橋本治が大辞林を使う

橋本治が大辞林を使う

橋本治(著)
2001年10月20日
三省堂
1200円+税


この本は古い本だけれども繰り返し読んでいる。なぜかといえば、どこから読んでもそれなりに読めてしまうからで、本にはどこからでも読めるものと/そうでないものがある。日常的に繰り返し読める本というのは、どこからでも読める本じゃないとつらい。橋本治のこの本はどこからでも読めるわけで、何気なく書かれているつひとつのフレーズが鍛えぬかれているなと思う。

そしてあたしは(私自身がそうしか書けないように)、「私は」と書かれているテクストが好きなのであって、橋本治は「私は」と書く人であることで読みやすいのである。「私は」という補助線を日本語で使っても「個」にはならない。〈他者〉が生まれる。

この本は、日本語は「音」なんだよね、と言っていると私は勝手に解釈していて、日本語音派である私は橋本の云うことにいちいち相槌を打ったりしている。それがそんなに重要なことなのかと言えば、ものすごく重要なことなんだ、と私は言いたい。

日本語の文章そのものは、口から出る言葉を書き留めたものです。それをしたいと思って、それをするための文字を持たなかった古代の日本人は、「漢字」という渡来した外国の文字を流用して、それをしました。万葉仮名で書き留められた『古事記』や『万葉集』の言葉は、だからそもそも、「口から出た言葉」です。そういうことをしていながら、日本人は、この文字や文字によって書かれた文章を、「正式」とは見なしませんでした。日本語の文章の「正式」は、漢字書かれた漢文です。最近では「英語公用語論」というのも出て来ていますが、官僚の頭の中は奈良時代とおんなじなのでしょうか?(p223)

「欲する」は「ほっする」と読む。「よくする」とは読まない。しかしどちらの音も文字にすると「欲する」となるし、「よくする」は「良くする」でも「好くする」でも「善くする」でもあったりする。日本語はそんな曖昧さにあふれていて、この曖昧さはどうしようもない。けれど私はこんな「日本語の構造」を日本人(日本語で考えて表現する人々)のハイブリッド性=創造性の根拠にしてきた。

ボロメオの結び目日本語は中空構造(中心がない)であることで去勢装置としては少々虚弱体質気味である。東京のど真ん中には皇居という中空があるように、そのことで、私たちにはマクロな中心が出来上がらない。

けれど心の構造から象徴界はなくなりはしないので、ミクロな中心はできあがる。そのミクロ的なものは、やたらに多く多様でそして弱い。つまり多神教徒日本人ここにありなんだな。島宇宙はそんなあたしたちの浮気心の象徴だろう。

しかしそのことで、私たちの脳みそはかなり柔軟(いい加減)なのであって、色々なものを取り入れては自由にブリコラージュしてしまう。クリスマスを祝って初詣に出かけるし、神前で三々九度をやりながらウエディングケーキ入刀なのである。日本製の携帯電話は(今のところ)世界的なシェアは低いけれども、世界で一番複雑で多機能で面白い。TVが映るケータイなんてアメリカ人には考えつかない、と言うか欲しがりもしないだろう。

私の指導している「考える技術」は、ぶっちゃけ日本語で〈反省〉として書くことでしかないのだが、反省=「我思うゆえに我あり」(コギト)は科学的の始まりである。ただこれをやり過ぎると、思考が科学的・蜜画的になり過ぎてしまって、人生に彩りや音を与える略画的がなくなってしまうと批判されてもいる。しかし私は日本語でするコギトである限り、それは心配する必要も無いのよと言ってきた。

なぜなら日本語で〈反省〉したところで、我(私)は中途半端にしかあらわれないのである。なぜならそもそも日本語に中心がないからだし日本語を使う〈私〉にも中心がないからだ。

