法大EC2006第5回講座資料をアップします。ご自由にお使いください。
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三つの国の一階部分
最終回は、過去4回の講座を踏まえながら、日本語で実践する「考える技術」を、仏の哲学者、ベルナール・スティグレールと、米国のジャーナリスト、トーマス・フリードマンの著作を対比させ、その輪郭を浮き彫りにしようとする試みであった。
それはバロックの館(ライプニッツ的個)でいう、欧州的な一階部分と米国的な一階分を対比させながら、日本的な一階部分の輪郭を理解しようとする試みであり、
日本語で考えることにおける、「象徴の一部否定」とは何か、を少しでもあきらかにしようとする試みでもあった。
スティグレールとフリードマンの著作については、以下を参照いただきたい。
フランスの一階部分の衰退(スティグレールの「象徴の貧困」)
(私の)「考える技術」は、「象徴の一部否定」によって、創造性(外的連関)が働く仕組に基礎を置いている。
スティグレールは、ハイパーインダストリアル化による「象徴の貧困」を、脱個体化――「私」が「われわれ」を通じて「私」になれない状態――だという。
それは「われわれ」の衰退であり、「みんな」(の意識)が強くなることだ。
「みんな」とは日本語では「世間」という実態のないもの――例えばマスコミが作り出す世論のように、指し示すことができないけれども、あるものであろう。
これは斉藤環がいう、象徴界が「感情」(世間)に占拠されていること、大澤真幸のいう、第三者の審級がないこと、別役実的にいえば、中景の衰退と同じことだと理解している。(桃語:「中景」あるいは「象徴界」の衰弱(引用+図解) )
私はそれを「種」の問題(田邉元の「種の論理」)として考えている。
つまり「私」が変わる(変化する=創造する)ための、依って立つ大地――ジャンプするための足場がないのである。
東浩紀のいうように、このような状況では、動物化(スティグレールでは「昆虫化」)は進む。
つまり、スティグレールの『象徴の貧困』は、フランスが日本のようになってしまっていることを、嘆いているようにも読める。
それは、フランスの民主主義を支えてきた一階部分が衰退している、ということだが、その原因をスティグレールは、「ハイパーインダストリアル社会」――ジル・ドゥールーズのいう「コントロール社会」にある、とする。
当然そこには、ITという情報の技術に対する楽観(信頼:Radical Trust)はない。
よりよい自分をつねに求めるという向上心は、実のところ高次の欲望であり、それを持続できるかどうかは自明ではない。この昇華されたリビドーである高次の欲望のことをスティグレールは「象徴的なもの」と呼ぶのだが、それは育み、培わねばならないものなのだ。ところがその教養のための時間を、目先の利益のみを追求する現代のハイパーインダストリアル社会は、構造的に破壊してしまう。技術は発展していくのに、「私」や「われわれ」を向上させたいという動機付けの方が失われていくのである。なぜなら、目下、感性や認知に関わる最先端の技術のほとんどは、すぐに結論を出そうと急ぐ意識の怠慢さを助長させ、人々の行動を画一化する方向で専ら使われているからである。(『象徴の貧困』:訳者あとがき:p243)
アメリカの一階部分の衰退(フリードマンの「フラット化する世界」)
一方、フリードマンの「フラット化」は、Web2.0 meme から多くを援用しているように、ITという情報の技術に対する信頼(Radical Trust)がその基底にある。
しかしその楽観は、「理想の国」アメリカの、一階部分の考察に至るところで――それが機能していないことで、逆転する。
「理想の国」(アメリカの一階部分)とは以下のようなものだ。
- 規制が緩和された柔軟な自由市場経済がある。
- イノベーション発生マシン――大学、官民の研究機関、小売業者、資本市場がある
- 開放的な社会――なんでもできて、なんでも始められて、潰れてもやり直せる社会がある
- 質の高い知的財産保護制度がある
- 柔軟な労働法がある
- 世界最大の国内消費市場がある
- 高度な信頼がある――山岸俊男のいう「一般的な信頼」である。
それは、『フラット化する世界』が、ミドルクラスの新しい機能を(脅迫概念のように)強調することでもわかる。
つまり、「フラット化」による同一化は、今までのアメリカ人の仕事を、今や、中国やインドの方が、安く確実にやってしまう事態を生み出しているという。
それは機能等価であり、代替の可能性であり、既存の機能(職業)を通じて、アメリカのミドルクラスが、今までのように、個体化ができないことでもある――そして中間層は薄くなり、〈貧/富〉の二極化が進む。
象徴の貧困と創造性
要は、先進国の多くは、近代化の先に、(ポスト・モダンでもない)「象徴の貧困」という問題が生じている、ということだ。それはフランスでも、アメリカでも、日本でも、たいして変わらない。
そしてそのことが、新たな創造性を必要とする時代を意味し、「考えること」をわれわれに要求しているのだ、と(私は)考えている。
そして日本人は、「象徴の貧困」においては、(おかげさまで?)先進国である、ということだ――少しばかりキャリアが違う。(笑)
それは中沢新一の次のことばに端的に表現されている。
