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2019年03月03日|お知らせ



道場はたのしい―武道は最終的にはどれも「主体と他者」の古典的な哲学問題に帰着する by 内田樹。

柔道剣道昇級試験

昨日は少年柔道と剣道の昇級試験を見学に浅草警察署にでかけた。私は一応柔道二段であって子供に柔道をやらせたのは本人の希望の前に私のすすめである。私は柔道をやってよかったなという記憶はあるけれでもその反対はない。もちろん競技もやったが私の実力なんてたかが知れているのである。よかったのは競技成績ではなく体が会得したものだ。それは型といっていいものだろうが内田先生が[宴会道心得]で書かれているようにはうまく書けるはずもないのでぜひそちらを読んでいただきたい。

武道は最終的にはどれも「主体と他者」の古典的な哲学問題に帰着する。つねづね申し上げているように、「主体」概念の根本的改鋳抜きには武道におけるブレークスルーは成り立たない。モナド(単 子)的な主体が「敵」とゼロサム的に対峙しているという構図に固着する限り、武道の術技は向上しない。

うちの餓鬼は飛び級で昇進。まあ学年にあわせたというだけのことだろうが本人は嬉しそうだったのでよいのである。稽古をすれば昇級する。しなければ昇級しない。黒帯までは10年早い。型を学ぶには時間がかかる。自分が成長するには時間がかかる。それがわかればよいのだと思う。バロックの館まずは基本をしっかりと身体で覚えることだ。それはバロックの館の1階部分(モナドとしての個人の基体)のことをいっている。武道はそれを身体的な記憶として訓えてくれることで尊いのだ。

この日は稽古納めもかねていて試験の後はみんなで昼餉である。お母さん方がつくってくれたトン汁と山口家のおにぎりを頬張る。私もお相伴させていただいた。

トン汁
トン汁+山口家のおにぎり

皆で飯を食うということについても内田先生が

宴会というのも厳しい言い方をすれば、いわばある種の「共同的身体運用」である。そこで自分のいるべき場所を探り当て、自分のなすべき仕事を見つけ出し、「宴会する共-身体」の一部になり切ることが実は求められているのである。知らなかったでしょ。

と書いておられる。まったく持って卓見だが、桃組もそれを承知していて「IT化は飲むことだ」を実践しているのは意味がちょっと違うか。(笑)

Tags: 内田樹 , 柔道

Written by 桃知利男のプロフィール : 2007年12月25日 15:53: Newer : Older

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