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2019年03月03日|お知らせ



社長の仕事。

桃知午前6時起床。浅草は晴れ。昨晩児玉での夕餉を終えて帰ろうとすれば、電話が鳴って清司で突然の宴会となる。メンバーは建設業の経営者の方々で、桃組と初めてお会いする方が半々+1。

そんな宴席の話題が、経営のはなしになるのは(無粋だが)しかたがないだろう。つまり、今日の戯言は昨晩の続きのようなものである。

経営を取り巻く、マクロ経済こそが、建設業の経営を左右している

地場の建設業の経営というのは、なんだかよくわからないもののひとつなわけで、鉄蔵さん曰く、マーケティングのない(というか機能しない)業界なのである。

もっともそれは、公共事業依存率が大きい場合で、民間建築をしていれば、マーケティングは機能する。しかし今のような建築不況の中では、個々の努力(経営のミクロ的な部分、サプライサイド重視)が報われる可能性も小さい。

経営を取り巻く、マクロ経済こそが、建設業の経営を左右しているのはたしかで、まあそれは、どんな産業においても同じことだ。アメリカのような自由放任主義(レッセフェール)的な経済システムにおいてさえ(だからこそか)、金融危機が起これば、住宅だけではなく、すべては売れない。

つまり需要が決定的に落ち込んでいるとき(景気後退=今)、個々の企業(経営)は何ができるのだろうか、といえば、それはずっとサプライサイド、自己責任を強調するものだった。例えば経営(施工)を合理化し、経費を圧縮してコストダウン)、商品の値下げをし、良いものを安く、と。しかし安ければいいという優位性は、(特に建設業の場合)続くものではなく、それに他社が追随してしまえば、経営環境ははさらに悪化する。

合成の誤謬 

つまり、自己責任と競争を強調する、サプライサイドエコノミックス的な、企業のミクロ的な努力は、結果的には、従業員の解雇や、賃金の低下に結びついてしまうことで、マクロ的には、さらなる「合成の誤謬」(需要の低減)をまねきかねない(そのことで益々地域経済は疲弊する)。

「合成の誤謬」とは、一人一人の行動としては 「善」――この「善」を決めているものはなんだろう。経済でいえばマクロ的なものが指し示しているものだろう。例えば自己責任とか、レッセフェールとか――であることを皆が行うと 全体としては(つまり社会としては)誤った行動になることをいうわけで、「公共工事という産業」を取り巻く 環境、そして、そこで行われているミクロ的な行動とは、まさにこの状況なのであった。

この主たる原因は、政府の 経済政策への偏り(新自由主義への偏り=似非マーケット・ソリューション)にあったことはたしかで、たとえば構造改革では、企業をしごき、労働者をしごき、市場原理を阻害するとの理由で、事業者団体(協会)や地域や家庭を崩壊させた。それはいみじくも(資本主義が機能する要件である)自生的秩序(@ハイエク)の源を破壊したことで、経済も停滞させることになった。

「われわれ」の欠如-自生的秩序の喪失

政府の経済政策はなによりも重要なもので、政府のフレキシブルな政策を引き出すのは、「われわれ」(つまり 地場型中小建設業と自治体=公共事業という産業)でしかなく、個人ではない。であれば「われわれ」の地域コミュニティ(町内会)を視野に入れた活動は経営としても不可欠なものだ。

けれど、個々の企業や自治体が、自己責任を強調しながら行っている、自らの目先の利益のための行動は、決して 地域というコミュニティの利益にはつながらず、特に地域のためにあるはずの自治体の行動は矛盾に満ち溢れている。それは結果的に地域社会の崩壊と人間 と社会の再生産システム(「街的」、町内会)の崩壊に寄与してしまっている。

それは、共同体としての地域社会(町内会)システムの一端を担っていた「公共工事という産業」の不要論につながり、つまり多くの地場型中小建設業は、(自分勝手にふるまうことで)自分で自分の首を絞めてきた。

ここで事業者団体ベースのIT化(つまり携わること)の必要性をあたしは言ってきたのだが、それは、自らの利害とはパラドキシカルに見える行動への贈与である。そのため、ナイーブなエコノミストの言説に惑わされた多くの経営者は、また「合成の誤謬」への道をすすんでしまう。

