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2019年03月03日|お知らせ



小泉改革が“ぶっ壊した”強靭な首相―テレポリティクスの功罪。

御厨 貴-- 政治の漂流はいつまで続くのでしょうか。

御厨 もう10年くらいは漂流していますからね。現時点では、その先が見えていません。やはり、愚直に政権交代していくしかない。民主党政権ができれば、自民党が割れるかもしれない。民主党も様々な主義主張を持つ人を抱えている。この状況で政界再編が起きるのは1つの道かなと思います。from 小泉改革が“ぶっ壊した”強靭な首相:NBonline(日経ビジネス オンライン)

お得意先のMTのアップデートを何件か同時進行的にこなしながら、[小泉改革が“ぶっ壊した”強靭な首相御厨 貴・東京大学教授が語る、現代日本政治の危機]をながら読みしていた。

もちろん気を惹いたのは《小泉改革が“ぶっ壊した”強靭な首相》というナイスなフレーズだけれど、なによりも上の引用にあたしが納得してしまうのは(繰り返すけれども)これだからだ。

独自調査で分かった「政界再編予想図」

>>>自民党の図を拡大する  >>>民主党の図を拡大する

from 独自調査で分かった「政界再編予想図」:NBonline(日経ビジネス オンライン)

それはつまりは「ねじれ」であって、これで国政は、あたし達からほど遠いものになってしまっている。例えば北海道10区でいえば、現職には民主党の小平忠正さんと自民党の飯島夕雁さんがいる。2005年の総選挙では、この選挙区には(本来の自民党であるが)郵政造反組の山下貴史さんが立候補していたのだけれど、飯島ゆかりさんは、山下さんいじめの「落下傘候補」「刺客」でやってきた「小泉チルドレン」なのだった。

2005年の選挙で、山下さんの取った票は78604票で、飯島さんは62100票である。しかし飯島さんは比例名簿1位だったので、今はバッジをつけていて、山下さんは落選となった。(小平さんは109422票で当選)。つまり山下さんは、小泉さんのテレポリティクスにやられたのだ。

そんなもので、近く行われるであろう総選挙で、北海道10区の自民党支持の皆さんが一枚岩で飯島さんを押せるのか、といえば、それは無理なことだろう。何故かといえば、その大きな要因は、飯島さんは町内会(種)的に働けない人でしかないからだ。つまり、北海道10区の自民党支持者からすれば、自分たちの期待する自民党的な人ではないからだし、なによりも「われわれ」の候補ではないからだ(小泉チルドレンとは「みんな」でしかないので当然なのだが)。

しかし彼女は北海道10区の自民党公認候補(になる予定)なのである。しかしそれは、自民党支持者の推せない自民党候補者でしかなく、これがつまりは「ねじれ」なのだ。この状況をつくりだしたのはもちろん小泉さんであり、自民党は地方の支持者を失ったことで前回の参議院選で惨敗した。小泉改革が“ぶっ壊した”のは強靭な首相というよりも、自民党の支持者(つまり「われわれ」)が依って立つ地面=パトリ(町内会)そのものなのだ。だから誰が首相になっても、テレビ村的(テレビポリティクス的)に、「みんな」の支持を受けない人はやっていけない(だからある意味、中川秀直さんの意見は正しいのだが)。

あたし的には、それでも懲りずに自民党支持者でしかないのだが、ヘタレな自民党支持者としては「種的基体」(地域)の代表として推せる自民党候補が欲しいなと思うのだわ。利益誘導と言われようが、国政は「類」でしかなく、「種」(地域)の間にある矛盾の調整なのだ。そして国会議員というのは「種」(「われわれ」)の代表であり、つまりは「」なのである(でなければ民主主義など機能しようもないだろう)。

であるためには、《民主党政権ができれば、自民党が割れるかもしれない。民主党も様々な主義主張を持つ人を抱えている。この状況で政界再編が起きるのは1つの道かなと思います。》もありかな、と思ってしまった。これはまずいかのかな?

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年09月04日 12:12: Newer : Older

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コメント

桃知さん、小泉チルドレンは「われわれ」ではなく「みんな」だ。
というのはとてもわかりやすい説明ですね。
「みんな」というものがこれまでうまく想像できてなかったんですけど、これでよくわかりました。(笑)

『国政は「類」でしかなく、「種」(地域)の間にある矛盾の調整なのだ。』とあるのですが、
この「矛盾の調整」というのは、ただ「種間の利益の争奪」ということだけを意味しているのか、それとも「種としての主張や要求はするけれども、それが果たされなかった場合には、類のためにここは涙をのもう、それが長期的にはわれわれ種のためにもなる」というような類を念頭において上での調整なのでしょうか?

