これは、「IT化講座」‐「種の論理」を書いていたら、引用が必要になってしまったための記述であって――つまり私の都合なのであって、別に今読まなくても、支障はぜんぜんないと思う。w

「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論

「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論

斎藤 環(著)
2005年4月10日
中央公論社


以下は、上記:p26-27からのの引用。図の挿入は桃知。

……従来の「媒介的なるもの」の喪失が、しばしば指摘されている。例えば劇作家の別役実は現代における対人関係の距離感の変質について、絵画でいう「近景」「中景」「遠景」という用語で語ろうとする。皮膚感覚でお互いに感じ取れる距離については「近景」。家族や地域社会といった共同体的な対人距離で構成される「中景」。神秘的なものや占いを信じるような態度は「遠景」につながる。そしていまや 近景と遠景を媒介するはずの「中景」が抜けてしまって、近景と遠景がネットワークを通じていきなり接続されるというのだ。

これとほぼ同様のことを、哲学者の東浩紀は、ラカンの用語を用いて「象徴界の喪失」と表現している。ここで 「近景」は「想像界」に、「遠景」は「現実界」に相当する。

ボロメオの結び目と近景、中景、遠景の関係

……これらの指摘はいずれも、個人と個人をつなぐ中間的な媒介項の衰退を指摘しながらも、その衰退をもたらした要因としては、インターネットをはじめとするネットワーク的媒介指し示す………で共通している。言い換えるならこういうことだ。「家族」や「共同体」は、個人をつなぐ自明かつ不透明な媒介物だったのである。しかし私たちは、もはやこうした不透明さに対する寛容さと耐性を持ち得ない。私たちが欲したのは「公平さ」と「透明性」を兼ね備えたかのようなネットワーク的な媒介だったのだ。

ついでに書いておくと、この「中景」あるいは「象徴界」の衰弱とは、ベルナール・スティグレールのいう、「象徴の貧困」と同じような意味だと思ってもらってよいかと思う。

060920追記:カテゴリを「桃語」に変更。