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2019年03月03日|お知らせ


2006年12月08日(金) 

前宮崎県知事も逮捕されるらしいこと、もしくは『桃論』について。

午前7時起床。浅草はくもり。

安藤前宮崎県知事、逮捕へ 業者選定で「天の声」

宮崎県の官製談合事件で、安藤忠恕前知事(65)が部下に指示を出して談合を主導した疑いが強まったとして、宮崎県警捜査2課は8日、前知事に任意同行を求める。談合容疑で取り調べ、容疑が固まり次第、逮捕する方針。福島、和歌山両県に続き、知事の刑事責任が追及される事態となった。(引用:Chunichi Web Press

予想していたこととはいえ、あらためてこの報道がなされることは、私には大きな落胆の材料でしかない。

今年になってから夕張市の財政破綻、岐阜県の裏金問題、福島県、和歌山県、宮崎県の知事の逮捕、そして昨日書いたような、相次ぐ市単位での官製談合の摘発等、自治体のあり方を根本から問うような事件が相次いで表面化したた。

そして(これはまだこの戯言では触れていないが)、(先送りされた格好の)道路特定財源の一般財源化等の財政問題も、公共事業という産業に深いダメージを与えている。

これは間違いなくあるシステムの終焉を意味しているのだろう。それを簡単にいってしまえば、開発主義というシステムの終焉である。

つまりよりわかり易くいえば田中角栄的なシステム、金魚論的なシステムの終焉である。その終焉(それもハードランディング)が、われわれの時代におきているということだろう。

桃論それもまた予測していたことではある。たしかに私は『桃論』をこの終焉がくることを予測して書いた。

そしてその終焉を、ハードランディングにさせないことを、そして時間をかけておこうなうことを主張しながら、公共事業という産業のIT化(つまり、私の語彙では社会化=適応)の問題としてそれを捉えていた。

なぜなら、地場の建設業は、政策的につくられたものであり、脱農業という日本の産業構造転換のための下支えの装置だったからであり、その産業構造の転換をさらに下支えした「種的基体」(地域社会)の下支え装置であったからだ。

であれば、その終焉は、政策的にかつ時間をかけておこなうべきだというのが私の主張であった。さもなければ、公共事業という産業の終焉は、地域社会(贈与の関係を基底にもつ共同体)の崩壊を意味するだけでしかないからだ。

そこに美しい国がうまれるはずもない。(安倍政権は表面上は保守を装ってはいるが、それを壊す市場経済システムを優先することで、強烈な矛盾を孕んでいる)

たしかに、われわれはまだ、モダン(近代)でさえもないかもしれない。しかしモダンでなければならない理由もない。

投稿者 momo : 2006年12月08日 08:54 : Newer : Older

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あなたは道路特定財源の一般財源化に賛成? 反対? from ヤフーアンケートから見る現代社会 (2006年12月20日 13:35)

あなたは道路特定財源の一般財源化に賛成? 反対?(実施期間:2006年12月6日~2006年12月12日)道路財源の一般財源化、反対が上回る ...

コメント

やはり、日本は西欧的な意味でのモダンに耐えられるのか、モダンを迎えるべきであるのかというのは、私には非常に疑問です。

「贈与」とはその行った先の効果が自分で見える場合においてのみ有効なのだと私には思われます。これまでの日本において家族の伝統とか、地域社会のうるさいおじさんおばさんを通じてしたささえされてきた「贈与」の有効性が一気に失われ、かといって西欧流の社会システム全体の中で「贈与」が有効なのだと信念のレベルから確信できるわけではないというのが現状なのではないでしょうか?