それは(日本語を使う日本人の)特性であることで、つまり私たちの先祖がやってしまった「漢字」という渡来した外国の文字を流用して口から出る言葉(日本語)を書き留めてしまった」ことに始まってしまっている。問題はむしろ日本語を使わなことで「個=利己的」はより強調され、語彙というデータ(マッシュアップの材料)は減り、〈反省〉がないことで科学的にもなれないことにある。

このあたりの説明は面倒なので端折るけれども、曖昧な中心の無い日本語を使って科学的をすることで、微妙な「超合理性」のようなものが出来上がる瞬間がある。だからこそ「んげ」「ほげ」だけじゃ駄目なのよと。ちゃんと日本語で書けといい続けてきた(それは誰よりも私自身に向かって)。

なので私たちははまだモダンでもないのかもしれないし、そのことに時々うらみつらみを言ったりもするけれど、私は(毛嫌いしながらも)ギャル文字\(^o^)/だし、マッシュアップは好きだし、アールブリュットに創造性の深遠を感じていたりもするし、それを私たちの強みとは云わないけれども、私たちはそんな風にできていると言ってしまう。

それが時代(環境)に合えば日本人の時代であり、合わなければ日本人は遅れていると言われる。ただそれだけのことなのでね、「日本は遅れている……云々」などという悲観論はどうでもよいのだ。

私たちはただそんな風にできているから日本人なんであって、それをグローバルスタンダードにそぐわないといわれても、「だからどうした」としか言いようがないのである。当たり前田のクラッカーである。

むしろ問題はいつの時代にも、その中心に無理やりなにかを据え付けようとする動きにあって、つまり橋本は、その正式でない口語体でさえ、お上が正式なものとしようとしたのが標準語だという。「官僚の頭の中は奈良時代とおんなじなのでしょうか?」というのは、まあそんなもんでしょうねなのであって、なぜなら官僚は中心をつくる機関だからだ。

でもあたしゃ標準語ぐらいで目くじらを立てたりはしない。どんどん漢字(語彙)を簡素化してしまうのも微妙な発音もなくしてしまうのも気に入らないが、私はアナーキストでもリバタリアンでもないけれども、国は「類」であるべきで、その機能は「種」の利害調整でいいのであるから、その利害調整装置としての標準語はありだと思うのだ。

それを強調しようが強要しようが、それが日本語であるかぎり日本語の中空構造はなくなりはしない。そして方言も絶対に無くならない。気をつけなくてはならないのは「英語公用語論」のようなことを言う方々である。

(1)収益を求める自由競争の優勝劣敗を放置するほど
(2)社会は不安ベースないし不信ベースで回るようになると同時に
(3)空洞化した社会は自信を失って何かというと国家を頼るようになります。

「(1)過剰流動性→(2)不信ベース→(3)国家頼み(→(1)過剰流動性…)」という循環を回すのか
「(1)流動性制約→(2)信頼ベース→(3)社会の自律(→(1)流動性制約…)」という循環を回すのか
(宮台真司:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=164

標準語は日本語の過剰流動性であり相当にヘタレでもある。けれど日本語である限りそんなに流動性過剰でもない。なにしろ世界では通用しない(けれどもブログでの世界シェアは驚くほど高い)。「英語公用語」にでもなったら超過剰流動性が起きて国家頼みのヘタレは減るかもしれない。なぜなら日本という国家は消えてしまうからだけれでも、日本語を失ってまであたしゃ生きたくもない。

一方、流動性制約とは標準語ではないパトリの〈ことば〉としての方言であり生活言語のことだ(ある業界だけで通用する専門用語もそんなものだろう)。それが機能することは「(1)流動性制約→(2)信頼ベース→(3)社会の自律(→(1)流動性制約…)」という循環の基底でもある。であればグローバルな時代に空っぽな私の中心からパトリの言葉で叫ぶことをわすれちゃならないのだろう。「んげ」「ほげ」とは違う〈生活人〉としての〈私〉のワークやレイバーに密接したものとして。