FROM MOMOTI.COM

還暦祝い!平成30年9月15日(土)桃組「小さな勉強会」と「暑気払い」のご案内。山と山とは出会わぬものだが人と人とは出会うもの(また会う道もある花の山)。

2018年08月01日|イベント



交換の形態―ローカルで公なものを如何につくるのか。

交換の形態
交換の形態

~『エンデの遺言』から未来を ネットで生まれる通貨の可能性~という勉強会

11月8日は、ひできさんのお誘いで、~『エンデの遺言』から未来を ネットで生まれる通貨の可能性~という勉強会に参加させていただいた。会場に入れば、もちろんそれは圧倒的に若い人たちの集まりで、あたしは案の定の最年長者であり(たぶん)、あーこれは場違いであったかもしれないな、という思いが先にたった。

けれどもそれは、地域通貨にも通じる勉強会であるはずで、パトリとしての地域を考えるあたしにしてみれば、国家としての貨幣への、オルタナティブである(はずの)地域通貨やコミュニティ通貨を、(国主導ではなくつくろうとしている)彼らは、お金ををどんな風に考え、なにをしようとしているのだろうか、という興味だけを頼りに、少し遅刻して席についた。

気が付けば、今回のテーマに沿った発表者のプレゼンテーションは、それぞれに興味深いもので、成る程な、とあたしはただ感心するオジサン状態になっていた。(酷い二日酔いを引きずりながらも)眠くもならず、大変に楽しい時間を過ごすことができた。若い人たちのはなしを聞くのは、脳軟化症的な脳みそには刺激的であり、楽しいことであり、アルコールで錆び付いた海馬も喜ぶ。

手紙としての通貨

しかし思いがけず会の最後に感想を求められてしまったのは、あたしが年寄りだからだろうが(たぶん)、もちろん何の準備もしていなかったので、ホワイトボードで、手紙としての貨幣の性質、つまり、 

貨幣の距離化を進めていけば、それとは逆方向の力で、より強固な中心(信用)が必要となるのであって、一国レベルまで拡大した信用と決済のシステムであれば、中央銀行と国民国家に信頼がなくてはならない。

資本主義(というか産業主義)が、国民国家を前提として発達してきたのは、貨幣共同体の制度的な担保として国家を必要とするからだ。つまり国家であことが信用なのである(たぶん)。エンデの遺言―貨幣・手紙・距離化・信用・地域通貨。 from モモログ

を簡単に説明し、「交換の形態」という象限図(上の図)を書いた(グローバル/ローカル、公/私という区分)。それは今の世の中、あたしたちが知っている「交換」には、3つの形態があるということだ。

交換の形態

  • 資本主義的市場経済での交換(あたしはそれを「交換の原理」と呼んでいるわけだが)、それは第Ⅰ象限にあたる。
  • そしてもう一つは、国家の行う、税による徴収と再配分の仕組みとしての交換で、それが第Ⅲ象限である。
  • さらに第Ⅳ象限には贈与共同体における互酬的な「贈与の原理」がある。

今回の勉強会で示された「新しい貨幣=Happy」――それはまだはっきり示されてはおらず抽象的なものだったが――は、デジタルデータがもつ記録性を担保にすることで、貨幣の特徴である匿名性を否定していた。

それは貨幣としてはけっこう凄いことであって、手紙としての貨幣への先祖返りのようなものだ。ただハイエク的な考え方を支持される(たぶん)にしては――ハイエクは銀行がそれぞれに独自の通貨を発行することをよしとしていたけれど――、あたし的には、匿名性による個人の自由の担保はどうなってしまうんだろう、と心配してしまう。

資本主義的貨幣経済に対するオルタナティブなのか

さらにコミュニティ通貨というのは、必然的に資本主義的貨幣経済に対するオルタナティブという性格を帯びているわけで――国民国家と資本主義は(お金の信用システムそのままに)一緒に成長してきた――、国民国家という信用のシステム(権力)への抵抗という一面をもってしまう(それは意識しても、しなくてもだ)。

