまし上等なモノじゃないかもしれないけれど、「市場の倫理」(のようなモノ)を抱擁してきた街場暮らしの文化200年(ぐらい)のミームヴィークルである。それはたぶん「テレビ村という共同体」よりも「私」と「われわれ」にはESS的には有利なはずなのだ。
けれども問題は、「私」と「われわれ」がいなくなって、混同倫理がつくりあげてきた「みんな」しかいないくなってしまっているのなら、「みんな」のための倫理ヴィークルである「TV村という共同体」は、ますます「みんな」をつくりだし、ジェイコブズやスティグレールが感じた危機感は、ますます現実のものとなっていくのだろう、ということだ。
それが「不快」じゃない、といわれるとあたしらはお手上げで、だから江弘毅はこういうしかないのである。
エンテツさんや桃知やバッキー井上(オレもか)に共通することは、つまり寿司と洋食と蕎麦は、近所のがいちばんうまい(オレの場合は、寿司とお好みとうどんは、だが)とハンバーグとポテトフライは近所のマックがいちばんうまい、とはいえないについて、まだまだ「それは何でや」と考えるある種のタフさ(アホさ)があることだ。
「街的」はアホだけれどもタフなのである。なぜならそれは、「楽観の倫理(市場の倫理)をまっとった生き方だからよ」とあたしは無責任に誘い水を打つのであるが、それは「街的」の危機であって、つまりあたしらはこんなことしか(今は)いえないのである。
付録
市場の倫理/統治の倫理
【市場の倫理】(商人道)
|
【統治の倫理】(武士道)
|
追記:この本の古本の値段は相変わらず高い。2008年10月28日Amazon調べでは、一番安くて1418円が一冊あるのみ。他は軒並み7000円以上である。最高値は7669円。なんでこんなにするのだろう。あたしには不思議でならない。