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2006年07月17日(月) 

映画「カーズ」は海老映画か

午前6時15分起床。浅草はくもりから雨に変わった。

マックイーンは海老か?

装具に取り巻かれた節足動物のように、あたかも装具的な外骨格に筋肉が覆われているかのように、車に覆われた消費者はまるで貝を被った滑稽なヤドカリのようなものです。(ベルナール・スティグレール:『象徴の貧困』:p152

これは昨晩、西村さんから頂いた北海しまえびの殻を剥きながら、映画「カーズ」の主人公、マックイーンのトミカを観ていた時に、ふと頭を過ぎったフレーズである。

北海シマエビ カーズ マックイーン

スティグレールならどう考えるだろう

昨日、映画「カーズ」の観賞後の反省文を書いてみた。けれども、車に乗った消費者を、節足動物だ、といってしまえる男、ベルナール・スティグレールなら、「カーズ」に対して何と云うのだろうか、と考え始めたら、この思考の遊びに、結構はまってしまった。(笑)

私は昨日、「カーズ」は、アメリカのバタ臭い一階部分への望郷の映画であり、地域再生映画である、と云う、擁護的内容で、この映画の「見方」を書いた。それは、スティグレール的批判を(暗に)意識してのものだ。

映画は、スティグレールの云うように、今や、「みんな」に、社会を作るために必要な、同じ感性を持たせる装置――第三次過去把持装置――でしかなく、私たちの身体を、消費する方向にコントロールしているもの、かもしれない。

今日、意識は何よりも「原料」となり、それによって消費市場にアクセスできるようになったのです。意識が消費する身体の行動を方向付ける限りにおいて、意識(そしてそれが浸っている精神)は、他のすべての市場(どんな市場であれ、したがって金融市場も含め)にアクセスできる市場すなわち「メタ市場」をなしているのです。意識と精神は世界規模の徹底的な搾取の対象になりました。その搾取を率いている世界的企業グループは、映画やラジオ、テレビといった産業を支配しています――そして産業文化によって録音され、プロデュースされ、放送される歌もまた、それらの企業に支配されているのです。(スティグレール:『象徴の貧困』:p56)

「確かにその通りだよ」とは思う。日本の映画の現状、特に、TV局主導の作品の多くは、それを隠そうともしなくなっていることで興醒めなのである。「芸術性」等と今更声を荒げて云うつもりはないけれども、そこに「創造性」の片鱗も感じられないのは、悲しいことだと思う。

ウォルト・ディズニーの「維持」するもの

勿論、「カーズ」を提供しているウォルト・ディズニーは、「非日常性」を消費させる巨大企業だ。けれども、ウォルト・ディズニーの「維持」するもの

  • 創造性への情熱
  • 細部へのこだわり
  • 皮肉な考え方への嫌悪
  • ディズニーの「魔法」
  • 何百万人もの人たちを幸せにする

が機能している限り、映画(の製作者)は、彼の創造力を信じ、観客とのコミュニケーションにおいて、映画は一体何ができるのだろう、と考えることができているのだと思う。

つまり私は、「カーズ」を見て、ウォルト・ディズニーの「維持」するものは機能しており、その入れ子のような「カーズ」的手法は「あり」だと感じたのだ。

車と云う1.5の関係

「非日常と車の中」で、私はこんなことを書いている。

自動車は典型的な子宮的構造を持ち、「1.5の関係」を簡単に作り出す装置である。車の中では、想像界(2)と現実界(1)が直結しやすい――下の図では近景(2)と遠景(1)である――。

1.5の関係 

そこでは、リアリティをリアリティとして感じることが難しくなる。車の中は、外気が熱くとも寒くとも快適な空間なのである。匂いもしない。そんな子宮的空間から、ウィンドウ越しに見える風景は、映像メディアに慣れさせられた脳には、まるで映画やアニメと機能等価的なものでしかなくなる。BGMがあれば完璧だろうか。

「カーズ」に登場する、フロントガラスに目玉を持ち、バンパーで喋る車たちは、まぎれもなく、装具に取り巻かれた節足動物のような、「1.5の関係」に住む「私」なのだ。

それは「動物化」の表徴と云ってもよいだろう。なので、「カーズ」には汗(オイル)の匂いがしないし、身体的な痛みの表現もない。しかしそれが、リアルな、今と云う時代の「みんな」の現実なのだ、と私は思う。

製作者の信念

しかし、ジョン・ラセターとピクサー、そしてディズニーは、あえて、そこからはじめている。装具に取り巻かれた節足動物のような、「1.5の関係」に住む「私」のメタファーに車を使い、その現実を「みんな」につきつける。

そして彼らの信念に従い、自ら考え、自ら「意思」を持つことの大切さを、リーズナブルに(「みんな」が理解できるように)描くことで、「われわれ」の感性(アメリカの一階部分)を蘇らせようとしている。

それは、ビジネスと創造性の止揚のように生み出された、現代の創造性だろう。

創造性の後にお金はついてくる

私たちは生きるために経済と接続しなくてはならない。しかしそのことで、「象徴の貧困」や「フラット化」が云うように、機能等価な「みんな」は生まれ、「われわれ」は失われ、「私」は個体化に失敗し、創造性は退化する。

しかし、「カーズ」という作品は、ぎりぎりのところで「みんな」になることを阻止しようとしている――それもまた機能においてだが――。それは、彼らには信じるものがあるからだろう。それはお金儲けよりは、ちょとばかり優先順位が高いものだ――お金は創造性の後からついてくる、と云う「みんな」が忘れてしまった当たり前のこと――。

確かに今は、「みんな」が、コントロール社会の中で、海老みたいになって生きている。小さな自意識の周りに集まる前対象を捕食しながら。

スティグレールの反撃

しかしこんな時代でも、創造性は働くこと――信じるものがあれば――を「カーズ」は示してくれているのだ、と(私は)思う。私は(ナイーブかもしれないが)そのことを強調したいのだ。

でも、スティグレールはきっとこう云うに違いない。

だから、君みたいなことを云う奴は、よほどのことが起きない限り、もはや絶滅種なんだよ。Web2.0 ミーム User as contributor――寄稿者、投稿者としてのユーザ、つまりユーザーの意見が力をもつ――に従って、ネット上の「カーズ」評をみてごらんよ。

投稿者 momo : 2006年07月17日 10:05 : Newer : Older

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