つまり、中央銀行が発行している貨幣のオルタナティブとしての地域通貨とかコミュニティ通貨というのは、国の信用以外の信用(最後の支払者は誰か)で機能する通貨なのであって、信用の源泉はその対極にある共同体性に向かってしまう。

けれど、共同体性の信用を強調するなら、それはムラ社会的な閉じた世堺でしかなく、たとえば地域通貨は「おぼんのような世界」に収斂してしまう。その問題を最小限に防ぐには、貨幣経済のサブシステムとして独自通貨を位置づけるしかなくなる(ほとんどの地域通貨はこれだろう)。

さらにハイエク的なものと整合性をとるのなら、この信用の担保としての共同体性の秩序を、「自生的秩序」とでも考えない限り――つまり極端なはなし、皆さんが嫌う「談合」も自生的秩序である、と――個人の自由との兼ね合いは難しいものとなるだろう。それはコミュニタリアンが国家の権力を否定するために、地域通貨を考えるのとたいして変わらないものとなる(たぶん)。

エンデを読むというのは、そういう次元でお金を考えるということなのだろうな、とあたしは(勝手に)考えていたのだけれど、今回はそんなはなしは出なかった(ように思う)し、総じて軽やかさのようなものをあたしは感じた。もちろん国家としての貨幣を否定するようなつもりはないようで(たぶん)、皆さんは、とうにそんなことは超越してしまっているのかもしれないなと思う(あたしにはそれが救いなのだけれども)。

「私」「われわれ」

合理性の諸類型ただ(当然に)公/私という区分に対しての質問はあった――つまり国家は何故に「私」の位置(グローバル且つ私)にあるのか――が、これについての回答は国家は非合理なモノだから、ですましてしまった(時間もなかったし)。

ちゃんと説明するなら「私」は「個人」ではなくて、それはたとえば、贈与の原理が支配的な「街的」や「町内会」を、あたしが「われわれ」=「」と呼ぶことだ(と同様に国家を「」=「われわれ」と呼ぶことも可能なのだけれども)。

けれど「」が「われわれ」であることなんて、スティグレールからでも始めなくては説明がつかないので端折った(ごめんなさい)。

どうやったら資本による個の利己性を強調する単子化から逃れながら利他性としての共同体性を担保できるのか

ただ、こんな筋道でコミュニティ通貨を考えることで、それはあたしの取り組んでいるIT化と同じ問題提起をしていることがわかる。

その問題提起とは、どうやったらあたしらは、資本による個の利己性を強調する運動(単子化)から逃れながら(それは市場経済を否定することではないのよ)、利他性としての共同体性を担保できるのか(より「公」であるのか)ということだし、反対側から見れば、共同体性を保ちながら、如何にして市場に接続するのか、ということだ。

そしてその運動は、必然的にローカルで「公」な次元である第Ⅱ象限に向かう、ということだろう(あー、コミュニティ・ソリューション だな)。それはどうしたら実現可能なのか、あたしの四十代の十年間なんて、そのためにだけ費やされてきたようなものだ。

そのための技術的基盤として、インターネットは欠かせないのはあたしも同じ立場だ。けれど、あたしは、人々を共同体性に向かわせる技術としての通貨には疑問をもっていることは先に書いた(し、はなしもした)。つまり共同体性が先にあるから、地域通貨は機能する、というよりも、共同体性があれば、地域通貨でなくとも、地域通貨のように機能するだろうと(あたしは)考えている。

国家の機能

それはもう一つの「交換」を司る国家の役割の再確認であって(国家としての貨幣を否定しないのなら尚更)、交換の形式の象限図の第Ⅲ象限にある国家は(「類」として機能するならば)、第Ⅰ象限(市場主義)を向くことも、第Ⅳ象限(共同体性)を向くことも可能なのであり(政策的にどちらを重視するのかということ)、第Ⅳ象限を向いていれば、地域通貨は共同体性の担保として機能しやすいだろうし、第Ⅰ象限を向いていれば機能は難しい(実際には弁証法の止揚よろしく、いつでも折衷案にでしかないだろうが)。

