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2019年03月03日|お知らせ



「街的」ではそれを「いなかもの」というのだ―橋下大阪府知事と財政再建策と「文化」。

「文化」はココロの器です。これに触れ、人は感動を通じて感情的に成長し、より力強い人間性を獲得して、難局に対処できる器量も養うことができる。そういうコントロールができるようになれば、少なくとも大切な職業上の会合で、自分の感情を抑えることができず、嗚咽するようなことは減るはずです。

「精神環境」は目に見えません。それを支える文化的な価値は、おなかが減った時には必ずしも腹いっぱいにはしてくれません。しかしココロの置き所が無くなった人に、人間の暖かい感情を取り戻させてくれる、本当にかけがえのない価値を持っている。 一方で、「キレる」子どもの心の荒廃や教育を問題にしつつ、同時に「財務」という、顔のないのっぺらぼうの数字によって、せっかく作ったはずの「心の社会資本」をつぎつぎに壊してしまうような、全体像とバランスを欠く政策観はまったく感心しません。(数値目標」が判断を誤らせる from 伊東 乾の「常識の源流探訪」 Bonline(日経ビジネス オンライン)

「文化」支援

少なくとも大切な職業上の会合で、自分の感情を抑えることができず、嗚咽するような」と揶揄されているのは、もちろん橋下徹大阪府知事であって、伊東乾さんは、橋下府知事のやろうとする「文化」への支援カットを嘆いているのだ。

そういう行政の動きもあるかと思えば、三菱商事は『三菱商事アート・ゲート・プログラム』を創設し、若き才能のあるアーティストの育成とキャリア支援をすると言っていたりする。

日本を代表し世界をリードする総合商社である三菱商事株式会社は若き才能のあるアーティストの育成とキャリア支援を目的として『三菱商事アート・ゲート・プログラム』を創設し、年間200点の将来性のあるアーティストによる現代アート作品を公募により購入いたします。

エリートは文化をつくれない

(あたしは日本にエリートなんかいないと思っているが)橋下府知事(とそのブレイン)も、三菱商事(の社員)も、無理を承知で言えば官僚的なエリートと呼んでいいのだろうが、日本の官僚的なエリートが「文化」をつくったためしはないのである。官僚ができるのは銭勘定ぐらいなもので、だから両方とも銭勘定がベースなのである。

江戸の町人文化(サブカルチャー)を代表に、日本の文化は支配者階級――あえてそう言っているのであって、今の日本には階級はない。あるのは階層だけである。階層とは、お金に換算できるものを〈買える/買えない〉の二分コードで区分したときに生まれるツリー構造である――じゃなくて、被支配者階級(これもあえてだ)が勝手につくってきたものだ。

「文化」はお金と仲良しだ

しかし「文化」はお金と切り離すことはできないのもたしかで、お金と密接に結びつきながら、あたしたちの間に棲息しているのが「文化」だ。

もしくはお金の回りに無限小の妖精のようにとりまき、お互いの暴走を許さず、そしてお互いに養分のやりとりをしているのが「文化」とお金の関係のように(あたしは)思う。

「街的」な店だって無料経済ではやっていけないし、町内会だって三社祭だって会費と寄付金で成り立っている。オタクは消費するお金がなければ生まれようもなかった心象である。

原則反対

こう書くと、大衆が勝手に文化をつくるのなら、お前は橋下知事のやり方(「文化」への補助金カット)に賛成なのか、と言われそうなのだが、あたしはそれには原則反対なのである。

だから、財政再建策として売却を検討していた府立体育会館について当面、存続させる意向を表明したのも、上方演芸資料館の移転は、吉本側と家賃の値下げ交渉をした上で判断するのも、悪いことだとは思わない。

構築するのに大変な努力が要ったまったく途方もないもの

その理由は簡単で「文化」とか「公共」という人間がつくりだした社会的資本(ソーシャル・キャピタル)は、いちど壊してしまったら最後、《構築するのに大変な努力が要ったまったく途方もないもの》だからだ。

