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2019年03月03日|お知らせ



「街的」なテクストを読むには才能が要るのだ。

江弘毅午前6時起床。浅草はくもり。朝一で江弘毅から届いた往復書簡の原稿をアップする。

「ちょいワルおやじ」の〈消費〉生活のどこがおもろいねん。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

それはどこかで自省的なテクストであって、メディアの世界に身を置く江と、消費、つまりメディアが作り出す生活(街)のメディア化(マニュアル化)との位置関係、若しくは江とあたしの立ち位置の〈差異〉のことである。

江とあたしに共通しているのは、あたしらが書いているのは〈他者〉との会話としてのテクストだ、ということなのだが、その立ち居地(というよりも生い立ちか)は違う。

昭和33年に工業地帯で生まれたあたしには、浮遊する民としての、どうしようもない地図と暦の空白があり、日本中何処へ行こうが、常にあたしは「遅れてきた者」でしかない。しかもその遅延を埋める手がかり(手摺)もほとんどないのである。(たぶん江にはある)。

それは「依って立つ足場」の喪失のようなもので、その空白を埋めるために、あたしは「」(個体化)へのプロセスとして「街的」を今更のように書いている、というよりも、かかわるざるを得なかったのだ。

そんなあたしは、若い頃は消費に走った「みんな」でしかなく、あたしは可能な限りの「商品」で身を飾ってみたヘタレである。けれどそんなことであたしの「空白」が埋まるわけもないのは当然のことでしかない。(しかしそれにさえも気づかないでいた)。

そういうあたしは、巧妙な〈他者〉との会話の回避で成り立ってきた、といえるだろう。〈他者〉とは「存在の意味」を喪失しない人々であり、「」であり「われわれ」のことだが、あたしはそういう人々を恐れていた。

それはたぶん「われわれ」のなかで「」になることを恐れていたのだろう。なにしろあたしが住んでいたのは、絶対的他者とでもいうような、「みんな」の世界なのである。それはなによりも人付き合いをしなくてもいい〈世界〉なのである。それはあたしを映す〈他者〉ではなかったけれども、〈消費〉がある限り〈他者〉は必要ないと思っていたのだ。

しかしそんなあたしも、10年ほど前に会社員であることを辞め、そのことで、いやおうなしに@の右側のない、ただの個となった。そのことで浮遊する「みんな」であるあたしは、更に「みんな」に沈殿するか、それとも〈他者〉との会話を始めるかの岐路に立ったわけだけれど、あたしが〈他者〉のいる方を選んだのは〈消費〉生活への嫌気からだろう。

そこで感じるのは生活者としてのあたしの非力でしかないけれど、なんとか10年間ほど生きてきてわかったことは、生活者はむやみに生きる楽観主義者ではあるが能天気ではない、ということだ。その根底にはいつも〈苦悩〉がある。

「街的」は、その〈苦悩〉をあえて書かずに表現してみせるテクストのようなものであって、しかしそれは〈苦悩〉を排除しているわけではなく、むしろ〈苦悩〉と共にいることを選択した人々の生き方なのだ、と(あたしは)思う。

「苦しむためには才能が要る」(@北条民雄)なのである。

一方「みんな」的な生き方は、〈苦悩〉と共に生きることより、その〈苦悩〉を和らげることを選択した生き方だ。「街的」が〈苦悩〉と対でしかないがゆえに〈苦悩〉をあえて表現しない(というよりも表現しなくとも表現してしまう)のとは裏腹に、〈苦悩〉は和らげるものでしかない消費に頼る「みんな」は、逆に〈苦悩〉をやたらと強調してみせたりもするヘタレである。(苦悩さえも消費の対象なのだ)。

江弘毅は〈苦悩〉を〈苦悩〉として書いてみせることはしない。「おまえらアホか!」でおわりである。しかしそれはいつでも自分に向けて発せられたことばであり、そには書かれることのない〈苦悩〉がある。「街的」を書くことは〈苦悩〉を書かずに〈苦悩〉を書くことなのだ。

そのことでこそ、江のテクストは消費の外延(若しくはその境界)に存在することができているのだ、と(あたしは)思う。しかしそれも「交換」とのぎりぎりの攻防としてである。

サブカルは、「交換」の外に逃れようと絶えず努力していた、そして作品の市場に抵抗していたはずです。

(マスコミを拒んで)、記号に抵抗し(意味を免れて、狂気によって)、正しいセックスに抵抗する(再生産の目的から悦楽を切り離す倒錯によって)。(ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p44)

そういう《テクスト》的なものであったのに、「交換」は、それを否定しているようにみえるものすべてを飼いならし、それを取り込んでしまいます。サブカルさえも合法的な消費の回路にのせてしまうしたたかさです。 (パチンコ、パチンコ、パチンコにいくのさ。若しくは、集団的で一人ぽっちの「みんな」。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

江のテクストの読者には、〈他者〉としての「われわれ」ばかりではなく、「みんな」もいる(たぶん「みんな」の方が絶対多数だろう)。

だから「街的」を書くのは、そのテクストの外見上の楽しさとは裏腹に、常に悶え苦しみでしかないのだけれども、そんなテクストを「みんな」が読むには、本当は読む側にも才能が要るのだ、と書いたら嫌味だろうか。

Tags: 140B

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年03月16日 15:23: Newer : Older

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