小泉―竹中政権からの流れは、第Ⅰ象限(市場)がトレンドであったことで、資本主義の国日本でさえ、長い間リアルな世界で機能してきた共同体性は、ほとんど破壊され、絶滅危惧種化してしまった。しかしそのことで今は、共同体性の呼び出しを、皆さんが〈欲望〉しているのかもしれないなと思う。だからこのような新しい通貨の勉強会が自発的に行われるのじゃないのだろうか。

重農主義、普遍経済学

そしてその〈欲望〉の対象というのは、抽象的な利他性ではなく、よりリアルな地域性、つまり土地に根ざしたものではないのだろうか。あたしはそんな気がする。

普遍経済学今回、この国の役割のはなしはしていない。ただ懇親会で色々なはなしを聞いたことからのインスピレーションでここに書いてみたものだ。

それはまるで重商主義を批判したアダム・スミスのような意見を聞いた、ということで、つまりその意見は、経済学的には、ほぼ重農主義だということだ。

今この時代に重農主義の復活なんて、あたしは夢でもみているような気分になったけれど(ましてや今回のテーマは「ネットで生まれる通貨の可能性」だもの)、ただそれは「普遍経済学」から考えるあたし的には悪いことではない(というか歓迎したい)。

機会があれば、Googleというか、Web2.0というか、無料経済の、「普遍経済学的」解釈のはなしでもしたら、興味を持っていただけるかもしれないなと思った。

けれどもっと軽やかに

けれども、新しいコミュニティ通貨の可能性というのは、そんなこととは関係ない方がいいのだろうな、と(あたしは)思うのだ。Happyのようなコミュニティ通貨の可能性とか存在価値というのは、第Ⅳ象限の共同体性に接続することなく、如何に直接第Ⅱ象限に向かうことは可能なのか、ということなんだと思う。

それをインターネット経由で行えば、間違いなく強烈な想像界的接続になる(つまりmixiとあんまり変わらない)と予想ができるけれど――そのことであたしはついていけない可能性が高いのだが、この際、年寄りは無視してもらっていいのである――、その方が、このアイディアは面白い存在になれるかもしれないなと思う。

ということで(こんなふうに色々考えることができるというのは)、大変に楽しい時間だったわけで、それを感謝しながら、反省とまとめと感想(のようなもの)としたい、と真面目に書いてみる。

Tags: エンデ , 貨幣

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年11月10日 00:12: Newer : Older

このエントリーのトラックバックURL

http://www.momoti.com/mt/momotitb.cgi/2463

Listed below are links to weblogs that reference

交換の形態―ローカルで公なものを如何につくるのか。 from モモログ

トラックバック

勉強会終了、とりいそぎご報告 from とりあえず前向き。なブログ (2008年11月10日 03:17) 無事、会を終える事ができ、日曜日はぐったり寝てました。 段取り八部の言葉にあるように、会を始めるまで実は結構疲労していたようです。 レポートは水曜日頃に... ...

ネット通貨の勉強会の報告と人に残された時間 from HPO:機密日誌 (2008年11月11日 23:01) 昨日の「エンデの遺言」をめぐる勉強会は実に楽しかった。私がしゃべりすぎて時間がおしてしまったことはひらにお詫びしたい。それでも、ブログで書いているのと、... ...

【勉強会補足】 新しい通貨 Happyの立ち位置について from とりあえず前向き。なブログ (2008年11月12日 19:21) 勉強会 『エンデの遺言』から未来を ネットで生まれる通貨の可能性 の補足レポートです。ネットの仮想通貨システムHappyの企画背景についてエントリーします。 ...

信頼通貨とべき分布 from HPO:機密日誌 (2008年11月14日 22:55) ももちさん、こんばんは、 たしかに「信頼通貨」であってもべき分布することになるのだと思います。問題はどこで「境界」をつくるかです。地域通貨でもべき分布す... ...