公共のサービス、公共の交通、公共の病院、公共の学校、それらと一体となって構築されてきた地域社会、そしてそれに裏付けされるように繁栄する大都市、こうしたことはすべて、構築するのに大変な努力が要ったまったく途方もないものなのに、それらが当然にあるものとして感じられるとき、それが構築された意味を、それが「非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持しうる発明と構築」であることを忘れてしまっているのだ。(ピエール・ブルデュー:『政治―政治学から「政治界」の科学へ』)

そして今大衆(「みんな」)は「文化」をつくれないでいるからだ。

今、大衆は文化をつくれない

創造性のトポロジー最近、「みんな」は文化をつくりだせないでいる。それは仕方がないことかもしれない。

ネタ(データ)がつきれば、得意の象徴界の機能しない創造性も働かないのである。

もはや(世界の)「エリート」が提供する「文化」スタイルなど「みんな」のデータにもなれやしない。 

世界中の「文化」(データ)は(とりあえず差し障りのない範囲で)ほぼ消費尽くしてしまった。

だから尚更「文化」を壊してはならないと考えている。(それは新しい「文化」をつくりだすためのデータだからだ)。

「文化」側の責任

橋下知事はかつて「能や狂言が好きな人は変質者だ」と言ったらしいが、 自分がコミットできない、興味のないものにコミットしている人たちは、たしかに「なんだかわからない人たち」なのである。

能や狂言が橋下知事にとって「なんだかわからないもの」であることはいっこうにかまわないが、それを「変質者」と言ってしまう(橋下知事の)語彙はかなり怪しい。それは「わかろう」とすることを拒絶しているにしか過ぎないのだが、そんな人を自らの代表として選ぶ「みんな」の語彙もかなり怪しいのである。

しかしそれも「文化」側にいる人の「みんな」への説明不足、アカウンタビリティ(説明責任)の欠如が大きいのだろうとあたしは『桃論』的に思うのだ。

今や(古い)「文化」が公共事業とたいしてかわらない扱いを受けようとしているのは、「文化」が長いこと「狭いムラ社会(円環モデル)の中だけで生きてきたからだ。

その「ムラ社会」の中だけで通用する言葉しか使わないことで、円環の外にいる「大衆」とのコミュニケーションを不可能とすれば、「みんな」(大衆)に「文化」は理解できない。理解できないのであれば、それは「なんだかわからないもの」でしかなくなる。

「文化」が「なんだかわからないもの」でしかないのであれば、それは「みんな」の〈世界〉には「なくてもいいもの」でしかなくなる。

ましてや、その「なんだかわからないもの」を知ろうとする方法(「わからない」という方法)がほとんど機能しない時代なのである。

普遍経済学それは「交換の原理」が支配的な〈世界〉の特徴なのであって、見返りは直ぐにないと気が済まない心象が支配的だからだ。

権威・象徴界

ここに「権威」(象徴界=大きな物語)でもあれば、「権威」に「なんだかわからないもの」の、〈良し/悪し〉の判断を委ねればよいのだが、「ウェブ化する現実」の時代に(つまり「みんな」の時代に「権威」は不在なのである。

「権威」をもたない「みんな」は、(いま象徴界に居る)「交換の原理」を「権威」にするしかないのだから、「交換の原理」的に不要なものは(つまり自分がお金を払って手に入れたいと思うモノ、若しくは無料経済以外は)「悪し」なのである。

理解できる「みんな」がいないのであれば、「文化」は「みんな」のものではなくなる。しかし理解できないから「みんな」であるのもたしかで、つまり「みんな」をつくりだしたのも閉ざされた「文化」でしかないのである。

そして「文化」はますます「なんだかわからないもの」となった。ただ「なんだかわからないもの」を排除しようとするのもまた「ムラ社会」なのであって、「街的」ではそれを「いなかもの」というのだ。

政治―政治学から「政治界」の科学へ

ピエール・ブルデュー(著)
藤本一勇(訳)
2003年12月30日
藤原書店
2310円(税込)

ということで、午前5時40分起床。浅草は雨。今日は熊本県人吉市まで出掛ける。

Tags: 大阪 , 橋下徹

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年06月03日 06:33: Newer : Older

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