「種の類に対しての譲歩」というものがある程度ないと、
ただの権利要求、ただの種間の闘争状態になってしまい、
結局、「類」なんかいらない。ということになってしまうと思います。「類」に個々の「種」のエゴをむき出しにさせないという機能があることで、はじめて「種」なるものは存在できるということなのでしょうか。

でも「類」が不合理を受け入れるとは思いません。
「種」は「個」の不合理を受け入れ、「類」の不合理も受け入れるというとんでもなく強靭な胃袋をもたなくてはならない。
そしてそれでこそ「種」だと思うのですが。

投稿者 コーギー : 2008年09月05日 02:25

>コーギーさん
コメントありがとうございます。

前提は、「個」は「種」に対する否定性を媒介に成り立つ、ですね。

「種」と「個」の関係は依存ではなくて、「個」は「種」を否定し自主自由であろうとします。

それを「種」が無意識の束縛性(レヴィ=ストロースのいう「構造」ですね)で押さえつけるのですが、そこに(「個」と「種」の)束縛即自由の均衡が生まれます。

それが「種」と「個」の関係(つまり「街的」)であって、「種」は均質的に意見一致の国民の集まりでもなければ、単なるバラバラの個人の集まりでもない、と。

であれば、この種的な共同体は、「個」の自主自由な活動による多様性を孕みます。つまり「種」は「個」の変化によって変化します。それは無意識な束縛性(構造)の範囲内でです。こうかくとなにか窮屈に思えますが、それは自己責任的自由主義に比べても、ずっと自由なものです。

このような関係性に他治即時事(自律的であると同時に他を配慮した束縛性)としての「個」は存在します。それが「われわれ」ですね。

そしてこのような自律的かつ自由な「個」によって「種」に内在する不平等性が否定されていくとき、《「種」は自身で「類」に飛躍していくことが可能になる》(@中沢新一)なわけで、なので、

>「類」に個々の「種」のエゴをむき出しにさせないという機能があることで、はじめて「種」なるものは存在できるということなのでしょうか。

は「類」ではなくて、本来は「種」(「街的」)の機能です。しかし今は、国家(「類」ではなくある種の「種」=多様性を認めない「種」=それを種的類と呼んでいます)が他の「種」を潰しにかかっている、ということでしょう。

その方法は意外と簡単で、「個」を「消費者」として均質化してしまうことです。それが「みんな」です。そんな時代だからこそ、小泉チルドレンが存在し得たのだと思います。

「街的」を考えるあたしたちは、「個」は「種」から生じますが、「種」は「類」から生まれるものではない、と考えます。「類」の基は「種」です。

まず国家ありきではないと。つまりは町内会の集まりが国家だと考えてみると、そこのあるのは「他治即自治」でしかなくて、そしてそこに流れるのは「種」が多様体でであるための必須要件である「個」の不平等の否定なんですね。なので、

> でも「類」が不合理を受け入れるとは思いません。
>「種」は「個」の不合理を受け入れ、「類」の不合理も受け入れるというとんでもなく強靭な胃袋をもたなくてはならない。
>そしてそれでこそ「種」だと思うのですが。

というコーギーさんの意見はまったく正しいと(あたしは)思うのです。それにはやはり町内会がしっかりしなくてはなりません。

投稿者 ももち : 2008年09月05日 18:52

桃知さん。長大な解説ありがとうございました。

類もひとつの種と捉えればいいのですね。
国家という特殊な種が、他の種を破壊しているというのは、
まるでカプセルを割ってなかの顆粒をばらばらにしているというイメージ。もしくは、えんどう豆の鞘を割って豆をばらばらにし、それを大きなボウルに放り込んでいるというイメージでしょうか。

個と種の関係性というものはつかめるのですが、種と国家という種的類との関係性というのはすこしむづかしいですね。

でも類から種は生まれないというのは分かります。
そしてやっぱり町内会ですよね。
今住んでいるところは、町内会長は存在しているのだけれども町内会は存在していないという状態なので、まず町内会をひらくところから始めたいと思います。(笑)

投稿者 コーギー : 2008年09月05日 23:22

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