エッフェル塔

エッフェル塔 (ちくま学芸文庫)

ロラン・バルト(箸)
宗左近(訳)
諸田和治(訳)
伊藤俊治(図版監修)
1997年6月10日
950円+税 


エッフェル塔と東京スカイツリー

午前6時50分起床。浅草はくもり。あたしにとっての東京スカイツリーは、パリのエッフェル塔なのである、と書いてよいのだろうか、と思ったのだ。あたしが脳梗塞で倒れたその年、スカイツリーは既に造り初められていたのだから、2009年には着工していたのは確かだが、若しかしたら2008年には着工していたのかもしれないし、2007年なのかもしれない。

「エッフェル塔」p37そのぐらい、想像界に近いところを泳いでいたあたしは、リハビリに、鐘ヶ淵の東京都リハビリテーション病院に通っていたので、通院途中の東武線に乗れば、嫌でも建築中のスカイツリーを見ていたし、そして、「はやくでっかくなれよ」、と(まさかこんなに大きくなるとは思わずに)云っていたのだ。そして、構造物の出来上がるさまを写真に撮っては、このサイトに載せていたものだった。

その建築中の写真を見ると、エッフェル塔に似ていなくもないな、と思うのだが、バルトによれば、エッフェル塔は究極の記念碑(つまり、他になんらかの機能は持っていない)なのであり、見るものであり、見られるものでもあるそうだ。彼はこう言っている。

「人々は、美術館を訪ねるようにはこの塔を訪ねることはできない。塔の中には、見るべきものが何もないのだから。だがこの空虚な記念碑は、毎年ルーブル美術館の二倍以上の観光客を迎えており、その数は、パリ最大の映画館の観客をはるかに上まわっている。」※1

では何故に、人々は、こうもエッフェル塔を訪れるのか、と問えば、「おそらくそれは、役にたつ事物にくらべてはるかによくエッフェル塔が結晶化してみせてくれている一つの夢に人々が参加するためである。エッフェル塔は、ふつうの見世物ではないのである。この塔の中に入り、それをよじ登り、まるで草書体で書かれた文字のような鉄骨のまわりを走ることは、根本的には一つの視線に達し、ものの内部をさぐることであり(とはいえ塔は、すかし細工のようなものだけれど)、そうすることによって、観光旅行的な慣習を、視線と知性の冒険旅行に変えることとなるのである。」※2と応えている。

こんな文章を読むと、東京スカイツリーは、やはりエッフェル塔なのかもしれないな、と思うのだが、なにか、ちょっと違う、と引っ掛かる(もちろん、あたしは、エッフェル塔には昇ったことはないのだけれども)。

それは若しかしたら、プラネタリウムや水族館といったアミューズメント施設が備わった、大型のショッピングモール「ソラマチ」が、あたしの想像を超えて、東京スカイツリーの足下を固めているせいかも知れない。

いや、そこで商売をするのは全然かまわわないのだけれども、その「ソラマチ」がやたらと広くて、東京スカイツリーに併設されている、というよりも「ソラマチ」の一部として東京スカイツリーが建っている様に感じるのだ。ちょうどそれは建築中にも感じたことだったけれど、ツリーが634mの高さに達するその少し前から、業平駅(今は、とうきょうスカイツリー駅)では、あたしの視界からスカイツリーは消えていたのである。

だから、東京スカイツリーを訪れると、いつのまにか、「ソラマチ」をうろうろしているあたしに気がつくのである。

それに、デジタル電波塔としての仕事を持つ、という(云ってるあたしの)篦棒さだ。まあ、今時、世界一高い自立式のあの建物が、何の仕事も言いつけられすに建っているほうが不思議なのだけれど、できれば思いっきり不思議なままで建っていてほしかった。

さらにもう一つ云えば、東京スカイツリーは何時でもそにに(まったく、すぐそこに)建っているのだけれど、たぶん決定的に足りないのものは「歴史」だろう。東京の歴史そのもののような浅草寺のすぐそばにあるから、尚更そう感じるのであるが、これがドバイだっったらまったく違うと思うのに、である。

だから、それこそ50年位経って、デジタルの電波塔という仕事もなくなったころに(50年でなくなるのだろうか)、究極の記念塔としての(何の記念碑かは自分で考えて頂戴)、少し寂れた東京スカイツリーを見てみたい、と思うのだが、その頃のあたしは、もう此の世のものでなくなっているのだな。

※注記

  1. 『エッフェル塔』 p22
  2. 々 p22