山形のだしを豆腐の上にのせて食べるのだ山形のだしを豆腐の上にせて食べるのだ


山形のだし

午前6時45分起床。浅草は雨。”山形のだし”をいただいたのだが、その中味は、何が何だか分からない程に細分化され、しかし、”だし”は、山形県村山地方のパトリフードであり、夏野菜と香味野菜と昆布を細かくきざんで入っている(はずだ)。

醤油などであえたものを、豆腐(や白いご飯)にかけて食べるのだそうだが、だからあたしは、豆腐の上にのせていただいたのだ。

すると、醤油をかけなくとも、これは製品の持っている塩味で十分いけているのだったが、それはつまり、あたしのパトリのなさを露呈させている(根っこの無さを露呈させている)とも云えないこともない。

浅草の人は、こんなに”しょっぱくない”ものは食えないだろうな、と思うあたしがいるのだ。

これを露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」である。それは〈私〉や〈ここ〉の根源的未規定性を露呈させる。それは〈私〉や〈ここ〉が入替不能である理由の、その未規定さの露呈である。from [パトリ]

「山形のだし」は株式会社マルハチが商標登録しているので、今回食べたものは「山形の旨だし」と余計なものがついていたが、「まあ、よし」なのであり、あたしはこの糖質制限食を、体にいいものとして食べたのだが、「量が少ないぞ」、とだれに云えば良いのだろうか。

山形の旨だし