「従業員の幸せのために」とは何か

こんなふうに考えていくと、経営の無力さを感じるけれど、(こういう時だからこそ)経営の目的とはなんだろうか、ともう一度考えてみることは無駄ではないだろう。あたしはそれを、従業員の幸せのために、と考えている。つまりそれは人を育てるということだ――つまりパトリとして機能する――。

幸せの定義なんて、なんだかよくわからないのもたしかだが、日本の中小企業の社会的機能(責任)は、失われた共同体の機能代替えでいいのだ、と思うのだ。それはどんな時代でも、町内会的には普遍のものであっていいはずだ。たとえそれをグローバリズムとやらが認めなくとも、日本型資本主義では普遍のことなのである。

「交換の原理」は人を育てない

普遍経済学のトポロジーそれは例によって普遍経済学の話だ。つまり経営に、会社ぐるみで世話をするものとしての「純粋贈与」を加え、贈与としての会社組織を機能させようということだ。

「贈与」を忘れた経営は人を育てようとする機能がないことで、この国のためにも、会社のためにも、従業員のためにも、そして社長のためにもならないのである。

そもそも我々の業界(建設業)に新卒即戦力なんてあるわけはなく、建築でも土木でも電気でも技術を身につけて一丁前になるには時間がかかる。つまり人材は贈与の仕組みでしか育たないのである。

それを忘れた産業は人材を育てられないことで衰退するのであり、そんな産業ばかりなら国力も弱る。

だいたい即戦力経営をしたければ、建設業なんてやっていないで、コンビニかチェーン店のフランチャイズでもやっていればよいのであって、そこでは特に人を育てる必要もなく、時給850円の「交換の原理」でお金儲けを目的にして経営をしていればよいのである。from  《うちの商品とは何かと言うときに、それは「うちの社員です」と言おう》という講話のPPTと解説。(日比谷総合設備札幌支店安全衛生大会)。

Tags: 建設業

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年10月18日 10:34: Newer : Older

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コメント

一つ質問があります
勉学の機会の公平な分配の手段が受験だという人がいます
その通りだと思います

「誰でもできる勉強をがんばった人に勉学の機会を与えましょう。」


じゃあ、仕事の機会の公平な分配の手段はなんなのだろうと思うと・・・・
きっと談合ではないと思うんですよ。
また簡単な市場原理でもないと思うんですよ。

「誰でもできる○○をがんばった人に仕事の機会を与えましょう。」

この○○ってなんなのでしょう

桃知さんのブログを読めば分かるんだろうけど
ちょっと分からないのですよ・・・頭悪くて・・・
(いやみじゃないですよ。私にはとても難しいです)

投稿者 辺境地のコンサル : 2008年10月20日 14:52

>辺境地のコンサルさん

面倒なご質問をありがとうございます。簡単にいえば、○○とは、「その時代のいう幸せを信じること」じゃないでしょうか。しかしそれを信じても、それがうまくいくかいかないかを決めるのは、その時に底辺で動いている、政治経済の制度(つまり「環境」)による、とあたしは考えています。

例えば「公共事業という産業」を生み出した日本型資本主義(開発主義)の特徴は、それがうまく機能するシステムだったということです。

村上泰亮さんによれば、「開発主義」の理論的な特徴は、企業のたえざる技術革新による平均費用の低減です。このとき経済は古典経済学のいう「均衡」には絶対になりません。つまり生産を拡張すればするほど平均費用は低下しますので、企業は事業拡張し(利益よりシェア)、きわめて不安定な過当競争になります。

それを防ぐには、国家は通常のケインズ政策を越えて産業政策(行政指導)を行うことになます。つまり開発主義では、個々の企業の技術革新と国家の経済に対するコントロールが結びついていたわけです。国民経済が官製談合で動いているということです。ただしそれを許していたのは国民であり、ちゃんと民主主義なんですよ。ついでに言えば私有財産性を基盤にした資本主義でもありました。

村上泰亮による開発主義政策のプロトタイプ・モデル。(村上泰亮, 『反古典の政治経済学 下 二十一世紀への序説』,中央公論社,1992,p98-9)

1.私有財産制に基づく市場競争を原則とする
2.政府は、産業政策を実行する
3.新規有望産業の中には輸出指向型の製造業を含めておく
4.小規模企業の育成を重視する
5.配分を平等化して、大衆消費中心の国内需要を育てる
6.配分平等化の一助という意味も含めて、農地の平等型配分をはかる
7.少なくとも中等教育までの教育制度を充実する
8.公平で有能な、ネポティズムを超えた近代的官僚制を作る

