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2019年03月03日|お知らせ



Re:[宇宙人来訪、か?]―「空気を読む」コミュニケーションには豊かな語彙や適切な統辞法や美しい音韻は無用のものであるということについて。

動物的 レイバー(労働) 生物的な欲求
ワーク(制作・仕事) 職人的創造から芸術的な創造まで
人間的 アクション(活動) コミュニケーション 

江弘毅が[宇宙人来訪、か?]で書いている「接続のコミュニケーションの過剰露出」の話を読んだ。成る程な、と思うとともにハンナ・アーレントの『人間の条件』を思い出しているのは、あたしの引き出しの少なさでしかないけれど、コミュニケーションが〈情報/伝達〉の差異の理解でしかないのなら、直感的(脊髄反射的)な差異の解釈だけで出来上がっているのがケータイコミュニケーションなのかね、と思う。

コミュニケーションは労働にだって創作にだってあるけれど、真に人間的なものはレイバーやワーク(労働や創作)から切り離されたコミュニケーションの為のコミュニケーション(としてのアクション)だとアーレントはいう。

しかし、今、あたしらが直面しているのはそれとは全く違った事態でしかなくて、アーレントのいう「真に人間的なもの」をどこまでも純化してみたら、つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションをレイバーやワークとの関係から解放してしまったら、それは人間的じゃなく動物的なものになってしまったってことだろう。

それは大脳新皮質を使わない「解釈(アンテルプレレタシオン)は貸借(アンテルプレ)を満たすために快速(ブレスト)でなければなりません。(ジャック・ラカン)」なのだろうが、たぶん脳みそはそんなふうにできていて、つまり労働や創作、そしてそれらを下支えしてきた伝統とか文化という「心の共同性」(「街的」はそのひとつだ。もちろんそれは国家のものではない)をかび臭いものとして脱いでしまったら、あたしらは生物学的に(お金を使う)動物でしかなかったと。

そんな動物化の時代に家庭は限りなく乳臭くさいと(私は)思うのであって、それが江が紹介している内田先生の

「空気を読む」コミュニケーションには豊かな語彙や適切な統辞法や美しい音韻は無用のものである。
ある意味では「んげ」「ほげ」で十分だからである。[接続的コミュニケーションの陥穽 (内田樹の研究室)]

なのかな、と思う。もちろん「空気を読む」のは処世術として必要だろうとは思うしそれは否定しない。江や内田先生が言っているのは、つまり動物には「豊かな語彙や適切な統辞法や美しい音韻は無用なのである」ということの強調だろう。「んげ」「ほげ」である。

「んげ」「ほげ」は、母親が乳飲み子をあやすコミュニケーションと同じように思える。赤ちゃんの発する「バブバブ」に同じように(言葉にならない音で)答える大人の条件反射か、サルの交話と同じようなものだといってもよいのかもしれない。とすれば私たちはとても乳臭いところへ回帰しているのだろうと。

そのことで接点は想像界的(鏡像)になる。そこには言葉は必要ない。去勢は益々不全なのであって、私たちは単なる単子(モナド)であり、そのモナドは自分で自分を考える(反省)なんていう面倒なことは放棄する。繰り返すがそこにに言葉はいらないのである。

鏡像による自己確認がリスザルのチャクコールニホンザルのクーコールのように「チャック・チャック」や「クー・クー」だけですむなら「分離―不安」は動物的に機能するだろう。一番の問題は〈仲間/仲間でない〉ことなのである。そこでのコミュニケーションは〈内/外〉〈味方/敵〉の確認だけで十分なのであり〈私〉の生活はそれ以外を要求しないだろう。

想像界的接続は〈内〉を探し出し〈内〉だけに執着する。〈内〉とは子宮の同心円上にある接点であってそれは場所を問わない。たぶん言葉を必要としないように時空を超えている。つまり「空気を読む」コミュニケーションとはそんな野生的なものかな、と思う。内田先生曰く

「場の周波数」にいちはやく同調すること「だけ」にコミュニケーションについてのほとんどのエネルギーが投じられているせいで、いったんチューニングが合ってしまうと、あとは「チューニングがまだ合っていないやつ」を探し出して「みんなでいじめる」ことくらいしか「すること」がない 。

つまりそれぐらいならサルにもできるだろうと。インターネット―ブログもそんなサル的な交話に近いものであることは否定しない。けれどあたしは、「んげ」「ほげ」とは書かない。江弘毅も内田先生も「んげ」「ほげ」とは書かない。閉じた想像界的な接点は「んげ」「ほげ」コミュニケーションを可能にする。それは脊髄反射的な異邦人の確認でしかなくなる。「差異」が悪いと言っているのではない。差異を差異として言葉を用いて理解しないことが問題なのだ。自分とは異なる生活者としての〈他者〉を想像することができないことが問題なのだ。

あたしはコミュニケーションを仕事や創造そして生活から切り離されたところに構築する気はさらさらない。あたしはあたしの生活にまとわりついたねばねばとしたものしか情報として発信できない。それは想像界的接点とさほど違わないものだけれども、しかし(たぶん)乳臭くはない。たぶん酒臭い。

それを言葉を用いて表現するのに四苦八苦している。そしてそのミームヴィークルがインターネット―ブログであることで機械的に偶有性を拡大しようとする。閉じた円環を切ろうとする。そうでもしないことにはたしの退屈は満たされないのだわ。(I Can't Get No) Satisfaction なのだ。

かといって(現実のあたしは)ケータイコミュニケーションに目くじらをたてることもない。鯨の目は横長なのだ。電車の中、皆がケータイメールに没頭していても、臍の緒引きずりのマザコンさんが子宮に接続中なんだなとは思う。電車の中は乳臭さいなと思う。けれども、それをしょうがないなと受け流している。あたしに臍のを切る力なんてあるわけはないし、なによりもケータイ取り上げてイライラされるよりは車内は平和なのである。そしてそういう心性はあたしの中にもある。

しかし最近ちょっとだけ落ち込むことがあった。それは先日ある方と夕餉をご一緒したときのことだ。その方(若者ではない)が頻りにケータイを眺めているのである。どうやらミクシーのコメントかメールを確認している様子である。少なからず私の影響を受けたであろう方が、濃密な?あたしとの酒飲みの時空を差置いて、ケータイのその先にあるコミュニケーションに気取られている。あたしは敗北感で酒がすすんだわ。あたしはケータイのその先にあるコミュニケーションに負けたのである。

家庭の乳臭さはそれを裏返せば、家庭に居場所のない親父も事態は同じなのだろうな、と思う。家庭という接続先がなければ、行き先は不倫相手かエンコーなのか、それともインターネットという母性なのか、その両方なのか。

それとも宗派換えして子供に接続するのか、仕事に没頭するのか。だからといって「街的」という接続先がある男は幸いである、と言い切るつもりもないけれども、「家庭」という接続先のある男は幸せなのだろうな、とは思う。(ただしそれに没頭するしかない男は気持ち悪いな、とは思うけれど)。

Tags: 内田樹 , 家族

Written by 桃知利男のプロフィール : 2007年12月24日 00:02: Newer : Older

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