桃知商店よりのお知らせ

今更ネットワーク思考―建設業のIT化から見える信頼通貨への疑問。

午前6時30分起床。浅草は雨。ここ二日ばかり強い人との酒飲みが続いていて、二日酔いから復帰ができていない。

そんな中、ひできさんから、「交換の形態―ローカルで公なものを如何につくるのか。」にトラックバックをいただいていた「信頼通貨とべき分布 from HPO:機密日誌」を読む。

「ももちさんへ」という呼びかけから始まるそのテクストは、多くの方には唐突なものでしかないはずで、補足としてこのエントリを書いておくことにしたのだが、ことの始まりは、あたしがmixiのコミュニティで、信頼通貨とべき乗則の関係て次のような質問をしたことにある。


先日の勉強会に出席させていただいて、私は、べき乗則と信頼通貨のとらえ方で、少々混乱しています(たぶん私が違っているのじゃないのかな、と)。

それは、信頼通貨っていうのは、べき乗則で動く社会へのオルタナティブじゃなかったの?ということです。

べき乗則は、自然とか、きわめて自然に近いところで見られる性質ですよね。人為的なものでは、インターネットとか、経済システムでいえば、自由放任(レッセ・フェール)。

そこで生まれてくるのは、例えば経済的には貧富の差(格差)になるかと思いますが、それを少しでも克服するために信頼通貨を考えているのだと、私は考えていました。 それってネットワーク的には正常分布(ベルカーブ)を目指しているってことでいいのでしょうか。

だから必ず基体としての閉じたネットワーク(べき乗数の働かないネットワーク)が必要になるのではないかと(地域通貨とか社内通貨)。

それで、この閉じたネットワーク同士をどうつないでいくのか、に信頼通貨の発展系を考えているのですが、これがこの間の勉強会のときに私がはなしたことです。

つまり私の疑問は、信頼通貨を、単純にべき乗則にのせてしまうのであれば、信頼のロングテールのようなものがおきてしまわないのか、ということです(信頼の偏りが起きる。Googleのやった無償経済のように)が、基本理解はこれでいいのでしょうか。

どうも皆さんと違うような気がしているのです。(笑)

クラスター化された小さな世界

これは建設業のIT化実践からの疑問であって、みなさんは共同体性をどう考えているのだろうか、という疑問であり、もしかしたら、共同体性無き時代の方々の思考は、共同体性をないものとして(意識することなしに)行われているのかもしれないな、という素朴な疑問である。

それは、あたしがIT化の対象としてきた建設業界というのは、クラスター化された小さな世界でしかない、ということから始まる。

クラスター化された小さな世界は、「贈与の原理」が機能する共同体であり、ランダムネットワークとしての特性を示す。つまり正規分布で、配分的には極端な金持ちも極端な貧乏人もいない大量の中間層を生み出す仕組みである。

クラスター化された小さな世界 ランダムネットワーク

しかしそのことで、おぼんのような世界であり、なんだかわからないものであり、その閉鎖性から、世間の皆様からは白い目で見られてきた(なにかと言えば非難はこの業界に集中してきた)。

そして多くの方々はこの業界をオープンにすべきだとして、市場原理を持ち込んだのである。しかしあたしは、この閉じたネットワークを単純に開放するのではなく、(あえて)さらに強固なクラスターにしようとしてきた(企業や協会のイントラネットという携わるものを使って)。それは時代に逆行しているように見えるがそうではない。

なぜなら、企業とか協会というクラスターこそが、建設業で生きる人々の唯一の職業的な基体(依って立つ地面)だからだ。つまり新自由主義的な経済政策が跋扈する環境の中で、自らの立場を守り、自らを育ててくれる職業的なパトリなのである。

新自由主義的経済政策における
スケールフリーの圧力

スケールフリー・ネットワークつい最近まで主流の地位にあった新自由主義的経済政策では、「交換の原理」(市場原理)を無防備に機能させるので、貨幣による個体化(クラスター・共同体の破壊)とそれに伴うスケールフリー・ネットワーク化が起こる。