それを「よし」(つまり自分の「幸せ」に結びついている)だと認めることで、構造改革以前の大衆消費社会は生まれました。ここでは政策的に先端産業を育成すると同時に他方で斜陽産業をも保護し(農業の疲弊による地方の疲弊を防ぐための公共事業)、結果として大多数の人々の安定をはかり、所得の平等を実現してきました(つまり仕事は確保できたということですね)。その所得の安定と平等、そして企業ベースで行う社会保障のシステムが、戦後日本の大衆消費社会だったわけです。

これがうまくいったのは、多分に「日本的事情」が作用していたからだとあたしは思うのですが、その「日本的事情」で動いている資本主義を、遅れたモノとして、米国は欧米型の資本主義の導入をもとめたわけです(ほんとは、資本主義が自分たちよりもうまく機能してしまった日本への危機感からはじまったのだとは思いますが)。

その端的なものが竹中-小泉政権による構造改革で、それがなぜ主流(国民の支持を得る)のモノとなったかは、「嫉妬だ」とだけ書いて詳細は端折りますが、そこでは、改革を信じることこそが、「その時代の幸せを信じること」だったわけです。

しかしそこで、大多数の人々の安定と所得の平等を維持することは絶対に無理だ、というのがあたし(というよりも反竹中-小泉の方々)の主張だったわけで、なぜなら、欧米型の資本主義では、開発主義的な日本の政府の仕事は過剰だからです。

それを批判し、解体してしまえば、政策的に先端産業を育成することも、斜陽産業をも保護することもできなくなくなってしまうのですから、必然的に「農業の疲弊による地方の疲弊を防ぐための公共事業」(地場経済の活性化と雇用の確保)に仕事が均等に配られることはありません。それは自己責任で解決してくれと言われるだけです(それはある意味ただしくて、ここで必要なのは自立した個人なのです。けれど、自立できない人=「ひとりで生きられないのも芸のうち」@内田樹 である多くの日本人はどうするのよ、ということですね)。

ですから、今回ご質問の「誰でもできる○○をがんばった人に仕事の機会を与えましょう。」は、今の時代(欧米型の資本主義)では機能していない、というのが答えでしょうか。すべては逆説的に「仕事がないのは自己責任だよ」ということになります。

あたしはその風潮が「日本的事情」とはあわないことで、あたしらは仕事をする自由を失ってしまっていると考えていますし、そのことで、地場の中小企業(建設業に限らず)の元気がなくなってしまっているのだと思っています。必要だったのは、日本型の資本主義を、欧米型の資本主義に書き換えることではなく、日本型資本主義の改良だったのだと思います。それはまだ可能だと思っています。

投稿者 ももち : 2008年10月20日 16:21

まずはめんどくさい質問、大変にご迷惑をおかけいたしました
それにもかかわらずお答えいただいたこと、心より感謝します。

あんまりいいたとえでもないし
駄目だったらブログに掲載しないでも結構です

こんな風な理解でいいでしょうか

ある企業「元値を限りなくただにした商品を作ることができました!ですから売値も周りよりすごく安くできました!!皆さん買って下さい!!」

お国「そんなことをしてはいけません」

ある企業「何でそんなことあんたらに言われなならんのさ?」

お国「周りとのバランスが取れません」

ある企業「周りとのバランスったって元値や売値を安くするのは企業努力でしょう。それさえ認めないのか?」

お国「認めません、あなたのような人が出てきたら業界全体が潰れます」

ある企業「何で努力しないやつらと一緒にされなきゃならんのだ?!」

お国「ほかの人があなたのような努力ができるわけではありません。われわれはそういう努力できない人たちも保護する必要があるのです」

ある企業「それじゃこんな努力する必要ないじゃない。そんなばかくさいことでいいのか?それじゃ産業全体が発展しないだろう!!」

お国「・・・・・」

"ある企業”が欧米的発想であり"お国”日本的発想と思えばいいのかなと勝手に考えています。

・・・・実はこれをそのまま縮小コピーしたような目にあったことがありましてね・・・・詳しくは話せないのですが・・・

昔は
がんばってもがんばり損。がんばんなくてもまあ何とかなった

今は
がんばってもがんばり損。がんばんなかったらそのまま損

これからは
がんばればなんとかなる?がんばってもどうにもならない??

