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2019年03月03日|お知らせ



笑福亭遊喬 三遊亭歌橘東西競演会 -江戸の陣- お江戸日本橋亭。

お江戸日本橋亭 お江戸日本橋亭
お江戸日本橋亭(提供:うどん星人二合さん)

午前6時起床。浅草はくもり。二日酔い。昨日は室町のお江戸日本橋亭へ「笑福亭遊喬 三遊亭歌橘東西競演会 -江戸の陣-」へ出かけた。ご存じの通り、このおふたりは桃組のイベントにはちょくちょく参加してくれていて、遊喬さんと歌橘さんを掛け合わせた(って犬じゃないんだから)のもあたしなので、責任者出てこい、って云われたらあたしが出て行くしかないのであって(たぶん)、云われる前に自発的に出て行ったのである。

歌橘さんは、桃組では「あし歌」の方が通り名だろうが、昨年めでたく真打になって「歌橘」になったのである。※1 芸人の名前が変わるというのは、情報は普遍だけれども、人間は変わるということの典型的なかたち(の名残)であって、あし歌の頃の歌橘さんと、今の歌橘の歌橘さんは違う人間なのである。

そもそもあたしも歌橘さんなんて呼んじゃいなけい。歌橘師匠と呼ばなければいけない。師匠は一番偉いのである。その下に先生がいる。落語家(師匠)から国会議員(先生)になるのは格下げなのである(by 三遊亭圓歌師匠 中沢家の人々・完全版※2。だから談志師匠も先生から師匠に戻ったのだ(たぶん)。その歌橘師匠、「紺屋高雄」でトリなのであった。噺家は噺を自分のモノにすることで変わる。でもそれには時間がかかる。つまり「贈与」である。落語とは贈与でありキアスムである。

キアスム

けれど解釈は最速でなくてはなくてはなりません(@ジャック・ラカン)なのであって、落語というのは、噺家は勝手にしゃべるだけ、あとは聴いている方が勝手に想像することで成立する。だから聴いている方の想像界も快速でなくてはならないのだけれども、そのためには聴いている方にも根性がいる。根性とは語彙のことだし、語彙とは象徴界のことである。だから噺家は語彙を操ることで想像界を支配する。

遊喬さんの落語は快速である。大阪の噺家には真打制度はない。なので遊喬さんは遊喬のままである。しかし落語は贈与であることでこの人の芸は確実によくなっている。あたしは遊喬の喬は侠客の狭だといっているけれど、遊喬さんは、狭のある噺になると、寅さん(渥美清)の啖呵売を聴いているような爽快さがでる。この日の演目は「看板のピン」と「住吉駕籠」。それは快速であったと同時に上方の言葉は反則だよなと思う。上方の言葉は、象徴界と想像界に時代的な境界がない(というか今の生活者の言葉である)。それは古い話でも時間軸を超えてしまうということなのであって、東京の(落語の)言葉よりもリアリティがやたらと高くなる分、解釈は快速となる。

ということで秋には「大阪の陣」があるはずなので、それにも出向く予定でいる。

※注記

  1. あし歌改メ三遊亭歌橘真打昇進襲名披露祝賀会で鏡割りをさせていただいたこと。 参照
  2. 中沢家の人々・完全版 中沢家の人々・完全版

    三遊亭圓歌
    2005年7月27日
    オーマガトキ
    2300円(税込)
Tags: 落語

Written by 桃知利男のプロフィール : 2009年03月22日 09:20: Newer : Older

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