そして「交換の原理」の支配下では、あたしたちを労働力という商品として値踏みしようとする運動が活発化する(時給850円の世界)。

それは大半のノードは、ごく少数のリンクしかもたず、少数のハブが膨大なリンクをもつ世界であって、つまりべき乗則が働くことで、リソースの偏在は起きる。経済学的にいえば、配分は、トリクルダウンで行われるに過ぎない(それも雀の涙ほどの)。

それで皆さんがシアワセなのであればいいのだが、しかし現実は違っていた。例えば、今、建設業界の問題のひとつは、建設業で働く方々への強烈な賃金低下圧力で、それは建設業界のヒエラルキーでいえば、底辺に近いほど、つまりロングテールにいる方々により強く働く。

なかには、福利厚生費(つまり社会保険料等)を会社が負担できないために、社員としての雇用関係をやめ、いわゆる一人親方(名ばかりの)として働いている方もいる。公共事業の削減で、地方での仕事は極端に減り、彼らが仕事をできる日数は月の半分もなく、とんでもなく安い年収と低福利での生活を余儀なくされている。

それじゃ転職すればいいじゃないか、といわれるのはその通りで、建設業を支えてきた方々が、建設業を離れるケースは多くなっている。だからといって、今まで以上の労働条件があるのかといえばそれも難しく、限りなく裾野ばかりのロングテールを脱出するのは容易ではない。なぜなら、新自由主義的経済政策では、ほとんどの職業をロングテール化していまうことで、時給850円の圧力が機能しているからだ(小泉政権が唯一大きくした産業は派遣産業だけである)。

余計なはなしだけれど、舵は経済対策へ切られ、今後公共事業はある程度増えるのは確実だ。しかし問題は、仕事をしようとしても、いい職人さんはもういない、ということだ。だから今後職方さんの取り合いは起きる。つまり彼らの賃金はまた上昇するだろう。

つまり新自由主義的経済政策の反対側である、ケインズ的政策に少し振れるだけで、「交換の原理」はその力を弱める。ケインズ政策は「贈与」を孕むことで、社会のスケールフリー性を弱める。そしてあたしは単純に思うのだ。これのいった何が悪いの、と。

広くて薄い紐帯

広くて薄い紐帯

閑話休題。このスケールフリーへのオルタナティブとして、あたしはあえてクラスターを強化しようとしてきた。

しかし問題は、閉じていることの欠点であり、外とつながらないことの欠点である。

地方の建設業が自給自足で生きているわけはなく、公共工事の原資は、みなさんの税金であることで、あたしらのクラスターは、外部に依存しなければ生きていけない。

外とのつながり(ハブ)を持たないネットワークは、カルト化するか、化石化するか、無視される。だから課題は、共同体としての閉じを確保しながら、外部とどうやってつながるのよ、なのである。

そのひとつの解決策として、広くて薄い紐帯(@グラノヴェッター)を選択したのは当然の成り行きだと思うし、その技術的媒体(プレゼンテーションの場)として、あたしはインターネットの可能性に賭けたのだ。

HUB能力

広くて薄い紐帯とHUB能力しかし問題はインターネット以前のものだった。つまり外の世界とコミュニケーションする能力は、弱い絆に支配されている。それはいってみれば知人関係が、外の世界との架け橋であるということだ。

つまり広くて薄い紐帯は、知人関係があることで機能し始める。では知人関係はどうやったらできるのかなのだが、この知人を作る能力をあたしはHUB能力と呼んだ。

クラスター化された小さな世界では、その集団内で知人関係をつくることは容易だが、外の世界と知人関係を如何につくるのか、ということに関しては、まったくその能力を持たないのだ。

ただ、この問題の解決策は以外と簡単で、クラスター内のメンバーが、同時に外部にあるクラスターのメンバーであることで、数本の外部リンクができ、社会から孤立しないようになる、フツーは。

