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2019年03月03日|お知らせ


2006年12月16日(土) 

公共事業は7兆円割れ(07年度予算案)、若しくは開発主義の終焉ということ。

公共事業が7兆円割れ 20年ぶり、07年度予算案

2007年度予算の財務省原案で、公共事業関係費が前年度比3・5%減の6兆9470億円と、当初予算ベースで1987年度以来20年ぶりに7兆円を割ることが、16日分かった。公共事業は小泉純一郎前首相が就任後初の02年度予算で前年度比10・7%削減して以来、減額を続けてきた。

安倍政権初の予算編成で小泉改革路線を踏襲、概算要求基準(シーリング)の3%減を上回る減額を行うことで、歳出改革の姿勢を強く打ち出す。

財務省原案では、焦点の道路整備費を3・1%減の約2兆810億円とするほか、下水道は5・5%減、治水は4・4%減、港湾は3・3%減、農業農村は7・3%減などと軒並み減額する。

一方で、市街地整備は10・9%増の約3490億円、地域再生交付金を3・0%増の1420億円といずれも増額。東京などに比べ景気回復の実感が乏しい地方に配慮する形で、めりはりをつける。(引用:くまにちコム )

この問題は〈新古典経済学/ケインズ経済学〉の(経済学的主張の)差異でとらえるよりも、従来の開発主義の〈継続/否定〉、つまり、戦後の経済成長や地方の均等な成長を支えてきた開発主義的なものへの否定圧力なのだな、とまずはとらえた方が、論点は明確になるだろうと(私は)思う。

開発主義を終焉させるために、小泉内閣は〈新古典経済学/ケインズ経済学〉というバイナリーコードを国民に示し、新古典経済学を選択しやすくしたに過ぎない。そして安倍内閣もそれを継承している。

新古典派は小さな政府に重心をおいていることで、官主導の産業政策と、その表裏の関係にあった地方の護持という政策をもつ開発主義を(政治経済学的に)壊し易い。

その選択は、〈新古典経済学/ケインズ経済学〉という二項からの選択では、当然の結果でしかないように思えるだろうが、私はこの二項区分の立て方こそが問題だと考えている。

つまりこの二項区分(どちらかを選択しなくてはならないということ自体)こそがトリックでしかない(と思う)。

ここで論点を、公共事業の削減を中心とした否定開発主義的政策が、では地方の自立を促すのか、ということに絞れば、それは新古典学派的なものであればあるほど、実験的なものとならざるを得ないことで、どんな楽観主義者でも、わからない、としか答えられないはずだ。

なぜなら、新古典派は、自助努力を人々に要求する――というかそうせざるを得ない理論体系でしかないからだ。

つまり、この否定開発主義的政策における地方の自立も、(地方、つまりはそこに住む人々の)自助努力に頼らざるを得ないのであって、医療に例えれば、薬の投与を減らし、自然治癒を期待しているだけに過ぎない。

自然治癒といえば聞こえはよいかもしれないが、しかしこれは、医師(政府)が、散々薬漬けにしておいた患者を、(もう薬はないので)後は自分の力で治しなさいと見放したようなものだろう。

だから自然治癒できる体力と気力があればよいだろうが、(今となっては)できないところの方がむしろ多い、と(私は)考えている――なぜなのかは触れなくともよいだろう。

この結果生じる社会的リスクやコストは、凄まじく大きなものとなるだろう。ましてやそれが貨幣に換算できないパトリ性の消滅であることで、なおさらにだ。

つまり政府は、将来的に、数値合わせのように削減した公共工事予算を超える代価を、パトリ護持のために支払わなくてはならない可能性が高い、と私は考えている。

(パトリは多くの方々にとっては失って初めて気が付く大切なものだ)。

今回の予算削減は、直接的には、公共事業という産業システムの破壊を意味しているだけだろうが、それは開発主義が、そしてその具現化されたものとしての公共事業という産業が護持してきた、パトリ性の破壊となるだろう。

それは私たち日本人が、近代化、西欧化がすすむなか、ようやく保ちつづけてきた根源的未規定性(私がなぜ私であり、日本人であるのかということ)を露呈させる回路も破壊することとなるだろう。

(だから美しい国にはならない)。

こんな理由で、私は公共事業というのは、数値合わせだけで、ただ減らせばよいというものではないことを主張してきた。

それは多くの方々にも理解していただきたいのだが、現状は難しい(なにせ二分コードでしか考えてくれないのである)。

しかしだ、私もその努力をやめることはないだろうし、公共事業という産業も、さらなる情報発信は続けなくてはならないだろう。

いつもいっていることだけれども、コミュニケーションとは〈情報/伝達〉の差異の理解でしかない。

情報発信(つまりは自己言及)がなければ、コミュニケーションが成り立たないばかりではなく、私が私であることもできないのだもの。

Tags: 開発主義

投稿者 momo : 2006年12月16日 11:15 : Newer : Older

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