好むと好まざるとにかかわらず迎えるこの終焉のあとの世界は、東京と名古屋を除けば江戸時代のムラ社会にきわめて近いのではないかというのが私の直感です。

投稿者 ひでき : 2006年12月08日 15:52

>ひできさん。

>江戸時代のムラ社会にきわめて近い……

贈与的共同体としてのでしょうか?
‐「共同体の原理」
http://www.momoti.com/blog/2006/08/post_111.html

・共同体は農村的「有縁」の世界。安定した同一性をそなえた空間。
・農業民。定着。土地に人々は結びつき、それを土台として権力は成り立つ。
・人々を結びつけるさまざまな「縁」でできている。
・人の社会的地位はその縁によって決定される。
・強力な「同一性」の原理が働く(縁でできた集団は、自分たちを外の人々から区別しようとする)。
・個性をならして均質なものにする。
・排他的な超越する神。「正しさ」を支える法の神。共同体の内部コミュニケーションを維持する。

それとも「イエ」でしょうか?
http://www.momoti.com/blog/2006/06/ec_6.html
イエの内部の関係は、しばしば擬制的な血縁として理解されることはあるが、原則的には血縁関係を超えている。イエヘの参入は、自覚的な選択意志に従う。この点で、イエは、契約に似ている。だが、一度イエのメンバーになれば、イエヘの帰属は、無期限で無限定である。この限りでは、イエは、血縁集団に類似している。それゆえ、フランシスしシューは、イエ内の関係を統括する原理を、「縁約 kin-tract」と呼んだ。イエは、(参入についての)選択の対象として措定される限りでは、経験的な実体だが、他方で、一度参入した後には、メンバーにとって生の不可避の前提として機能するという点に着眼すれば、一種の超越論的な条件のごときものである。ロバート・スミスも述べているように、西欧にイエと類似したシステムを見るとすれば、それは[法人 corporation]である。
永続的.な存続が、イエのメンバーの共通の集合目標となっている。その世代間的な持続は、(擬制的な)系譜的連続性として了解されている。
イエは、上記の集合目標のための経営体である。そのメンバーは、目標との関係で、機能的な役割を与えられ、その役割の全体は、階統的な秩序を構成する。
各イエは、高度に自立的である。イエ成員の生活資料は、しばしば、自給自足的に調達される。イエは、ときに自己防衛のための軍事力を有することもある。婚姻が内婚的な場合すらある。イエの規範的な秩序は、外部の集団から高度に独立している。すなわち、イエは、サンクションのような統制メカニズムに関して、外部からの干渉を基本的に受けない。たとえば、徳川時代において、最大のイエである幕府は、各大名のイエの内政に干渉することはできなかったのである。

投稿者 momo : 2006年12月08日 16:37

リンク先の記事を印刷して読ませていただきました。

この用語の使い方で言えば「イエ」を私はイメージしていると思います。

以前多少やりとりさせていただいていたように、もともと水利権の扱いに代表されるように日本の村々はかなり自治の機能をもっていたようです。

http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20061028/p1

まさに水利を例に出せるほど土木技術と村の自治とは深い関係にありました。これはそのまま現在の農業土木、そして議論が沸騰している道路整備の問題と結びついていると思います。

ここで現代の新しいテクノロジーにさらされているわれわれにとって二つの現象が起こっているように私には思われます。

以前は「イエ」的機能を持つ関係性は物理的距離に大きく影響されていたのが電話やメールなどにより、伝統的なインフラにかかわらず関係を結べることになったということがひとつ。これはたぶん以前だったらご縁を結ぶことが難しかったももちさんと私がこうして議論させていただいたいていること自体がその結果ともいえます。こうした新しい関係性は「贈与」の網の目が支配する地域、物理的インフラに左右されないためますます土木建設技術を直接には必要としなくなってきています。

次に道路や通信網が整備されればされるほど一極集中がすすむという矛盾です。これまで地域にいる人間にとって鉄道や道路網がすすむことは地域の利便性がすすみ、地域の振興に直結すると考えられてきました。しかし、現実は人口の半分近くが関東圏に集中するなど、東京圏、せいぜい名古屋圏の一人勝ち現象が起こり、地方は大阪を含め疲弊しきっています。

いずれも新しいテクノロジーとイエ機能のある関係性との間から、土木建設技術が衰退していくことが帰結されていくことだと悲しいながら認めざるを得ないように思います。ただ、この関係性がより広い国内全部、あるいは地球圏といった非常に広い範囲で一人一人が捉えられるようになるとき、あるいはまったく別な環境を保護し、地域から地球全体への関係性を作る産業として土木建設を位置づけられるかもしれません。