ということなのでしょうか・・・・。

投稿者 辺境地のコンサル : 2008年10月20日 18:45

コメントの「お国」は日本型資本主義の特徴ではないのですね。開発主義というと弱者の保護ばかりだと思われますが、それでは資本主義ではありません。少なくとも開発主義は日本型資本主義というように、資本主義のひとつの種です。

その特徴は、創造性(イノベーション)をシステマティックに取り込んでいることにあって(これが欧米型の原型である古典主義的経済学との決定的な違いです)、国は、個々の企業が技術革新を進め、よい商品をつくりだすことを拒みません(それが費用低減を生みます)。この仕組みがあって、経済が拡大することによって、弱者の保護も可能になります。

むしろどんどん改良をし、差別化された良い商品を生み出すシステムなわけで、なので日本の製品の出来の良さ(高品質、低価格)に対して、米国は危機を感じ、日本パッシングをしたわけです。

そして開発主義は、大衆消費社会をつくりますから、あんまり「安い」を強調しないのです。一昔前の商品を思い出してください。キーワードは「差別化」だったはずです。高くても良いモノは売れる。それが大衆消費社会です。均質化された社会だからこそ「差別化」が必要だったわけです。「安い」が強調されるようになるのは、日本型の破壊が始まってからです。

開発主義の問題は、
8.公平で有能な、ネポティズムを超えた近代的官僚制を作る
にあって、日本の開発主義の限界は、結局これだ、というのがあたしの主張でした(というか、政治に殆ど関心をもたなくなった大衆が支配する社会で、優秀な官僚を再生産し続けるのは、ほぼ無理でしょう)。

なので時々勘違いしたお役人さまもいたりしますが、まあそんな人ばかりではないと思っていますし、いまどき、「周りとのバランスが取れません」と応える役人がいるとすれば、それはそれで面白いわけで、それは役人的には正しいのかもしれません。

なにしろ役人にお伺いをたてなくてはならないような商品のようですので、それは保護下(規制下)にある産業で、ということなんでしょうから。それが最近のことであれば、さらに興味深いですね。なにしろこれだけお役所パッシングがすすんでいる世の中で、開発主義的に振る舞える役人がいることが驚異です。官僚は法律の専門家ですから、普通は法律(規制)に違反していることを理由にします。

仮に規制下にない業界なのであれば、それは欧米型とか日本型とかの問題外でしょう。お役人様の個人的見解、もしくは意地悪。(笑)

商売についていえば(あたしも商売人ですが)、うまくいくときもあれば、うまくいかないときもあるわけで、保護下でも倒産するところはあるし、保護無しでもうまくいくものがあるのは当然のことだと考えています。

マクロ的な経済政策は、先にも書きましたが、(商売人としての)あたたちを取り巻く「環境」が向かう方向性を示しているだけのことですから、それをどう読み、どう対応するか、を考える(自らの理念に背かない範囲でですが)のが、社長の仕事(経営)なのだと思います。

個々の企業努力というのも、じつはなんだかわからないものです。それについて言えるのは、ただ自分はこうしてきたと、いうだけのことで、それにしても、自分が努力している、と思い込んでいるだけかもしれません。あたしのいう「町内会」とか「街的」というのは、そういうモノの見方を教えてくれるところだったりするわけです。

投稿者 ももち : 2008年10月20日 21:13

実はこの経験はとても小さな趣味のクラブで起こった出来事なのです。
詳しくはメールでも話す気になったときにお話しますが、
その趣味のクラブのオサとでも言いますかお偉いさんが丁度市役所のお役人さんだったんですよ。
そのクラブもその市の音頭があるクラブなのですが・・・
当然にその見解はなんら法的な根拠を持つものでもないし、私は頭きてやめましたがね・・・。

それはいいにせよ、どう思いますか?とても官製談合のコントロールに似ていると思いませんか?

「町内会」とか「街」とかいうコミュニティの中でもしこのようなことが行われたら。ものすごくやる気をそぐというか、おいおい勘弁してくれよふざけるなよ的な感じになりますよね・・・。

「なかよくやる」「協力する」「機会を均等化する」ということを履き違えると結局こういうことになってしまうのかな。
例えば企業組合を作るとか、何か集団で事を起こそうとするときに気をつけなければならないことなのかなと思っています。

本当にこんなことお付き合いいただきましてありがとうございました。

投稿者 辺境地のコンサル : 2008年10月21日 08:51

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