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『女生徒』 太宰治を読む―「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ」。

『女生徒』 太宰治

『女生徒』 太宰治午前7時45分起床。浅草は曇り時々雨というか殆ど雨。昨晩は栃木組の皆さんと忘年会。喜美松児玉菜苑とはしごして自宅に戻ったのは午前1時頃であった。

当然今朝の目覚めはよくなかったけれども、さほどの二日酔いでなかったのはスッパ酎のおかげだろうが、そんな朝は、『パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。』のであり、『朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ』なのである。


その上、『朝の私は一ばんみにくい。両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。熟睡していないせいかしら。朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶みもだえしちゃう。 朝は、意地悪いじわる』でもある。

これは太宰治の『女生徒』からの引用だけれども、[街的という野蛮人]で引用するために、『家庭の幸福』同様、全文をコピーし、ワードに貼り付け、縦書きにし、文字の大きさ12ポイント、書体はゴシック体で、袋綴じ印刷して読んでみたわけだ。

うんと固くしばってくれると、かえって有難い

この短編の存在を教えてくれたのは[初心者のための「文学」。(大塚英志)]であって、大塚は戦時下の太宰作品にある「戦時下のうきうき感」を見抜いていた。主人公の「女生徒」は思春期特有のからっぽな自分の心を嘆くのだけれども、しかしそこにあるのは裏腹な高揚感であって、それは「うんと固くしばってくれると、かえって有難い」という主人公言葉に表徴される。

将校さんだって、そんなに素晴らしい生活内容などは、期待できないけれど、でも、毎日毎日、厳酷に無駄なく起居するその規律がうらやましい。いつも身が、ちゃんちゃんと決っているのだから、気持の上から楽なことだろうと思う。私みたいに、何もしたくなければ、いっそ何もしなくてすむのだし、どんな悪いことでもできる状態に置かれているのだし、また、勉強しようと思えば、無限といっていいくらいに勉強の時間があるのだし、慾を言ったら、よほどの望みでもかなえてもらえるような気がするし、ここからここまでという努力の限界を与えられたら、どんなに気持が助かるかわからない。うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれて在ったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。

ただそれと同じような精神構造が今の時代に見ることができるからと言って、私は大塚のように、今は戦時下だ、などというつもりはない。たぶん日本語の去勢不全性がつくる精神構造というのは、「うんと固くしばってくれると、かえって有難い」をどんな時代にも求めているだけなのだろうな、と思う。

そのうんと固くしんばってくれるものが国家であろうが、新興宗教であろうが、コマーシャルであろうが、インターネットからの名指し(鏡像)であろうが、私らの心の構造にとっては区分はないのだ。ただ、ただ、「うんと固くしばってくれると、かえって有難い」を求めている、ただ、ただ、「うんと固くしばってくれる」のであればよい。そういう心性というものは必ずある。

それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難(ありがた)いかわからない。私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。誰も自信が無いのかしら。

いやいや、時々自信ありげに、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれる奴がでてくるので、世の中ややこしいのじゃないのでしょうか。太宰はそんなことは承知していた、とは思いたい。

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