投稿者 ひでき : 2006年12月08日 17:34

>ひできさん
コメントありがとうございます。
このあたりは、面白いですね。一度きちんと意見のすりあわせをしておきたいところです。

以下、私の考えかたを概観的に書き留めてみます。

私は「イエの原理」をある意味理想のネットワーク(トーラスとひねりの)と考えているわけですが、それはこの国には、かつてあった中景(象徴界)のある風景ですね。それはある意味〈公/私〉の区分の曖昧な社会でもあります。

この国の近代化はその否定からはじまったのでしょう(脱呪術化)。ですから、そこにモダンとして〈私〉が入りこむことで、ラカンの「ボロメオの結び目」的な心的システムも成立してきたのが日本の戦後の流れなのだと思います。

しかしこの国は、言語的にも、社会制度的にも、原初抑圧の弱い社会であることで、われわれはまだモダンにもなれなかったと。(笑)

モダンを中抜きして、ここに生まれてきたものは、極めて想像界的な紐帯なのだと思います。それはまず隣人愛の対極としての家族愛的な紐帯であり、イエとしての家族が崩壊を始めれば、ネットの世界に臍の緒をつなぐか、部屋(子宮)にひきこもるかです。

はたしてこれが(新しい)イエ的なシステムになりえるのか、と考えているわけですが、しかしそれはそれでかなり難しいだろうと(なにしろ今、象徴界には世間しかありません)。

イエ的なシステムは、この国の高度経済成長期まではたしかにあったのだと思いますが(超合理性の構成要因のひとつの第四象限としてですね)、ではそれを破壊したものはなにか。

私はそれを「資本の運動」とか「形式合理性」とか「理論合理性」としていますが、じつはそれを呼び込んだものが、地方の公共事業という産業がその存在の基底とした開発主義であるあったことで、しかし地方は開発主義の延命でしかその種的基体を守れないことで、そして開発主義は本格的に終焉を迎えたことで、この問題は複雑さを増します。

ではその運動が共同体的なものを徹底的に壊したあとに、またイエ的な共同体が生まれ得るるのかと考えると――この考え方はある意味マルクス的でもあるのですが――、私はそこまで楽観はしてないと。

イエ的な共同体が壊れたあとに生まれてくるもの(それが共同体なのかどうかはわかりませんが)は、結局は想像界的なものでしかないことで、確かに互恵的利他性の世界ではあるのでしょうが、それはある意味、東浩紀のいう動物化的な世界ではないのかと考えています。

それはイエ的なシステムが持っていた利己性の〈悪〉の縛りを、外部装置として(法律とか、監視システムとか)もつしかありません。
 → 改正官製談合防止法が成立したこと。
 → http://www.momoti.com/blog/2006/12/post_342.html

それがいいことなのかわるいことなのかはよくはわかっていません。しかし、その社会的コストを考えれば、そして破壊してしまうことで失うもののコストを考えれば、そういう装置は、できれば多くの部分はコミュニティ(共同体)として、内部的にもっておいておいた方がよいのではないかと考えています。

そしてそれが私たちの依って立つ大地であることで、私たちの心的システムは、足場のない不安定さを少しは解消できだろうし、そこから生まれる創造性が私たちが、グローバルな社会で生きていくための道具(武器)になりえるのではないのかと考えています。

なので今守れるパトリはできる限り守っていこうとしています。つまり私は保守の立場をとっているのですが、勿論、この立場を取っているからといって、今回の一連の贈収賄事件は許せるものではありませんが。

そしてここから、全体としての経済を考えています。それは交換はあるものとして認めたうえで、あえて贈与と純粋贈与を考えていこうとする態度になっています。

投稿者 momo : 2006年12月08日 23:29

ももちさん、

本当にいろいろお話したいです。

その意味で、今日はまたとない機会だったのですが、非常に残念です。

投稿者 ひでき : 2006年12月09日 10:02

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