マラルメ詩が小さな帆船に乗り込んで漕ぎ出した、近代の荒れ狂う多様体の海は、百年後には比較的穏やかな乱流となって、表層の全域にそのカオスの運動を繰り広げるようになった。そのことは、もはや「高踏的」な知的エリートばかりではなく、インターネットを手にした多くの大衆の体験し、知ることとなったのだ。マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張り巡らせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。これに対してネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているに過ぎない。それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない現実であり、十九世紀にマラルメのような人物がはじめて意識した問題は、いまや今日の大衆の実感になっている。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』 :p365)
日本語とバイロジック
ジャック・ラカンが、日本人には精神分析が必要ない、といえたのは、日本語の構造ゆえのことである。われわれはパロールにおいて無意識が露呈している――つまり対象性知性が表出する言語体系をもっていた。
その日本語の構造は、漢字(中華帝国の文化)の「拒絶的受容」に始まり、外来語のマーキングとして現在に至る。「われわれ」日本人は、日本語で考え、それをまとめ、伝えることを破棄しない限り、最初からバイロジック(ぽい)のである。
つまりトポロジー的にはこうなる。
「イエ」の原理
これは、共同体性(農村共同体)とアジール(組合・公界の原理)のハイブリッドとしての「イエの原理」のトポロジーでもある。(イエの原理)
それは近代化先進国からみれば、近代化の未熟であり、個人の概念の未熟であるかもしれない。この曖昧さを孕んだものを日本人の一階部分とすれば、確かにわれわれはまだモダン(近代)でもない。
そこに「コントロール社会」が機能すれば、われれれは、動物的に反射するだけのものかもしれない。
非合理に合理を上書きする
しかし、今という時代に必要な創造性が機能できる素養を日本人は歴史的に(進化的に)持っている、と(私は)考えている。それが機能する――遺伝的なマイクロチップにスイッチがはいる条件は、非合理性に合理性を上書きすることである。
つまり非合理性が、合理性の前提として、どこかで機能していなくてはならない。
その非合理性の第一のものは、まず日本語である――日本語という曖昧だが、ハイブリッドな抑圧装置こそが、曖昧だが、ハイブリッドな象徴界を形作る。それが、日本人の創造性の基底である。
そしてそれが、キアスム的な"ひねり"を孕んだものであるならば、われわれは、トポロジーを切断せずに創造性を発揮できるだろう。 (円環モデル)
しかしそれが合理に塗りつぶされた単なる円環――マニュアル化であるならば、われわれもまた「象徴の貧困」であるしかない。
つまりトポロジーの切断は必要となる(私は切断しなくて済むことを願っている)。
象徴の一部否定
われわれの創造性を阻害しているものはなんだろう、と考えてみればよい。
私はそれを、スティグレールが『象徴の貧困』でいう、ハイパーインダストリアル社会――コントロール社会が作り出す、第三次過去把持だと考えている。
それは、マスメディアやマーケティングが垂れ流すような、陳腐ではあるが、影響力の強い合理性(エコノミー)である――それを政治経済学的にいえば、リバタリアニズムのOS化や、ポピュリズム、ということになるだろう。
つまり「理想の国」アメリカの一階部分につながるものだ。
それをナイーブに受け入れてしまうのは、わたしたち日本人の一階部分の曖昧さ故でもあろう。
つまり、われわれ日本人の一階部分もまた、一部否定すべき象徴ではあるが、私はそれらは、考えることによって、つまり拒絶的な受容で対応できる、と考えている。――それを簡単にいってしまえば、日本語だけは、ちゃんと勉強しておきなさい、ということでしかない。
新しい第四象限の構築を目指して
今必要なのは、アジール性やイエの原理を孕んだ、非合理性とされる第四象限である。
それを私は、「種」とか「中景」、そして「パトリ」という語彙を用いて指し示そうとしている。 しかしその復活もまた難しいとであるなら、では、今われわれに出来ることとはなんだろう。
それを、 日本語を用いて、しかし自らの文法で、「観察すること、言語化すること、バルネラブルに表現すること…によって、つながること 」として示した。 それは、日本語を用いて、あえて「反省に送り返す」ことだ。(Mobiusの1/2×2モデル)。
それが自己言及であり、自らの機能について語ることである。それがコミュニケーションを生む。つまり、 自分自身を観察すること
自分自身を言語化すること、自分自身をバルネラブルに表現することである。
そしてわれわれが、間主体(主客同一)的な存在であるならば――これは、日本語の構造に負うところが大きいのだが、それは、「…によって、つながること」になる。そしてこの文脈上で、われわれは、ITという情報の機器を使おうとする。それが「考えるIT化」である。
それはまた、共同体性や技術を通した「個体化」を志向する。そのことで、この「象徴の貧困」な時代に、「私」と「われわれ」の新たな関係を創造することができるのではないか、と(私は)考えている。
(編集中)
061130:一部削除・修正。
070101:一部修正。