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2019年03月03日|お知らせ
『ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか』 鈴木謙介 を読む。
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鈴木謙介(著) |
今、建設業界に投げかけられている言葉である、可能性の閉ざされた場所を出て、より広い世界で新しい生き方をしよう、というモチーフは、これまで何度も映画やサブカルチャーなどで語られてきた。
しかし、いま手元にある可能性を捨てて「外部」を志向することによって、人が成長するという普遍的なテーマは、ネットに接続されているはずの現代社会で、なぜか見出すことができない。そのことを私たちはどう考えるべきか。
上記は、『ウェブ社会の思想』 p120 からの引用でしかない。もちろん、「建設業界に投げかけられている言葉である」は、私が付け加えたものだが。
このような状況を、宮台真司は「島宇宙」と呼ぶのだけれども、この「島宇宙化」と、今、建設業に起きていることは、よく似ている、と私は考えていたりする。
鈴木謙介は、その背景には「情報社会における宿命論」という要素がある、という。
「情報社会における宿命論」に深入りする気力はないが、それを簡単に表現するとすれば、例えば以下の引用はどうだろうか。【鏡像(0324岩手でのミニ・ゼミナールの反省)】から一部抜粋。
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これが「私」だとしても、別に不快ではない。
建設業の背景にあるものは、これと同じだ、とは言わない。
しかしそこにあるのも、ある種の「閉じ」(宿命論)なのであって、それを「情報社会における宿命論」と対比しながら考えることは、意味がないこともないだろう。
ひとつ言えることは、「住めば都」、だということだ。
私たちの脳は、それが自由とは程遠いものであったとしても、慣れてしまった「環境」を居心地よく感じ、私たちは、そこから外へ出ることには、消極的なのである。
それを、自由ではない、と批判的に言うことは可能だが、その批判(自由の尺度)が正しいのか、と言えば、正しいのかもしれないが、正しさとそれを〈他者〉に強要することとは、違う。
たしかに、私が考えていることは、『ネットに接続されているはずの現代社会で、なぜか(別の可能性を)見出すことができない』のは何故か、ということでしかなく、その原因は、鈴木の言うように、人はある種の「宿命論」というか「島宇宙」に閉じてしまうからだろう、とは考えている。(つまり、円環もしくは子宮、もしくはへその緒がつながっている)。
ただ、そういう心性をつくりだしているのは「情報社会」だから、だけではない、とも思う。
たぶん、戦後生まれで、戦後育ちの私たちの「こころ」は、そういう構造になっている(もしかしたら、日本人の構造がそうなのかもいしれない)、としか言えないのじゃないだろうか、と。
だからこの国では、(環境が)個を強調すればするほど「島宇宙化」する。
そんなもので(私は)、世界につながるための基体としての「パトリ」を強調し、「技術的に偶有性(誤配)を高める」ことを考え、「骰子一擲」のすすめを言っているのだけれども、(繰り返すが)それを〈他者〉に強要する権利など、私にはない。
と書くと、これもまた「閉じ」てしまう。
閉じたままでも生活ができればよいのだが、(私は、たまたま)そんな風には生まれ育たなかった。(物理的にも、精神的にも)。
そして、これを打開する方法を試行錯誤してきた。
それを簡単に言ってしまえば、政治的に動く、ということだ。
政治的に動く、とは自分の信じていることを、あえて、他者に押しつけることで、だから私は今の仕事をしている。
それも、〈他者〉に強要する権利など、私にはないことを、知っていて「あえて、やる」。
そこに〈情報/伝達〉の差異、としてのコミュニケーション(宿命じゃない可能性)は生まれる、(かもしれない)ということなんだけれども、まあ、それもけっして楽な生き方じゃないのよ、と。
というような内容の本である。(たぶん)
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: 2007年09月14日 00:00: Newer
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