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2019年03月03日|お知らせ


2007年06月19日(火) 

巣鴨のとげぬき地蔵をお参りしてきたこと。

午前6時起床。浅草は晴れ。今日から週末まで鹿児島、熊本と出張である(暑いのだろうな)。

とげぬき地蔵

巣鴨のとげぬき地蔵

さて昨日は、なぜか早稲田から都電荒川線に乗り、巣鴨のとげぬき地蔵(高岩寺)をお参りしてきた。

ご一緒された方は皆さん、頭に水をかけておられたので……

まあ悪いところは”頭”ということなのだろう。w 当然に私も、そうだったのだけれども、ね。

巣鴨地蔵通商店街

世の中は子宮的構造に溢れていることが分かるだろう――私に言わせれば、世の中は子宮的構造でできていて、それに反したものは、えてして気分が悪い、ということになる。インターネットでさえ、へその緒のつながる先としてのでっかい子宮でしかない。 私たちの子宮的なモノへの憧れは強い。それはある意味当然であって、人間も宇宙の法則に従うというとでしかない。それはけっして大げさなものではなく、私たちの身体に宿る――私たちはそこで人間の身体を纏った――等身大の約束としてである。 (「等身大の約束―子宮的構造。」)

とげぬき地蔵までは、巣鴨地蔵通商店街庚申塚駅で下車し、巣鴨地蔵通り商店街を歩いた。

この商店街も立派なアジールであり、とげぬき地蔵を子宮とした、産道(産道)となっている――つまり子宮的構造だね。

ただ普段、浅草というアジールで過ごしている私には、強い結界もなく、それはどこか近所の延長のようなものであって(まあたしかにそういえないこともないのだが)、私も年寄りの原宿に違和感がなくなりつつあることをひしひしと感じてきた。それははたしていいことなのだろうか。

投稿者 momo : 2007年06月19日 07:16 : Newer : Older

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