けれどやっかいな事に、建設業はこの限りではなかったわけだ。もっとも身近な外部である地域社会においても、そのリンクは極端に少なく、とくに「信頼と尊敬の関係でつながる」という一番大切なリンクはほとんどなかった。それをあたしは、「世界に羽ばたかず、地域に嫌われる中小建設業」と自虐的に呼んだのだ。

そしてもっと厄介な事は、HUB能力とは、コミュニケーション能力であり、プレゼンテーション能力であって、個人の「信頼される」能力に依存してしまうことだ。つまりはそんな能力をもった人は、建設業界では希な存在だったのである。希でも存在すれば素晴らしいのであるが、そんな人は滅多にいない。

だからHUB能力を組織的に高めるために、あたしは「考えるIT化」をすすめた。けれど今思えば、これは高いハードルだったと思う。「考えるIT化」が、なぜ建設業界に必要で、なぜ自ら情報を発信することでHUB能力が高まるかなんて、ほとんどの方には関係ないことだった。(機械アルモノハ必ず機事アリ。しかし欲望をあきらめてはならない。

協会の三位一体モデルそしてなによりも、HUB能力を高めるには時間がかかる。それは人を育てることだから、その基体としての会社や協会がしっかりしていなければ無理なのである。

しかし会員や、自分の地域のことや、建設業で働く人たちのことを本気で考えている協会が、いったいいくつあったと思う。その意味で、今あたしとIT化に取り組んでくれている協会は、凄い存在なわけだ。なにしろ社会で通用する人を育てる、という一番大切な機能を捨てていないのだから。

そんなわけで、あたしは、地方の建設業の崩壊は時間の問題だと思っていた(もう10年ぐらい前に)。だから、たぶん間に合わないかもしれない、と公言していたヘンなコンサルなのである、あたしは。

けれど、今後50年は続くんじゃないか、と思われていた新自由主義は、金融資本主義が破綻で幕を閉じようとしている。おかげで、あたしたちは今、首の皮一枚でつながっているのだけれども。

信頼通貨

それで、結局なにが言いたいのか、というと、ネットで動く信頼通貨というのは、個人の能力や共同体性を必要としない(個と個をつなぐ)HUBになれるのだろうか、というか、その方向に進もうとする(たぶん)。しかし、例えばHappyが評価するものがWeb上にあるHUB能力(信頼のプレゼンテーション)であるなら、結局それは信頼のスケールフリー化してしまわないのだろうか、ということだ。

そして、例えばリアルな世界で考えてみると、道ですれ違った見ず知らずの人が、とつぜん、あなたをみたらHappyになった、となんだかわからないものを手渡されるわけで、そのうえ、あなたもHappyになったらこれを誰かにわけてあげて、と言われるのである。

それはそれで面白いかもしれないけれど、あたしには新興宗教の勧誘だとしか思えないので、思いっきり不幸な気分になるだろうし、Happyはゴミ箱行きだろう。では、ネットではそれは起きないのだろうか、といえば同じことが起こるのだと思う。

たぶんネットで動く信頼通貨というものも、最初は、なんらかの知人関係で動かざるを得ないのであって、だからそれはmixiのようなものになるだろう、とは前に書いた。mixiのようなものは、共同体無き空間の、想像界的接続、機能代替えとしての島宇宙であって、つまりは失われた共同体性の呼び出しである。

それから、信頼通貨に関しては、エンデの影響が大きすぎるのか、減額する貨幣、マイナス利子を強調する方が多い。けれどそれって、流動性や消費を高めるための経済対策でしかないわけで、それと信頼ってどうつながるのよ、なのである。

もし、流動性や消費の問題として信頼貨幣を考えるなら(それはリアルな世界のものであることで尚更)、益々何らかの共同体性をベースにしなくては機能できないだろう、と(あたしは))考えていたりする、ということだ。

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資本主義は、次に来る世界のためのインフラを作るためにあった

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