FROM MOMOTI.COM

サイボウズOffice10へのバージョンアップをやりませんか。

2019年03月03日|お知らせ


2006年06月02日(金) 

嫌われ松子の一生。

午前6時45分起床。浅草は曇。昨日は映画の日で、1000円で、「嫌われ松子の一生」を観てきた。
 → http://kiraware.goo.ne.jp/index.html

下妻物語

なぜこの映画なのかといえば、監督が「下妻物語」の中島哲也だから、というのが唯一の理由である。ご存知の方はご存知のとおり、今や「下妻物語」は(私の講演やセミナー等で)郊外化の教材となっており、そこではジャスコがその象徴として描かれている。

エレクトラコンプレックス

今回の「嫌われ松子の一生」については、まったく予備知識なしで観たのだが、(一回目の感想としては)これはエレクトラコンプレックス映画だな、というものだった。

松子は、とにかく誰かを愛している――愛されている――(と思っている)ことで自我を保っている。それは幼い頃から、病弱な妹ばかりへ愛情を注ぐ父から、自分は愛されていないのではないか、という思い――父からの愛への欲望――からのものであるとして描かれている。

この映画は、そんな思いを、一生背負い続けた女の物語であって、松子の人生の遇有性は、ひたすら不幸へのアルゴリズムを刻む。松子は転落していく女である。この映画はただ転落していく松子を描いていくことで、つまり、この映画のテーマは「不幸」でしかないわけだ。

パトリ 

しかし、この不幸な女の最後の住居は、故郷の川の風景に似ている荒川の近くであって、彼女は荒川をみては故郷を思い出し涙する毎日を送るのだが、故郷とはつまりはパトリのことである。

それは松子にとっては、父的なものであり、自らを――良い意味でも悪い意味でも――育て、育んだものであり、「私」そのものでしかない。不幸であれば不幸である程、結局最後はパトリしか自我を担保するものはないんだよな、と思った私は泣けた。

こんな悲しい題材を、中島哲也監督は、ディズニー映画を思わせるファンタジー作品――というようりも、劇画調のギャグ漫画のように――スーパーフラットに仕立ててみせる。

この不幸なファンタジーというキアスム的なハイブリドは、私の脳みそでどこまで感じ取れたのかはよくはわからない。あと何回か観る必要があるのかな、と思っているけれども、あまりに不幸すぎて、もう一度みることなどできはしないだろう。(

夜、ようやくMovableTypをサーバーにインストールしてみた。まったくのノーマル状態。

投稿者 momo : 2006年06月02日 14:33 : Newer : Older

このエントリーのトラックバックURL

https://www.momoti.com/mt/mt-tb.cgi/2